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    ナゴシ祓

    • 2010.06.30 Wednesday
    • 22:16

    鬱陶しい梅雨のジメジメから解放させてくれそうな行事がナゴシ(夏越)祓と呼ばれる祓い。祓う必要があるのは大抵が罪や穢れで、ナゴシを祓うとはどういうことか。茅の輪を抜けるだけで心身ともに清められるとは思えないですが、その輪抜け行為(行事)は全国的に奨励されています。“水無月祓”とも呼ばれるこの行事は一年の真ん中(折り返し地点)に設定され、その輪(繰り返される一年?)を抜ければ祓い清められるというもの。 

     
    雑菌がはびこりやすい今の時期、心掛けなければいけないのがクール&ドライ。ウェットだらけの毎日で人もカビが生えそうな気分。何とかしないといけない対処法としてあるのが茅で編まれた茅の輪くぐりかな。神社拝殿に通じる参道に設置された茅の輪を抜けると、疫病除けにもなるらしい。コッチは湿っぽいウェット・ワールドで、アッチはカラッとしたドライ・ワールド。日本の伝統行事として奨励されているのがコッチからアッチへ抜けること?

     
    その入口を飾るのがイネ科の“茅”という草で、かつては屋根を葺く(ジメジメを引き起こす雨に強い)のに利用されていました。漢字が示しているようにクサカンムリに矛と書く茅の葉先は剣のように尖っています。また根の繁殖力は極めて強く、茅が生え始めるとアッという間に茅だらけ。そんな強靭体質の茅で編んだ輪の真ん中(空間)を抜けることが疫病神との接点をなくすコツ。特に蛇体として名を馳せたオオモノヌシは一流の疫病神でした。

          
    また京都の方では水無月という氷に見立てた三角形の和菓子を食べる習慣があるようで、カビ対策は尖った氷。流れる水を凍らせると氷。モノの腐敗原因の一つが水で、氷はむしろモノを保つことができる。カビ臭くならないための手段は尖ることと冷たいこと。水が多い水無月最終日(一年の折り返し日)に開催されるナゴシ祓とはもしかして和し祓?
                  
     




       

             ∞(無限)という形を描くようにして回ります。

       目指す方向が違う男女は無限にクロスするだけで、和しムードは祓われる?

    デカローグ 第二話

    • 2010.06.29 Tuesday
    • 22:38

                

    第一話では冷静な頭脳で判断する男(父親)が表現されていましたが、第二話の中心人物は何やら思いつめた雰囲気の女性ドロタ。サブタイトルは“ある選択に関する話”で、思いつめた彼女のある選択が夫の生死に影響しているように感じました。ドロタは同じアパートメントに一人で暮らす老医師と話がしたいようで廊下で彼を待ち続けています。情緒不安定な様子のドロタは煙草を吸いながら彼を待ち続けますが、老医師は相手にしない。それでもしつこく老医師にまとわりつく彼女は現在妊娠中。

    彼女の夫アンジェイは老医師が勤務していた病院の患者で、ドロタは夫の病状がこれからどうなるのか知りたくて老医師にまとわりついています。その理由はお腹の子が夫の子ではないというのが主な理由かも。“二人の男(旦那と不倫相手)を自分は同時に愛してしまった”とか何とか・・都合いいドロタの発言を聞くことになるのがアンジェイの担当医。先のことを心配するドロタに対し、自分としてはできる限りの治療を施すだけで先のことは分からないという立場の老医師。しかし彼は最後にその考えを翻しています。
              

    思いつめるタイプの彼女は切羽詰まったようにこんな言葉をぶつけています。
    “もし夫が生き延びるならお腹の子を堕胎しなければいけない。しかし夫が死ぬならお腹の子(愛人の子)を産みたい。” 死にかけている夫とこれから生まれる我が子を天秤にかけているような発言で、自己中ドロタの身勝手さが判明。しかし先のことは分からないという判断を下していたアンジェイの担当医が最後に宣告したのは“あなたの夫は死ぬだろう”ということ。

