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- 2022.04.05 Tuesday
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そばにあるものなら何にでも絡まっていくクネクネ型の蔓性エンドウ(豌豆)とは
違って真っ直ぐシャキッと立ち上がるのがクウドウとも読めるソラマメ(空豆)。
エンドウは垂れるサヤ・・しかしソラマメはサヤを空に突き上げます。
それでソラマメは空豆と呼ばれるようになりました。
ソラマメ観察で意外だったのがクネクネしない茎。
そら〜空を目指す空豆なのでクネクネしないのは納得だけれど、
茎は丸いという一般認識を覆したのが四角い茎のソラマメ。
しかもこの特殊な茎の中は空洞になっています。
クウドウと読むことができる“空豆”の茎はクウドウだった!
さらに特殊なのが死を連想させる白に黒という花弁。
そしてソラマメの実は他の豆のようにコロコロ転がりません。
茎も花弁も実もすべてが特殊な感じのソラマメ。
ソラマメや 君の故郷 どこなんや エスマル
からたちの 茨刈り除け 倉建てむ 屎遠くまれ 櫛造る刀自 忌部首
“櫛造り姉さん(刀自)よ! 屎をするならずっと向こうでしてくれないかな。
カラタチの茨を全部刈って倉を建てたいので
くれぐれもクソはココでしないでくれよな。”
うき人を 枳殻垣より くぐらせむ 芭蕉
舞台は1899年のパリ。19世紀末にはこの映画で主要な役割を果たすロートレックを初め多くの著名な画家(ゴッホ・ゴーギャン・ルノワール)が誕生します。芸術の都と称されたパリで一番高い場所になっているのがモンマルトルの丘。歓楽街となっていたモンマルトルの丘の上に立つムーラン・ルージュ(ナイトクラブ)で繰り広げられるのがハイテンションのイケイケダンス。カンカンカン アアッ〜 カンカンカン アアッ〜という喧騒と熱気に満ち溢れたリズムの中から登場するのがニコール・キッドマン扮するサティーン。
大スターに金持ち公爵と間違われた彼が重視するのは金ではなく愛し合う男女の強い絆。恋愛重視の彼が書く本のテーマは“人が知るこの世で最高の幸せ・・それは誰かを愛し、そしてその人から愛されること”。しかし金があって成り立つのが愛情だと主張するのがサティーン。愛か金か・・となった場合、取りあえず生きるには金が必要で愛を優先するには障害が多すぎるのがこの世。そんなこの世にあって愛を優先したのが夢見る作家クリスチャン。
庶民が暮らす下界を見下ろすようにして立つ歓楽街の象徴は赤い風車(フランス語でムーラン・ルージュ)。 オープニングのカメラは下界の路地を潜り抜け、猛スピードでその赤い風車のある丘に向かいます。しかも意図的セット丸出しで、これはツクリモノ!を強調するように速いテンポで切り替わる映像。途中で観るのを止めようと思ったぐらい落ち着きがなくセワシイ。ムーラン・ルージュってこんな映画だったの?・・とトロトロしている間にスピード感はドンドン増し、どうしてみんなこんなに忙しそうなの?・・とぼんやり考えているうちにフレンチ・カンカンが始まり、赤い緞帳の向こうを最後まで覗き続けることになりました。
ダイアモンドの輝きしか信じなかったサティーンがクリスチャン(彼が作った詩)と出会い娼婦の立場を越えて本気になっていく内容で、その娼婦の本気というのが大層難しい。しかもサティーンの肉体は病魔に侵され、死が間近に迫っていました。そこでサティーンが選択した本気はクリスチャンに“愛してはいない”と嘘を言って彼を自分から遠ざけようとしたこと。その言葉を鵜呑みにしたクリスチャンはショックを抱え込んだまま開演中の舞台に乗り込んでいくのが後半の山場。「借りを返しに来た」とか言いながら金を叩きつける結構しつこいクリスチャン。サティーンを独占しようとする公爵の指示で拳銃の引き金がクリスチャンに向け引かれようとしていた丁度その時、応援するのが彼の上の部屋にいたボヘミアンな野郎たち。
しかし愛を追い求め自分も愛されることを求めたクリスチャンの殺人指示は終了しておらず、舞台の上のクリスチャンは拳銃で狙われ続けます。ラストの主役は拳銃でこの拳銃に注目して観るとかなり笑える仕上がり。何度も命拾いしたクリスチャンはサティーンとの出会いから別れ、そして本気の愛を文字に託します。彼にとって最高の幸せは誰かを愛し、その人から愛されること以外は頭になかったような感じ。そんな彼の極端に偏った思い込みが鍵のかかった愛の扉を開けました。
* 監督 バズ・ラーマン * 2001年(米・豪)作品
* 出演 ユアン・マクレガー ニコール・キッッドマン
★ 役者たちのオーストラリア訛りを感じる英語はオーストラリア出身バズ・ラーマン監督の意図的演出?
