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- 2022.04.05 Tuesday
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スミス家の夫婦の名前はジョン(John)とジェーン(Jane)で、アルファベット10番目のJから始まる似た名前。 南米コロンビアでともに一人旅だったジョンとジェーンは一目惚れの激しい感情の高まりで慌ただしく結婚。 夫婦カウンセリングで結婚五年目を主張していたのがジョンで、結婚六年目だと訂正するのがジェーン。
仲ヨシ夫婦が気付いた嘘だらけの結婚生活。 結婚後 五、六年という年月を経て偽物夫婦から本物夫婦を目指す命を賭けたバトル映画。
バシバシと人が殺されモノが破壊されるなかで危機を迎えていたスミス夫婦は生き残るために戦闘開始! ジョンの表の顔は設計事務所の経営者でジェーンの表の顔はコンピューターのプログラマー。 表の職種は異なる二人ですが、裏の職種は手際よく人を殺す仕事に従事していました。 しかし属していたチームが違っていたので二人は最終的に殺し合いながら愛を確認する理解しにくい映画。
初めの40分程度は落ち着いて鑑賞できるけれど、それ以降は銃の音が騒がしく響き渡るウルサイ映画です。 しかし殺し方の鮮やかさに惹かれて最後まで観ることができました。 それぞれが属していたチームの命令に従って殺すことが得意な二人はウソやニセモノを極端に嫌っています。 「そんなに気を荒げず話し合いで解決しましょう」という言葉は彼らに通用しません。 徹底的にモノゴトを明らかにさせることが彼らの思考形態。 よって話し合いは無理で殺し合いになります。
1941年に製作されたヒッチコック作品のコメディ映画“スミス夫妻”のリメイクらしいが全く笑えません。 ホンモノ夫婦になるための通過儀礼としてこの映画で表現された修羅場をくぐり抜ける必要があるとするならホンモノ夫婦はこの世に存在しないことに・・たとえ存在したとしても殺され殺す被害者と加害者関係になり、この世でホンモノ夫婦が生き続けることは無理かも。
表の顔と裏の顔を使い分けるのが夫婦とするなら絶望を味わうのも夫婦。 裏の顔を知ってしまったために別れる夫婦もいれば気が付かないフリをして三文芝居を演じるのも夫婦。 こんなのはイヤダッ! この世にホンモノ夫婦が存在すると信じることがそもそもの間違い。 夫婦は仮面をかぶってこそ夫婦と呼ばれるわけで過去の因縁によって引き合わされる男と女の関係が夫婦に一番近いような・・
嘘にまみれた現実に対処して生き抜きたくない人は死を選択し、嘘の世界を構成している人たちが長生きするのがこの世の現実? 娯楽映画という触れ込みでヒットした映画だけれど、ツクリモノ映画の割に現実の世にこのような状況が示されるのは偶然それとも必然?
* 監督 ダグ・リーマン * 2005年 作品
* 出演 ブラッド・ピット アンジェリーナ・ジョリー
この映画を娯楽映画と感じる人は危機と隣り合っている夫婦生活に対応できるはず。
日本神話が不具の子と伝えるのが蛭子神。身体的あるいは精神的に何かが欠如している言葉を不具と表現し、イザナギ&イザナミ夫婦の一番目の子が西宮神社の祭神・蛭子神。健全なカタチではないという理由で葦船に入れられ海に流された子がヒルコ。
ヒルコ同様、二番目の子(淡島)も子供として認められなかった理由はイザナギ&イザナミの出会いで女性が先に口火を切ったことが原因になっています。 そこで男性から口火を切ると正常な子が生まれたという話の解釈は口火を切るのは男でなければならない? 戦闘開始(男女の交わり)の合図は男がすべきだったと表現したのが日本神話。
イチニノサンの合図で物事が始まることが多いこの世はワン(イチ)の合図に慣れていないのかも。 イチニを数えるだけ数えてサンが一番目になることが初めから決定されているような感じがする古代日本。 一番目と二番目は初めから存在していません。 蛭子と淡島の次(三番目)に男から女に声をかけて産み直した結果、この世に存在するモノとして“淡路島”は存在し、たびたび神話にも登場しました。
