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- 2022.04.05 Tuesday
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鬱陶しい梅雨のジメジメから解放させてくれそうな行事がナゴシ(夏越)祓と呼ばれる祓い。祓う必要があるのは大抵が罪や穢れで、ナゴシを祓うとはどういうことか。茅の輪を抜けるだけで心身ともに清められるとは思えないですが、その輪抜け行為(行事)は全国的に奨励されています。“水無月祓”とも呼ばれるこの行事は一年の真ん中(折り返し地点)に設定され、その輪(繰り返される一年?)を抜ければ祓い清められるというもの。
また京都の方では水無月という氷に見立てた三角形の和菓子を食べる習慣があるようで、カビ対策は尖った氷。流れる水を凍らせると氷。モノの腐敗原因の一つが水で、氷はむしろモノを保つことができる。カビ臭くならないための手段は尖ることと冷たいこと。水が多い水無月最終日(一年の折り返し日)に開催されるナゴシ祓とはもしかして和し祓?
∞(無限)という形を描くようにして回ります。
目指す方向が違う男女は無限にクロスするだけで、和しムードは祓われる?
第一話では冷静な頭脳で判断する男(父親)が表現されていましたが、第二話の中心人物は何やら思いつめた雰囲気の女性ドロタ。サブタイトルは“ある選択に関する話”で、思いつめた彼女のある選択が夫の生死に影響しているように感じました。ドロタは同じアパートメントに一人で暮らす老医師と話がしたいようで廊下で彼を待ち続けています。情緒不安定な様子のドロタは煙草を吸いながら彼を待ち続けますが、老医師は相手にしない。それでもしつこく老医師にまとわりつく彼女は現在妊娠中。
彼女の夫アンジェイは老医師が勤務していた病院の患者で、ドロタは夫の病状がこれからどうなるのか知りたくて老医師にまとわりついています。その理由はお腹の子が夫の子ではないというのが主な理由かも。“二人の男(旦那と不倫相手)を自分は同時に愛してしまった”とか何とか・・都合いいドロタの発言を聞くことになるのがアンジェイの担当医。先のことを心配するドロタに対し、自分としてはできる限りの治療を施すだけで先のことは分からないという立場の老医師。しかし彼は最後にその考えを翻しています。
思いつめるタイプの彼女は切羽詰まったようにこんな言葉をぶつけています。“もし夫が生き延びるならお腹の子を堕胎しなければいけない。しかし夫が死ぬならお腹の子(愛人の子)を産みたい。” 死にかけている夫とこれから生まれる我が子を天秤にかけているような発言で、自己中ドロタの身勝手さが判明。しかし先のことは分からないという判断を下していたアンジェイの担当医が最後に宣告したのは“あなたの夫は死ぬだろう”ということ。
その宣告が下される前、ドロタはある決断をしていました。夫が死んでも助かっても彼女は堕胎する決意で、すべてを失ってもいいという覚悟の現れだったようにも感じます。二人の男を同時に愛してしまった板挟みに苦しむドロタの決断はすべてを御破算にすること。思いつめた彼女の選択は至ってシンプルでキレイ。過去に執着していると前に進めないことに気付いた彼女が優先させたのは自分? 御都合主義的行動でウロウロしていた彼女ですが、最後までウロウロしているだけではなかったのが最上階に住むドロタ。
何度か象徴的に出てくるのがアンジェイの病室の水漏れ。滴り落ちる水滴(実際の描写ではなくアンジェイが感じている水漏れ?)は何を意味するのか。前半に比べ後半の水漏れ速度のほうがが速く、水が漏れている状態は心地いいものではなかった。
しかも溜まった水はサビ色で曰くありげな理解不能の映像と音響。さらにこの映画には理解不能の結末が用意されています。
“今から堕胎しに行く”と言うドロタに対し“やめなさい”と言う医師。先のことはワカランと言っていた医師が此の期に及んで“助からん”と誓って明言しています。その後しばしの暗転時間が挟まれ元気になったアンジェイが医師の部屋をノックし、それほど驚きもせず彼を招き入れるアンジェイの担当医。ドロタに明言していたあの発言は嘘だったのか、あるいは予期せぬ奇跡が起こったのか。
まあ元気になったのはヨカッタけれど、アンジェイが回復することをすでに見抜いていた老医師の矛盾する発言はどういうこと?“あなたはあなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない”という十戒とどう結びつくのか理解できなかったです。最後は『こんなことあり?』というキツネにつままれたような感じで、この世の不思議をまた一つ垣間見たようなモヤモヤした映画の終り方でした。自分だけが信じる自分だけの神を信じていた老医師の選択でアンジェイは助かったのか、あるいは彼の妻ドロタの御破算選択が功を奏したのか・・何とも複雑!
