スポンサーサイト

  • 2022.04.05 Tuesday

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 0
    • -
    • -
    • -

    生きて千年、枯れて千年

    • 2009.05.31 Sunday
    • 22:40

    大阪の部屋の荷物が毎日減り続ける体験の最終日(29日)、残った荷物を車に積んだところ蒲団むき出しの夜逃げ状態で高速道路を走らせることになりました。積んだ荷物を再び高知の家に運び入れることを考えると、すぐには到着したくない気分。そんな訳でパンパン状態になったストリームでドライブを敢行し、2日間の見かけ旅行を味わっておりました。


      

    生きて千年、枯れて千年という風に紹介されていたこの木は“一位(イチイ)”の木。幹の内部は空洞になり朽ちてしまったイチイの木なのに、空に映えるこの枝ぶりの芸術性は何なのか! 生きている木はこの季節 葉を茂らせモコモコ状態で暑苦しいですが、枯れたイチイの木は涼しそう。この木があるのは道の駅・土佐さめうら(土佐郡土佐町田井)。

              

    近くには四国の水甕と言われている四国最大の“早明浦(サメウラと読む)ダム”とダム建設に伴い生じた人造湖(さめうら湖)、そしてこのダム湖の底に沈んでしまったのが旧大川村役場と周囲の家々。渇水でダム湖の水が干上がると出現するのが旧大川村役場。当時の事情はよく知りませんが、自分の住んでいた家が水の中に埋没する現実を見なければいけなかった人たちも多数いたわけで・・高度成長という名のもとに完成したプロジェクトの影で泣いた人も多かったはず。

      

    木の枝に吊るされた鐘は下の幹の部分と糸でつながっていて、糸を引っ張ると心地良い響きで鐘が鳴ります。枯れて空洞になったからこそ上と下がつながったということでしょうね。一位にふさわしいイチイの木はこの地で生きこの地で朽ち果てました。

    イチ・キュウ・ハチ・ヨン

    • 2009.05.30 Saturday
    • 23:01

                   

    7年ぶりに村上春樹の長編小説“184”が昨日発売され世間をにぎわす話題になっています。“風の歌を聴け”以来理解しているかどうかはさて置き、村上ワールドの影響を受けてきたように思います。理解しにくい会話や内容も多いですが、どこかポワンとしてユーモアのある村上ワールドのボクの言葉をいくつか集めてみました。 

                           *****

    たとえば僕が意識を完全に放棄してどこかにキチンと固定化されたとしたら僕にも立派な名前がつくんだろうか  『羊たちの冒険』

     

    「私を理解してそれでどうなるの?」 「世の中に君のことを理解しようとする人間が一人くらいいたっておかしくないだろう?」 「趣味のようなものかしら?」 「趣味といえばいえなくもないね 一般的に頭のまともな人はそういうのを好意とか愛情とかいう名前で呼ぶけれど 君が趣味って呼びたいんならそう呼べばいい」         『ノルウェーの森』

    結果がどうであれ誰かを全面的に信じることができるというのは人間の正しい資質のひとつです  『ねじまき鳥クロニクル』

     

    ナカタさんは何かをあてもなく待つことに馴れていたし 一人で何もせずに時間をつぶすことにも馴れていた そうすることに全く苦痛を感じなかった  『海辺のカフカ』

    右手は左手のやろうとしていることを知らず 左手は右手のやろうとしていることを知らない そのようにして私たちは混乱し見失い そして何かに衝突する どすん  『スプートニクの恋人』

    どうして僕は君といるのが好きなんだろう それはたぶん君が僕に何かを思い出させるからだろうな 僕の中に埋もれていた感情を思い起こさせるんだ  『ダンス・ダンス・ダンス』 

                                       *****
    今回の小説の新聞の見出しに書かれていた言葉を下記に引用します。
    1949年にジョージ・オーウェルは近未来小説としての「1984」を刊行した。そして2009年、「1Q84」は逆の方向から1984年を描いた近過去小説である。そこに描かれているのは「こうであったかもしれない」世界なのだ。私たちが生きている現在が、「そうではなかったかもしれない」世界であるのと、ちょうど同じように。”