一方 国生みで誕生させた一番目と二番目の子は捨てられ流されたという話の展開で
日本神話の記述から名前だけを残して削除された蛭子と淡島。 その後 日本各地に流れ着いたとする伝承話を多く残しているのが蛭子。 雌雄同体の蛭は吸血・肉食で恐怖の生き物でもあります。 そんな蛭子を祀るのが兵庫県西宮町社家町に鎮座する“西宮神社”。
*** 音楽はエルトン・ジョンの♪サクリファイス♪ ***
首が長く顔も面長の穏やかそうな女性の絵を描いたのはイタリア生まれのユダヤ人“アメデオ・モディリアーニ”。 破滅的な人生を突っ走った彼の絵から受ける印象は静かで落ち着いた空気が伝わってきます。 酒や麻薬におぼれたモディリアーニはますます持病の肺結核をエスカレートさせ、ある意味 自殺のようにしてこの世から消えました。 そして彼の死から二日後、投身自殺をしたのがモディリアーニの妻だったジャンヌ。
二人の愛の物語はこうして伝説になりました。 またピカソとモディリアーニの対立を絡ませながら、彼らの先輩になるルノワールも登場します。 他にも実在する多くの画家が登場する映画ですが、あくまで監督はフィクションであることを強調しています。
“魂が見えたら、その瞳を描こう”というカッコイイ言葉でジャンヌへの愛を表現したのがモディリアーニ。 実在したモディリアーニの絵を観ると瞳がキチンと描かれていない絵もいくつかありました。 ラストのほうの映像でコンペに出品するジャンヌをモデルにしたモディリアーニの絵はジャンヌの澄んだ瞳が描かれていて感動的なシーン。
そしてピカソがコンペに出品する絵に描いたのが相性の悪くいつも対立していたモディリアーニ。 天才二人の考え方や生き方は全く違ってはいるものの、ピカソはモディリアーニに惹かれていたように思います。 ではモディリアーニはというと、彼は生き方が下手でかなりの寂しがりや。 女の母性をくすぐるタイプで、子供時代の8歳のモディリアーニ少年が影響しているような感じ。 男にありがちな出世してお金を貯めて大きな家に住んで・・というタイプとはまるで正反対の破滅型がモディリアーニ。
彼の出身地イタリアで貧しかった両親の姿を目に刻んだモディリアーニは、豪華なサロンで自ら天才ぶりを披露するピカソとは対照的なタイプ。 天才同士にしか分からない何かで強く結びついているようで、ピカソが最後の床で発した言葉は“モディリアーニ”だったらしい。 ピカソの心を占めていたのはモディリアーニだったということかな。
また破滅型男に惹かれてしまったジャンヌは、すべてを捨ててモディリアーニを追いかけました。 二人目の子を妊娠していた彼女は生きて子供を育てる母親の道より死んでモディリアーニと添い遂げる道を選択。 もし残されたジャンヌがその後、二人の子供を育て上げる道を選んでいたら二人の伝説的な愛は誕生していなかったはず。
アヴェ・マリアが流れるなかで多くの画家たちがコンペを目指して筆をふるうシーンが一番印象に残っています。 モディリアーニの苦悶する生き方とは似ても似つかないジャンヌのキレイな瞳を描いたモディリアーニは自覚していた死を受け入れました。 自分の肉体を敢えて死に追い込むようなモディリアーニの生き方は賛否両論あると思うけれど、伝説として語り継がれるためには長生き人生はふさわしくありません。 悲劇的な結末を迎えたモディリアーニとジャンヌですが、その悲劇ゆえにその後を生きる人たちに愛のカタチの一つを示してくれました。
* 監督 ミック・デイヴィス * 2004年 作品
* 出演 アンディ・ガルシア エルザ・ジルベルスタイン
〜モディリアーニが描いたジャンヌ・エピュテルの肖像〜
*** その他の作品はコッチ ***
スウェーデン出身のラッセ監督が創ったスウェーデン語による初期作品。 1994年の“ギルバート・グレイプ”によって日本でも広く知られるようになりました。
舞台は1950年代末のスウェーデンの小さな町。 1957年にソ連(ロシア)が打ち上げた人工衛星スプートニクに乗せられたライカ犬と自分を比べて自分の心の寂しさを紛らわせています。
主人公は悪戯好きのイングマル少年で兄とママの三人暮らし。 パパ不在の三人家族で中心にならなければいけないママは病気で寝込みがちの日々を送っています。
