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- 2022.04.05 Tuesday
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薄紫色の花の横顔。
多くの蕾があるので、これからドンドン咲きそう。
朝顔の花に似ています。
野菜に詳しい人はもう分かったかな。
田舎住人ならこの葉で分かるよネ。
答えは季節的に食べたくなる石焼き芋の素材となるサツマイモ。
因みに葉を見ても分からなかったのがエスマル。
サツマイモ(ヒルガオ科)の花&葉はもちろん
ジャガイモ(ナス科)の花&葉も知らない。
サツマイモといえば芋しか知らなかったですが、
唐突の出会いで視野が広がって嬉しい。
長靴の地形をなしているイタリアの爪先と向き合う位置関係にあるのがシチリア島メッシーナ。アントネロ・ダ・メッシーナは古代ギリシア人によって造られた歴史あるこの港町の出身で、ルネサンス後期(15世紀半ば)に活躍したイタリアの画家。
天使と一緒に描かれることが多い受胎告知シーン。
しかしメッシーナの絵は違う。
何かを決心したような、あるいは何かを納得したようなマリア。
頭からスッポリかぶった聖なる青衣に赤っぽいシミが目立っています。
本を読んでいたと思われるマリアの右手にも血痕らしきものが・・
マリアの処女性は痛くて美しい。
余りの美しさ故、手を触れないで眺めていた藤の花。
風が吹くと同時に水に映った藤の花を浪が折ってしまった。
華やかな藤浪の時期は去り、今は藤の実が垂れ下がっています。
マメ科だったことを思い出させてくれるフジ色の藤の実。
両手で左右の豆の部分を持って折り曲げようとして、
余りのかたさに愕然!
垂れ下がる藤の実の中で一つだけ弾け飛んだ実をキャッチ。
種を飛ばす時はサヤをねじる?
あのしなやかな藤の花が半年後にこんな実を結ぶとは・・
しなやかで美しい時期は短い。
だから触れる? それとも触れない?
与謝と名乗るようになったのは母(谷口げん)の故郷が
丹後国与謝郡(京都府与謝郡加悦町)だったからとか・・
芭蕉を追いかけ日本各地を旅した俳人蕪村は画家でもあり、
二足の草鞋を履いて旅を続けた芸術家。
草鞋を脱ぐときは旅を終えるとき。
脱いだ草鞋を手にした蕪村のうれしさとは母に会える喜び?
この句は俳句の聖地・金福寺(京都市左京区一乗寺)で詠まれたもの。
蕪村は芭蕉庵があるこの寺で眠っています。
年暮れぬ 笠着て草鞋 履きながら 芭蕉
足にフィットする草鞋を履いて旅を続けた芭蕉と蕪村。
旅を続けることができたのは足に合った草鞋を履いていたからで、
足に合わない靴なら旅どころか一歩も前に進めない。
(靴履いて 旅は足ずれ 世は無情)
『鏡のマグダラのマリア』
彼女はその頭蓋骨から目をそらす状態で蝋燭の炎を見つめているのか、
物思いにふけっているのか・・
これら二つの絵に共通するのが乱れのないマリアの着衣。
『ゆれる炎のあるマグダラのマリア』
鏡がなくなると同時にマリアの肩が露出している感じがします。
『聖なる炎の前のマグダラのマリア』
無造作に置かれていた机の上の本は整えられてはいるものの、
マリアの目線は相変わらず虚ろ。
しかしこの(↓)絵のマリアは真正面から頭蓋骨と向き合っています。
『書物のあるマグダラのマリア』。
今まで閉じられていた本が開かれ、着衣を脱いだマリアは頭蓋骨を直視しています。
虚ろだったマリアが本気で生きようと決意した瞬間?
神社や寺の境内でよく見かけるクス(ノキ)は巨木であることが多く、
その実を間近に見るのは難しい。
虫が嫌うニオイを放つ樟の語源はクスシ(臭し)で、
邪気を払うためには無臭であってはいけない。
日陰になった雑木林で出会ったユニークな実。
裂けた果実の中にあったと思われる黒い種は
落ちそうで落ちないというより落ちる気配は毛頭なさそう。
このシーンに思わずクスッ!
そこでこの実に付けたニックネームがクスッの実。
本名は役立たずのゴンズイで、名無しのゴンベエと親戚かなにか?
横から見るとこれまたヒョウキンでとぼけた感じ。
クスのように神木として人に仰ぎ見られることはないけれど、
ゴンズイの実と目線が合うとクスッの実に大変身。
一年を通じて注目の的になることは決してないゴンズイ。
しかしこの実のオモシロサはクスを遥かに越えている。
裸の楽園生活を満喫していたアダムとイヴ。
無知な赤ん坊のままであり続けることができれば楽園生活は保たれていたはず。
神(楽園の管理者)は二人に命じていました。
“知恵の木の実を食べてはいけない。”
要するに神が言いたいのは“知恵を付けずアホのままでいろ”。
言葉を変えると“好きなことして好きなように生きろ”ってこと?
しかしアダムとイヴは神の命令に背き、楽園を追われることになります。
その追放のキッカケになったのが
イヴ(アダムではない)にすり寄った蛇(楽園在住者?)。
人類の祖とされるアダムとイヴの原罪はこのようにして発生します。
マリアは処女で懐胎したのかも。
救世主のママは慈愛と厳しさを併せ持っていました。
直立型のローゼルはオクラやトロロアオイと似た感じで、
赤い果実(実際はガク)を乾燥させハーブティーにするらしい。
花の写真を撮りたかったのに何故か全部しぼんだ状態。
開花は午前中だけのよう。
オクラそっくりのローゼル花(ウィキペディア)。
ジャムにもなるローゼルの赤い実。
オクラやトロロアオイと同じでネバネバ組に属しています。
鑑賞用のハイビスカス(仏桑華という和名はピンとこない)より
何かと使えるローゼル。
栽培してみようという気にさせられたインパクトのある出会いでした。
ところでハイビスカスの実ってあるのかな。
マグダラのマリアを生み出したマグダラ村(ガリラヤ湖の西岸)を調べていて気になり出したのが南流するヨルダン川でつながっているガリラヤ湖と死海。淡水で多くの魚が生息するガリラヤ湖から流れ出る水(ヨルダン川)は死海に注ぎ込んでいます。
どちらも内陸部にある湖なのに何故これほど塩分濃度が違うのか? ガリラヤ湖と死海の間にある塩分を含む岩盤層がその大きな原因で、死海の水は出口がないまま水分の蒸発で濃度はさらに増すらしい。この死海の近く(南東岸)にあったとされているのがこの世から消されたソドムとゴモラ。神は退廃ムードがはびこっていたこれらの都市を硫黄と火で焼き払っています。聖地として存続するのにあってはいけないのが退廃感漂う不健全な陰鬱さ。一方死海のほぼ真北にあるガリラヤ湖周辺は野生植物の群生地でもあり、マグダラのマリアはこれらの植物と共にゆったり成長したのかも。
定着しているイメージとは異なるマグダラのマリアですが、
ガリラヤ湖周辺に咲き乱れる花畑の影響を受けて育ったとすると雰囲気はピッタリ。
また本を読む時はだいたい椅子に腰かけているのが自然で、
忙しく動き回らないのがマグダラのマリア。
娼婦の顔はマグダラのマリアのほんの一面で実際は本を読むのが好きだった?
女は男と違って多くの顔を秘めています。
漠然と見ていた(実際は見ていなかった)木を
意識して見るキッカケになったのが神話と聖書。
さらに拍車をかけたのがせわしい社会からの脱出願望。
こんな毎日・・モ〜イヤダッ!
10月初め頃に出会った可愛い蕾。
光沢のある葉の縁が波打っているのが特徴。
しかし正確な名前を特定できないまま開花を待つことに・・
特徴のある葉と秋に花を咲かすことで特定できたその名は耳慣れないリンボク。
白い糸のようなものはオシベで、花びらよりオシベが目立つ日本固有種。
人の手が入っていない赤鬼山(用水路のすぐ近く)に生えていた
常緑性サクラ属の珍しい木。
間近に見ることができて感激!
人の目縁より上の方に花が咲くので意識していないと見落としてしまう。
来年4月から6月ぐらいに結実する黒い実を見に行く楽しみが増えた。
社会から脱出を試みるのはいいもんだ。