    相変わらず理解しにくい表現ですが、この紹介で初めて知ったのがジョージ・オーウェルという英国の作家。
    第二世界大戦終結から4年後の1949年に執筆した“1984”はユートピアとは正反対の世界(ディストピア)である極端な管理社会を描いた物語であるらしい。当時の世相を反映し皮肉を込めた題材ということなのでしょうか。しかし戦争が終わり現在の平和な世の中でユートピア的場所を見いだすことが可能かというと間違いなく不可能な気がする。

     
    ユートピアは自分の心の中にしか建設できないような感じ。また題名の“1Q”という部分は知能指数のように表現されているようにも感じます。100IQの平均値とするとIQ84は少し低い数値ということ? ディストピア(全体主義社会すなわち個人で動けない人が多い社会)は平均より劣った世界という風に理解しましたが・・ハテ? いろいろ考えさせられる奇妙な題名の村上春樹の新刊“1Q84”。ブック1(4月〜6月)とブック2(7月〜9月)のセットで、1984年の初めの三ヶ月(冬から春?)と残りの三ヶ月(秋から冬?)がないのは何故なんだろう。もう少し落ち着いた環境が整えばゆっくり読んでみます。

    Top Of The World

    • 2009.05.29 Friday
    • 23:36

                   

    1973年、ラジオから流れてきた♪トップ・オブ・ザ・ワールド♪のイントロはエスマルに衝撃を与えました。その時初めて知ったのが“カーペンターズ”という兄妹デュオ。その後カーペンターズは立て続けにヒット曲を出し、彼らの知名度はトップにまで上りつめたように思います。明るく健康的に歌うカレンのヴォーカルは心地良さ100%! しかしその満点の声とリズムを若い頃のエスマルは嫌っていました。

    今日529日はエスマルにとって特別な日! ダラダラ続いていた高知・大阪間の移動を終わらせると同時に大阪の部屋をカラッポにして手放した記念すべき日です。
    経済的にも体力的にも維持し続けることに不安を感じ(当然だよね)始めていたエスマルは、今回の決定にスゴク納得しています。

    さてトップ・オブ・ザ・ワールドと何の関係があるのかというと、若い頃の感覚と年とってからの感覚は大きな変化が生じるということ。若い頃は何もない田舎の高知に退屈し都会の活気が好きだったのに、年をとるとその都会の活気に疲れている自分を発見し ますます疲れが増す状態になっていました。このカーペンターズもそんな感覚に近い。

    若い頃は余りに優等生っぽいカレンの歌い方が物足りなく感じていました。しかし今ではその安心できる歌い方や声がイイナと感じるようになり、疲れた今日のような日に聴くととても新鮮に感じます。カレンの健康的で美しい声は間違いなくトップ・オブ・ザ・ワールドの響き! 

                  YouTube - The Carpenters - Top Of The World

    Follow Me

    • 2009.05.28 Thursday
    • 22:22

                    

    もう一度観たくてたまらない映画が女から好きな男に向けられた“フォロー・ミー” 男が女に言う亭主関白風フォロー・ミーは世間一般に多いですが、女が男に言う場合のフォロー・ミーは意味が深い。キャロル・リード監督の遺作で何がなんでもDVD化してほしい映画です。音楽を担当したのはジェームズ・ボンドと一体化する旋律を手掛けた英国人“ジョン・バリー”。そんな007シリーズの軽快さとはまるで違う物憂げな雰囲気のメロディがこの♪フォロー・ミー♪。

    ミア・ファローが扮したベリンダの不安定な心がこの曲に表現されているように思います。ロンドンの街をアチコチ動き回るベリンダは新婚なのに一人でウロウロしています。旦那は仕事一筋の有能な会計士、よって彼の意識は新妻より仕事。もし彼女が有能な男に惹かれて結婚したなら、映画のようなトラブルは起こっていないはず。
    仕事ばかりに目がいくのが夫、二人で楽しみたいのが妻。夫と妻の間に生じる溝は世間を見回しても多いように思います。