ハラハラ風に舞って散る桜とは異なり、オシベ・メシベも花弁もガクも一緒にポテリと落ちるのが椿。風の中で舞うことができるような軽さではないので散るというより落ちるという言葉の方がふさわしく、それほど枯れていないのに潔く枝から離れるのが椿の特性。まず枝にくっ付いて咲き、今度は地面に落ちて(上向き)咲くという風にも感じます。ツバキという花本来が求めている咲き方はもしかして根のそばで咲くこと? 花が根元に咲くことは普通考えられないけれど、椿の場合は根元に落ちてこそ椿?
海よりの使者からもらった人魚の肉をたまたま食べてしまったことで不老長寿の命を授かり、周囲のみんなは死んでいくのに自分だけ若さを保ち続けることになった特殊な女性。羨ましいような状況に置かれた彼女ですが、八百年も生きるとやはりこの世にも飽きるはず。たとえ若さを維持することができても周囲の人たちはドンドン死んでいくし、終りがない(永遠)人生も大変そう。そんな彼女が全国行脚で植えて回ったのがつらつら椿。
第二・第三の家族を持っても800年も生きれば誰が誰やら分からないと思うし、目まぐるしく変わる人々との出会いと別れがズ〜ット続くとすれば永遠も考えもの。そんな心境を椿に託したのか、彼女が訪れた場所には椿の木が生えているという。高知県で有名な椿の群生地は足を引きずりながらヤットの想いでたどり着いたことで名付けられた足摺岬。海の向こうにある楽園を目指し陸地をアトにした(補陀落渡海)人たちの辛い心情と椿の花が枝から離れる潔さは似ているように思う。
赤い椿 白い椿と 落ちにけり 河東碧梧桐
ヤブツバキ 我に任せよ 落ち方は エスマル
バッと春は明日も続くようで、
バッと花だけならいんだけれどバッと虫も同時に進行するのが自然の鉄則。
バッと春 イタイ暑さに 刺されけり エスマル
以前からカヤの木を実際に見たいと思っていました。その理由はカヤという名前の響きが好きだったこととカヤの木の奇妙な漢字“榧”が気になっていたこと。
他の樹木に比べ極めて成長が遅いことで知られる“榧”。四国霊場67番札所“大興寺(小松尾寺とも)”の山門を通り抜けすぐに出会うのがこの木。幹の太さは1200年も経過しているとは思えないほどスリムでヒョロヒョロした高さが印象的。
そしてこの木の少し奥辺り(正面の階段を上った所)に生えているのがクスノキ。空海がカヤと同じタイミングで植えたクスノキは1200年という時を経てこのような巨木になりました。この二つの木を目の前にすればカヤの木の成長の遅さは一目瞭然。
気になったのがカヤの樹皮の痛々しそうな裂け方。自助能力に優れているはずの樹木なのにカヤの場合は傷を塞ぎ切れていない様子。
カヤの材は芳香があり緻密で堅く斧などで素直に割れてしまう(矛盾)らしい。素直に考えると緻密で堅い材質は割れにくいように感じますが、成長に時間がかかるカヤは割れやすい? また湿気に強い材質を活かし建築の土台や風呂桶などに使われることが多く、中でも碁盤材の最高が一位科のカヤ。成長の遅さで一番、碁盤に使われる材で一番のカヤ。カヤの語源はこの木の葉や枝を燻して蚊を追いやる“蚊遣り”からの命名で、鬱陶しい蚊に刺されないようにするには蚊帳の中が一番!
コブシの蕾を覆う産毛が陽射しを受けてキラキラ輝いています。
花を咲かすにはまだまだ時間がかかる感じ。
蕾を観察していてオモシロイと感じたのが殻の脱ぎ方。
卵が縦半分に割れるように産毛の殻をパカーンと突き上げているコブシ。
殻を脱ぎ捨てイッキに花が咲くかというとそうでもなく、
拳を握り締めた状態のコブシの蕾はまだまだツボミのまま。
年末から年初にかけて芽生えた蕾は二月後半を迎えても開花の兆候はありません。
コブシを漢字にすると読みにくい“辛夷”。
辛い夷(えびす)のイメージから思い出すのが蛭子(ヒルコまたはエビスと読む)神。足が立たなかったことで生まれてすぐ両親に棄てられた蛭子神は辛かったはず。
花が咲けばその後は散る運命にあることを思うと、花が咲く前の蕾期間を長く楽しんでいるのが辛夷?
