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- 2022.04.05 Tuesday
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一度死んだも同然の男が父から譲られ今まで住み続けてきたオンボロ家を破壊し建て替える映画。原題は『Life as A House』ということで家のような人生を生きた男の物語。古くなった家を自分の手で壊したのは長年勤めた会社(建築デザイン)を首になり、余命三ヶ月と告知されたジョージ・モンロー。時代の変化に適合できなくなっていた彼は妻とも別れ、一人息子サムもホッタラカシのどこにでもいそうな男ヤモメ。息子サムは耳の飾り物に加え顎までキラキラした飾り物を付けてラリっている16歳の高校生。再婚した母と暮らしていたサム・・しかし母親ロビンはサムにお手上げ状態で親子の距離は開き続けていました。
そんなタイミングでジョージが決断したのは若い頃から口にしていた家の建て替え。
冒頭シーンが示すように路上でぶっ倒れた彼は一度死ぬ体験を味わったのだろうと思います。仕事も失ったうえ死までの時間を限定されてしまった彼は銀行強盗などには手を出さず、手を出した先は長年住み続けていた平屋と今までホッタラカシしにしてきた息子。今までも勝手に過ごしてきたジョージは余命少しになっても相変わらず勝手な選択で周囲を振り回すことに・・
ジョージが手を出した家は高い崖っぷちの見晴らしのいい場所に立っています。
庭の管理も行き届いた大邸宅が並ぶその地域の端で浮いたような生活していたのがジョージ。彼は幼い頃から父の抑え込むような姿勢に我慢できずイライラを募らせていました。憎みながらも親父のことが好きだったジョージは父が建てたこの家も憎みながら愛していたようで、若い頃から建て替えたいということは別れた妻にも頻繁に口にしていた様子が伺えます。
憎しみと愛情のバランスが保たれている間は大きな変化は何もなかったようですが、
外部から加えられた別の圧力(仕事は首で癌宣告)で動き始めたのがジョージ。
痛み止めの薬を大量に飲みながら彼は別人のようになって生き始めます。しかし無理やり大きな家から連れてこられたサムは苛立ちがくすぶるだけで父に心を開くことはありません。台所とトイレが隣り合っている部屋は誰しも我慢できないし、水しか出ないシャワーに愛想を尽かしたサムは大きな家に住む隣人宅へ。
どんなにオンボロでもこんな場所に家があること自体が幸せな感じ。近所にも何件かの大きな家がありますが経済的に恵まれている様子で、都会人のようにアクセクしていないのがホットとすると同時に、社会の厳しさにぶつかっていない間が抜けた家族が多い。間が抜けるとこんな場所で生活できるのかなあ。ヨ〜シ間を抜こう!
まず元の家を壊して新たな家を建てようとした父ジョージがそもそも問題のある男で、その息子サムの問題を一手に引き受けまさに命懸けでぶつかったジョージ。
彼は死という悪いことをいい方に転換できるパワーを持っていました。遅いか早いかの差だけで死というものを避けて通ることはできないのが人間。そこで一大決心の末、やり残したことに手を加えようとしたジョージはやはり凡人ではない。別れた妻も現在の夫よりジョージを愛している感じで複雑な人間模様ですが、当のジョージは自分の思い通りに行動する極めて単純な部分を備えていました。
* 監督 アーウィン・ウィンクラー * 2001年(米)作品
* 出演 ケヴィン・クライン クリンティン・スコット・トーマス
★ 岬の先端に立つジョージの家が灯台の役目を果たしたようにジョージも家族の光となる人生を歩みました。
YouTube - Life As A House Trailer - no sub titles
世界中のすべてを見回しても他に産出する国はないという特殊な石を産出するのが香川県坂出市東部に位置する五色台や金山周辺。叩くと高く澄んだ音を発することからカンカン石とも呼ばれる“サヌカイト(sanukite)”は非常に緻密で一定方向に並んだガラス質の古銅輝石安山岩で構成されています。風鈴や楽器にも使われるサヌカイトの心地良い響きの元はサヌカイトを構成する細かい針状の粒子が一定方向に並んでいるためで、振動した音が均一に伝わり響かせることができると考えられています。
崇徳天皇に関する伝説が多い坂出市や大津皇子が眠る二上山に産出するサヌカイトは石の中でも特殊の特殊!
年齢とともに老化する女性のお肌に取り入れたくなるようなきめ細やかな粒子で構成されているのがこの鐘石。そのことが証明されるのがこの石を叩いた時に鳴り響く透き通った鐘のような音。サヌカイト同様、この石を構成している粒子も極めて細かく同一であるからなのでしょう。あるいはこの鐘石こそサヌカイト?