    その宣告が下される前、ドロタはある決断をしていました。夫が死んでも助かっても彼女は堕胎する決意で、すべてを失ってもいいという覚悟の現れだったようにも感じます。二人の男を同時に愛してしまった板挟みに苦しむドロタの決断はすべてを御破算にすること。思いつめた彼女の選択は至ってシンプルでキレイ。過去に執着していると前に進めないことに気付いた彼女が優先させたのは自分? 御都合主義的行動でウロウロしていた彼女ですが、最後までウロウロしているだけではなかったのが最上階に住むドロタ。
                

    何度か象徴的に出てくるのがアンジェイの病室の水漏れ。滴り落ちる水滴(実際の描写ではなくアンジェイが感じている水漏れ?)は何を意味するのか。前半に比べ後半の水漏れ速度のほうがが速く、水が漏れている状態は心地いいものではなかった。
    しかも溜まった水はサビ色で曰くありげな理解不能の映像と音響。さらにこの映画には理解不能の結末が用意されています。

    “今から堕胎しに行く”と言うドロタに対し“やめなさい”と言う医師。先のことはワカランと言っていた医師が此の期に及んで“助からん”と誓って明言しています。その後しばしの暗転時間が挟まれ元気になったアンジェイが医師の部屋をノックし、それほど驚きもせず彼を招き入れるアンジェイの担当医。ドロタに明言していたあの発言は嘘だったのか、あるいは予期せぬ奇跡が起こったのか。

    まあ元気になったのはヨカッタけれど、アンジェイが回復することをすでに見抜いていた老医師の矛盾する発言はどういうこと?“あなたはあなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない”という十戒とどう結びつくのか理解できなかったです。最後は『こんなことあり?』というキツネにつままれたような感じで、この世の不思議をまた一つ垣間見たようなモヤモヤした映画の終り方でした。自分だけが信じる自分だけの神を信じていた老医師の選択でアンジェイは助かったのか、あるいは彼の妻ドロタの御破算選択が功を奏したのか・・何とも複雑!

    * 監督 クシシュロフ・キェシロフスキ   * 1988年 作品
    * 出演 クリスティナ・ヤンダ   アレクサンデル・バルディーニ

    ★ 音楽家のドロタは悪女なのか聖女なのか。

    クチナシ

    • 2010.06.28 Monday
    • 22:18
    耳成の 山のくちなし 得てしがな 思ひの色の 下染めにせむ     作者未詳

    自分の思う色に染めたいのがこの歌(古今和歌集)の作者。その思いを成就させるため必要だったのが耳成山のクチナシかな。日本伝統色の一つに選ばれている“梔子(どうしてこんな漢字?)色”とはクチナシの果実で染められた色のことで、“謂わぬ色(言わぬ色)”という別名も持ち合わせています。都合の悪いことは言ってほしくない・・ だから口無しがいい?

     

    ここのへに あらで八重咲く 山吹の いはぬ色をば 知る人ぞなし   円融天皇

     
    いわぬ色というのが梔子色のことで、八重咲きの山吹をクチナシ色に例えています。
    花は咲いても実がならないことで知られる八重ヤマブキとクチナシの関係は如何に・・ クチナシも八重と一重があり、ヤマブキの八重と同じようにクチナシの八重もまた花が咲いても実を結ばない。実を結ばないということは子孫を残せず、この自然界において淘汰される運命にあるのが八重ヤマブキであり八重クチナシ。


    話は飛びますが、根国で出会った葦原醜男(後の大国主神)とスサノオノミコトの一人娘スセリヒメについて感じたことがありました。何故彼らに子供ができなかったのか。この世を仕切る子孫繁栄ルールからはみ出しているのが根国? 根国で出会うということは上辺だけの出会いではなそう。一か八か、その答えを知っているのがクチナシの八重? 何も聞かないし、何も言わない。花が咲いても結実しない。ただ美しい花を咲かすことだけが八重クチナシの仕事。

               

    八重ヤマブキを調べた時に知ったのが、花弁になるオシベと退化するメシベ。八重クチナシもそんな感じで、結実することより一体化することを望んでいるような・・
    根国で目合関係にあった葦原醜男がこの世に戻り大国主になれたのは、スサノオノミコトの一人娘と一体化できたことがその理由かも。子孫繁栄を中心に考える♂♀関係より、性別を超えた友情の一体化に重きを置くのが八重組。スサノオノミコトが詠んだ歌の中にもしつこく八重が繰り返されていました。    

