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- 2022.04.05 Tuesday
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テンドウムシと濁って読んでしまいそうですが、正しくはテントウムシ。
天道虫の道は濁っていないということかな。
変な表情で写ってしまったこの虫がテントウムシ。
左右に白い目らしきものがあり、裂けた口から舌のようなものが・・
しかし実際は頭隠して尻隠さずのテントウムシで、見えているのは尻のほう。
太陽に向かって飛んでいく雰囲気は全くなく、
行き止まりになった茎の間で死んだように動かない。
普段は草などの間でゴソゴソしている天道虫ですが、
余りにジッとして動かないので眠っているのか死んでいるのかが気になり、
指で突っついてみました。
すると飛ぶどころか死んだフリ。
強い刺激を受けると偽死を装うのがテントウムシの特性のようで、
以前もこのようなテントウムシに遭遇したことがあります。
今回もまた微動だにせず、死んだフリの天道虫。
突っついても動かないと突っつく側もそれ以上突っつかない。
突っつかれてジタバタすると余計な煩わしさが発生する可能性があり、
そんな煩わしさを避けるための手段が天道虫の死んだフリ
太陽を目指すには天道虫のように死んだフリが上手でなければいけないのかも。
お天道様は動かない、天道虫も動かない、そして人間は動く!動く!動く!
さまざまの 事おもひ出す 桜哉 芭蕉
何かが終ると同時に新たな事が始まる節目の時が桜の季節で、芭蕉が詠んださまざまの事の背景にあるのが桜。咲く桜あるいは散る桜・・ 時期が接近しているだけに桜を楽しむ時期は短いと思っていたけれど、今年は“咲く”と“散る”の間が空いて今まで体験したことのない間延び桜を楽しめます。
蒜山高原で見つけた桜の蕾。
根元の美しさは季節外れの寒気のおかげかな。
さらに本名より別名の方が広く流布してしまったことから考えると、火中出産で三人の男の子を誕生させたことが名前に影響しているのでは・・ 桜が咲く美しさと同時に散る潔さを兼ね備えていたコノハナサクヤヒメは日本人好みの散り際の美しさを担っていました。芙蓉峰とも呼ばれる富士山の美しい山容にピッタリの出産を果たしたコノハナサクヤヒメ。彼女の居場所はやはり日本一の高さを誇る富士山を神体とする富士山本宮浅間神社がふさわしい。
あしひきの 山の間照らす 桜花 この春雨に 散り行かむかも 作者未詳
山の間を照らす桜花は山桜。近付いて見ることができないのが山桜の特徴で、人に見られようが見られなかろうが関係なく咲いて散るのが桜。スサノオノミコトとクシナダヒメの間に生まれた八島士奴美神に嫁いだのがコナハナチルヒメ。咲く桜を表現したコナハナサクヤヒメと散る桜の美しさを愛でたコナハナチルヒメはもしかして同一人物? 両者とも大山祇神の娘だったことを思い出すと地上と根国の呼び名が違うだけで原点は同じ。束の間の時を燃焼させ咲いて散る桜を象徴するのは女性であることは間違いない。女を疑いの目で見ることしか知らなかったニニギノミコトの曇った目をクリアにしたコナハナサクヤヒメに拍手!
