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- 2022.04.05 Tuesday
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朝顔に 吉原の夢は さめにけり 子規
女性の夜顔と朝顔の差に幻滅した男の本音?
自分の周囲に生えている草木に絡み付き、
夏の盛りによじ上りながら咲く朝顔ですが、季語は秋。
早朝から咲き始め夕方にはしぼんでしまう短命な花。
似たようなタイプの花が木槿(朝顔と同じ季語は秋)で、
ムクゲ(モクゲとも読む)もまた朝顔に似てその一輪の花は短い命で終わります。
夏を代表する朝顔と木槿なのに、俳句の世界では秋を象徴しています。
朝顔に うすきゆかりの 木槿かな 蕪村
琉球木槿とも呼ばれるハイビスカスに似た花が夏の間じゅう次々に咲き続けます。
それぞれの花は儚い命ですが、毎日新たな蕾が開花するので儚さより逞しさを感じるのがムクゲ。真っ直ぐに伸びる枝の部分には繊維が多く、そう簡単にへし折ることはできません。そこで芭蕉はこのような句で木槿を表現しました。
芭蕉が通る道を塞いでいたのが木槿だったのか、
芭蕉を乗せた馬はその木槿を喰った?
それがしも 其の日暮らしぞ 花木槿 一茶
早朝から咲き始め、一日でその命を終える木槿に愛着を感じているような句。
はかないのか、たくましのか、ヨウワカラン花で
韓国の国花に指定されているのがムクゲ(日本では慣習として桜または菊)。
炎天下 負けじ魂 花木槿
エスマルの目に映ったムクゲの印象は短命な儚さというより、
ひと夏の恋に没頭する一途さが感じられました。
“常世の蓬莱山に行きましょう”と誘ったのは亀比売という名の乙女。言われたのは海上で釣りをしていた丹後国与謝郡筒川村の民“浦島子(浦島の子)”。大海に漕ぎ出し三日三晩が経過していたにもかかわらず、彼は一匹の魚も釣り上げることができずにいました。そんな状況の中で釣り上げていたのが五色(青・赤・黄・白・黒)に輝く不思議な亀。釣り上げた意識もないまま、浦島子はまどろみの夢の中へ・.・するとその五色に輝く亀は美しい乙女に姿を変え冒頭の言葉につながります。陸地から遠く離れた海上を舞台に浦島子と亀比売の出会いはこうしてセットされました。
警戒重視の現世脱出方法は左右に揺れながら船を漕ぐまどろみ睡眠。
舞台になった京都府与謝郡筒川村は舟屋で有名な現在の伊根町辺り。地図で確認すると北東に突き出た丹後半島の先端部にあるのが伊根地区で筒川という名の川も流れています。また伊根のほぼ真東の海上に浮かぶ冠島のいくつかある別名の一つが常世島(竜宮島とも)で、先の丹後国風土記逸文の話を証明するような地理関係になっているのが不思議! 浦島子がまどろみ状態でたどり着いたのは陸地の伊根から真東の海上に浮かぶ冠島? 亀比売の誘いに素直に応じた浦島子が見た夢の話は地図上で現実になっています。何が現実で何か夢か・・ それを見極めることができれば人生はもっと楽しくなるように思う。
奥山に たぎりて落つる 滝の瀬の 玉ちるばかり ものな思ひそ
実体のない神が歌を詠んだということは誰かの自問自答から発生した歌?
その誰かというのがタギル情熱で宮廷の男を虜にした人妻・和泉式部。
夫がいながら冷泉天皇の皇子(それも兄弟二人)の愛人という立場を受け入れ、
何よりもタギル恋に重きを置き人生を全うした女性。
彼女のタギル情熱の行方はすべて男?
恋に疲れた女が一人、貴布禰に詣でたそうな・・
恋こそ生きる証し(?)の彼女はもの思いに重く沈んでいたのか、
貴船川沿いに飛び交う蛍の青白い光に自分の魂を感じ取った様子。
物憂げな式部の歌に感応し返した(男の声だったらしい)のが冒頭の貴船明神の歌。式部の自問自答歌と考えれば、心の奥に渦巻くタギル情熱は滝壺に激しく落ちて飛び散る水滴のようなものだということを自覚している雰囲気が伝わってきます。
自分を心から愛してくれているのか、上辺だけの甘い言葉なのか・・
男の心情を計りかねているのが式部?
タギル恋を完成させるにはタギル情熱で臨むことが鉄則!