現実はママが病気で咳をする辛い日々ですが、イングマルはママをもっと笑わせてあげたかったみたい・・映画の中で何度か繰り返される元気なママとビーチでふざけるイングマルとママの笑い声。 映像はクリアではなくぼやけているので一瞬の夢なのか、イングマルの記憶に残るママなのか。
本を読むのが好きだったママはベッドでいつも本を読んでいました。ホントはママを喜ばせママの笑い声を聞きたかったのに現実はママを困らせてばかりのイングマル。人類進歩のため人工衛星に乗せられた犬は死ぬために宇宙に飛び立ち餓死。そんな犬の辛さに比べればマシだと自分を何とか納得させているイングマルは結構大人です。
田舎のおじさんの家に預けられることになったイングマルは相変わらず周囲に面倒をかける男の子。 でも何故か女の子や大人の女性にもてるイングマル。 優しいお姉さんのボディガードとして芸術家の家を訪問した際、そのお姉さんのヌードを見たくて屋根から転落! でもキチンとお姉さんのヌードを見ることができた彼の表情は緩みっぱなし。 コロコロ変化する少年の表情がこの映画の一番の魅力!
そして幼いイングマルは大好きだったママと死別、飼っていたシッカン(犬の名前)とも再び会えない事実に接し失うことの辛さを体験します。 その時選んだイングマルの行動がいじらしい。 どこかその辺の大人のようにウダウダ愚痴をこぼして周囲を不快な気分にさせるのではなく、宇宙のゴミにされたライカ犬のようにワンワン鳴くだけ。
ホントはたまらなく辛かったイングマルだと思うけれどライカ犬の辛さを思い出し何とか耐えていたのかも。 そんな彼の心情を察することができる大人たちに囲まれていたイングマルは幸せダッ! ママをもっと笑わせたかったイングマルが失うことの辛さを克服し、さらに成長すれば恋人を笑わせ周囲の人たちの心を和ませる青年になれるんだろうな。
ママのことをいつも気にかけていたイングマルが辛い時に語りかけるのは人ではなく満天の星空。 言葉のゴミを吐き出さなかったイングマルの目は輝いていました。
何ということもないストーリーなのに心の奥が震えるのはイングマルの清い心と人を笑わせようとする仕草。 ビーチでひっくり返るイングマルとそれを見て笑うママの笑い声が一番心に沁みました。
* 監督 ラッセ・ハルストレム * 1985年 作品
* 出演 アントン・グランセリウス アンキ・リデン
☆ 流れる日常の瞬間を切り取り美しいものに変えるラッセ・カラーの風土はスウェーデン。
100年は一世紀でその半分の半世紀は50年、そしてそのまた半分の25年は四半世紀という言葉で表現されるように一世紀を区切る節目(四分の一)にあるのが25年目。 米国でもクォーター(quarter)という通貨があるぐらい世界的区切りを意味するのが四半世紀の25年目。 日本の歴代天皇で25代目にされたのが暴虐な行為で名高い“武烈天皇”。 25代目ということから想像すると一つの節目を迎えていた時代だった考えられます。
25代目天皇の暴虐な行いを詳しく表現しているのが日本書紀。 古事記は武烈天皇の暴虐的描写はなく、日本書紀だけに限って武烈天皇は悪の根源のような人物になっています。 すさまじい暴虐の数々を実践したという風に記された武烈天皇は日本書紀編纂者たちの好みではなかった? もし現代の世に武烈天皇が存在すれば裏でつるむ談合を見過ごすことはなかったはず! 自分たちの思う通りにならない天皇は史実(?)を書く上で都合が悪く、25代目をもって消される運命にありました。
*武烈という名前が示しているようにその残虐性の中身は以下のような感じ*
“妊婦の腹を割いてその胎児を見る”とか“人の生爪を抜いて山芋を掘らせる”のが在位二年目(当時11歳)から三年目。 四年目になるとその乱れた行為はエスカレートし、人を木に登らせておいてその木を切り倒したり木に登った人を弓で射落としたりしています。 ということは木に登る人を好んでいないのが武烈天皇。 猿も木から落ちるように人も木から落ちるように仕向けています。 落ちる人物の代表・スサノオノミコトの血脈を受け継いでいるのが武烈天皇?
