スポンサーサイト
- 2022.04.05 Tuesday
一定期間更新がないため広告を表示しています
- -
- -
- -
信州信濃の新蕎麦よりもわたしゃあなたの傍がいい
口にすることができる蕎麦と口にすることができない傍とどちらか一方を選べと言われ傍を選んだのは多分 “側女(そばめ)”。 そして蕎麦を選ぶのは正妻?
冒頭に示した歌は都々逸(どどいつ)と呼ばれているもので、どいつもこいつも男と女の歌を詠みました。 今日は傍より蕎麦が注目される2008年の最終日。
収穫までの期間が短く荒地や乾燥地にも耐え冷たい気候を好む蕎麦の産地は信濃国。 寒いことは腐らないこと。 寒い大晦日に寒冷地で育つ蕎麦を食べる習慣の日本人が求めた最後は腐らないことだった?
そば時や 月の信濃の 善光寺 小林一茶
牛の隣人だった不信心の強欲老婆が晒していた布を自分の角に引っ掛け駆け込んだのが善光寺。 牛と蕎麦と善光寺の三つが関わっている地域は信(神)州。 このウシクン・・ 不信心で強欲老婆を嫌って一目散に目指したのが善光寺でした。 老婆のそばに居ることに耐えられなくなった牛は、善光寺のソバを目指しました。 強欲な人のソバにいるより清涼な空気が漂う善光寺のソバを選んだウシクン。
黒い蕎麦にアレルギー反応を起こしてしまう人もいますが、善光寺に駆け込んだ牛は常に天神のソバが好きで側女のように寄り添っていました。 正妻の立場より側女の立場を好む女性は赤白より黒白を好む女性だったのかも。 闇にとろける牛と黒い蕎麦と“遠くとも一度はまいれ善光寺”と言われた善光寺。 信州信濃出身の一茶が愛したそば時の善光寺は遠い遠い遠い国だった!
今日のテレビで日経平均が年初から42%も下落して大納会を終えたという報道がありました。 子年だった2008年の日本経済は、鬼の通り道と交わるようにして北西方向から南東方向にストンと落ちました。 来年は丑年・・ モ〜こんなのはイヤだと言って牛が立ち上がってくれればいいのですが、北野天満宮のマダラ牛は背中を丸くして猫のように寝そべっているだけ。 もう少し “待ったら” という牛の声が聞こえてきそう。 ゴロゴロしている牛が “ブル(bull)” パワーを発揮する時までマッタラいいということ?
雷神になった菅原道真と一体化したマダラ牛がブルになれるかどうかが問題! 弱気だった“bear” から強気の“bull” に変換できれば未来は明るい。 マダラ牛の背中を優しく撫でて立つように言ってこなくっちゃ。
お節料理の代表的一品は黒豆煮。
“烏豆”とも呼ばれている大豆の一品種がオセチを彩ります。
黒豆を煮ると烏の濡羽色のようにテカテカしてくるのが黒豆の特徴。
新年にふさわしい(?)テカテカブラック。
闇から光が誕生したという旧約聖書の話はもしかして黒豆やカラスのテカテカ?
キラキラした光ではなく闇にとけるテカテカを愛したのが日本の太陽神。
自分の足でテクテク歩けば、
自分のテカテカした宝物を見つけることができるような予感!
葉がモコモコした常緑樹より葉をすべて落とした落葉樹が緻密な空を描きました。
すべての葉を落として見えてきた繊細な樹木の一面。
寒さが教えてくれた自然界の“緻密”な芸術!