    エスマルの影響を受けた映画ベストテンに入るのが1972年のこの映画。The Public Eye”という別題を持つフォロー・ミーの中身はフォロー・ミーという言葉ではなく無言の眼差し。年齢を経て感じるのは愛情と公平さ(The Public Eye)はイコールになるのではないかということ。肩書きやお金があるから・・あるいは外見がいいからその相手を好きになるのではなく、余計な部分を取っ払って相手を公平な目で見つめそれでも好きなのが愛情だと感じるようになりました。 

           YouTube - follow me (The Public Eye) end/15
               映像の最後に音楽が流れます。

    ことの終わり

    • 2009.05.27 Wednesday
    • 22:29
             

    “ことの終わり”のコトとは人妻サラと夫ヘンリーそしてサラの愛人ベンドリックスの愛憎が絡む三角関係のこと。三角形を形成する三人にもう一人存在感があるようなないような人物が加わり、戦時下(1940年代)のロンドンを舞台に愛を貫こうとする女性サラの物語。作家ベンドリックスのサラに対する愛と憎しみをベースにした物語ですが、映像が与える印象はズバリ!愛情より愛欲に溺れサラの肉体に執着する男がベンドリックスのような感じ。

                
    特にサラの愛人という立場に置かれていたベンドリックスは彼女をホントに愛しているのか疑問です。また夫と愛人の男二人の間を行ったり来たりするサラは一見悪女風ですが、ベンドリックスの独占欲とセックスが絡むエゴ愛とは全く違う深い包容力を心の奥に秘めていました。しかし彼女にはヘンリーという夫がいたことを考えると裏切り行為以外の何物でもない。そんな三人に関わってくるのが正体不明の第三の男。

                   

    原作は英国作家グレアム・グリーン(19041991)で映画化もされた“第三の男”の原作者でもあります。 またまた今回も登場するのが三角形を形成する三人とは違う立場にいる第三者? この第三者には誰も抵抗することができません。信じる人には存在感がある人物で、信じない人にはどうでもいい関係のない第三者。サラはその人物を信じ、ベンドリックスはその人物に抵抗します。

                  
    自ら「愛人向きではない」とサラに言っていたのがヘンリーで、自分の妻サラと自分の友人ベンドリックスのただならぬ関係に気付きながらも波を荒立たせるようなことはしない。彼は真面目な旦那さんなのですが、妻サラは彼だけに満足できず肉体も言葉も激しい愛人に惹かれ始めます。そういう面ではベンドリックスは愛人向き? 
    そして二人の男の間で揺れるサラはいったい何がしたいのか。

     

    サラの心が自分に向いていないことを知り雨の中を彷徨うのがヘンリー。妻を責めるようなことはせず、一人悩んでいる彼は優しい半面優柔不断。一方のベンドリックスは夫の元に帰ろうとするサラを信じることができなくなり、探偵を雇ってサラの行動を監視。このことだけでもベンドリックスの愛は失格! まだヘンリーの愛の方がサラを見守るという点で納得できるけれど、サラの心はヘンリーにはなさそう。世間を騒がせる事件が現実に起こっているように三角関係はやはり危険!

             

    揺れるサラの心は戦争の爆撃でベンドリックスの死を確認した時に強固なものに変わります。見えない大きな存在に向かって一人祈りを捧げていたサラが振り返るとそこにベンドリックスが・・もし彼を生き返らせてくれるなら一生彼と会わなくてもいいという誓いを立てて神に祈りました。その直後、彼女の願いは誰かに伝わりサラは何も知らないベンドリックスから身を引くことになります。

     
    この映画・・受け入れることができる人とそうじゃない人に分かれてしまうように思います。社会では奇跡と呼ばれる体験をしたのがサラ。そしてそんな不可解で胡散くさいものを信じようとしないのがベンドリックス。しかしラストで信じざるを得ない出来事を目にしてしまいます。このラストはヨカッタ! でもそんなこと起こるはずがないと感じる人も多いのでは・・


    * 監督 ニール・ジョーダン   * 1999年 作品

    * 出演 レイフ・ファインズ   ジュリアン・ムーア   スティーヴン・レイ


    ★ 男の見掛け倒しの愛より娼婦的に見えたサラの愛が一番キレイだった。

                                                                             
            