YouTube - サヌカイトの音色 ♪旅愁♪
崇徳天皇が眠る白峯御陵と接する位置にあるのが“頓証寺殿”という建造物(上の写真)。一応白峰寺の一部になっていますが、どうしてこんな場所に閉鎖的な建造物があるんだろうと以前から気になっていました。また五色台の一つで寺の名前にもなっている白峰寺の一角を占めている頓証寺殿の旗色に白色がないのも不思議! 白峰寺山門の旗色はキチンと五色(下の写真)ですが、頓証寺殿の旗色は信号三色で白と紫(黒?)がありません。旗の色目も派手な感じで“中を見るな!”という空気に溢れているのが怨霊伝説を生んだ崇徳天皇の生前邸宅だった頓証寺殿。
厳重に閉ざされた扉は下の写真のようにものものしい雰囲気で、崇徳天皇はもしかしてこの建物の中に幽閉されていたのでは・・と勘繰りたくなる気分。白峰寺の敷地にあるとはいうものの、白峰寺の五色旗とは相容れない三色旗の頓証寺殿。気になったついでに頓証寺殿のルーツを調べてみました。
天皇という立場にありながら讃岐(主に坂出市)に流されたのは崇徳天皇38歳の時。
讃岐配流となった崇徳天皇はその後一度も都に戻ることなく46歳という若さで崩御されています。流刑地となった讃岐生活の中心は坂出市で、初めの住まいは坂出市林田町にある“雲井御所”。その三年後、崇徳天皇は住まいを府中町の鼓岡御殿(木の丸殿)に移されその地で崩御されたという話。亡くなるまでの日々を過ごした終の住処が国庁跡近くの鼓岡御殿だったようで、その鼓岡御殿を移築したものが白峰寺境内の一角を占める現在の頓証寺殿。
閉鎖的な建物から受ける印象は社会と断絶した崇徳天皇の怒りあるいは絶望のような心情が伝わってきます。また“頓証(とんしょう)”という言葉は通常の段階的な修行を経ずにただちに悟りを得るという意味を含んでいます。崇徳天皇はこの終の住処で頓証菩提の境地に至ったということでしょうか。当初感じた幽閉感は崇徳天皇自ら社会と接点を持つことを拒んだ心情の表れだったのかも・・周囲のみんなから寄ってたかって笑い物にされた少年が命を絶つように、崇徳天皇ももしかしてもしかして。
本人にしか分からない不本意な事実が社会全体の事実になっていくことがあるように、崇徳天皇の配流は朝廷全体で仕掛けた大きな罠だった可能性もないことはない。
道真や崇徳天皇の怨霊伝説を生んだのは社会全体が脅かされた天変地異現象をマノアタリにした当時の官僚? 寄ってたかった方の不安と後ろめたさが生み出してしまったものがもし怨霊伝説とするなら、崇徳天皇が島流しという刑罰を受ける必要は全くなかったのではないか。
白峰御陵と名付けられた地で眠る崇徳天皇の終の住処を彩る旗に白はない。讃岐での軟禁生活で仏教に深く傾倒し極楽往生を願うようになったと伝えられる崇徳天皇ですが、荼毘に付される際も数多くの伝承で彩られています。その伝承の一つが白峰山山上の稚児ヶ嶽で荼毘に付された折に、紫色の煙がこの地でこもったことから建てられたのが煙の宮とも称される“青海(おうみ)神社”。祀られているのは崇徳天皇と母・待賢門院。
地図で確認すると白峰山山頂から北西方向の山麓に位置しているのが青海神社。
崇徳天皇の魂と仮定した場合の紫の煙は南東から北西方向に流れてこもったということですね。頓証寺殿の旗色にはなかった紫色は崇徳天皇の亡骸を燃やして出現した色ということで、この世の色ではないのが紫色? この奇妙な話以外にも崇徳天皇をめぐる話は坂出市(血の宮と称された高家神社や79番札所高照院やその近くに湧く八十場の水など)に集中して残っています。
政務を司る朝廷側の一方的判断で島流しの刑を受けなければいけなかった
崇徳天皇はどんな気持ちで死と向き合ったのか。
不思議な伝説の多さが崇徳天皇の真実を物語っているように思います。
最近はほとんど表現されなくなった色は“ダイダイ(橙)”色。黄色と赤色を混ぜたような色合いでミカンの皮の色に例えてオレンジ色と呼ばれることの方が多いダイダイ色。このダイダイ色の元は柑橘類の一種で正月飾りなどに使われるあの果実のダイダイ。他のミカン類同様に五枚の白い小花をつけ、熟すにつれて緑色から黄色そしてダイダイ色に変わっていく果実の皮が特徴的。しかし中身は酸っぱいことからスダチやユズなどと同じグループの酢ミカンに属しています。人は余り酸っぱいのを好まないようで、多くの人は食べようとしないミカンがダイダイ?