凍りつく寒さは美しさへの架け橋でした。
日本の童歌の一つ “通りゃんせ(作詞者不祥)” の歌詞に出てくる天神様の細道というのがあります。 天神様はハイスピードの高速道路を通るのではなく細い道を通ることが示されている歌。 山道に迷い込んでしまって方向を見失えば、遭難してしまう可能性がある恐怖の細道はもしかして天神様の道? 夕闇が迫り辺りの視界が遮られる状況になれば余計に恐怖の度合いが増し、精神的パニックに陥ってしまう可能性もあります。
通りゃんせの歌詞の最後に出てくる “行きはヨイヨイ帰りはコワイ” というコワイ状態の帰り道。 山奥の小道に迷い込んだ人は帰って来れない危険性があったのかも。 でも細道は天神の専用小道。 天神様を心から信じれば恐怖のコワサは和らぐように思います。 人と違うから駄目!という考え方は常に人の目を意識して行動しなければいけません。 人のための自分ではなく自分のための自分になるためには天神の専用小道に紛れ込むのも一計。
ヨイヨイという言葉もグッドの意味で使われているのではなく、手足が麻痺して歩行困難を伴う状態をヨイヨイという言葉で表現することがあります。 そこでどうにかこうにかヨイヨイ環境の主人公がココ(細道)までやって来た結果、帰りのコワサは恐怖のコワサから力を備えたコワサ(強さ)に変化したという考え方も成立するわけで・・ 人が通らない細道という言葉が示す背景にあるのは、通常の考え方ではない思考で迷いが生じて細道に紛れ込んでしまったように感じます。
多くの人の考えに従わず自分で考え行動した結果とんでもない細道に迷い込み、心身ともに疲れ果て開き直ったヨイヨイの主人公は震えるヨイヨイから逞しい強さ(こわさ)を身に付けたように思います。 目に見えない何かに守られている自分を知ることができた人物がこの歌の主人公だったのでは・・
そんな細道を管理しているのが天神様で、この世に存命中の名前は菅原道真。 歴史が伝える話では、政治的不遇の扱いを受けた道真は死後の世界でピカッと光ってスト〜ンと落ちる “雷神” になりました。 雷神が発生する時は同時に風神や雨師が関わることが自然現象の常。 雷・風・雨は三者一体化して地上の人間世界に何らかの影響を与えています。 神の光を象徴する雷や神の息を示す風は“神”と表現されますが、雨を管理するのは神ではなく技術が求められる“師”。
静かな深山を好んだ雨師が道真の人生のコントロールをしたかもしれず、結果として道真が祀られる天神社には必ず牛が居合わせることになりました。 天神様の境内に同居している牛の像は足を横にして常に寝そべって(臥牛)います。 自分の足でふんばろうとしなかった牛の足の真実はヨイヨイだった! そんな状態の牛が天神様の小道に入ってからというもの、コワイモノはなくなったという解釈は一般人の道から外れているように思います。 が・・ 真実は誰にも分からないというのが真実。
単に火を発火させることだけが目的ではなく、オケラを燃やして発生する煙の方位が新年の吉凶に影響を及ぼしていたらしい。 風の影響を受けて流れる気まぐれな煙が新年の豊作・不作を決定していたってことですよね。 アテにしにくい煙がかつての日本の将来を占う役目を担っていました。 その前にまず火が点くかどうかが問題で、憤怒の形相を表していた牛頭天王は怒りの火が点いていたように思います。
ウジウジしているように見えても最後は目的を達成できる生き物が牛! 食べた物を戻して何度も反芻する牛は、消化活動のノロサも天下一。 鈍いと非難される牛は、天神・菅原道真を乗せて大宰府に下ったという話も伝わっています。 ロバの背に乗ることが多かったキリスト教世界の聖家族。 日本では天神様が牛の背に乗って日本の西を目指しました。 トロイ牛やロバを好むのは天に関わっている人たちで、トロイと言われれば言われる程 火花が飛び散るタイプだったのかも。
また “牛に対して琴を弾ず” という諺の意味するところは、魯国の公明儀が牛の前で高尚な曲を琴で弾いたらしいが牛は素知らぬ顔で草を食べ続けたという故事から成立した言葉。 言っちゃ悪いが(チットモ悪くないと実は思ってる)牛に琴を弾いて聞かせようとする人間の頭の方がイカレテルのとちゃうのん。 自分のペースを乱されたくなかった牛はトロイなりにいろいろ考えていたのかもしれません。 風が吹くまま気の向くまま、煙の流れに左右される日本に合う動物はやはり牛のような感じ。