桜ん坊 小さな実の中 種子ひとつ
神武天皇が難波(浪速)から南東に迂回して上陸した地として有名な場所が熊野。
その熊野地域を中心に栄えた熊野信仰の神木とされているのがマキ科のナギで葉に特徴があります。肉厚で光沢のあるナギの葉の葉脈は写真のように平行脈になっていて、真ん中に大きな筋(一般に多い葉脈)はありません。海に突き出た紀伊半島に連なる熊野の山々は神が宿る神聖な地で、その熊野を代表する木が個性的な葉を有するナギ。定家が歌に詠んだように“熊野の宮”と“なぎの葉”の縁は深い。
イザナギノミコト(男神)を連想するナギ(凪)に逆らうのがナミ(波)のイザナミノミコト(女神)。神話ではナギとナミの男女神で日本国を初め多くの島や神々を誕生させました。何かを生み出すにはナギに対立するナミが必要なようで、ナギだけでは何も生まれない。しかし多くのモノを生み出した対立型の男女は最終的に喧嘩別れ。ナギ&ナミ夫婦は時間とともに住む世界を異にする方向に向かっていきます。
多くのモノを生み出しても最後は別々というのはチョット寂しいよネ。変らぬ千代を求めるなら夫婦二人がナギになる必要があるのかも。
神武天皇が日本の建国者になれた大きな要因は熊野とナギの関係を知っていたからかな。熊野はユヤとも読める言葉・・ 波のような心境でユヤに入ろうとは思わない。
ということでナギ好きの熊野神に合わせることができたのが神武天皇? 変わらぬ千代に向かうためにはやはりナギ&ナギでなければいけない。
幸せは いつも穏やか なぎとなぎ
女の稼ぎを当てに自分は仕事もせずノラリクラリの気まま生活を求める男のことを髪結いの亭主と呼び、少年時代から女に養ってもらう男(女のヒモ)に憧れを抱いていたのが主人公アントワーヌ。彼の趣味はアラブ音楽に合わせて踊る自己流ダンス。“女を養うのは男の仕事”という固定観念にとらわれず、自分の道を邁進したアントワーヌ。少年時代からズ〜ッと彼の心を占めていたのが豊満な理髪師の手による洗髪の際に感じる恍惚感で、女性のニオイが大好きだったアントワーヌ少年はイイオッサンになっても相変わらずの夢を見続けていました。ママのオッパイを恋しがる少年から脱皮できないまま大人になってしまった彼の落ち着ける場所は豊満な乳房の谷間しかないようで、女を養うことより女に面倒を見てもらうことこそ男の甲斐性と考えているのがアントワーヌ?
そんな変態タイプに属する彼の嗜好に応えようとしたのが美人理髪師マチルド。彼女の仕事中も見張り役のようにベッタリとくっ付き、早々に店を閉めて二人がするのが店内セックス。仕事より旅行より何より優先させているのが場所も時間も無視した二人だけの世界で、実際は現実逃避。二人の愛情表現の一つなんだろうと思うけれど、アントワーヌを旦那にしたマチルドも愛に偏り過ぎ! 愛ってこんなに息が詰まるもの?という沈滞化した空気のせいか観ていて結構疲れる。もっと爽やかな愛はないのか、爽やかなならそれは愛とは呼ばないのか。愛を模索すればするほど奥深い迷路をさ迷い続けることにもなりそうで、危険覚悟で臨まなければいけないのが愛の世界。
ルコント監督がこの映画で描きたかったのは他者が入り込めない、あるいは他者に入り込ませない絶対的な男女の愛? そんな愛の世界に溺れてしまうと現実を生きるのが難しくなってしまいそう。換気扇のない部屋で二酸化炭素が充満し、新鮮な酸素を供給できないまま窒息死してしまいそうな二人。しかしそれをヨシとしていたのがマチルドとアントワーヌ。“愛してるフリだけは絶対しないで!”というマチルドの言葉を受け止めていたアントワーヌですが、他者の侵入を拒む二人の愛は彼らだけが酔っているようで退廃的ムードが漂っています。退廃の対極に位置する健全な愛(愛は元々不健全)はこの世には存在しないと言わんばかりの結末で愛の成就はコレしかないの?