一般民衆をいたわることはなく(仁徳天皇とはまるで反対タイプ)美食家で夜毎酒や女に溺れた日々を重ねました。 その一方ではこんな矛盾する記述も・・法令に長けていて無実の罪は絶対に見抜き正しい裁判を行った。 悪いこともたくさんしたけれどイイこともした人間らしい天皇が武烈天皇? しかし日本書紀編纂者が好むのは当たり障りがなくイイコトだけをする天皇なので25代目・武烈天皇は日本の心機一転のタイミングで消される必要がありました。
実在説を疑われている天皇で、後の世を生きる私たちの理解できない範疇に入る天皇はすべて存在しない人になっています。 天皇というイメージとかけ離れた天皇は否定するというのが現代の人たちの思考傾向で面白くない考え方! 当たり障りがある天皇こそ実在性が高いように感じます。 イイコトだけで包まれている人物こそ疑ってかからなければいけないんじゃないのかな。 取り澄ました外見の腹に何を抱えているのか分からないのが人間。 そういう面で考えると無実の罪を誰かになすりつけた悪人を見抜くことができた武烈天皇は正義の味方ということに・・
また武烈天皇の皇太子時代(10歳以下の少年時代)の不器用な恋の話も伝わっています。 恋をした相手は“影媛”・・初めから実らない感じがする名前の女性に恋をしてしまった武烈クン。 皇太子時代にすでに自分の配偶者を決めつけていた融通がきかない男の子。 この世に女ならいくらでもいるというのに武烈クンは影を選んでしまいました。 この段階で悲劇は始まっています。
武烈クンが愛した影媛にはすでに恋人がいました。 その名は平群真鳥(へぐりまとり)の息子・鮪(しび)。 鮪はマグロと読むので影媛とマグロは黒同士で相性はいいはず。 周囲の誰もが認める相思相愛関係の二人に割いて入った武烈クン。
勇気ある行動で三角関係に持っていこうとしたけれど影媛はすでに鮪と通じ合う関係にありました。
イイことなしの皇太子時代から天皇に就いて八年・・武烈クンは若い命を終えました。 20年にも満たない人生の中で失恋し暴虐な行為で民衆の反感を高めた武烈クンは武烈という名前に恥じない時を過ごしたと思います。 皇位継承者を持たなかった武烈天皇はやりたい放題の自分であり続けました。 そんなやりたい放題の時代は幕を下ろし新たな天皇を迎え入れる時代に登場したのが近江国生まれの継体天皇。
新たな風で一掃するべき時代にあったのが25代目・武烈天皇の頃。 記紀ともに認める応神天皇五世の孫が継体天皇・・降ってわいたような話がまたしてもスタートします。 そんな降ってわいたような話の前に置かれた武烈天皇は人間らしい一面を覗かせてくれました。 記紀が伝える武烈天皇の治世は八年に達していたことを想像すると、何かを突き抜けることができたのが武烈天皇だったように思います。 たとえ実在していなくても武烈天皇という武烈さは日本人の心に不快に刻まれました。
ツルハシを持って穴を掘る囚人が映像化されることが多いのが映画の世界。 そんなオープニングで幕が開くこの映画の主人公は刑務所に服役中の囚人・ネッド&ジム。鎖で足をつながれた二人は離れたくても離れることができない腐れ縁関係の男と男。タイプが異なる二人は塀の中でも塀の外でも常に一緒に行動していました。
塀の中の二人は従順ではありません。 看守の命令に従わなかった彼らはドサクサに紛れて死刑執行時に死刑囚と一緒に脱獄してしまします。 二度と元の場所に戻りたくなかった二人を応援したのが巡り合わせた偶然のタマタマ!