“牛にひかれて善光寺参り” という諺の由来は、善光寺近くに住んでいた不信強欲の老婆が晒しておいた布を隣家の牛が角に引っ掛け走ったのを老婆が追いかけたどり着いたのが善光寺だったという話がベースになっています。 スペインの国技になっている闘牛士が振りかざす赤い布に向かって行くのが牛。 赤色を判別できる可能性があった牛の角に引っ掛けた老婆の晒しの布とは赤い腰巻? 牛はユラユラ揺れていた晒しの布が好きだったのかそれともその布に苛立ったのか。 どちらにしてモ〜、ユラユラしたものに向かって行くのが牛の習性。 赤色か白色の揺れる晒しの布に興味を持った乳を垂らす牛が2009年を背負います。
絵画の方に目を向けると、エリザベトから生まれた聖ヨハネは何故か聖母子のそばにいることが多いように思います。 似たような時期に生まれたキリストとヨハネを区別するものは、ヨハネの持ち物とされている十字の杖。 下の絵は 『聖母子と幼児聖ヨハネ』 と名付けられた“コレッジョ”作品。 ちょっと見にくいですが、十字の杖を持っているのは手前の後姿の男の子。 マリアの目線やキリストが開いた両手は聖ヨハネに向かっています。
幼い割に自分の足で立ち、両手で十字の杖を持つヨハネ。 マリアは素手(右手)でヨハネを支えているのに対して、マリアの膝に腰かけたキリストを支えるマリアの左手は白い布で覆われています。 この三角関係をどのように理解すればいいのか・・
マリアの右足を覆うブルーの衣の上に立つ十字の杖を抱えた男の子は、両手を広げるキリストを洗礼する立場にありました。 一方は手を広げる救世主キリスト、もう一方は十字の杖を大事そうに抱えている聖ヨハネ。 対照的な感じがする二人は、洞窟内部に射し込む光を背中に浴びるのがキリストで正面に見るのが聖ヨハネ。 キリストが救世主として歩むべき道を創造することができたのも聖ヨハネ。
洞窟内部に創造された三人が形作る聖なる三角形は、見る者を安心させる何かを秘めていました。 生きていくうえで最も大切な“安心”を創造することができたのが聖母子と聖ヨハネ!
今年2月から『あとん』にある意味を込めていろいろな想いを綴ってきました。 その込めた想いとは“ア”と“ン”の間にあるト(戸)を取り除いて五十音の初めのアと最後のンのアンを手に入れること。 安全性がないこの世で安心できるアン、そして辛口より甘口のアンコのアンを自分のものにするため思いつくままいろいろなことを書いてきました。 “あとん”の間に塞がっていた戸(壁)を取り除くことは人間関係においても大切なことだと思います。 特に大切な人との戸はなくさないとネ! 風がス〜ス〜通り抜ける割拝殿の神社のように、本殿と拝殿が一体化した本とハイがエスマルの理想です。
そして異次元の世界を展開してくれているディズニー映画にディズニー音楽さらにディズニーランド。現実逃避の世界だと分かっていても、イヤな現実を生き抜くためにはエネルギー補給をしないといけないので異次元世界(歌)のスモール・ワールド効果は絶大! 現実を逸脱して見えてくる世界は、ビッグではなくスモールであることを認識できることは大切だと思います。
世界経済を論じるより、好きな人がそばにいること。
将来のことを案じるより、好きな人が笑ってくれること。
世界各地で絶えない紛争を語るより、好きな人と一緒に眠ること。
大きな世界に触れて感じることは、自分が好きな人に出会えるかどうか・・
もし出会うことができれば、それは決してスモール・ワールドではなくビッグ・ワールド。自分だけのビッグ・ワールドは自分だけにしか創れない。スモールでもビッグでも自分のオリジナル解釈が世界を少しずつ変えていくように思います。今年2008年はティズニーランドの主役ミッキークンの年でした。もうすぐしたらお正月・・ そして新年は丑の年。
風の神は風神、雷の神は雷神そして雨の神は何故か雨神ではなく“雨師(うし)” なんです。風や雷は神になれるのにどうして雨は師なのか。また大人と書いてウシと読む大人は支配する人や貴人の総称。小さな子(ネズミ)の2008年から大きな丑(大人)の年に日本経済がジャンプできればいいんだけれど・・・