ただ式部の場合は相手にする男が多過ぎることで疲れてしまう傾向にあり、
タギル恋の成就に至ることはできませんでした。
涙川 同じ身よりは 流るれど 恋をば消たぬ ものにぞありける
火遊びの恋は水をささなくても簡単に消えますが、
タギル情熱で男を愛した式部に対し火遊び程度だったのが男?
その分、流した涙も多かったはず。
清き流れの山奥に鎮座する貴船明神に会えるのは女性で、
火遊びレベルの男が近付けないのが貴船川。
当然のことながら、式部とかかわった男の歌も伝わっていない。
“つぶて(礫・飛礫)”とは小石を投げること、あるいはその小石を表現する言で、土佐神社が鎮座するシナネの杜にそのツブテ石はありました。小石を表現するはずのツブテ石(緻密な珪石)はその言葉に反してデカイ!
説明書きによるとこの辺りの地層は蛇紋岩で形成されているらしく、質の異なる珪石がこの地に存在することは学術的に注目すべき事実のよう。蛇紋岩で構成されている土地にグループの違うツブテ石が存在するのは何故か? 答えを導く鍵は祭神の意志にありました。
雄略天皇と瓜二つだった大和出身の一言主神は島流しという罰で土佐に流され、当初たどり着いたのが土佐横浪(須崎市浦ノ内)の内海。波静かな浦ノ内湾に面する鳴無(おとなし)神社に祀られていた一言主神は自分の居場所に疑問を感じたようで、自らの意志で石を投げたそうな・・ そしてその石は土佐横浪から北東(鬼に対抗?)に向き、落ちた先が高知県の真ん中辺りに位置する土佐神社。
そこで思うのは初めからこんな大きなツブテ石を投げたのか・・ あるいは空を飛んでいるうちに小石が大きくなり、巨大なツブテ石となったのか。内海に面したローカルな鳴無神社から内陸部の土佐一宮・土佐神社に向いた一言主神の真意は自分を島流しにした雄略天皇と闘うこと? 鳴無(鳴かない)と書いてオトナシと読む鳴無神社ですが、一言主神の実体は意外におとなしくないのかも。亀の甲羅のようにも見えるツブテ石がホントに行きたかったのは龍宮?
赤と黒を基調にグリーンが加わった濃厚な色彩の鳴無神社本殿。この地は土佐神社以上にリソート的で、浦島さんの気分になれます。投げる方向を間違えてしまったかもしれない一言主神が放り投げた巨大なツブテ石は目をつぶって投げた石? だからトンチンカンな方向に飛んでいき、土佐神社境内では浮いた石として名が知られてしまったのかも。世間逸脱にはモッテコイの静かな鳴無神社。雄略天皇に追放されても気楽な生き方を選択した一言主神の意志が伝わってくるような社殿で、ホントはこの地の方が好きだったのかも・・ナンテネ。
土佐神社の祭神の一人であるアヂスキタカヒコネ神は“迦毛之大御神”とも呼ばれ、天照大御神と同格の扱いをされています。父は大国主神で母はスサノオノミコトが誓約で誕生させた多紀理比売(宗像三女神の一人)。同じ両親の間に生まれたのが下照姫(別名は高姫)で、天上界における血の濃いアヂスキタカヒコネ(兄)とシタテルヒメ(妹)は下界(葦原中国)で夫婦として出会うことになります。
夫婦になった経緯は高天原から命を受けた天稚彦(アヂスキタカヒコネの下界ネーム?)が出雲国の視察に訪れた時のこと。高天原の命令に背き下照姫と夫婦になり楽しいひと時も束の間で天稚彦は高天原の返し矢で帰らぬ人に・・・ そして彼の葬儀に参列したのが稚彦の友人と称したアヂスキタカヒコネ神。美男子だった天稚彦と瓜二つだったと紹介されているアヂスキタカヒコネを見た天稚彦遺族は稚彦が生き返ったと勘違いし、彼にまとわりついたらしい。そこで明らかになるのが下照姫の夫(下界)であり兄(天上界)でもあったアヂスキタカヒコネの本性。
天稚彦と似ていたアヂスキタカヒコネ神、そして雄略天皇と似ていた一言主神が祀られているのが土佐神社。京都の上賀茂神社・下鴨神社など全国のカモ神社の総本社が“高鴨神社(奈良県御所市鴨神)”で、祭神は迦毛大御神。全国的にメジャーになってしまったのが京都のカモ神社ですが、本家があるのは意外にも奈良県。扱いに困る話が伝わるアヂスキタカヒコネ神の父方は出雲で、母方は高天原。相反する血を受け継いでいるように感じるアヂスキタカヒコネ神の精神の振幅の差は当然大きいはず。出雲(下界)に傾き高天原(天上界)にも傾き、行き場所に困った迦毛大御神は土佐一宮の土佐神社で満足してるカナ。
JR土讃線の土佐一宮駅の読み方はトサイック。一宮を単純にイチノミヤとは読みたくないのが土佐人? その通りがイヤなのか、ただ偏屈なだけの目立ちたがり屋なのか・・ いずれにしても一宮をイックと読み、土佐一宮駅北西方向に広がる広大な杜に鎮座しているのが土佐国一宮(いちのみや)に指定されている“土佐神社”。
記紀に紹介された一言主神(奈良県葛城山が住処)は
醜いことで知られた神でしたが、一言主神を祀る本殿はとても見やすい。
本殿と似たような色彩の鼓楼。
土佐神社は赤と黒がキーワード?