    モーセ

    • 2010.06.26 Saturday
    • 22:23
    葦船に乗せられ流される運命を引き受けなければいけなかったのがヒルコ。何らかの社会通念(妻であるイザナミノミコトが夫をリードした)に反したことが原因で誕生したのがヒルコだったことから考えると女性が社会でリードすることは御法度?
    その後 夫イザナギノミコトが主導権を握ることで生まれた子は正常と見なされる男尊女卑話の出所は日本。しかし一度捨てられた(死んだ?)ヒルコは神(エビスとも読める蛭子)として祀られる運命も持ち合わせていました。聖書に記されたイエス・キリストにも通じる話のような気がするのですが・・

     
    日本のヒルコ同様、旧約聖書にも葦船で流された人物が登場します。その名は異国エジプトで誕生したイスラエル(ユダヤ)人“モーセ”で、赤ん坊の頃の話。イスラエル人の祖に設定されたアブラハムからイサク・ヤコブ・ヨセフと時代は下り、四代目ヨセフはエジプトで立身出世を果たし王位に継ぐ地位を手に入れていました。夢を解く能力に秀でていた彼はエジプト王の夢を解き明かしたことで奴隷から転身することになります。しかし神と約束していた乳と蜜の流れる場所とは違うエジプトで身を立てつつあったことがその後の不幸を招くことにもなるのですが・・

             
    その不幸とはエジプトに増えつつあったイスラエル人男児の殺害命令で、イスラエル人の両親の間に生まれたモーセは両親の判断でナイル川に流されることに・・ 水がしみ込まないよう施された葦船の中に寝かされた赤ん坊は両親の期待通り生き延びることになります。たまたまナイル川で水浴びをしていたエジプト王女の手で救い出されたモーセ。水から引き上げるという意味を持つモーセは成長し、その後自らエジプトを引き揚げる行動を選択しています。イスラエル人の血を受け継いでいたモーセは異国エジプトでは暮らせない? 神がアブラハムに命じたようにモーセにも“カナンに行け”という指示を出す神。

     
    “エジプトに暮らす他のイスラエルの民も引き連れ、エジプトから脱出せよ!”というのが神の意志のようで、何が何でもイスラエル人を乳と蜜の流れる場所に導きたい様子。そのリーダーとなるのが赤ん坊時代に葦船で流されたモーセ。葦船に乗せられ流されることの意味は何なのかを想像すると、自分の意志でドーコーできない状況に置かれてしまうこと。すなわち運を天に任せるしかない環境で、何とかなるのかならないのかは神次第。モーセが考えることは神の考えと同じ、そしてモーセが行動する背後に常に隠れて指示を出すのが神?

     
    モーセで一番有名な話は海が割れ、その海を歩いて渡ったこと。同じ仲間を引き連れエジプト脱出の途中、目の前にしたのが紅海。これ以上は前に進めない危機的状況のモーセを応援するのがモーセと一体化している神。紅海を前に手にしていた杖を振りかざすモーセ・・すると海が割れ陸地が出てくるんですね。干潮のタイミングとたまたま浅瀬だったことが幸いしたとしか考えられない状況で、モーセ一行はエジプト脱出を成功させることになります。

     
    ここで気になるのが杖。日本でも空海が操る杖は万能(地面に杖をさすと水が湧き出た)でした。もしかして杖が神? 杖を持たなければいけない人の状況を考えると、自分以外の誰かをヨスガに生きている雰囲気が感じられま。独立心旺盛な人とは正反対タイプで、杖がないと生きていけない人に寄り付いていくのが神かな。そうなると神に気に入られたアブラハムの子孫はすべて杖を隠している可能性が・・ 絶体絶命の瞬間にモーセが振り回したのが杖とするなら、その大切な杖を捨ててもいい覚悟で臨んだという推測も可能。杖の威力か時間的偶然か、紅海は二つに割れ出現するのが地面。日本(空海)の話と丁度反対の現象が聖書に記されているわけで、関わっているのはいずれも杖でした。

    別座敷の花

    • 2010.06.25 Friday
    • 22:18
    鎖国時代の日本(長崎出島)を訪れ、そのまま日本に居着いてしまったのがドイツ人シーボルト。紫陽花が好きだった彼はアジサイの学名に“オタクサ”という名前を申し出たそうな・・ しかし紫陽花とオタクサの縁はなく、最終的に学名になることなく今日を迎えています。オランダ人と偽ってまで日本に入国したシーボルトは遊女(楠本滝)と親しくなり、その“お滝さん”という呼び名を紫陽花の学名にしたかったらしい。そんなシーボルトの公私混同ネーミングを見抜いたのが牧野富太郎博士。自分と似ていたので分かったのかどうか・・ 牧野博士もまたスエコザサに奥さんの名前を残しています。

       

             紫陽花ってこういうこともできてしまうんだネ。

           “あなたのオソバに侍ります”・・みたいなムードで、

          隣りに生えていた馬酔木の幹を優しく包みこむ遊女風紫陽花。

                        

            紫陽花や 藪を小庭の 別座敷       芭蕉

             

       大きなガク(正妻)の色変化に負けてしまう小さなアジサイの花(側女)。

             人目を避けて通う部屋は藪に隔てられた別座敷?

    アカザの杖

    • 2010.06.24 Thursday
    • 22:14
           やどりせむ 藜(あかざ)の杖に なる日まで     芭蕉

     

             アカザとは畑地に自生するアカザ科の一年草。

          本来はシロザと呼ばれていたようで、シロザはアカザのこと。

       漢字で書くと“白藜”をシロザと読み、“藜”をアカザと読んでいます。

        赤藜とは書かず、藜という一文字の漢字でアカザと読むのが気になる。

                    

          畑の雑草であるアカザは放っておくと結構成長するようで、

         その伸びたアカザの茎が枯れると木質化して堅くなるらしい。

            この枯れたアカザの茎の部分が杖になるとのこと。

           雑草の茎が杖(ネット販売もされている)になるとは・・

              杖の役割を果たすポイントは枯れること?

     

               枯れて水分が失われると軽くなるよネ。

              その軽さが杖という道具にふさわしい感じ。

         誰かの杖になれる生き方(死に方)を願っていたのが芭蕉かな。
              誰かから誰かへのプレゼントが人生とすれば、
          アカザの杖になれた人もアカザの杖を手にした人も幸せだね。

                 
                 杖になれそうな美しいアカザの茎
       

    デカローグ 第一話

    • 2010.06.23 Wednesday
    • 22:27
                  

    旧約聖書の中で神がモーセに与えたとされる十戒をベースに脚本化したのがポーランドのキェシロフスキ監督。それぞれ独立した“10篇の話(デカローグ)”のうち、第一話のサブタイトルが“ある運命に関する話”。“あなたは私の他になにものをも神としてはならない”という十戒の言葉(一番目)も加えられています。話の中心として考えられるのがモノゴトを数値で推し測るタイプの大学講師の父とその子(パヴェル)が引き受けなければいけなくなった運命の戒め。数値を当てはめ出てくる公式の答えは机上の空論に過ぎなかったことが最後に示されます。


    ある運命といっても突然降って湧いたように起こるのが運命ではなく、
    何らかの原因があるからこそ起きるのが運命を感じさせる事故。一言も喋らず氷点下の屋外で焚き火をする人が冒頭に出てきます。燃え上がる火のシーンとともに焚き火を続ける人が何度か描写される意味深映像で思うのは、これほど寒い屋外に人が居たこと。しかも一晩中焚き火をしている様子。父は息子がスケートできるかどうかを判断するため実際に川の氷の厚さをチェックしていたにもかかわらず、亀裂は起きてしまいました。

                         


    時間的ズレが及ぼす数値は計測不能。
    人の行動パターンや心の変化はコンピューターのように画一化されておらず、賢いコンピューターがはじき出す答えは万能ではないことがこの映画で証明されています。コンピューターを駆使して家の戸締りや蛇口の開閉を仕切っていたのがパヴェルで、すべては父から学んだこと。父を敬愛し父のような生き方をしようと頑張っていた息子。しかしその一方で死という事象を深く見つめる子で、こんなこと(計測)をしても意味がない・・という思考も持ち合わせていました。