この世という自然界で人や植物が一定であり続けるのは難しく、
先に紹介した酸味と苦味が強いダイダイ色のダイダイの果実は冬を過ぎても木から落ちず、翌年の夏に緑色に戻り数年は枝についたままの状態が続くらしい。古い果実と新しい果実が同じように一つの木になることから“代々”という漢字でも表記されています。非時香菓がダイダイなのか橘なのかは分かりませんが、どちらもいい香りがする柑橘類の一種。新羅の血を引いていた田道間守と日本の伝統ある血を受け継いでいた垂仁天皇の関係は出身国を超えた大きな友情が感じられます。信頼できる右腕を得た垂仁天皇と右腕になろうと努力した田道間守はもしかして先祖代々で深い交流があったのかもネ。その二人の深い友情が表面化した話が非時香菓に関する伝説として今日まで語り継がれてきたように思います。
モコっとしたピンク色の巨大な実とまだ熟していない周囲の青い実が一体化したグロテスクな実は何でしょう? しかも同じ幹に来春咲くはずのツボミもイッショクタ!
季節の終わり(実をつける現象)は季節の始まりと考えてみても何か血迷っている風なこの木はタヌ木(エッ?)。オッパイ飲んでネンネするタヌキノウタに歌われたゲンコツ山こと・・ゲンコツすなわち“コブシ”。
エスマルは毎日剪定バサミを持参して伸びすぎた木枝を見境なしに切り捨てています。このコブシも一時期かなり切った感じがするなあ。そのせいか反発心旺盛なコブシは拳で攻めてこない代わりに珍現象を見せてくれました。
コブシの実がはじけるとこんな感じ。
樹液のような白い糸を引く(写真参照)習性があるようで、
実が落ちる時もツバキのように勢いよく落ちたりしません。
糸を引きながらズルズル落ちるクモ族に属する木がコブシなのかも。
白いコブシの花に対して実はかなり目立つ紅色。
その紅色の実の中にあるのが黒い種。
黒・白・赤の三色に彩られています。
そのうち一番ユニークなのがモコモコした実
コブシという名前は
この実の形態(握りこぶし)から名付けられたということですが、
糸を引く現象はこれから先もさらに続く?
“八百万(やおよろず)の神”とは名前のない多くの神々を意味する言葉で、記紀の中では天の安河の川原に集合した不特定多数の神として登場していました。知恵ある“オモイカネ(思金・思兼)神”を頼りに天岩戸に隠れてしまった天照大神をこの世に連れ戻す対応策を彼らが練った場所が天の安河の川原。この“天の安河”はかつて天照大神とスサノオノミコトが誓約に際し向かい合った河でもあったことを思い出すと、多くの神々が集まり相談する場である半面、対立関係にあった天照大神とスサノオノミコトを隔てる境界線のような役割を担っていたように思います。
天の安河を挟んで行われた誓約の目的はスサノオノミコトの赤心(清らかな心)を試すため。高天原を統治していた天照大神のもとへ別れの挨拶をするためやって来たのがスサノオノミコト。父から命じられた海の支配を嫌い、実の母ではない母の国(黄泉国)に行こうとしていたスサくんが自分の故郷(高天原)を離れる決心をして訪れたのが高天原の支配を命じられていた天照大神。父の命令に背いて家出するタイプが男のスサくんで、父の命令に忠実なのが女の天照大神? 弟が高天原にやって来た時、天照大神は弟がこの国を奪いに来たと勘違いし完全武装の出立ちでスサくんと対峙します。かなり警戒心が強い天照大神。姉が管理する高天原を奪う気持ちは毛頭ないことをスサくん自ら証明するため提案したのが“誓約(宇気比)”。
通常は凹凸関係の二人がミトノマグワイ(天の御柱を中心に左右別々に廻った後、出会った場所で交合する?)を実施して出産に至ります。しかし誓約は境界線となる天の安河の左岸と右岸に離れ、それぞれが肉体に触れずに子を産むという神業的出産(二人とも神でした)。
清めの儀式をするかのように天の安河で振りすすがれたモノがスサくん所有の“十握剣”と姉さん所有の首飾り“八尺瓊五百箇御統珠”。二人は相手の持ち物を天の安河で振りすすぎ、それを噛み砕いて吹き出した息の霧から子を生むという特殊行為が誓約出産。ミトノマグワイとは一線を画した触れない出産が誓約の本質?
