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- 2022.04.05 Tuesday
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植物にとっては厳しい環境の冬に咲くエリカの花。
目立たない葉と目立たない小花のエリカですが、名前は人名風で個性的。
小説・嵐が丘の舞台になった荒野に咲くのがこのエリカで、
英語圏の国ではヒースと呼ばれています。
エリカ(ヒース)と断崖(クリフ)が合体すると愛情と憎しみが渦巻く
ヒースクリフ(この小説の主人公)が完成。
また荒野という意味を含むヒースは風が吹きつける厳しい環境を好み、
肥沃な土地を嫌っています。
人が耕し肥やしを与えるような土地にヒースが根を下ろすことはない。
エリカの花言葉は孤独。
エリカでなくても人はみんな孤独。
そんな孤独な環境に負けない強さを持っているののがエリカ。
ドイツ北部にはエリカが群生していることから命名された
エリカ街道というのもあるようで、他の植物に混じって一緒に咲くタイプではない。
言い換えるとエリカが根を下ろした場所はエリカが独占し、
他の植物が入り込む余地はない。
荒れ地は永遠に荒れ地のまま?
cかk 横文字ネームの エリカかな
夏の喫茶店で向き合うアベック(死語?)。
ご注文は?
男 レイコ
女 レスカ
レイコは冷たいコーヒーでレスカはレモンスカッシュ。
檸檬を丈のつまった紡錘形と表現したのは檸檬の作者・梶井基次郎。
実と皮の間に隙間がなくカチンコチンが特徴の酸っぱいレモン。
黄色いレモンになる前はおさなじみの青いレモン。
そのレモン(国産無農薬)に最近はまっています。
難しい漢字の檸檬の別名がこれまた難しい漢字の枸櫞(くえん)で、
掃除などに使われるあのクエン酸と同じ。
体内毒素排出に効果あるかも。
レモンを調べていて驚いたのがレモンの蕾。
柑橘系は白い花が咲くので白い蕾と思ってしまいますが、
白い花の前は意外にも高貴な紫の蕾。
香りは確かに高貴です。
蜜柑は実と皮の間に空気が入っているので腐りやすいですが、
紡錘形の檸檬は腐りにくい。
もう一つ驚いたのが中古車市場用語としての『レモンの定理』という言葉。
外見はよくても中古車は乗ってみないと分からない。
そこでたとえられたのが甘い桃(外見で腐っていることが分かる)と
酸っぱいレモン(外見では判断できない)。
品質のいい車は桃にたとえられ、欠陥車はレモンにたとえられているそうな。
車は乗ってみないと分からない。
しかしフルーツは香り(最近のフルーツは香りがない)で良し悪しは判断できる。
レモンの香りはいい。
生まれたときにはすでに母はなく、母の愛情を知らずに育ったホムチワケ。
さらに残酷なことに髭が胸元に届くころになっても口がきけない。
その理由は出雲大神(スサノオノミコト?)の祟り。
スサノオノミコトもホムチワケ同様に母の愛情を知らず、
母に会いたいという一途な気持ちで泣きわめいていました。
胸元に髭が届くころまで・・
出雲大神の祟りが解かれ、ホムチワケは口がきけるようになります。
そして肥長比売との突然の婚姻話。
その肥長比売の正体は蛇だったことが分かり、
ホムチワケは恐れをなしてその場から退散。
それでも船に乗って(ココは海?)肥長比売は追いかけてきます。
海を照らしながら・・(オオモノヌシもそうだった)
肥長比売のホントの正体はホムチワケのカカでありハハだったのかも。
持ち物が違うことで対立を余儀なくされた海幸と山幸。
その対立要素の原因が動く海と動かない山。
相反する海と山に関して海千山千という諺があり、
海千山千に値する人物はずる賢いらしい。
要するに公明正大の逆で、暗くて小さい人物が海千山千の人。
海千山千の元の筋書きは海に千年山に千年住んだ蛇は龍になるというもので、
持ち物を交換しなくても相手のことがよく分かるのかも。
神話の世界では悪役の蛇ですが、
その蛇が海に千年山に千年住むとこの世に存在しない龍(空を舞うイメージの風)になる?