マチルドの先の言葉(フリはしないで!)や思い詰めた結果の結末から想像すると、彼女の真剣な愛を過去に引き裂いた男がいたように感じる。男に裏切られ愛に飢えていたのはマチルドの方で、アントワーヌはどちらかというとオッパイが好きなだけかな。男の愛が消える前に自ら命を絶つことで二人の愛を永遠のものにしようとしたマチルドの心の奥底にあったのは仕事より金より男の愛? 移り気な男の愛を求めたところでロクなことにはならないと知っていたのは多分マチルド。だからこそ何も知らないアントワーヌを受け容れることができたのでは・・
過去の辛い記憶(幼い頃の写真は一枚もないという彼女の言葉があった)を消すためアントワーヌをヒモにしたマチルドの心を思うと切ない。こうなるとヒモという存在も結構タイヘン! 女を精神的にも肉体的にも喜ばせることがヒモの大きな務めで、場所をわきまえず(彼女の仕事中)にマチルドを熱くさせるアントワーヌは立派に職務を果たしていました。客の洗髪をしているマチルドに近付き彼女をイイ気持ちにさせることができたアントワーヌ。彼女のその快感が客に伝わってしまうのか、ルコント監督の演出が際立つ恍惚的表情の客にはニンマリしてしまう。現実逃避を感じさせる二人の不健全セックスは健全を求める社会のなかで居場所を見つけるのはやはり難しい。
ビリー・ワイルダーが監督したヒモ映画で思い出すのがジャック・レモンとシャーリー・マクレーン共演の“あなただけ今晩は”。自分のカラダを売って男に金を貢ぐ女性の話でしたが、フランスとアメリカではヒモに関する考え方が違うようで深刻なのはブツブツ言わないフランス女性。ブツブツ女性なら初めから愛を追求することはないと思うけれど、マチルドはいつも寡黙でアントワーヌと過ごす時間を大切にしていました。彼のほうも豊満な乳房が目当てなので一応仲良くやっていますが、時間に流され淘汰される危険性を秘めているのが実体のない愛。実体のないものを実体として示したのが最後のマチルドの瞬間的行動でした。
彼女がしたためていた手紙で彼女の真意が明かされます。“あなたが死んだり私に飽きる前に死ぬわ 優しさだけが残ってもそれでは満足できない 不幸より死を選ぶの・・・ 愛してたの あなただけを 永遠に忘れないで“ 愛を真正面から見つめたマチルドの愛に対する姿勢は純粋過ぎるが故に自分にも相手にも厳しいものでした。永遠でなくても純粋でなくてもいいから、そよ風のように頬をなでる爽やかな愛はないものか。マチルドなら優しさだけが残った愛のフリと言うかもしれないけれど、愛してるフリでもイイカナという気持ちに至った映画。
* 監督 パトリス・ルコント * 1990年(仏)作品
* 出演 ジャン・ロシュホール アンナ・ガリエナ
★ 自国のシャンソンよりアラブ音楽に興味を示したアントワーヌは痩せた女性より豊満な女性(肉体?)が好きでした。
氷の世界でも成長しようとするタフなチカラ。
ヒルゼン(昼前)で見つけた新芽は朝を迎えました。
さらにヤヤコシイことに常緑高木の“ウドの木”というのがあり、こちらは間違いなく幹から枝を伸ばす木。材が白く柔らかいウドの木(熱帯産)は用材に役立たたず、そんな理由で引き合いに出されたのがウド。役に立たないことの代名詞がウドのようで、役に立つことがそんなに大事? ウドの異称として“ドッカツ(独活)”という名前も持ち合わせているウドは人に役立たずと言われようが婚活ならぬ独活を邁進中。独活がドッカと落ち着いて暮らせる場所がドッカにないものか。
一桁台の天皇から二桁台の天皇に移行した途端、世の中は乱れ始めます。飢饉で餓死する者、あるいは社会に蔓延したウィルスで病死する者など民衆の多くが失われる悲劇が起こったのが九代目(開化天皇)の次の代を担った崇神天皇の頃。生きるのが辛くなりそうな乱れた社会情勢に対し謀反を企てる者まで横行する始末。こんな世の中・・誰がした? ということで統治者・崇神天皇は神と向き合います。向き合ったのが崇神天皇の夢枕に立った大物主神。 大物主神曰く“こんな世の中にしたのはワシじゃ。真っ当な世の中を望むのなら、ワシの子である大田田根子を見つけてワシを祀らせろ!”
子育観音に底なし柄杓とはコレ如何に?
水を溜めることができない・・すなわち水がないので水臭くならない。
ベンジャミン・バトンを監督したデヴィッド・フィンチャー作品という理由で鑑賞した映画。ズバリ!自分とは合わない映画で疲れました。次々に起こる汚い殺人事件の映像は薄暗くて分かりにくいしキリスト教世界の7つの大罪をテーマした説教がましい犯人の言葉も鼻につく。好きな映画ではない・・というより嫌いな映画なんだけれど強烈なナニカを残す映画でもありました。そのナニカとはラストでサマセット刑事がヘミングウェイの文章から拝借して呟いたこの言葉に凝縮されています。
“『人生はすばらしい。この世は戦う価値がある。』・・・後の部分は賛成だ”
六日後に定年を控えたサマセット刑事を演じたのが渋い口調のモーガン・フリーマン。殺人者に翻弄される内容のこの映画で最後まで平常心を失わなかった老齢刑事とコンビを組んだのが新たな勤務地としてこの街に赴任してきたミルズ刑事。ブラッド・ピット扮する若いミルズ刑事は沈着冷静なサマセットとは対照的で、血気盛んなドタバタ刑事。そんな二人が対峙することになる殺人事件の奥は深く、ラスト(憤怒)への導き方は異常で残酷! その憤怒のカードを犯人に突き付けられるのがミルズ刑事で、何とも救いようのない結末・・だからこそこの世は戦う価値がある?