この先どうなるか分からないまま森の中で一夜を明かした二人は、この町の教会が待っていた二人の神父に勘違いされてドタバタ喜劇が始まります。ビクビクしながらも偶然に身を委ね、過去の自分から新たな自分を創造する映画という風にも感じます。
腐れ縁で悪に染まっていた二人は鎖を断ち切り、最終的にそれぞれが目指す道を見つける過程がオモシロイ。
映画に限らず断ち切りたい縁を引きずることでいつまでも不幸に見舞われることがあるように、絡まる縁を一度は断ち切ることが必要なのがこの世のシステム。相棒関係にあった囚人のネッドとジムは、今まで触れたことのない修道院生活が始まります。
町の人々は神父というだけで崇め奉る空気がある中、一人で聾唖の娘を育てていたのが神より金を信じていたモリーという女性。 5ドルで男に身を任す彼女は信仰も神の教えもすべて信じない女。 でも5ドルは安すぎると思うけどネ。 しかし娘を育てていくには愛情よりまずお金という彼女の判断は正解だと思う。 “同情するなら金をくれ!”という言葉を思い出しました。
教会でいつの間にかブラウン神父という名前と職業にされてしまったのがジム。
教会内部でブラウン神父と呼ばれているいるうちに、いつしかジムはブラウン神父そのもののように聴衆を前にして説教するブラウン神父になっていました。 ヘブライ人の手紙をたまたま覚えていたジムが神父に間違えられ、しだいに囚人から神父らしくなっていったのがジム。
一方 俗世間の垢にドップリつかっているのがネッド。 自分が今いる場所と隣国カナダの間を流れる川に架かる橋を渡れば自由の身。 何度も国境越えに挑戦しますが、寸前でその願いは見事に破綻! しかし最後に聾唖の女の子を助けるため急流の川に飛び込んだネッドを助けたのが涙の聖母。
奇跡と呼ばれる出来事を国境になっていた橋の上で示したネッドに心惹かれるようになったモリー。 橋の上でジムは自分を神父と認めてくれた教会に戻り、ネッドはモリーと一緒に橋を渡っていいところへ・・こうして長く続いた腐れ縁は断ち切られました。 神父の服を着ても全く神父に染まらなかったネッドと神を信じなかったモリーは奇跡を体験し、独力で橋を渡ることができました。
* 監督 ニール・ジョーダン * 1989年 作品
* 出演 ロバート・デ・ニーロ ショーン・ペン デミ・ムーア
☆ 天使が登場しないこの映画で、洗濯バサミのついた服を着ていたジムに何の不信も示さず自ら洗濯バサミを後ろ襟につけた女性的男性が一番天使に近かった。
今という時期だけ鑑賞できるのが八の字型で寄り添う紅白の梅。 場所は“大阪天満宮(大阪市北区天神橋)”の拝殿で、紅梅は樹齢280年の“唐衣”そして白梅は樹齢110年の“あけぼの”。 どちらも小さな鉢に植えられています。 大地に根を張らず鉢植えにされても枯れずに長寿を維持できる梅の生命力はスゴイ! 根を張らないからこそ空を飛ぶことが可能だった梅。 天神様と歩む細道は春満開。
何度か訪れている大阪天満宮・・今回 新たに発見したのはア(男)とン(女)の狛犬がココ天満宮ではアとアで左右の狛犬は口をアングリと開けています。 ため息交りの“嗚呼”なのか“アア分かった!”のアアなのか、“アアでもないコウでもない”のアアなのか・・アアそういえば境内の北の隅に隔離された牛がいました。
檻に関係しているのは牛と鹿と狐。 さらに拝殿・蛙股にはネットで覆われた龍。
檻に入れたりネットで覆ったりすることでよけいに目立つ存在になっています。
*** 現在 “盆梅展(3月8日まで)”の開催期間中 ***
盆梅を記念して作った動画のバックに流れる曲は♪アンチェインド・メロディ♪
独特の透明感が感じられるパンフルートの演奏によるもの。
タイトルの“グラディエーター(gladiator)”を調べると『古代ローマの剣闘士』という風な説明がされていました。 剣を握って闘う人すなわち殺し合いをする人のことをグラディエーターと呼んでいます。 映画の中で人と人が殺し合う場所は古代ローマの円形闘技場“コロシアム”。 殺し合うのを喜んで観ている当時の民衆の心は如何なるものか。
“ローマは一日にして成らず”の諺通り領土拡大を目指し、その拡大のためにエネルギーを注ぎ続けたローマ帝国。 他民族の土地を手に入れるためには戦争で勝たなければならず、兵士を率いてローマ皇帝のためにローマに尽くそうとしたのが主人公マキシマス。 妻と息子が待つ故郷に帰ることを夢見ていたマキシマスは、家族の存在を支えにローマに愛を捧げて果てた軍人としてこの映画は彼を描いています。