    YouTube - End of the Affair Theatrical Trailer        

    南京豆売り

    • 2009.05.26 Tuesday
    • 22:20
                    

    歌の題名とも思えない歌の題名は正真正銘♪南京豆売り♪。ルーツは中国と思いきやナナナントこの歌の生まれはカリブ海に浮かぶキューバ。英語名はザ・ピーナッツ・ヴェンダー(The Peanut Vendor)で、音楽ジャンルは“ルンバ(キューバの黒人の民俗音楽)”に属しています。1928年キューバのピアニスト(モイセス・シモン)が作曲し、1930年に米国に紹介されヒットしました。


    どのような経緯でメロディと全く合わない変な題名の歌になったのかは分かりませんが、
    ユニークな題名ゆえ記憶には残りやすい。先にメロディがあって後から詞が付けられたと思うのですが、太陽と砂浜と波音のイメージが強いキューバ生まれの曲と南京豆が如何にして結び付いたのかは甚だ疑問!

         
    多くのミュージシャンが取り上げている有名な曲で、スペイン語(かつてはスペイン領だったキューバ)で歌われることが多いようです。一般的によく知られているのはカリブの空気が感じられるペレス・プラード楽団。そんな中 日本語で歌っている有名な歌手を発見! 幼い頃からやはり歌が上手だったのですね。
              

        YouTube - Hibari Misora - El Manisero 美空ひばり 南京豆売り

    天津麻羅

    • 2009.05.25 Monday
    • 22:30

                  

    神話に記された神々の名前は必ずといっていいぐらいに“何々神”あるいは“何々の命”という風に
    名前の後に神や命が添えられています。神や命が大多数を占める神々の世界で、後ろに何もくっ付かない名前の人物が“天津麻羅”。天津という冠が被せられているので天上界の人物のはずなのに麻羅の評価は何故か低い。意図的に神や命という言葉が外されているように思います。

    古事記にだけ登場する麻羅は天照大神がこの世から姿を消した際、オモイカネ神に“鍛人(かぬち)”として呼び出されました。鍛人とは燃やして軟らかくなった金属(鉄)を打って鍛え刀剣を作る仕事をしている人のこと。熱いうちに鍛えられた鉄を刀剣にするにはタイミングが大事! そんなタイミングを熟知していたのが神でも命でもない天津麻羅。

    ギリシア神話に登場するアフロディテを妻にしたヘファイストス(ローマ神話のウルカヌス)も鍛人でした。刀剣作りに秀でていた麻羅・・しかし神々の世界では評価されるどころか軽視されている感じ。刀剣を自分一人で作れるということがよくないのか、刀剣作りそのものが軽視される要因だったのか。そういえばヘファイストスも生まれてすぐに母親ヘラの手によって海に落とされるという辛い体験をしています。神々の世界で鍛人は嫌われる存在ってことなのか。

    刀剣で思い出すのはスサノオノミオトが八岐大蛇を退治し切り刻んだ“十握剣”。
    この剣で切り刻まれた八岐大蛇の尾から出現したのが“天叢雲剣”すなわち三種の神器の一つになった“草薙剣”でした。かつてイザナギノミコトが息子・迦具土神を斬り付けた曰く付き(子殺し)の剣も十握剣で、父イザナギノミコトの指示に従わなかったスサノオノミコトは天上界から追放され地上に落とされました。その時に持参したのが十握剣ということなんだろうね。

    女好きで女を食いモノにしていた八岐大蛇伝説が残る出雲国の斐伊川上流は砂鉄が採取できる場所。そんな斐伊川(鳥上の峯)を選んで高天原から落ちてきたのがスサノオノミコトでした。大蛇退治は成功したものの、その時に使用した十握剣の刃は欠けてしまったという話。天上界で子殺しに使用された十握剣の価値を失わせ使えなくさせたのが八岐大蛇の尾に隠されていた何か非常にカタイモノ。

    十握剣の刃を欠けさせるぐらいの堅さと強靭さを持っていたのが八岐大蛇の尾先?
    この八岐大蛇の尾先が天津麻羅に近いように思います。となると天津麻羅は八岐大蛇の一部だった可能性が・・ヤッカイモノとして常に退治の対象だった八岐大蛇の一部が麻羅なら軽視され呼び付けられる筋書きにガッテン!