辛夷の花が咲き始める頃に合わせて農作業が忙しくなることから“田打ち桜”とも呼ばれていて、春を告げると同時に忙しくなるタイミングも教えてくれます。春は好きだけれど忙しいのが嫌いなエスマルは辛夷の花を見たいような見たくないような・・
冬の寒さに耐え何カ月もの蕾期間を経て開花する白い花期間は約一週間。
イッキパワーで辛夷が開花する頃には人も薄着になり何かとバタバタするんだよな。
ま〜いいけど・・・ネ。
今過ぎゆく時間に逆らうことなくベッドに横たわっているのは主人公デイジー。死を前にした彼女は娘に何かを伝えるべく、ある男が残した遺書のような日記を読んでもらっています。赤ん坊で生まれ若い頃を楽しみ老いて死ぬという“時の刻み”はすべての人に共通ですが、日記に登場するベンジャミン・バトンはその流れからはみ出していました。そのはみ出し理由は生まれた時から老人(外見だけで中身は子供)だったこと。彼を産んだ母は出産を終えると同時に死に、残された父親は余りの不気味さに息子を老人施設の玄関前に棄て去ります。こうしてこの世に誕生したその日に天涯孤独の身となったのがベンジャミン・バトン。
赤ん坊はこうあるべき!という常識を覆して誕生したベンジャミンはシワシワ老人の赤ん坊。その後、時間に逆行する形で老人から若者そして今度は正真正銘の赤ん坊の姿へと数奇な人生を歩むことになります。彼がたどった人生の終りが赤ん坊ということから想像すると原点回帰の生き方を達成したとも思える筋書き。原作は村上春樹の翻訳で日本にも広く紹介されたF・スコット・フィッツジェラルド。時を刻むことは前に進むことが原則で、たとえ若返りの人生でも最後に待っているのは死という終りの時。たとえ逆回転する時計を作っても過ぎた時間を元に戻すことはできません。
映画の舞台に設定されていたのは1918年のルイジアナ州ニューオーリンズ。ジャズ発祥地としても有名なこの地域でボタン工場“バトン社”を営んでいたのがベンジャミンの父親トーマス・バトン。死に瀕する妻から託された願い(息子を守ってあげて!)をいとも簡単に放棄してしまったバトン氏。そんな薄情な父に成り代わって赤ん坊を育て上げたのが信心深い黒人女性クイニー。長生きできないと医者から宣告されていたのに結果として長生き(赤ん坊になるまで生きた)できたのは彼女のおかげ。ファースト・ネームの名付け親がこのクイニーでラストネームは見勝手な父側の姓バトンを受け継いでいます。これらのことからベンジャミン・バトンの人となりがある程度分かる感じ。
同年齢のいたずらっ子と接するチャンスもないまま老人施設で育ったベンジャミンは遊ぶにしても体力が伴わず中途半端な老人型幼少期を送ることになります。老人っぽい雰囲気ではあっても中身はまだ子供だったベンジャミンと気が合ったのが当時まだ幼かったデイジー。老人と少女という不釣り合いな二人の関係は人生の丁度真ん中辺りで外見も年齢もピッタリの時を迎えます。二人の時がクロス(X)で交わった瞬間、すでに新たな時は否応なく刻まれ続けるのがこの世のシステム。年をとろうが若返ろうが刻まれる時に逆らえる人は誰もいない。そんな環境でわずかな時間だったけれど肉体も精神も一致して二人が過ごせたことはヨカッタ!