太鼓を鳴らすことで時刻や緊急事態発生を告げるのが鼓楼の役目。
その重要な役目を果たしていた太鼓なのかどうか、
本殿に向かって右横幣殿に置かれていた年代物の太鼓。
記紀伝承上の神武天皇(謂れのあるイワレビコ)は近親関係にある両親から誕生しています。普通では想定しにくい近親愛は小説や映画の題材に使われることが多く、十戒をベースにしたデカローグ第四話(父と娘に関する物語)も父(ミハウ)と娘(アンカ)の近親愛がベースになっていました。アンカを産んだ母は出産後すぐに亡くなったという設定で、母親不在の家庭であったが故に起こり得た近親愛だったように思います。しかもその亡くなった母が娘に一通の手紙を残していたというのが何とも思わせぶりで、謂れ因縁がありそうな父と娘と死んだ母。
アンカの母は自分の夫を裏切り身籠ったというトンデモナイ事実が判明します。問題は夫婦間にありそうですが、物語の中心は何故か父と娘。アンカ出生の秘密がホントか嘘かハッキリせず、最後まで釈然としない気持ちで分かりにくい映画でした。血縁関係にある父と娘が愛し合うことは社会的にタブーですが、もし血縁関係のない父と娘の愛ならOK? しかし血がつながっていなくても父と娘であることには変わりなく互いに異性として愛を感じるのは理解しにくい話で、この設定には家族というものの裏に隠された秘密があるのかもしれない。
父と息子が主人公の第一話も母不在の家庭で起こる悲劇でした。二人きりというのが余りよくないのかなあ。キリスト教世界でも三位一体説が重視されているように、二つの要素(仲がいい父と娘)では何かが足らない。そしてその足らない部分を互いに求めたのがアンカとミハウ? 父と娘という立場以上の好意を相手に伝えたかったという風に理解しましたが、そこまでしなくてもいいのでは・・という気持ちも強いです。しかしこの映画の二人はそこまでヤッチャイました。
* 監督 クシシュトフ・キェシロフスキ * 1988年 作品
* 出演 アドリアーナ・ビエジンスカ ヤヌーシュ・ガヨス
★ 誰かにとっての真実は誰かにとっての嘘になることを教えてくれた映画。
太陽に棲むというカラスが地上のすべてを枯らす勢いで暑い暑〜い暑〜〜い日々が続いています。そんな厳しい炎天下の中で咲き続けているのが“百日紅”。
炎天の 地上花あり 百日紅 高浜虚子
ツルツルの幹の滑らかさから命名され、百日紅はサルスベリ(猿滑り)と読まれるようになりました。初めは木登り上手な猿が登ることができたサルスベリ・・しかし猿も木から落ちることを実践させたのがサルスベリ。その実践に費やした期間がもしかして百日? 多くの別名(踊花・笑い木・怠けの木・くすぐりの木)から想像すると何となく小馬鹿にされているような感じ。
百日紅 ごくごく水を 呑むばかり 石田波郷
地中深くに溜め置かれている水を吸い上げているのがサルスベリ。
だから炎天下でも元気?
桜のようにはかなく散るのが日本人の花に対するイメージで、
三ヶ月も咲き続けるサルスベリは
日本の感覚からすると笑いの種にされているのかも。
しかも大抵の花は暑さで参ってしまうのに、サルスベリは元気ハツラツ!
散れば咲き 散れば咲きして 百日紅 加賀千代女
食べたい気分にさせられる果実風蕾が準備万端の構えで、
自分の出番を待っています。
暑い夏を乗り切るには水をガブ飲みして乱れ咲きで勝負!
百日紅 乱れ乱れし 夏の宵
国宝に指定されている本殿を有する神社が香川県坂出市に鎮座しています。
どのような経緯で本殿が国宝にならなければいけなかったのか・・
説明書きの板には夢のような話が記されていました。
“神谷の渓谷にあった深い淵から自然に湧き出るように一人の僧が現れ、
淵の傍らにあった大岩の上に祭壇を設け天津神を祀り
国家安泰五穀豊穣を祈ったのが神谷(かんだに)神社の創始である。“
神谷の渓谷で自然発生した僧が創った神社?
深い淵から・・ということは
絶望的状況にあった僧がこの世に帰還することができたシルシの神社ってことかな。
当時の祭神は火結命・奥津彦命・奥津姫命。
その後春日四神が追加されたようで、中心的存在は“火結命”。
渓谷という雰囲気はまるでなく、緩やかな坂が参道になっています。
淵が形成できるとは思えない小川(神谷川)がチョロチョロ流れているぐらいで、
絶望を感じた僧が深い淵からこの世に帰還したという勝手な想像とは合致しない。
朱色の拝殿の向こうには地味な国宝の本殿が・・
しかしガードがかたく、本殿の様子はほとんど分かりません。
その本殿の丁度後ろに意味不明のブツブツ石があり、
この本殿からさらに緩やかな坂が続き、またまた曰くありげな石が・・
影向石と呼ばれるザラザラ石で、小さな穴がイッパイパイパイ!
どう見ても美しいとは言えない石が影向石という名の磐座で、
神谷(神々が集い音楽を奏でる場所)神社に祀られている神(火結命すなわち迦具土神)はこの石に宿っています。俗世間を遮断したような場所に立地していることから想像すると、神谷地区は俗人が侵入できない僧専用の谷? 参道の途中にこんな説明書きもありました。
狼藉者が俗人で、熊蜂が神谷神社に集う神々?
神話の中で征伐される側に属していたのが熊や蜂。
国宝の本殿を有するこの聖域に一歩も近付けなかった狼藉者は何者?
本意ではない今の生活を改善せず、全く違う世界に飛び出そうとしたのがケイト・ウィンスレッド扮するサラ。3歳の娘ルーシーの母であり経済力のある夫リチャードの妻という立場に満足していない彼女は情熱的な恋に憧れるリトル・チルドレンの一人。一方仕事はできても妻を性的に満足させられないリチャードも困った性癖の持ち主で、リトル・チルドレン同士の夫婦に改善の余地は見られない。チルドレンをさらに強調したリトル組に属するメンバーの滑稽なリトル物語。
“人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇である”と言ったのは笑いを映像化したチャップリン。この映画も悲劇のような喜劇で、当人にとっての一大事はハタから見ると贅沢な遊び。しかし裕福な環境ではあっても満たされない心に苦しむのが人のヤヤコシイところで、子育て中のママたちにうまく馴染めず苛立っていたのが最近この地区に引っ越して来たサラ。母&妻として穏やかに生きる人生の選択もできたはずなんだけれど、彼女が求めていたのは妻や母ではなく燃える女の肉体。その部分を満足させなければいけないのが旦那の役目。しかし旦那はオナニー派なのでどうしようもない。
現代版ボヴァリー夫人を目指すサラの目にかなったのが主夫ブラッドで、経済的基盤は美人でスタイルのいい妻キャシーが担当しています。仕事に燃えるキャシーの目は夫ブラッドより息子に注がれ、息子もまた父より母の方がお気に入り。ホントの自分を探している彼らは波間を漂う漂流者のようなもの。いくつになっても不惑に達することはできず、ユラユラの先に見ているものは現実逃避でしかない。性愛に傾倒するサラに対してブラッドは何がしたいのか全く見えてこない。その彼の結末が結構笑ってしまう正真正銘のオチ・・ まさに“悲劇は喜劇”を実感できます。
男に弄ばれ最後に自殺したボヴァリー夫人(名前はエマ)の話が挿入されています。
愚かな淫乱女として破滅人生を送った女性という見方が大半を占める読書会で、サラの考えが次のように示されていました。“不幸を受け入れるか、もがいて戦うか”という言葉は自分と重ね合わせた発言のようで、人妻の立場にありながら、もがいて戦う(不倫?)方を選択したのがボヴァリー夫人でありサラ。波風を立たさず平穏無事な生き方(不幸を受け入れる)の選択もできたのに、それを選択しなかった(できなかった?)ボヴァリー夫人に共感するのがサラ。
* 監督 トッド・フィールド * 2006年(米)作品
* 出演 ケイト・ウィンスレッド パトリック・ウィルソン
★ “いい子”ってどういう子?