    再生能力に優れていた八岐大蛇は死んでも死んでも復活し常に退治される側の損な役回りですが、大酒飲みの八岐大蛇が退治されたことによって生み出された剣は三種の神器の一つになりました。一方麻羅が自ら作り出す剣の評価はイマイチ低い。この差は何なのかを考えると、何かと対峙した結果 危険な剣が生じたことを神話は評価しています。しかし闘う相手がいない中、自分で作る危険な剣の評価は低い。

    しかし天照大神がこの世から消えた時、トップで呼び出されたのが天津麻羅だったことを思い出すと闇の世界でチカラを発揮するのが麻羅! 賢さ抜群のオモイカネ神が天照大神をこの世に呼び戻すためトップに起用し呼び付けた理由として想像できることはオモイカネ神の友人のような立場にあったのが麻羅だったから。天津麻羅は意外にもオモイカネ神に頼られていたのかもネ!

                      *****

       

    大阪で生まれ育ったエスマルは今週末で大阪を離れます。日没の太陽が空全体を薄紅色に染める景色(向こうに見える山並は六甲山系)は大阪とは思えないぐらいに美しい。何かを終わらせることは何かを始める以上に大変なことだと感じました。

    記念に今回のコースを記録しておきます。昨日の昼頃高知を出発し夕方に美作かんぽに到着! 交通費2000円は嬉しい。今日は姫路方面に向けて田舎道(国道179号)をしばらく走行し、竜野インターで山陽道に乗り入れました。通常(美作〜宝塚)なら3250円のところ今回は1800円。何とかわいい節約なのでしょう。 
    まあ一種のゲーム感覚で遊んでいるようなものですが・・

    ダメージ

    • 2009.05.23 Saturday
    • 22:28
                  

    人間というものの深淵なテーマでしかも答えが出ない“罪と罰”が描かれていると感じた映画。政治家だった主人公スティーヴンはある女と出会い、マットウな社会人から堕ちていきます。しかし彼を誘惑した女は堕ちなかった。結果として彼が愛した女は大したことはなかったというのが正直な感想。しかし見かけのスティーヴンで終わるのではなく、ホントの自分を知るキッカケを与えてくれたのがこの女。

     
    政治家として着実に自分の地位を確立していた矢先の彼は宿命のようにアンナという女性に出会い、神(悪魔?)に魅入られたような雰囲気で激しいセックスを重ねます。二人が出会って肉体関係に至るまでの時間はスゴク短く(ほとんど会ってすぐ)、二人の間に交される言葉はありません。目だけですべてを語り合っているような怪しい雰囲気!

     

    会話のユーモアや互いの趣味などの話は一切なく、肉体だけが先行する異様でバトルのような二人の肉体関係。狂気のような激しさで肉体の合一を図ろうとする二人・・ 錆びて動かなかった運命の歯車が突如として回転し始めたような怖い空気を内包していました。 
                   

    運命的なナニカを秘めていたスティーヴンは、妻・息子・娘を持つ四人家族。もしアンナに出会わなければ出世もして社会から認められる男になっていたと思います。
    でも神あるいは悪魔は彼を放っておくことはしなかった。アンナは15歳で兄を自殺で失うという辛い体験があり、その寂しさを癒すため男遍歴を繰り返してきた孤独に対応できないタイプかな。アンナが自分自身で解決できない孤独は、結局 彼女の周囲の人たちを巻き込み彼らの人生を転落に導くという破滅物語に向かっていきます。

     
    そんなとんでもないトバッチリを受けたのがスティーヴンの妻イングリッド。そして自分の父親(スティーヴン)と自分の恋人(アンナ)のセックス・シーンを目撃してしまったマーティンは吹き抜けの階段の手すりから転落して死にます。運命の扉が開くとステキなことに出会うこともあるけれど、今回の扉は人生の転落。運命に操られるように自分の本能のままに動いたのが、権力志向だったはずのスティーヴン。
    しかし実際の彼は権力より不確かな愛を求めていたようにも感じます。