* 監督 クシシュロフ・キェシロフスキ * 1988年 作品
* 出演 クリスティナ・ヤンダ アレクサンデル・バルディーニ
★ 音楽家のドロタは悪女なのか聖女なのか。
自分の思う色に染めたいのがこの歌(古今和歌集)の作者。その思いを成就させるため必要だったのが耳成山のクチナシかな。日本伝統色の一つに選ばれている“梔子(どうしてこんな漢字?)色”とはクチナシの果実で染められた色のことで、“謂わぬ色(言わぬ色)”という別名も持ち合わせています。都合の悪いことは言ってほしくない・・ だから口無しがいい?
ここのへに あらで八重咲く 山吹の いはぬ色をば 知る人ぞなし 円融天皇
花は咲いても実がならないことで知られる八重ヤマブキとクチナシの関係は如何に・・ クチナシも八重と一重があり、ヤマブキの八重と同じようにクチナシの八重もまた花が咲いても実を結ばない。実を結ばないということは子孫を残せず、この自然界において淘汰される運命にあるのが八重ヤマブキであり八重クチナシ。
話は飛びますが、根国で出会った葦原醜男(後の大国主神)とスサノオノミコトの一人娘スセリヒメについて
その不幸とはエジプトに増えつつあったイスラエル人男児の殺害命令で、イスラエル人の両親の間に生まれたモーセは両親の判断でナイル川に流されることに・・ 水がしみ込まないよう施された葦船の中に寝かされた赤ん坊は両親の期待通り生き延びることになります。たまたまナイル川で水浴びをしていたエジプト王女の手で救い出されたモーセ。水から引き上げるという意味を持つモーセは成長し、その後自らエジプトを引き揚げる行動を選択しています。イスラエル人の血を受け継いでいたモーセは異国エジプトでは暮らせない? 神がアブラハムに命じたようにモーセにも“カナンに行け”という指示を出す神。
紫陽花ってこういうこともできてしまうんだネ。
“あなたのオソバに侍ります”・・みたいなムードで、
隣りに生えていた馬酔木の幹を優しく包みこむ遊女風紫陽花。
紫陽花や 藪を小庭の 別座敷 芭蕉
大きなガク(正妻)の色変化に負けてしまう小さなアジサイの花(側女)。
人目を避けて通う部屋は藪に隔てられた別座敷?
アカザとは畑地に自生するアカザ科の一年草。
本来はシロザと呼ばれていたようで、シロザはアカザのこと。
漢字で書くと“白藜”をシロザと読み、“藜”をアカザと読んでいます。
赤藜とは書かず、藜という一文字の漢字でアカザと読むのが気になる。
畑の雑草であるアカザは放っておくと結構成長するようで、
その伸びたアカザの茎が枯れると木質化して堅くなるらしい。
この枯れたアカザの茎の部分が杖になるとのこと。
雑草の茎が杖(ネット販売もされている)になるとは・・
杖の役割を果たすポイントは枯れること?
枯れて水分が失われると軽くなるよネ。
その軽さが杖という道具にふさわしい感じ。
誰かの杖になれる生き方(死に方)を願っていたのが芭蕉かな。
誰かから誰かへのプレゼントが人生とすれば、
アカザの杖になれた人もアカザの杖を手にした人も幸せだね。
杖になれそうな美しいアカザの茎
旧約聖書の中で神がモーセに与えたとされる十戒をベースに脚本化したのがポーランドのキェシロフスキ監督。それぞれ独立した“10篇の話(デカローグ)”のうち、第一話のサブタイトルが“ある運命に関する話”。“あなたは私の他になにものをも神としてはならない”という十戒の言葉(一番目)も加えられています。話の中心として考えられるのがモノゴトを数値で推し測るタイプの大学講師の父とその子(パヴェル)が引き受けなければいけなくなった運命の戒め。数値を当てはめ出てくる公式の答えは机上の空論に過ぎなかったことが最後に示されます。
ある運命といっても突然降って湧いたように起こるのが運命ではなく、何らかの原因があるからこそ起きるのが運命を感じさせる事故。一言も喋らず氷点下の屋外で焚き火をする人が冒頭に出てきます。燃え上がる火のシーンとともに焚き火を続ける人が何度か描写される意味深映像で思うのは、これほど寒い屋外に人が居たこと。しかも一晩中焚き火をしている様子。父は息子がスケートできるかどうかを判断するため実際に川の氷の厚さをチェックしていたにもかかわらず、亀裂は起きてしまいました。
