スポンサーサイト
- 2022.04.05 Tuesday
一定期間更新がないため広告を表示しています
- -
- -
- -
猿田彦神の導きで日向に落ちた天孫ニニギノミコトは吾田の笠沙の岬で美しい少女に出会います。その少女の名が桜の花を象徴する大山津見神の娘コノハナサクヤビメ。
一方出雲国の祖となったスサノオノミコトとクシナダヒメ(八人姉妹の八女)の間に生まれたのがヤシマジヌミ(八島士奴美)命で、記紀物語に登場する場面はありません。その彼が妻にしたのが散る桜を受け持つコノハナチルヒメ(木花知流比売)。
天照大神の血を引く“孫”ニニギノミコトは咲く桜を選び、スサノオノミコトの血を引く“子”ヤシマジヌミは散る桜を選んでいます。同じように桜を象徴する妻を選んだ二人ですが、孫と子という立場で時間の差が生じているように感じます。
阿保山の 桜の花は 今日もかも 散り乱ふらむ 見る人なしに
花見客が求めるのは満開の桜の下で酔う宴
コノハナサクヤヒメ(高天原系)の名は広く知られていますが、
コノハナチルヒメ(出雲系)を知っている人はほとんどいない。
阿保山に生える阿保な桜の木のルーツはコノハナチルヒメ?
そのコノハナチルヒメの血を受け継いでいたのが
八十神の荷物を背負って歩かされていた大己貴神。
世間(よのなか)も 常にしあらねば やどにある 桜の花の 散れるころかも
咲いた瞬間から散る運命にあるのが桜。
しかし現実の社会を見渡せば
散る(退く)ことを拒否する人(突出して多いのがエライ人)が如何に多いか。
日々のニュースでますます明らかにされる散り際の悪い奴らの不快な弁明。
サッサと根国に行ったスサノオノミコトが羨ましい!
地道という言葉は“真面目なこと”あるいは“着実な態度”という意味の他に“普通の速度で歩む”という意味があり、急いで歩かないことが地道の鉄則。大地の地は土のことで、土の神を称して埴安神(埴安彦と埴安姫)。安心・安全の安という漢字が使われているハニヤス神の埴は水を通さない緻密な土(粘土)のことで、その土と火が合成するとカタチある陶器が完成します。生のカタチがもしあるとするなら、必要なものは土(地道)と火(情熱)? 安心・安全が失われてしまった今、アとンの安の大切さを強く実感しています。
昨年から本気になって荒地の草むしりに取り組んできて感じたのが土壌は変化するということ。その基本になったのがまさに地道。自然のルールに従うとはびこるのは強い雑草ばかり。そこで一念発起! 強い雑草は何が何でも引っこ抜いてやるという決意で臨んで約一年・・ 地道の成果は確実に出ています。タンポポ・タビラコ・ノゲシなど食用になる乳草がたくさん生えてくれるようになりました。手を加えれば着実にキレイになっていく土は正直? 火の神誕生で死に瀕していたイザナミノミコトの糞から生まれたのがハニ安神でした。
八人姉妹のうち長女から七女までの姉妹を喰い物にしてきたのが高志国出身の八岐大蛇。年一回のサイクルで出雲来訪を繰り返していた八岐大蛇ですが、八年目の八女を喰う段階で邪魔者が入ります。八人姉妹の両親になるのが大山祇神の子だった足名椎(脚摩乳)&手名椎(手摩乳)で、ツチと読まされる椎夫婦のツチは汚点のない白(乳色)? ユニークな名前から察するところ互いに欠けたところを補い合う不完全夫婦のようで、彼らは八人もいた娘が一人になるまで八岐大蛇に抵抗しなかったことが分かります。七年間も娘を失い続けた夫婦の辛さと悲しみは如何ほどだったか。そして物語はすべてを失ってしまう可能性のあった八年目の土壇場を迎えていました。
一方抵抗されなければいい気になって愚行を重ねたのが八岐大蛇で、今の東電と天下り官僚ジジイみたいなもの。苦痛を受け続けた出雲族の叫び“ヤメ(八女)ロ!”は高天原に届き、出雲の元凶となっていた八岐大蛇は殺されることで一応(懲りずにすぐ復活する)の終結を迎えます。図に乗り過ぎた八岐大蛇と同じように、福島第一原発は7号機8号機までもがさらに計画中でした。八岐大蛇を退治したスサノオノミコトは現在根国(地中)を統括中・・ ということは・・
苦しみのないエデンで神から決して食べてはいけないと念を押されていたのが善悪を判断する知恵の木の果実。(旧約聖書) 善悪を判断するのは神の仕事のようで、人が勝手に善悪を決めてはいけない? 楽園生活に満足していたはずのアダムとイヴ・・ その幸せな二人の前に登場するのが鰐と同じ爬虫類の蛇。先に交していた神との約束を破り、蛇の誘惑に負けてしまうのがイヴ。状況から考えると蛇がエデン在住というのも妙な話。もしかして神の別の顔が蛇?
海の向こうから日本に渡ってきた光の主であり、また櫛箱に入るぐらいの小さな蛇でもあったのが三輪山に住処を構える大物主神(金刀比羅宮では鰐として祀られている)でした。人を輝かせると同時に人を惑わすのも神? 蛇に化けた神に騙されたアダムとイヴは神によりエデンを追放されます。その結果発生するのが人間世界における過酷な男の労働と痛みを伴う女の妊娠。人に食べてはいけないと言いながら食べるように仕向けるのが善悪を判断する木の実で、その状況を裏で観察しているのが神? (イヤな性格だよネ) エデンで裸生活を送っていたアダムとイヴは神に追放され服を着ることになるのですが、高天原の命令で追放されたスサノオノミコトはむしろその逆で、今までの服を脱いで巨大な蛇退治に出向いています。日本が見舞われた自然災害及び原発事故で思うのは隠す体質ではなく脱ぐ体質なのが本来の日本の姿。今までまかり通っていた日本の陰湿(蛇)体質が脅威の自然に向き合えるはずはない。
出雲建国に精を出していた少彦名神(大己貴神の相棒)は早々に手を引き、自分の故郷・常世国に帰ります。最終的に高天原族の手に渡ることを知っていたと思われる事代主神の決断で日差しを遮る出雲国は消滅。その後高天原から落ちてくるのが生まれたばかりのニニギノミコトとその赤ん坊を世話する従者。後に大山祇神の娘(妹)コノハナサクヤヒメと結婚するニニギくんですが、醜い磐長姫(姉)を嫌い妻にすることを拒絶。さらに一夜の契りで妊娠したコノハナサクヤヒメに「ホントに自分の子か?」という醜い言葉を投げかけ、妻を怒りの火中出産に至らせる危険男が天照大神の孫でした。そんなニニギノミコトに従うことになったのが天照大神の岩戸隠れにかかわったメンバーで、彼らは天でも地でも従わなければいけなかった?
ということはこの辺りの土地はサルタビコ神が所有していたことになり、出雲国に続いて神風の伊勢国までもが都合よく天孫族に譲られたってこと?
“上の瀬は流れが速い。下の瀬は流れが遅い。”という言葉を発して中の瀬で身を清めたイザナギノミコト。その直前に今まで身に付けていた冠・腕輪・衣類さらに杖や嚢(ふくろ)など一切合財を捨てて禊に臨みます。神話の舞台になった葦原“中”国の傾向は真ん中を重要視しているようで、禊に際して強調されていたのが速くもなく遅くもない中途半端(?)な中の瀬。そして一番に生まれたのが八十禍津日(やそまがつひ)神で次に生まれたのが大禍津日神。(古事記) 日本書紀では八十枉津日神と書き、災厄を意味する“禍”を示す部分に“枉(おう)”という漢字が使われています。王様流に道理を押し曲げる意味を含んでいるのが枉・・ 柱と似た漢字ですが決して柱になれない(なってはいけない)のが何かを捻じ曲げてしまう枉。黄泉国の穢れに接したイザナギノミコトが身を清めた際の垢から生まれたのが八十マガ津日神で、その直後にマガを直すための神直毘神が生まれています。災厄が露呈(邪な八十マガ津日神誕生)することは正しい方向に導く神の誕生でもあり、道理を曲げてでも居座り続けてきた王様の時代は終わりを告げようとしている感じ。日本は神代の時代からあらゆる穢れを祓おうとする直な心を宿していました。
ほーほー ほたる来い
あっちの水は苦いぞ
こっちの水は甘いぞ
ほーほー ほたる来い (わらべうた)
穢れた黄泉国の食べ物を口にしてしまった(黄泉戸喫)イザナミノミコトは死者が住む黄泉国住人となり、二度とこの世に戻れない状態にありました。穢れが強調された黄泉国に当てられた漢字を素直に考えると黄色い泉の国。地中から水が湧き出る場所を泉と呼ぶことから関連付けると黄色い水が黄泉。人の生命維持に不可欠な透明な水(真水)ではなく、飲料に適さない濁った水が湧き出る場所が黄泉国のよう。ここで五行(木火土金水の元素が互いに影響し合って万物は変化し循環する)思想を当てはめて考えると黄色を象徴するのが土。この土が水を濁し滅ぼすことから両者の関係は陰(相剋)となり、透明な水(泉)は濁った泥水(黄泉)に。そして発生するのが泥試合で、黄色い水(イザ波の国)はイザナギ(イザ凪)にとって合わない水だった?
水が合わない場所から帰ったイザナギが即座に実践したのが黄泉国の穢れを洗い流すための水を使った禊。キレイな水が湧き出ていたと思われるその場所は筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原という風に詳しく表現されています。この禊の場所で気になるのが日向(ひむか)の橘で、非時香菓を連想してしまう。今の橘にたとえられた非時香菓といえば常世国で、禊に設定された場所は時間に振り回されることのない常世国?
また指の間からこぼれ落ちるほど小さい神として表現されていた常世出身の少彦名神に合致するのが小門。さらに人に尽くすイメージの筑紫を想像するとすべての国民を不安に陥れている今の日本とはかけ離れた国が筑紫だと思う。しこめききたなき国から帰還したイザナギノミコトが実践した禊の場所に湧き出ていたと思われるのは当然真水。放射能に汚染された危険な水を周囲に垂れ流している今の日本は黄泉国同然で、国全体が禊をしなければいけないのかもしれない。
三歳になっても足が立たなかったヒルコ神(イザナギ&イザナミの第一子)は葦船に乗せられ海に流されます。ヨシ船になるかアシ船になるかは乗せられたヒルコ次第。古事記の葦船に対し、日本書紀は楠(スサノオノミコトの眉毛から成った)材で造られた天磐樟船。共通して言えるのが不具の子と見なされたヒルコは親に捨てられ海をさ迷う環境にあったということ。目標にすべきものが見つからない広大な海をさ迷わなければいけなかったヒルコを読み解くヒントは名前(水蛭子・蛭子・蛭児)に当てられた漢字“蛭”。池・沼・田などヌルヌルした場所を住処にしている蛭は吸血鬼にも負けない吸血動物。そんな蛭に噛まれた時の気になる特徴がすぐには痛みを伴わないので状況把握が遅れてしまうらしい。痛みをキャッチした時は更なる多くの血が流されてしまった後で、蛭と対峙するのは難しい。だから海へ?
そんな危険な要素を含むヒルコが後に海から出現する笑顔のエビス(夷・戎)神としてエビス信仰に結び付いていくのですが・・ 親に捨てられ辛い想いをしたであろう蛭子が一転して笑顔で登場できるかな。人の御都合主義的考え方が如実に反映された典型的解釈なのでは・・名前の蛭を思い出せば分かるように笑顔の蛭子が復讐に向けばどうなるか。捨てた親の生き血を吸ってキレイな血と入れ替える? 自分の都合しか考えない機械脳のヤローが笑顔のエビスを勝手に創造したような話で、さらにひっかかるのがエベッサンの耳は遠い(誰がいつこんなこと決めたんや!)。だから何を言ってもエベッサンは怒らない? 三歳で海に流され死を体験した蛭子の別名は夷三郎。ヨシアシを決める鍵を握っていると考えられるヒルコの合言葉はイチニのサン。
八壽鰐と化した豊玉姫は産屋の屋根(軽い鵜の羽根)が完成しない慌しい状況で出産に至っています。この切羽詰まった出産で誕生するのがウガヤフキアエズ命という人物。その緊迫状況に加担しているのが八壽鰐。天地開闢から日向を舞台に展開した日向三代(天孫ニニギ命・火から遠い山の管理者だった火遠理命・ウガヤフキアエズ命)の命の話は終わり、四代目の四人兄弟が向かった先が故郷(吾田)から東に位置する他者の土地? 海に面した日向を捨て彼らが目指したのが山に囲まれた大和盆地で、上下の差が激しい山と海の血を受け継いでいた四代目メンバーは八壽鰐が潜む海の危険性を察知していた可能性が・・ そこで内陸部に侵入しようとしたのが神から人へと切り替わる時期を迎えていた四代目。
巨大な鰐に変身したのは豊玉姫だけではなく、出雲の統治者だった大国主神の二男・八重事代主神も八壽の熊鰐(わに)に姿を変えることができました。そのワニの相手を務めたのが三嶋のミゾクイヒメ。夫婦の溝を解消すべく溝を食うミゾクイヒメと事代主神の間に誕生するのが神武天皇の后となる姫踏鞴五十鈴姫。一方神武天皇の父ウガヤフキアエズ命の生みの親もワニで、自ら乳房を切り裂くという気性の激しいタイプでした。