時は西暦180年、ローマ帝国の皇帝はマルクス・アウレリウスという老齢に達した男。 彼は息子コモドゥスに皇位を譲らず、息子以上の愛情で接していたマキシマスに皇位を譲ろうと考えていました。 コモドゥスは君主となるための四つの徳(知恵・正義・忍耐・自制心)は持っていなかったけれど人の上に立つのに必要な野心を持っていました。 父の愛情が自分に向けられていないことを知ったコモドゥスは父を殺害し自らがローマ皇帝に・・事態の急変に不信を抱いたマキシマスは殺害される寸前、何とか自分のチカラで復活します。
途中で何度もマキシマスの故郷に対する憧れのような広大な土地のフラッシュバック映像が入ります。 オープニングもラストも麦畑をゆっくり歩く彼の姿は、単に戦争映画だけではないことを伝えています。 血で血を洗うコロシアムでの目を背けたくなる殺し合い映像と対比させて表現されていた死に瀕したマキシマムがイメージする故郷の美しい景色。
マキシマスは故郷で自分の妻と息子が惨殺され木に吊るされた無残な姿を目にしていました。 指示したのは新たに皇帝になったコモドゥス。 そして最終的に皇帝コモドゥスと奴隷の立場にあったマキシマスはコロシアムでコロシアイをするというとんでもない事態に発展します。 遺跡として名高いコロシアムの中でこんな殺戮が行われていたのかと思うとショック! それと同時に殺し合う現場を劇のように楽しんでいる一般民衆はアホか。
リドリー・スコット監督の計算されつくした映像と音楽そして哲学的会話は強烈なインパクトがありました。 特に皇帝がコロシアムの観衆を前にして闘いの裁きをするのに親指を上にしたり下にすることでグラディエーターたちの生死が決まります。 そしてそれを見て喜び興奮する民衆。 一番アホなのは誰なのか。 自分よりローマの将来に命を捧げたマキシマスはコロシアムでコモドゥスを倒し多くの観衆の前で死にました。 彼の死を目にした民衆こそがこれからのローマを築く原動力にならなければいけないと感じました。
* 監督 リドリー・スコット * 2000年 作品
* 出演 ラッセル・クロウ ホアキン・フェニックス コニー・ニールセン
☆オープニングに映し出された風に揺れる麦畑はマキシマスの故郷に続く道でした。
お茶漬けの友といえばウメエ梅干し・・しかし昔の人のこの言葉によると梅の核には天神が寝ているので気をつけろ!という表現がなされています。 おいしいオイシイと無闇矢鱈にパクついているとロクなことにはならない戒めが込められているように感じます。 そういえば梅と天神との親密な関係が表現された歌がありました。
東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春を忘るな
“匂草”あるいは“春告草”という別名を持つ花は梅。 暦がない頃の農家は梅の開花で農作業の準備を始めました。 いい香りとともに春の到来を教えてくれる梅を愛したのが平安時代の学者で政治家の菅原道真。
京の都から離れる際、愛する梅との別れを惜しんで詠んだのがこの歌。 道真の梅を愛する心が通じたのか、屋敷の庭に生えていた紅梅の木の一枝が大宰府まで空を飛びました。 左遷された道真を追って西方に飛んだのが“飛梅”という梅。
寒さに強い梅が目指そうとする方向は太陽を背にして進む西。
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
歌に詠まれた“この花(木の花)”というのは日本人好みの華々しく散る“桜”ではなく道真が愛した“紅梅”だと言われています。 他の生き物にとっての冬ごもりタイムが梅の春。 虫たちがモゾモゾ動き出さない状態の中で開花する梅は静かな時を求めてる?
梅の故郷は西方にある静かなトコロ。 紅梅に降り積もった雪が白梅の役割を果たし、冷たい雪と紅い梅が一体化した景色は美しい。 飛翔力を持つ梅の故郷は雪で覆われた白い国。 そんな紅梅を愛した道真は死後 雷神になって都の人々を恐怖に突き落としました。
我が園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れ来るかも 大伴旅人