時間的ズレが及ぼす数値は計測不能。人の行動パターンや心の変化はコンピューターのように画一化されておらず、賢いコンピューターがはじき出す答えは万能ではないことがこの映画で証明されています。コンピューターを駆使して家の戸締りや蛇口の開閉を仕切っていたのがパヴェルで、すべては父から学んだこと。父を敬愛し父のような生き方をしようと頑張っていた息子。しかしその一方で死という事象を深く見つめる子で、こんなこと(計測)をしても意味がない・・という思考も持ち合わせていました。
ほとんどのモノゴトは計測可能であることに気付いた父を真似ることで父に近付こうとする息子。チェス大会で活躍できたのも父の思考と父を真似た息子が一致団結した結果で、決められた数値を当てはめさえすれば答えが出ると思っているのが男という性? コンピューターが導き出す絶対的な裏付けがあったからこそ、凍った川でスケートをしても大丈夫という風に考えた父。しかし現実は割れないはずの氷が割れ、危険な裂け目が出現します。その事故とタイミングを合わせるかのように父が普段使っていたインクビンが割れるという異常事態が発生。
信じる信じないに関わらず、この世に出現したのは神? 何度か映し出される無言の人物は相変わらず外で焚き火をしています。天気予報のデータを信じ、コンピューターの性能を信じた賢い父は目の前にいた人物を見ているようで実際は全く見ていなかったのかも。予測不可能な事故ではなく、大切なことを見落とした結果の事故だったように思います。神が人に与えるのは愛だと言っていたイレーナの言葉が今となっては切ない。
* 監督 クシシュトフ・キェシロフスキ * 1988年(ポーランド)作品
* 出演 アンリク・バラノウスキ ヴォイチェフ・クラダ
★ キェシロフスキ監督にしか表現できない映像は神が存在することを伝えているように感じました。
ネットで拝借したヤマブドウ。
普通のブドウのように房状になっていないのが特徴で、実のなり方はバラバラ。
風通しがいいので蒸れる心配はなさそうですが、
商品化するには大変そうな感じ。
人の手で栽培される桃と対比させてヤマブドウを考えると奥山に育ち味は極めて酸っぱいのが特徴で、イザナミノミコトが管理下に置く黄泉醜女が好んで食べるフルーツとなります。もしかして自主独立できる女性たちの国が黄泉国? 人の手を煩わせることなく育つヤマブドウは野性パワーの宝庫かも。若い頃から妙に高原に惹かれていたエスマルが初めて旅した場所が信州の美ヶ原高原。開放感にあふれた高原に行くと日々の重苦しさから解き放たれる気分になるので最近は好んで高知から北を目指しています。高原育ちの山葡萄ジュースを飲んで黄泉醜女のグループに加えてもらうことにしよう。
“乳と蜜の流れる場所”にたとえられた土地は楽土という意味が込められた“カナン(Canaan)”。このカナンを目指し旅立ったのがユーフラテス川流域の川下ウルに住んでいたアブラハム(元の名はアブラム)。神が仕切る聖書で神がアブラハムの子孫に与えようとしたのがカナンという約束の地。母を連想する白い乳と蜂を連想する甘い密が流れる場所をカナンと設定したのは神ってこと? 話の内容では父テラと妻サラそして甥ロトを伴う旅は難航を極め、途中の街ハランで停滞していました。
しかし“カナンを目指せ!”という神の声に導かれ、再びカナンを目指すことになるアブラハム。 父はすでに死亡し、その後ヨルダン川の近くでロトもカナン行きを諦めることになります
子孫繁栄に重きを置いていた娘は異常な手段で妊娠。その異常な手段とは父に酒を飲ませ父と交わること。人間社会の基本は個人より家・・ そんな環境に貢献したのが名前のない姉と妹。神が破壊したソドムの町の生き残りとなったロトはモアブ人(姉の子)とアンモン人(妹の子)の父親という立場で、彼らと敵対するイスラエル人のルーツはロトの叔父アブラハム。
コブシの葉にぶら下がり、
“カタツムリ のたりのたりの 糞日かな”
白い部分の真ん中に肛門らしき穴発見!
もう少し出るかも・・
蛇ウンコを排泄したデデムシ(出よ出よから命名された)の食生活は健全そのもの。
隠れていた角もピ〜ンと伸びてデトックス完了!
排泄物付近(肛門と口は隣接している)から動こうとはせず、
糞のニオイを確認中?
初めて目にしたデデムシの排泄行為はなかなかのドラマでした。