かつてイザナギノミコトが黄泉国からこの世に戻って来た時に禊祓いをしたのが筑紫の日向の小門の阿波岐原。原という限りは水辺ではない草原が阿波岐原ということなのか・・しかしイザナギノミコトが顔を洗って目や鼻をすすいで誕生させたのが誓約の当事者だったこの二人。もしかして顔を洗った水が安河の水? 水を使って洗い清めることは古代の大切な儀式だったように思います。
古代中国の思想に“五行(木・火・土・金・水)”というのがありますが、香川県高松市と坂出市の間にあるのが“五色台”と名付けられた連山。その五色(青・黄・赤・白・黒)台の西側(坂出市)に位置する白峰にあるのが“白峰寺”で、その寺に隣接してあるのが流刑に遭った崇徳天皇の白峰御陵。五行思想で考えると白色は西方をつかさどる“金”で感情は怒りそして季節は寒さに向かう秋。また五色台の青峰(高松市)にあるのが“根香寺”で東方をつかさどる“木”に対応しています。感情は西の怒りに対して東は喜び・・多くの植物が芽吹く春ということで白と青は相反する立場を担っているように思います。
白峰と青峰は四国遍路コースの一部で81番の白峰寺から82番の根香寺につながり、
車を運転(クネクネしてアップダウンが多い)している限りの感覚としては多少離れているものの、一つのクネクネした連山に二つの寺があるように感じます。怒りと喜びという二つの相容れない感情を示す白峰と青峰ですが、参拝して思うのは白峰と青峰は一つの道でつながっているという感覚。
浜辺にも山奥にも出没するのが牛鬼? 自分の定位置がなかったせいか、海沿いのビーチや奥深い山など至るところに出現していたのが目的のない牛鬼ということかな。
しかし牛鬼出現場所となった根香寺のある場所は凛とした空気に包まれた気持ちのいいトコロ。特に山門を潜ってすぐに下る階段があり、その窪地のような場所(下の写真)は夏でも木漏れ日に包まれヒンヤリした感じを与えてくれます。小鳥のさえずりが近くに聞こえ、まさに聖地にふさわしい場所がこの根香寺の窪地。山門から一度下った窪地を過ぎるとその後は上り階段が続いて大師堂、さらに上にあるのが本堂。
山深いことは間違いないのですが、先の窪地に比べれば気持ち良さはまあまあ。
この窪地・・何か空気(冷気)が違うんですよネ。ということはこんな素敵な場所を知っていたのが牛鬼?
白峰寺と一体化したような場所に立地する根香寺の牛鬼は山田蔵人高清という人物に退治され、切り取られた牛鬼の角がこの寺に奉納されているという話。角がなくなった牛鬼はただの牛でしかなくなり、よだれを垂らす牛が向かった先は憧れの浜辺?
根香寺の窪地といい海に接した浜辺といい、牛鬼は気持ちいい場所を見つける特殊能力を持った青い怪物くんだったのかも・・・一方 牛鬼を退治した山田蔵人高清は仕事に重点を置く仕事人間? 気持ちよさだけを求める怪物くんは仕事を重視する人間に殺されるしかないのがこの世の現実。
この山門の向こうが窪地になった別天地(この世の異空間)へとつながっています。
“オリバー・ツイスト”とはこの世に誕生すると同時に母親を失ったみなし子少年の名前。死んだ母親に代わって名付け親になったのはその孤児を収容したキリスト教区の管理者ハンブル氏。キリスト教区においてしつけられ成長したその少年が9歳になった時、ハンブル氏によって連れて行かれた先が救貧院。貧しい孤児を救済するというより孤児に仕事を教え労働力に利用しようとしているのが救貧院だったような・・
育ち盛りなのに食べ物も十分に与えてもらえないのが救貧院の実体で、食べ物に飢えていた少年たちを代表してお代りを申し出た(くじ引きで負けた)のがオリバー。
親のない子はキリスト教区に属する人物が育てるシステムが成立していたのが19世紀の英国? 貧富の差が激しかった当時の英国で何度も死にそうになりながらも誰かの手が加わり死なずに生きてきた少年のたまたま物語。映画を観ていて特に感じたのは他の人物に比べ喋り方が丁寧でそれほどリキんで頑張るタイプでもなさそう。たまたま連れて行かれた先が嫌になり、その場所を抜け出したくなる単純さで動いた結果 オリバー自身も予期していなかった放浪の旅が始まることになります。
19世紀を代表する英国作家チャールズ・ディケンズが書いた同名小説を映画化したもので、ロマン・ポランスキーがこの小説を映画化する以前にも著名な監督(デヴィッド・リーンやキャロル・リード)が何度も取り上げている物語。その時代時代で人を引き付ける何かがあったからこそ何度も映画化あるいはミュージカル化されてきたものと思います。主人公オリバーは“うぶの国”からやって来たと表現された少年で、顔立ちもよくなかなかカワイイ子。行く先々で絞首刑になるかもしれないと噂されながらも幼い彼は従うだけの生き方を選択しなかったのが偉い!