     
    母不在の家庭で父の背中だけを見て育ったパヴェルに不確かな愛というものを伝えようとしたのが信仰心の篤い叔母イレーナ。父が息子を抱き締めることはなさそうだけれど、父の姉イレーナは強くパヴェルを抱き締めていました。生きることの意味を探しているパヴェルに年長のイレーナが言った言葉が“人生とはプレゼント”。モノであったり、ココロであったり、人それぞれだとは思うけれど誰かが誰かに与えるプレゼントが生きる理由と考えていたのが弟とは正反対の姉イレーナ。男女の性の違いもあるだろうとは思うけど、数値入力に頼り過ぎると思わぬ落とし穴が・・ その落とし穴を出現させるのが神の仕事?


                 

    ほとんどのモノゴトは計測可能であることに気付いた父を真似ることで父に近付こうとする息子。チェス大会で活躍できたのも父の思考と父を真似た息子が一致団結した結果で、決められた数値を当てはめさえすれば答えが出ると思っているのが男という性? コンピューターが導き出す絶対的な裏付けがあったからこそ、凍った川でスケートをしても大丈夫という風に考えた父。しかし現実は割れないはずの氷が割れ、危険な裂け目が出現します。その事故とタイミングを合わせるかのように父が普段使っていたインクビンが割れるという異常事態が発生。


    信じる信じないに関わらず、この世に出現したのは神? 
    何度か映し出される無言の人物は相変わらず外で焚き火をしています。天気予報のデータを信じ、コンピューターの性能を信じた賢い父は目の前にいた人物を見ているようで実際は全く見ていなかったのかも。予測不可能な事故ではなく、大切なことを見落とした結果の事故だったように思います。神が人に与えるのは愛だと言っていたイレーナの言葉が今となっては切ない。


    * 監督 クシシュトフ・キェシロフスキ  * 1988年(ポーランド)作品

    * 出演 アンリク・バラノウスキ   ヴォイチェフ・クラダ


    ★ キェシロフスキ監督にしか表現できない映像は神が存在することを伝えているように感じました。

    ヤマブドウ

    • 2010.06.22 Tuesday
    • 22:19
    鎌倉時代初期に甲斐国で栽培され始めたのがヨーロッパ・ブドウ。古くから日本に自生していたヤマブドウは栽培品種のブドウとは系統を異にするブドウで、甘さより酸味の方が勝りワインなどには向かないらしい。蒜山の土産物店で目立っていたのがヤマブドウを原料にしたジャム・ジュース・ヨーグルト。ヤマブドウの香りというか、とにかく匂います。
               

       ネットで拝借したヤマブドウ。
      
    普通のブドウのように房状になっていないのが特徴で、実のなり方はバラバラ。
             
    風通しがいいので蒸れる心配はなさそうですが、

       商品化するには大変そうな感じ。

     
    日本固有の野性種という言葉に反応し、突如思い出したのが黄泉国からこの世に帰還する際のイザナギノミコトと黄泉醜女。黄泉醜女に追いかけられたイザナギノミコトが髪飾りを放り投げることで生えてきたのがブドウではなくヤマブドウ。栽培品種のブドウに比べ栄養価に富むヤマブドウは黄泉醜女の好物で、この世との分岐点(黄泉比良坂)に生えていた甘い桃の実は醜女の口には合わなかったという話。黄泉国で野性的に成長するタケノコやヤマブドウ(どちらもイザナギの髪飾りから生えた)なら頓着なく口にした醜女だったのに、イザナギノミコトが放り投げた桃(偶然生えていた)には拒否反応を示しました。

                            
    人の手で栽培される桃と対比させてヤマブドウを考えると奥山に育ち味は極めて酸っぱいのが特徴で、イザナミノミコトが管理下に置く黄泉醜女が好んで食べるフルーツとなります。もしかして自主独立できる女性たちの国が黄泉国? 人の手を煩わせることなく育つヤマブドウは野性パワーの宝庫かも。若い頃から妙に高原に惹かれていたエスマルが初めて旅した場所が信州の美ヶ原高原。開放感にあふれた高原に行くと日々の重苦しさから解き放たれる気分になるので最近は好んで高知から北を目指しています。高原育ちの山葡萄ジュースを飲んで黄泉醜女のグループに加えてもらうことにしよう。

    目指すはカナン

    • 2010.06.21 Monday
    • 22:23

    “乳と蜜の流れる場所”にたとえられた土地は楽土という意味が込められた“カナン(Canaan)”。このカナンを目指し旅立ったのがユーフラテス川流域の川下ウルに住んでいたアブラハム(元の名はアブラム)。神が仕切る聖書で神がアブラハムの子孫に与えようとしたのがカナンという約束の地。母を連想する白い乳と蜂を連想する甘い密が流れる場所をカナンと設定したのは神ってこと? 話の内容では父テラと妻サラそして甥ロトを伴う旅は難航を極め、途中の街ハランで停滞していました。
    しかし“カナンを目指せ!”という神の声に導かれ、再びカナンを目指すことになるアブラハム。 父はすでに死亡し、その後ヨルダン川の近くでロトもカナン行きを諦めることになります

     
    年老いた夫婦(アブラハムとサラ)に残された道は神と約束したカナンを目指すこと。ユーフラテス川沿いを溯る方向の土地がカナンで、夫婦は南東から北西に向かって旅を続けています。老夫婦二人きりのカナン旅。このままなら神は与えるべき子孫を失ってしまうことに気付いたようで、子供のいないアブラハム夫婦に息子イサクを与えます。しかし与えられたアブラハムには次の試練(イサクを殺すこと)が待っていました。アブラハムの精神を乱す神は約束の地に立ち入ることができる人物かどうかを試しているような・・

     
    一方、カナンを目指すのを諦めたのがアブラハムの甥。ロトの親はハランという名前・・だからハラン(波乱?)にかかわるよう神が設定していた可能性もないことはない。波乱人生の幕開けにロトが定住場所に選んだのがソドム。男色を意味するソドミーはロトが住んでいたソドムが語源で、神に破壊された町としてその名を知られるようになりました。普通ならソドムで死ぬしかなかったロト家族(妻と二人の娘)はアブラハムの配慮で何とか生き延びることができたのですが・・

     
    その後ソドムを脱出したロトの妻は後ろを振り返ったため塩の柱になり、残るは娘二人と父親だけ。三人の洞窟生活で娘の頭をよぎったのが如何にして子孫を残すか。
    子孫繁栄に重きを置いていた娘は異常な手段で妊娠。その異常な手段とは父に酒を飲ませ父と交わること。人間社会の基本は個人より家・・ そんな環境に貢献したのが名前のない姉と妹。神が破壊したソドムの町の生き残りとなったロトはモアブ人(姉の子)とアンモン人(妹の子)の父親という立場で、彼らと敵対するイスラエル人のルーツはロトの叔父アブラハム。

     
    アブラハムの孫ヤコブ(イサクの双子の弟)は神の指示でイスラエルと名乗り、ややこしい民族闘争は今も綿々と続いています。 些細な意見の食い違いで戦争にまで発展する民族闘争の主役は人で脇役も人。乳と蜜が流れる地に到着するためには相手をやっつけなければいけない・・ということは審判役の神に振り回されているようにも感じてしまう。子供がいなくても自分という個性で生きることができれば、それでいいと思うんだけどネ。日本でも海幸彦と山幸彦が対立したように、近い血縁関係にある人同士が対立する構図になっているのがこの世。この際、自分で乳と蜜を流して楽土とするのはどう?

    デデムシ

    • 2010.06.20 Sunday
    • 22:11
            本日は終日雨天で“デデムシ”にとっては喜ばしい一日。

                  コブシの葉にぶら下がり、
              
    “カタツムリ のたりのたりの 糞日かな”

           

               白い部分の真ん中に肛門らしき穴発見!

        
                   もう少し出るかも・・

        

    蛇ウンコを排泄したデデムシ(出よ出よから命名された)の食生活は健全そのもの。

            隠れていた角もピ〜ンと伸びてデトックス完了!

         排泄物付近(肛門と口は隣接している)から動こうとはせず、

                   糞のニオイを確認中?

        初めて目にしたデデムシの排泄行為はなかなかのドラマでした。

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