キリスト教世界で大罪とされた7つの罪とは大食い・強欲・怠惰・傲慢・嫉妬・肉欲そして怒り。犯人が設定したラッキーゼブンであるはずの7番目の怒りを爆発させたのが犯人に目を付けられたミルズ刑事。犯人が敢えてミルズの怒りを爆発させるように誘導する気分の悪い展開で、この現実に直面して怒りを感じなければ人間とはいえないように思う。そんな不快な7番目の罪に誘導したのがケヴィン・スペイシー扮する猟奇殺人の張本人ジョン・ドゥ。“自分は神に選ばれた男だ!”などとほざくジョン・ドゥは冷静に計画殺人を遂行することができました。神の存在を忘れた人間に神を思い出させる・・とか何とか言って不快極まりない暴言を吐く異端者ですが、7つの大罪を計画するのに多くの難しい本を図書館で借りる緻密な頭脳も持ち合わせていました。
人は罪があるからこそこの世に生きている(生かされて)いる訳で、この世を構成しているのは罪のある人々。何らかの罪を背負って誕生した生命に神の意志が加わっているとするなら、この世の悪に対決することは可能なはず。しかし現実的には自分が生きていくだけで精一杯。そんな社会を象徴するかのように、人生経験豊かなサマセットはこんな言葉をミルズに投げかけていました。「レイプされた時は“火事だ〜!”と叫ばないといけない。“助けて〜”だけでは誰も来てくれないから」
多くの事件に関わったサマセットならではの考え方。救いようのない社会で戦い続けた独身の彼は、せめて定年後の人生は静かに暮らしたいと思っていました。
映画の山場は何といっても多くの送電線が張り巡らされた鉄塔が立ち並ぶ荒野。7つの大罪のうち残り二つ(嫉妬・怒り)を残して自首してきた犯人ジョン・ドゥの意図は何なのか。すばらしい結末が用意されている・・とミルズに語るジョン・ドゥは自分の世界に酔っているようにも感じます。彼が計画したという残り二つの遺体現場に直行する車の中で多くを喋り続ける犯人・・そしてその相手をするのがミルズ。ハンドルを握っているのがサマセットで、犯人の言葉を聴いているだけの無口なサマセット。ミルズの妻トレイシーがサマセットに悩みを打ち明ける気になったのは彼のこの無口さが原因しているような・・ 穏やかな生活を望んでいた彼女は仕事に打ち込む夫を愛してはいたけれど、夫が赴任したこの街を嫌っていました。
そんな彼女の秘密を知っていたのがサマセット、そしてもう一人知ることになるのが陰湿なジョン・ドゥ。ラストの異常な展開で当初感じていたのは犯人がミルズを怒りの罪に陥れるために仕組んだ罠だと・・ 箱の中身は偽物で犯人が自分を撃たせるために嘘を言っているのでは・・と想像していたけれど、サマセットの表情から事実を感じ取ったミルズは当然のことながら犯人を射殺。犯人の計画通り7つの大罪ストーリーは完結してしまうという救いようのない終り方で、サマセットの存在があったからこそ何とか鑑賞できた不快度パンパンの映画。その不快さ故に悪に立ち向かう人が生まれる可能性を秘めた映画だったともいえるかな。
* 監督 デヴィッド・フィンチャー * 1995年(米)作品
* 出演 ブラッド・ピット モーガン・フリーマン グウィネス・パルトロウ
★ “人生はすばらしい”と感じることができる瞬間に出会えた人は素晴らしい。
この花の魅力は何といっても実を思わせる房状に垂れる小花の咲き具合とその美しい色合い。花に先立ち出現する葉は茎が伸びる前にヒョロヒョロのまま地面にへたれこんでいる始末。葉より花を支える茎の方がむしろシッカリしている感じで、ダラシネームスカリの葉。
横にダランとなる葉と真っ直ぐに立ち上がる茎。
ムスカリの 持ちつ持たれつ 花と茎 目線はいつも カワイイほう