蛇の古名は羽羽(はは)で、
三種の神器の一つ(草薙剣)の生みの親でもありました。
さらにカカというのも蛇の古名。
ハハとカカと蛇・・ 海千山千を経てケツァルコアトルになる。
ところで海千山千と同じように使われるのが海千河千。
海と山で持ち物が違うように海と河でも持ち物が違うよう。
しかし山千河千というのはない。
海と対立するのは山と河で山河はきっと一つのもの。
婆さんが川で洗濯してるとその川上から桃が流れてきて、婆さんはその桃を家に持ち帰ります。天から肥河に降り立ったスサノオノミコトはその川上から箸が流れてきたのを見つけ、川上に住む人の家を探します。川で用を足していたセヤダタラヒメはその川上から流れてきた丹塗り矢に陰部を突かれ、その丹塗り矢を家の床の間に飾ります。昔の厠は川に設置され、流れる川の水で汚物を洗い流していました。
セヤダタラヒメの陰部を突いた丹塗り矢の正体は蛇体のオオモノヌシで、この両者の結婚で誕生するのが東征を成功させた神武天皇の后(実際は後妻)ヒメタタライスケヨリヒメ。汚物だらけの川にたとえられる大蛇を退治したスサノオノミコトに対し、本人の意思ではないにせよ結果として大蛇の子を生んでしまったのがセヤダタラヒメ。オオモノヌシの血を受け継いだヒメタタライスケヨリヒメは神武天皇と結婚し、その夫を失うと再婚します。その再婚相手というのが神武天皇亡き後の皇位を手に入れようとしたタギシミミ(先妻の子)で、仲が悪い象徴のような継母継子の結婚でした。その後タギシミミは神武天皇の子に殺されるのですが、その首謀者がナント!ヒメタタライスケヨリヒメ。大蛇を殺したスサノオノミコトのすがすがしい話と比較するとこちらのグループの話は陰湿極まりない。
殺された八岐大蛇は懲りずに再生できる力を秘めていました。
汚物で満たされた川も再生能力を秘めています。
木の枝は折れるし人間の骨も折れる。
しかし絶対に折れないのが流れる水。
芭蕉の句(五月雨をあつめてはやし最上川)の最上は
自浄力の最上という意味にもつながりそう。
爺さんは柴(垣根に使う?)を刈るため山に行き、婆さんは洗濯(衣類それとも自分?)するため川に行く。老夫婦の行動範囲は山と川で山と海ではない。山幸海幸の話から考えると山と海は対立関係にあったにもかかわらず、山幸彦は海神の娘と婚姻関係を結んでいます。さらに山幸彦の子も海神の娘と結婚するという筋書きで、山グループに属する男性は海グループに属する女性を妻にしています。山を発源として流れ出た水は川となって流れ、最後に到達するのが海。水を中心に考えると山は淡水、海は海水となり水の質が違う。水が合わない結婚は洪水のように波乱万丈?
さくなだりに落ちたぎつ瀬織津姫は川の神でした。山グループに属する男性は滝のように落ちたぎつ姫を敬遠する傾向にあるようで、山と川の結婚話は語られていない。しかし高天原を追放されたスサノオノミコトが落ちる場所として選んだのが出雲国肥河の上流。そしてその川辺に住んでいたのがともに大山積神の子だった足名椎&手名椎夫婦でした。勢いがあったスサノオノミコトは勢いのある川の上流部に落ち、その川辺に住んでいた水が合う娘を結婚相手に選びました。山と海に挟まれた川神・瀬織津姫は神話に登場しない。登場しないということは神話の核をなす対立に巻き込まれたくない神とも解釈できるわけで、対立を避ける神は話から消される?
ところで桃太郎の生みの親となったジジ&ババ。
ジジの柴刈りは社会の迷惑にはならけれどババの川洗濯は困る。
洗濯は桶で水を汲んでその中で行うこと。
残り水は自分の家に持ち帰ること。
公共の川を汚さないように!
人間が築き上げた文明社会を終わらせるため神が用いたものは水。
ノアの方舟を初めとして世界各地で語り継がれてきたこの世の崩壊は洪水物語でした。
神であることの証明は水を制することができるかどうか。
日本では洪水に関する話は伝わっていませんが、水を制するという点に注目するとイザナギ&イザナミ夫婦の八番目に生まれた海の神で水の支配者である大綿津見神(古事記にだけ出てくる))が洪水を引き起こす鍵を握っていると考えられる。しかし不自然なことに大綿津見神はその後の物語には登場しない。日本書紀の方は海底の宮を管理する綿津見神(豊玉彦)として登場します。後に山幸彦と結婚することになる豊玉姫が綿津見神の娘で、姉の子(ウガヤフキアエズノミコト)を養育し結婚した玉依姫もまた豊玉彦の娘でした。
さらに綿津見神の気になる特徴というのが意図的に海幸彦を困らせるように仕向けていること。潮の干満(月とのかかわりも深い?)を支配する潮満珠と潮干珠を山幸彦に授け、海幸彦を徹底的に痛めつけ従属させる方向に持っていこうとしています。いじめ体質が感じられる綿津見神のイメージはトコトン悪い。暴風的要素を持つスサノオノミコトが海の支配を蹴った理由はこの陰湿なネチネチ? 似たような体質の八岐大蛇とも当然のことながら相性は悪く、スサノオノミコトは女たらしの大蛇を切り刻みます。
冒頭で述べた洪水の話とうまく結びつかないのが日本神話に登場する水を制する者。海の最高責任者という名前の大綿津見神が人間の都合で意図的に消された神とするなら、都合のいい人間に対する怒りはジワジワ蓄積しているはず。水を制する大綿津見神が水を制する話に登場したときは時すでに遅し?