何かに操られるような人生を送ったデイジーとベンジャミンですが、すべての記憶を失っていた赤ん坊のベンジャミンは死ぬ直前デイジーの腕の中で彼女のことを思い出します。そして今、デイジーにも死が迫っていました。この映画で象徴的に使われていたハチドリ(hummingbird)が横たわっているデイジーの窓辺でホバリングしています。蜂と同じようにブンブンという音をたてることから命名された極めて小さい鳥で、先に逝ったベンジャミンの化身の姿だったのかも。
* 監督 デヴィッド・フィンチャー * 2008年(米)作品
* 出演 ブラッド・ピット ケイト・ブランシェット
★ 老いる時の流れと若返りの時の流れがクロスすると神聖なX(あるいは卍)になるように感じました。
YouTube - 「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」予告編
地中に根を張り幹や枝を支えるのが木の根の役目(縁の下の力持ち)ですが、地表に姿を現し幹と一体化してしまう根がたまに存在します。地中にあるはずの根が地表に見えてしまうことから“根上り〜”と呼ばれ、全国的に多いのが投資家心理の“根上り松”。先日訪れた栗林公園(香川県高松市)の池のそばにあったのが“根上り樫”で、元々(江戸時代に完成)この場所には二股に分かれた老松が生えていたらしい。
空洞化状態になっていたその老松の股の部分に根を下ろし成長したのが樫の木。この樫の木が枯らしたのが年齢的に弱って枯れたのかは分からないけれど、二股に分かれていた老松は枯れ最終的に生き残ったのが樫。写真の根から想像すると二股になっていた部分に真っ直ぐ根を下ろしたような感じ。あるいは先の松が根を横に張っていたので樫は縦にしか張れなかったのかもしれない。こうして樫の木は二股に分かれた老松の股間から生まれ、意識しなければ判別できない幹とつながった根を地表に出現させることになりました。
さらにこの庭園にはもう一本の根上り木が存在しています。木の種類が五葉松だったことから文字通り名前は“根上り五葉松”。もともとこの五葉松は盆栽だった(エ〜ッ!)という話から始まります。
箱庭世界にいた小さな五葉松がどういう理由でこれほど巨大な幹や根を地表に見せることになったのか・・ 奇跡以外の何ものでもない!と思えるほど巨大な幹と根はやはり地表で一体化しています。
形は盆栽風ですが大きさはこのように巨大五葉松。普通の松は二本の葉がセットになっていますが五葉松は五本セット。枝の太さの割に葉が小振りなので広がった枝の全貌が見えるのも魅力の一つ。枝の広がりを支えるのが幹と一体化した頑丈そうな根。
盆栽の五葉松がこの地に根を下ろし巨大化していった経緯は何だったのか。人間世界で何が起こるか分からないように木の世界でも何が起こるか分からない。植物の不思議を凝縮したような栗林公園には栗の木はなく、あるのは松の木ばかり。
水面に垂れ下がる松の枝は日本の美の原点?
(左奥に見えているのが根上り樫)
自分の巣を持たず他の鳥の巣に卵を産み付け育ててもらう(育てさせる?)鳥の習性を“托卵”と呼び、その托卵癖を持つ鳥を代表するのがカッコウ目カッコウ科の郭公。和歌や俳句に詠まれる郭公は通常ホトトギスのことで、郭公と同じように宅卵癖があります。
郭公 声横たふや 水の上 芭蕉
郭公と書いてホトトギスと読ますことで強調したいのが托卵癖? 自分の巣を持たないホトトギスはウグイスやモズなどの巣に産卵し、その親に孵化を託します。孵化したホトトギスの雛はまだ生まれていない卵(親鳥の実際の卵)を巣から蹴落とし、仮親が与えてくれる餌を独占して巣立ちます。仮親にすればヤッテラレナイ現実ですが、巣の中にある卵は自分の子という本能が働き違う鳥の卵を育ててしまうらしい。
托卵する側にとっては生き残りを賭けた挑戦のようなもの。巣を持つグループと巣を持たないグループの対立は人間世界だけのものではなく、鳥の世界にも微妙な駆け引きが存在していました。巣のない(群れない?)グループに属するホトトギスにあてられる漢字はたくさん(雀公・杜鵑・時鳥・子規・不如帰など)ありますが、ここで注目したいのが“不如帰”と書くホトトギス。
帰る如しを否定する言葉がホトトギスで、巣を持たないホトトギスに帰る場所はない。言葉を変えるとホトトギスにとって安住できる場所(巣)はこの世にない?
しでの山 こえてきつらむ 郭公 こひしき人の うへかたらなむ 伊勢
親を知らずに育つホトトギスは死出の山から来て鳴く鳥という。
巣を拡大するフループとは相容れないのが郭公。
ほととぎす 鳴きつる方を ながむれば ただ有明の 月ぞ残れる 藤原定家
闇夜を照らす明月(真如の月)と結び付くように感じるのが不如帰。帰る場所がないということは守らなければいけないこの世のしがらみのようなものもなく、闇夜だって平気なのが格好を気にしない郭公? 如月の今、如意に不如帰のことを考えてみました。