特に“もっと欲しい”と言った彼の言葉に極端に反応したのがキリスト教区に属する大人たち。与えられた以上の食べ物を要求する子供に過剰反応を示す大人は子供を支配下に置いてコントロールしてる? “食べるモンぐらいサッサと与えてやれよ”と言いたくなる気分ですが、質素・倹約を重んじる大人たちはケチなのか飢えた子供たちを規制することの方を重要視しています。シツケという言葉がまかり通る世の中では親がいてもいなくても成長しきっていない少年たちにとって現実は苦しみの世界。
親も子供に殺されないよう与えるべきものはタント与えなければいけないのでは・・
我慢すれば何とか暮らせたキリスト教区や葬儀屋を蹴り、何かが見つかるかもしれない大都会に近付こうした彼の精神は汚れていない。そのロンドンで拾われたのが孤児たちにスリを教えるフェイギンという老人。孤児たちにスリの方法を教え実践させる代わりに食事や寝泊りを確保するのがフェイギンの務め。キリスト教区の大人同様、孤児を利用するという点では似たようなもの。
自分の力だけでは生きていけない孤児たちに食事と睡眠の場を提供したフェイギンは猫背でせむし男を思い出させる風貌と変な喋り方でかなり個性的! 犯罪とは分かっていても生きていくためにはフェイギンに従うしかないのが親のない子供たち。まともに働いてお金を稼ぐ年齢には達していない彼らはフェイギン率いる闇集団に加わるしかなかったのが19世紀の英国社会。救貧院ですら孤児を利用しようとするシステムなので、そのことを思えばフェイギンはまだマシ。
オリバーを助けようとしたナンシーも彼女を拾って育てたビルに殺されることになるし、親がいてもいなくても子供たちが伸び伸び育つ環境にある場所はこの世にないのが現実かな。遊んで暮らすことができなくなる大人になるまでのせめて短い間の子供時代ぐらい、遊んで暮らすことを容認できる大人が増えてくれればいいんだけれどネ。最後は気が狂ったフェイギンのもとを訪れるオリバー。抱き合うかつての歪んだ親子は立派に成長した大人のようなオリバーを抱きしめる子供のようなフェイギンで、フェイギンの狂気が印象深く残りました。
* 監督 ロマン・ポランスキー * 2005年(英・チェコ・仏・伊)作品
* 出演 バーニー・クラーク ベン・キングズレー ハリー・イーデン
★ ロマン・ポランスキー監督はポーランド出身のユダヤ人で、スリの親分フェイギンもユダヤ人に設定されていました。
Oliver Twist English Trailer
気まぐれで何を考えているのかワカラン不規則な人間と違い、
季節に応じてキチンキチンと花を咲かせる規則正しいリズムを刻むはずの植物が
アレッ?
9月も後半になった今から咲いて実をつけようとするつもり?
春から夏にかけて気まぐれに咲いていた金柑の白い小花。
咲いたすべての花が実を結ぶことはないけれど、
雨上がりの庭にポツンと咲いた気まぐれキンカンのその後を応援してあげよう。
普通のミカンは通常春一斉に花を咲かせますが、
キンカンの花は咲く時期がバラバラでミカン科の中でもかなり特殊。
しかもキンカンの中身は酸っぱく皮の方が甘いという特殊の累乗。
数日前にスダチと比べてみようと思い、緑の皮のキンカンをすりおろしてみました。
中身が固くないのかグシャッとなってすりおろす対象には不適で、
香りもあるにはあるけれどスダチのような爽やかさではない。
バラバラに咲いた花が実を結ぶ状態も以下の写真のようにバラバラ。
キンカンに関する歌や句が何かないものかと調べていてぶつかったのが“金柑頭”。
蠅がすべるような頭を表現して名付けられた金柑頭を代表するのが明智光秀。
信長にこき使われた光秀のストレスから生じた結果の賜物が金柑頭?
もしかして気まぐれで勃発したのが本能寺の変だったりして・・
気まぐれに咲いた庭の金柑の花から
思いもよらない本能寺の変が導き出されてしまいました。
見た目はスダチとそっくりなのに酢橘頭とは表現されず、
皮が黄色になるまで待って利用する金柑に例えられる日本語の不思議さ!
5年ほど前に苗木で植えた金柑は今年初めて実をつけました。
皮が黄色くなっていく様子を気まぐれに観察していきたいと思います。
天岩戸の前でうつぶせにした桶の上に立ちヌード・ダンスを繰り広げたのはアメノウズメ。巧みな俳優(わざおさ)となったウズメは空洞になった桶の上でステップを踏みながら神懸かり状態になったと記紀は表現しています。その神懸かり状態とは背をそり露わに胸乳をさらけ出したうえに、裳の紐を番登(ほと)に忍(お)し垂れてステップしているような記述。神懸かると酒に飲まれたように自分の服を脱ぎたくなる? 特に裳の紐がホト(陰部)の辺りに垂れ下がっている状態は上半身と下半身の性がチグハグな感じ。そんな彼女を見て笑っているのが八百万の神なんだけれど状況は太陽神不在の暗黒の世界だったはず。
笑い声のある賑やかな様子を演出して天照大神の気を引こうとしているのが俳優アメノウズメ。特にコメディアンなどは人を笑わせてナンボの仕事。人を笑わすことができないコメディアンは舞台から退場してもらうしかないわけで、その点においてアメノウズメは恥じらいをかき捨てヌード・ダンスに興じることができたプロ魂の持ち主。しかし岩戸に隠れた太陽神不在のこの世で笑い声が巻き起こる現象はやはりヤラセ? 「あなたより尊い神が生まれました。」と言うウズメの言葉に思わず自分自身を覗き見してしまった天照大神。
その直後 洞窟から天手力男に引っ張り出されたのが一度死んで再び輝いた光(天照大神)。キリストが再生を果たしたように日本のトップ天照大神も再生しなければいけない立場にあった神。“生まれ変わった気持ちでスタートする”あるいは“死んだつもりで始める”という言葉がありますが、そのような強い覚悟でモノゴトに臨む精神を持っていたのが天照大神の血筋につながる日本人。死んだつもりで何かに取り組むことができる当人は余程辛いことを体験し、その辛さを乗り越えた結果の再生なんだと思います。ただ天照大神の場合は弟の“悪しき態(わざ)”が原因で岩戸に隠れました。このワザと読ます“態”もウズメのワザオサに似てスサノオノミコトがワザと姉を怒らせようとしたんじゃないのかな。
また日本書紀にウズメは“楽(あそび)をした”という記述があることから考えても神懸かりというより、ふざけてヌード・ダンスに興じた一種のお遊びが岩戸の前で実践されたように思います。面をかぶる神楽という名前で現在まで引き継がれてきた神々の陽気な楽に興味を示したのが天照大神。太陽神は楽が好き? 後の天孫降臨に際し天のヤチマタという分岐点で道案内を申し出た異国の住人・サルタビコに対峙したのが天照大神の前でふざけたダンスをして周囲を笑わせたアメノウズメ。ウズメの度胸を熟知していた高木神の指名により、彼女は敵かもしれないサルタビコに向き合うことになります。
サルタビコは外見に反して頼れる妻を求めてたってことかな。男に頼られたアメノウズメは手弱女から手強女に大変身。天が故郷だったウズメ(宇受女・細女)は故郷が違うサルタビコに出会い猿女君に改称。(結婚したから?) 一つの卵の中に存在する黄身(君)と白身の関係になったのがこの二人。しかし阿邪訶(あざか)の海岸で漁をしていた時に比良夫貝に“手”を噛まれ溺れ死んでしまうのがサルタビコ。
貝に手を噛まれたぐらいで溺れ死んでしまう話の真意は何なのか。手弱女から手強女になったサルタビコの妻はその夫の死をどのように受け止めたのか。猿田彦は念願通り五十鈴川の川上に辿りつくことができたけれど、一人残された猿女君(変な名前)が帰る場所は何処?