              

    そして彼のストレートな部分を見抜いていたのがアンナの母。マーティンとの結婚を控えてスティーヴンに身を引くように忠告し彼もその忠告を受け入れアンナと別れようとしていたのに、彼女の妖艶な誘惑に負けてしまうチョットかわいい男がスティーヴン。彼の真っ直ぐなキャラクターは政治家より芸術家に向いているのかも・・真っ直ぐ過ぎる性格でこの世を生き抜くことはちょっと難しい。自分に降りかかった運命に逆らわなかったスティーヴンの末路は侘しいものでした。 

     

    「あなたと一緒にいたいからマーティンと結婚するのよ」という言葉を発したアンナ。この段階でスティーヴンはアンナの自己中を見抜かなければいけない。女の目から見てもアンナの性格は悪い! 男に愛を与えるどころか男を破滅させる方向に導くように感じます。悪魔(アンナ)に魅入られた人生は破滅するしかないということなのかな。

     

    自分を支えてくれた家族に対して大きな罪を背負ったスティーヴンは日常世界から消えます。 マーティンにもらった写真を拡大して映画のように眺めていたスティーヴン。彼が何度もアンナに質問していたのがこの言葉“君は何者だ?” この答えを知りたいがために狂気の道を突き進んでいった男が選んだのは過去のすべてを捨て去ることでした。自分が犯した罪を償おうとしたスティーヴン、そして罪の意識もなく次の罪を重ねるアンナ。余韻を残す幕切れで映画は終わります。

    * 監督 ルイ・マル      * 1992年 作品
    * 出演 ジェレミー・アイアンズ    ジュリエット・ビノシュ

    ★ 1932年生まれのフランス人監督ルイ・マルは、若い頃はもちろん還暦を迎えてからも異彩を放つ映画を社会に突き付け世界の映画ファンに影響を与えました。

      

         YouTube - Damage US Trailer - Juliette Binoche 1993

    愛のレッスン

    • 2009.05.22 Friday
    • 22:26

                      

    男と女・白い恋人たち・あの愛をふたたび・雨の訪問者・ある愛の詩など1960年代後半から70年代初めにかけて活躍したフランス人作曲家“フランシス・レイ”の映画音楽の一つがコレ。ルノー・ベルレーとナタリー・ドロンが主演した映画“個人教授”のテーマソングといっても今ではほとんどの人が知らないのでは・・21世紀の今はパソコンにかじりついているエスマルですが、昔はラジオにかじりついていました。そんなわけで知らず知らずのうちに耳に残ってしまうのが当時の音楽。

    ルノー・ベルレーのファンということもなく、映画の題名は知っていたけれどこの映画は観てません。でもラジオでよく流れていたので自然に懐かしい音楽として心に刻まれてしまったのでしょうね。特にこの頃は映画と音楽は親密な関係にあり、映画より音楽の方がヒットすることもたびたびありました。またフランシス・レイが作曲した映画音楽なら映画もヒットするという奇妙な現象も感じられました。今聴くと幾分深刻そうな雰囲気の音楽ですが、映画も深刻?

    10代の頃のエスマルはネチネチした雰囲気が感じられたフランス映画を避けていました。青春時代に観た映画で一番好きだったのがパティ・デューク主演の“ナタリーの朝”。妻ある男を好きになってしまったナタリーは彼と別れる決心をして新たな朝を目指すというもの。自分の容貌に自信がなかったナタリーは失恋して美しい女性になりました。一方個人教授の主人公の青年は年上の女性と別れる決心をして涙を流しました(ネットで確認)。映画のラストで表現された青年の涙はフランシス・レイ作曲の♪愛のレッスン♪の答えだったような・・

             YouTube - La Lecbon Particuliere (個人教授)

    ワールド・オブ・ライズ

    • 2009.05.21 Thursday
    • 22:29

          

    世界には多くの国があり一つの考えだけでは折り合いがつかないのがこの世の現実。しかし世界は異なる思想であることを認め合うことはせず、いつの時代も争いは繰り返されてきました。政治や宗教が絡む映画は嫌いですが、リドリー・スコット監督作品だったので取りあえず鑑賞。アラビア語と英語が話されている映画なのにエエッ!という言葉を発見。それは暗殺集団と訳されていた“ニンジャズ(ninjyas)”。 

    主人公は中東のイスラム過激派の中心人物アル・サリームを探ろうとしていたCIA捜査官のフェリスとホフマン。異国中東の現地で命懸けの活躍をするのがフェリス。
    一方のホフマンは子育てをしながら片手間のように
    緊急事態に対する命令を下しています。奥さんがどうなってるのか疑問だったけれど、CIAのトップの席を確保しているホフマンが優先させているのは子供?

    また“世界を救うのは自分だ”とか“自分だけを信じていればいい”とフェリスに言っていた人物の自分とはホフマンのこと。かなり高飛車な物言いに反発を感じていたのがフェリス。血を流し痛い思いをしているのはフェリスだけで、ホフマンは偵察機から映し出された映像を高度調整しながら映像だけで判断して勝手な指示を出しています。保護された安全な世界でツベコベ言っていたホフマン・・それも何かを食べながら命令していることが多かったです。「いい加減にせえよ!」と誰だって言いたくなるのが心情。
                  

    現代の最新機器を使ってハイテク管理するCIAに対して、テロ組織はアナログ派で砂煙を巻き上げて人工衛星のカメラを煙に巻きます。上から偵察されていることを見越したテロ組織の演出はオモシロカッタ! 砂漠に一人放置されたフェリスのもとに三台の車がやってきて彼を中心にグルグル回転させて砂煙を立てておいてからフェリスを連れ去るというもの。三方向に分散して消えた三台の車・・どの車が彼を連れ去ったのか見当がつかないのが最新機器を駆使していたCIA


    映画のタイトルを直訳すると“嘘の世界”、そして原題は“嘘の肉体(
    Body Of Lies)”。世界も肉体も嘘なら真実はどこにあるの? あるいはこの世に真実は存在しない? 嘘の世界で嘘の肉体がぶつかり合って勝負をしても答えは嘘。テロ組織を追いかけていたCIAも、CIAの目を掻い潜って欧州の都市部で爆破行為を成功させたテロ組織も嘘ってことになるよね。

         
     


    そんな中、犬に足をかまれて負傷したフェリスの手当てをしたのがアイシャという女性。
    食事に招待されたフェリスは彼女の姉の家を訪問します。そこで薄型テレビでバスケの試合を観戦していた二人の男の子に出会い、料理についての話が交されました。彼らの言葉によると母が作る料理は不味くハンバーガーやパスタが好きだと・・生まれる国より生まれる世代で嗜好が違うように感じました。


    ラストは監視されていたフェリスがホフマンから離れ、監視の目を解かれます。
    ホフマンと一緒のCIAオフィズでの仕事を要請されたにもかかわらず、彼は危険な中東生活を選択しました。伸びた髭や顔立ちから感じるところフェリスの故郷は米国ではなく中東だったのかもしれません。異国で自分の傷を治療してくれた女性を見つめるフェリスは嘘の世界ではなく真実の世界を見つけようとしたように感じました。ところで問題の“ニンジャズ”の故郷はいったいどこなのか。


    * 監督 リドリー・スコット   * 2008年 作品

    * 出演 レオナルド・ディカプリオ   ラッセル・クロウ


    ★ 映像で何度か繰り返されるアラビア語の中で“インサ(意味はアイニク)”と“インシャラ(神のご加護を)”という言葉が印象に残りました。
     
           YouTube -  「ワールド・オブ・ライズ 」予告編

    PR

    calendar

    S M T W T F S
         12
    3456789
    10111213141516
    17181920212223
    24252627282930
    31      
    << May 2009 >>

    電力切り替えのアドバイス

    wifi のある生活

    パソコンの買取なら

    誰でもず〜っと!

    インターネット選びをサポート

    selected entries

    categories

    archives

    recommend

    recommend

    recommend

    links

    profile

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM