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    岩になれ!

    • 2008.09.30 Tuesday
    • 23:43
    「私について来なさい」 とイエス・キリストが自ら指名した人物は12人いたという話が記されているのは新約聖書。 まず初めにキリストが自分の弟子にふさわしい人物として目をつけたのが、兄弟二人とも漁師だったシモンとアンデレ。 彼らに言ったキリストの次の言葉は、 「魚を獲る漁師ではなく人間をトル?漁師になりなさい。」 
    人間をトルことの意味が分からんのですが・・ 広辞苑にトルは照るという昔の方言が記載されていたので “人間をトル” とは “人間を照らす” という風に理解したいと思います。

    パレスチナ(イスラエル)北部にあるガリラヤ湖を舞台に話か展開します。 それまで全く釣れなかった魚がキリストに出会って突然 網にかかるようになりました。 奇跡を目の前にした兄弟は、キリストの神性を信じないわけにはいきません。 こうして一番目の弟子がペテロと二番目の弟子がアンデレに決定!

    ある日 キリストは一番弟子のシモンに言いました。 「今からお前はペテロだ。」 と・・ 
    唐突に自分の名前を変更されたシモン。 ペテロとはギリシア語で “岩” を意味する言葉になり、 「私はペテロ(岩)の上に教会を建てる。 そして天国の鍵をペテロに捧げよう。」 という言葉を発しました。 ペテロが岩ならペテロの上に建てられた(捧げられた)教会が鍵ということになるのですが・・

     

                   これは “天国の鍵を受ける聖ペテロ” 
       と題されたイタリア人画家・ペルジーノが1481年〜82年にかけて描いた絵です。

             
                 教会の長を表す金色と銀色の鍵を授けている場面

    ポイントは一番弟子のシモンをペテロ(岩)と名付けたこと。 岩の上に教会が建つと岩(シモン)が見えなくなってしまいます。 そこでキリストはシモンに鍵を与えて、ペテロという岩から真実の自分自身(シモン)を出すように迫ったのではないか・・ キリストは一番弟子だったシモンのホントの姿を見たかったのではないかという気がしてなりません。 果たしてシモンはペテロという岩から飛び出すことができたのか。 それを知っているのはシモンを岩にしたキリストだけ!

    もう一人の天孫

    • 2008.09.30 Tuesday
    • 22:07
                

    天照大神の孫(天孫) “ニニギノミコト” が、九州日向の高千穂峰に降臨したことはよく知られていますが、ニニギノミコトは一人っ子ではなく兄がいました。 天孫と呼ばれる立場にある人物は、ニニギノミコト(次男)と天火明命(長男)の二人。 天孫といえばニニギノミコト一人という風に理解されていますが、“天火明命(あめのほあかりのみこと)” も天照大神の血を引く孫。

    しかし記紀ともに天火明命に関する詳しい記述はありません。父親はスサノオノミコトとの間に交された誓約で誕生した天照大神の第一子(天忍穂耳命)。 そして母親は高御産巣日神の娘だった万幡豊秋津師比売(よろずはたとよあきつしひめ)であると明記されているのは古事記。 日本書紀はニニギノミコトがコノハナサクヤヒメを娶って生まれた子としています。

    そういえば自分の身の潔白を証明するため、コノハナサクヤヒメが火中出産した三人の子のうち、海幸彦(火照命)と山幸彦(火遠理命)の間にもう一人の男の子・火須勢理命がいました。 海にも山にも偏らない性格だった可能性があり、火須勢理命もほとんど物語に記されていません。 もしかすると火須勢理命と火明命は同一人物である可能性も秘めているのではないか。 共通点は、記紀ともに名前は記されているけれど役割は何もないということ。 
              
    また天忍穂耳命がタクハタチヂヒメ(万幡豊秋津師比売の別名)を娶って産んだ子が “天照国照彦火明命” という風に明記されているのが日本書紀一書。 名前から想像すると、天も地(国)も明るく照らす神のように感じます。 天地(上下)どちらも照らすということはこの世では支持されにくいようで、天照国照彦火明命を調べても明確なストーリーはなく ただ尾張氏の祖神であるということが書かれているだけ・・

    そんな火明命が播磨国風土記(飾磨の郡)の “伊和の里” という地名説話に登場していました。 火明命は大汝(おおなんじ)命の子として紹介され、スサノオノミコトのように猛々しい性格だったということらしい。 大汝命というのは大己貴神のことで、火明命の父親が大汝命(母親みたいな名前)ということになります。 父親は荒々しい性格の息子を持て余し、この子をどこかに棄ててしまおうと決心!  そこで親子は船に乗り込んでやって来たのが “因達(いだて)の神山” というトコロ。  因達の神山って船で行ける場所なのカナ?

    父は息子に水汲み(?)を命じ、その隙に息子から逃げ出す計画を立てていました。 
    水を汲んで戻ってきた息子は、父に棄てられたことを悟ります。 火明命は当然 激怒!
    大汝命が乗った船は息子が引き起こした波風で前進できなくなり、その結果 船は沈没そして積み荷が散乱という非常事態を迎えました。 しかし状況判断すれば当然 このような事態は想定されると思うのですが・・

    それにしてもこの話は不可解で納得がいきません。 スサノオノミコトもワアワア泣いているだけで故郷を追放されたことがありました。 火明命も荒々しい性格だったということですが、父に水汲みを頼まれ素直に水を汲みに行く息子がそんなに荒々しい性格だったとは思えません。 素直であるが故に父に棄てられたことを知った息子の落胆と怒りを想像すると、きっと普通では済まないはず。 原因があって結果が出るとするなら、この話の結果は大正解!

    高天原住人に追放されたスサノオノミコトも、イザ!となればチカラがあったので高天原グループからすると恐怖の対象になっていたのかもしれません。 火明命もスサノオノミコトタイプで、イザ!という時になれば巨大なチカラが発揮されるのかもしれません。 父・大汝命もそんな息子を恐れて棄て去ろうとした可能性も・・
           
    兵庫県龍野市竜野町日山というトコロに “粒坐(いいぼにます)天照神社” というのがあって、祀られているのが天照国照彦火明命。 古代日本に降臨したとされるニニギノミコトの兄であり、海にも山にも偏らない真ん中の子・火須勢理命の可能性がある火明命が祀られている神社名はイイボニマスアマテラス神社。 天照神社である限り天照大神との関係は深いはず。 天照大神の男性的要素を担う一面が、天照国照彦火明命に託されていたのではないかという結論になりました。

    A Hazy Shade Of Winter

    • 2008.09.29 Monday
    • 23:39
                  

    今日は夏の暑さから一転・・ 雨が降って寒かったので 『冬の散歩道』 を選びました。 
    作詞・作曲したのはポール・サイモン。 1964年にデビューした “サイモン&ガーファンクル” という身長差がある二人のうちの背が低いほうの人物がポール・サイモン。

    卒業という映画に使われていた 『サウンド・オブ・サイレンス』 や 『ミセス・ロビンソン』 
    他にも 『ボクサー』 や 『明日に架ける橋』 など数えきれないぐらいのヒット曲がある二人。 そのほとんどの曲の作詞・作曲を手がけたのがポール・サイモン。 
    ほとんど何もしてないように見えるガーファンクルは、ポールのそばにいることが大切だったように思います。 (ナニソレ!)

    冬の散歩道の原題に使われている “hazy” という言葉は、ぼんやりした状態でモヤにかすんで見にくいという意味があります。 太陽がサンサン照り輝かない場所では、見にくいし雪道ではスリップ事故を起こしやすい。 ある程度長く生きていると、ほとんどの人が冬の見にくい景色に出会います。 そんな状況から脱出して春を迎えるためにしなければいけないことは、見にくいことを受け止めそこで慎重に事故を起こさず乗り切って春を迎えようとするクマのプ〜さんのような過ごし方。 早い話 いいことが起こるまで寝て過ごすというヤツ。 
    別名を冬眠とも・・

    Time Time Time と三回くり返されるタイムという言葉から始まるこの曲は、イントロ部分が少なく最後の盛り上がりに向けてハッハッという荒い息遣いのところに到達します。 
    そしてハッ!で唐突に終わる幕切れ。 エスマルはサイモン&ガーファンクルの曲のなかで、ミセス・ロビンソンと並んでこの曲が好きです。 冬の散歩道を聴くときの楽しみは、最後のあのハッ!を聴くためだったように思います。 リズムに合わせて一緒にハッ!と息を吹きかけると意外に元気をもらえる曲。

    カサノバ

    • 2008.09.29 Monday
    • 22:03
       

    女を喜ばすためなら何だってしてくれそうな女の中の男(?)は、18世紀 イタリアに実在した作家であり猟色家としても名高いジャコモ・カサノバ。 彼にとって最も大切なことは女の肉体的官能・精神的官能を高め極めること。 いい方に考えてあげれば女を磨こうとする奉仕精神にあふれた男であり、普通に考えれば女たらしの遊び人がカサノバ。

    時間とともに恋愛の達人になった男カサノバの名前を受け継いだ別の男がいました。
    彼が執筆した一万ページに及ぶ回想録に書かれていた女との情事とは別に、世間に公表されていなかった秘密の女が存在していたという設定で物語は始まります。 世間で知られているプレイボーイのカサノバとは異なる男とその男が愛した男のような女の愛の物語。

    真実のカサノバの人生に深く関わった可能性がある女は、カサノバの愛に疑問を投げかけた女フランチェスカ。 彼女のカサノバに対する見方は女の誘惑に人生を捧げる放蕩者。 一方 カサノバが語るカサノバは至福の体験を追求する哲学者で、二人が描くカサノバ像は全く異なっていました。 しかしフランチェスカは目の前にいるカサノバを別の男サルヴァトと勘違いして話は奇妙に盛り上がります。
                           

    快楽と退廃そして水の都ヴェネチアを舞台にして、カサノバの秘密が明かされるアメリカ映画なのでイタリア人のカサノバですらイタリア語を話しません。 一途に女を求めるだけのカサノバではなく、求めた女の心も肉体も満足させることができた男がカサノバ。 仕事・・仕事・・仕事・・仕事に明け暮れる男に満足できる女はいないけれど、愛の成就を願う男はたとえ遊び人であっても女が放っておかない。 モテル男は昔も今も女によって創造される? 
      
    役者の子としてヴェネチアに生まれたのがカサノバだったので、女と対峙した時の演出効果はきっと抜群だったはず!  いかにしてその場を盛り上げるように演じるかがカサノバの仕事。 だって役者の子は役者。 修道院の女と関係を持ったカサノバは、罪を問われたものの投獄は免れました。 カサノバに抱かれた修道女もたとえ投獄されても本望だというようなことを言っていたので、余程 女を虜にする熟練の腕を持っていたと想像されます。

            

    カサノバが影響を受け始めたフランチェスカには別の顔がありました。 その別の顔は哲学者であり作家でもあったベルナルド・グアルディ。 グアルディの考えによると女性は空気・火・軽さ・力の要素を持っていて天に昇ろうとする傾向があるらしい。 その天にジャンプする力を阻んでいるのが男の重い砂が詰まった頭。 その砂袋を捨て去れば女性は自由になれると考えていたのが、グアルディすなわちフランチェスカ。
            
    惨めな借金生活を解消するために画策されたのが、フランチェスカの意思に反した金持ちとの結婚。 相手はジェノバのラード成金だったパプリッツィオ。 このメタボ体型の男の出現によって堅苦しい愛の話にユーモアが加わり、結構笑えるシーンが続出します。 最終的にパプリッツィオは娘フランチェスカの母親との仲が深まり、好きなようにヤッテという感じ!  
    男女の関係で真実の愛ナンテものはなく、お金が大事というのがこの映画の主題かも。

    そしてパプリッツィオがカサノバを作家グアルティと勘違いして、またまた変な展開に・・ 
    ヴェネチア政府も誰がカサノバか分からない状態で、混沌とした面白い話が続きます。
    世間で自分の名前を偽称して偽証罪を問われることがありますが、名前と本人が一致せず 周囲も勘違いしたままドタバタ喜劇のように進行する話はオモシロイ!

              

    しだいに事実が明るみにされる中、社会の異端思想の罪で死刑を宣告されたのがフランチェスカ。 女たらしの罪でやはり死刑に処せられることが決定したのがカサノバ。 
    イヨイヨどうしようもない事態になった時、二人の前に現れたのが幼い頃に離れ離れになっていたカサノバのママ。 死の間際で駆けつけることができたのが、カサノバを産んだ母親という設定は神話的。

    全編を通して絵画的な映像をより高めているのが、心地良いクラシック音楽。 舞台になったヴェネチアの街もこの世のものとは思えないぐらい美しく心に残りました。 女たらしのカサノバではなく、真実の愛を知ったカサノバとフランチェスカの物語は封印されたまま カサノバ伝説は現在も変化しながら生き続けることになりそうです。

    * 監督 ラッセ・ハルストレム     * 2005年 作品
    * 出演 ヒース・レジャー    シエナ・ミラー    レナ・オリン

    ハート大小 カサノバの右腕になって彼を支え続けたルポの女房風キャラクターがかわいかった!

    クリアな目と曇った目

    • 2008.09.28 Sunday
    • 23:16
        

    フランスのオルセー美術館が所蔵しているフランス人画家マネ(Manet)が1862年頃に描いた絵。 初めは 『水浴』 という名前が付けられていましたが、その後(1967年)マネ自身が 『草上の昼食』 という題名に変更し現在に至っています。 生身の女性を裸にして描いたため、当時のフランスでは不道徳な絵と見なされました。 

    それまで裸体の女性を描く場合 神話世界の女神に限るとされていたので、人間の女性を裸にして描いたことがスキャンダルを巻き起こす種になり、世間は不道徳という判断を下します。 逆に考えれば、女神なら裸になっても咎められないということですね。 裸になるための条件は、普通の女ではなく女神になればOK?

    この絵から感じる印象は、男二人がこの場(近くに池がある森の中)にふさわしくない格好をしていること。 自分の足で歩いて到達することが目的のハイキングのファッションではなく、ビジネス風の堅苦しい背広を着ています。 まあそれぞれの好みがあるからいいねんけど鬱陶しいなあ。
           
    全体的印象は、厚着の男性二人に対して女性は裸か薄着になっていることが特徴。 
    男女の季節的感覚の捉え方が大きく異なっているということでしょうか。 男は寒がりやさんで女は暑がりやさん・・ 両極端に季節を感じる感性が違うように思います。 森の中に入ると女は脱ぎたがり、男は仕事に行く時と同じような相変わらずファッション?
        
    しかし目線を変えると、裸の女性はギリシア神話などに登場するニンフ(nymph)をイメージして、マネが描いたのかもしれません。 マネの目にだけ見えていたマネの理想の女性を裸にして描きたかった?  マネによって裸にされた女性は、もう生身の女性ではなく女神になることができました。 スキャンダラスな絵に見えたマスコミ人たちの目は女神を見抜くことができず、曇った目だったことが判明しました。

    ブーブーな神

    • 2008.09.28 Sunday
    • 21:17
              

    ハワイ島にある活火山キラウェア(標高1243m)のハレマウマウ火口に住んでいる火の女神の名前が “ペレ”。 ペレは兄弟姉妹を引き連れて、地球の北と南を分ける赤道を越えてハワイにやって来たと伝えられているタヒチ出身の神。 ハワイ島にたどり着くまで他の島をウロウロして、やっと自分の居場所を見つけることができました。 初めはハワイ諸島の中で一番西に位置する小さなニイハウ島に上陸して自分の居場所を探しました。

    しかし気に入る場所がなく、その後カウアイ島からオアフ島そしてマウイ島のある南東方向に向かいます。 これらの島は水がすぐに湧き出てきて自分とは相性が悪く、落ち着けた島はハワイ諸島のなかで一番初めに侵入したニイハウ島から見ると南東方向に位置していた最大で最も若いハワイ島。

    ペレの嗜好は火を消す水が大嫌いで、カラカラのヤング少年が大好き?  外から侵入したにもかかわらず、異国ハワイで自分の住み処に選んだ場所はビッグ・アイランドの中でもやはり南東に位置するキラウェア火山。 ハワイ島中央部にはマウナ・ケア(白い山)とマウナ・ロア(長い山)が北東から南西方向に貫いていて、この4000m級の山々とは全く異なるマグマで現代もなお、噴煙を上げているのがキラウェア火山。 ペレは独立した場所が好きだった可能性が・・

      

    ペレの居場所 『ハレマウマウ』 とは、故郷ポリネシアの言葉で “常世の火の宮” を意味しています。 永遠に燃え続ける激しい気性の神がペレってことになりそうですね。 
    “ハレ(hale)” はハワイ語で “家” という意味になり、マウマウな家がペレの居場所。 
    ペレが自由気ままに過ごすことができそうな雰囲気の乾燥したマウマウな家だったのだろうと思います。

    またペレの旦那とも愛人とも言われている半神半豚の男神の名前が “カマプアア”。 猪の化身だと言われているカマプアアは通常はハンサムな青年を演じていますが、怒るとブーブー騒ぐウルサイ豚に変身します。 またフムフム・ヌクヌク・アプアアという奇妙な名前の魚にも変身可能で、カマプアアとアプアアはどこか似た名前。(ふぅ〜む)  日本語の名前も変わっていて、カワハギモンガラとかモンガラカワハギとかどちらにしても皮を剥ぐのが好み?

    豚や魚に変身して周囲を振り回すカマプアアは、戦闘的で好色でブーブーな神。 豚もブーブーだけれどフムフム・ヌクヌク・アプアアも水から離れるとブーブー言うらしいので、ブーブー垂れる人たちを統括しているのがカマプアア?  カマプアアが変身するフムフム・ヌクヌク・アプアアは名前に負けず、容貌も個性的!  一見 鈍そうな感じ(下の写真)がするけれど、なかなか機敏性があるらしい。
              

    火の神ペレと彼女に対抗意識を燃やすカマプアアの闘いは果てしなく続きました。 
    ペレが噴煙を上げればカマプアアは大雨を降らすということが長期間続いた結果、ハワイ島がこんなにビッグになったのかもしれません。 異なる要素がぶつかり合い、ますます巨大な島になりつつあるハワイ島。 巨大を目指す場合は、自分と全く異なるタイプの人を選ぶのがいいのかも・・ 疲れる話ですが。

    ペレを怒らせては豚になって大地に蒔かれた種を豚鼻で破壊しているカマプアアは、日本のスサノオノミコトによく似たタイプのような気がします。 当然ペレは太陽神・天照大神っぽい感じ。 太陽神を怒らせる役割の神は、日本だけではなくハワイにもいました。 ペレが大量の水を浴びることで着実に人間が住める大地が広がっていることを想像すると、神々がぶつかり合うことは何かを産み出す大きなエネルギーになっているということでしょう。 
    ブーブーだけではなかったカマプアアでした。

    Alone Again

    • 2008.09.27 Saturday
    • 23:27
               

    1972年のヒット曲・・ アイルランド出身のギルバート・オサリバンが作詞・作曲して歌った曲。 今でこそ “オサリバン” という名前の響きに違和感を覚えることはないですが、当時 サリバンという名前のイメージが定着していたエスマルにとって、『サリバン』 の先頭に 『オ』 がくっ付いたオサリバンという変な名前を受け止めるのに少し時間がかかりました。 固定されているものを崩すことの難しさを感じます。

    アローン・アゲインの歌詞内容は、柔らかいタイトルとは違って強烈な感情がさらけ出されています。 今の自分の気持ちがもしこのまま良くならなければ、主人公は塔のテッペンに上がって飛び降りる覚悟でいます。 自分が塔から落ちてペシャンコになった自分の姿を恋人に見てもらって、人間が完全に打ちひしがれることがどんなものかを彼女に知ってもらうために・・ というドッキリ内容。

    今 こうして書きながらエスマル自身も驚いています。 こんな歌詞だったのね・・ キツゥ〜イ!  でも現実に大切な人に裏切られたら、このような気持ちになってしまう人がいるかもしれない。 信じることができる相手だと思って接していた人物が、最終的に自分を裏切ったということが分かれば人を信じる気持ちは吹っ飛んで残るのは憎しみだけ?  どうでもよくなって塔から鳥のようにジャンプすれば、自由を手にすることができる?

    人と接すると楽しい場合もあるけれど裏切られることもあるので、結局 アローン・アゲインになってしまう・・ということを強く感じさせられる詞。 詞の悲愴感に対してメロディとオサリバンの歌い方はとても爽やか!  爽やかさの裏に隠されている激しい感情をくみ取ることができなければ、人間関係は必ず崩れてしまって  “Alone Again Naturally”。

    トスカーナの休日

    • 2008.09.27 Saturday
    • 21:23
           

    原作は米国人作家フランシス・メイズのベストセラーになった実話が元になっています。
    主人公フランシスは浮気した夫から唐突に離婚を求められ、法律上慰謝料を受け取るどころか払わなければいけない立場に立たされます。(こんな奇妙な法律ってある?) 夫が浮気したのにナンデ?という疑問をよそに、フランシスが夫と住んでいた家を手放すことがめでたく離婚成立に至るという条件であることを弁護士から聞かされました。 
          
    納得しにくい話を受け入れたフランシスは、晴れて自由の身になって落ち込みます。 普通に考えると夫と争って裁判沙汰になりそうな話なのに、フランシスはすんなり家を手放し 離婚経験者ばかりが生活している鬱陶しい部屋に入居しました。 隣人の泣き声が聞こえる部屋では執筆活動も思うように進まず、友人パティがプレゼントしてくれたイタリア・トスカーナの旅に参加することになりました。
                           

    人間関係がかなり奇妙で、パティはレズで妊娠中・・ そしてトスカーナの旅はゲイばかりの参加者で占められているという男性が排除された舞台設定になっているように思うのですが・・ そんな状況で参加したフランシスは、異国イタリアで “ブラマソーレ” という名が付けられた家を目にします。 ソーレは太陽、ブラマーレは憧れるという意味のイタリア語。 
    太陽に憧れる家は300年の歴史があり、水も出ないオンボロ屋敷。 しかしその場所は多くの従順な羊たちが飼われている場所でもありました。

    フランシスは何を思ったのかこの屋敷を購入してしまいます。 先の家を売ったお金があったので何とかブラマソーレを自分のものにすることができました。 お金も払わないうちに家の鍵を貰うというのがイタリア風?  しかし300年という時を経て家の中は虫だらけのホコリだらけで、簡単に生活できる状態ではありませんでした。 そこで女一人 奮起してクリーニングに精を出して頑張ったもののやはり限界が・・

    家の改装にチカラを貸してくれたのがポーランド人の男三人。 ここで男が登場しますが、優しそうなポーランド人。 家のベランダから見える石垣に祭壇のようなものがあり、毎日その場所に祈りを込めて花を捧げるジイサン。 派手なファッションに身を包んでアイスクリームを頬張る個性的な女性キャサリン。 ヒョンなことで恋人になった口が上手なイタリア人男性マルチェロなど、フランシスは異国で多くの出会いを体験しました。

                

    帰る場所がないフランシスは、このオンボロ屋敷に少しずつ手を加えて自分の居場所を確保しようと努めます。 あの鬱陶しい泣き声が聞こえる場所に帰りたくなかったフランシスは、どんなにオンボロでもいいから太陽に憧れる明るい場所がきっとお気に入り! 異国で多くの人たちのチカラを借りて時間をかけてピカピカになったブラマソーレの住人は、やはりフランシス! 潔く過去の家を手放したからこそ、新たな土地で新たな自分に出会い再出発ができたのだと思います。 新しい自分に生まれ変わるには、何かを捨て去ることが大事?

    映画の初めに自分が書いた本を酷評したという男がフランシスに近付き、意味不明の言葉を言いました。 彼が何故か最後の場面にも登場していて、「あなたの酷評のおかげで違う本が書けた」 と感謝の気持ちを表していました。 酷評された側は腹が立つけれど、違った面で考えると方向転換させてくれるキッカケにもなったということでしょうか。

    同一人物とは思えないぐらい、初めより最後に出て来た男のほうが魅力的! 酷評をエネルギーに変えて自分の道を選択したこの男同様、フランシスも無理やり夫から離婚された過去の屈辱的な出来事を乗り越え トスカーナのブラマソーレに住むのにふさわしい住人になることができました。

    * 監督 オードリー・ウェルズ     * 2003年 作品
    * 出演 ダイアン・レイン    リンゼイ・ダンカン    サンドラ・オー

    おてんき トスカーナの大地が産み出すワインのように、人生には熟成期間が必要なのかもね。

    El Humahuaqueno

    • 2008.09.26 Friday
    • 23:34
                    

    スペイン語で表現された “エル ウマウアケーニョ” とは、南米アンデス発祥の 『フォルクローレ(folklore)』 という音楽分野に属する曲。 日本語タイトルは 『花祭り』・・ こんなに楽しい曲がこの世に存在するのかというぐらい軽快なリズムに合わせて踊りたい気分にさせてくれます。

    フォルクローレといえば馬鹿の一つ覚えのように “コンドルは飛んでゆく” を思い出しますが、この曲(花祭り)もフォルクローレだったのね・・ 初めて知ったデス! ローレ(lore)という言葉には “その土地の風習や言い伝え” という意味が込められていてインカ文明時代の血を引く原住民たちの感覚がフォルクローレに反映されているように思います。

    原題のウマウアケーニョは “ウマウアカから来た男” となり、アルゼンチンの最北部に位置するのがウマウアカ。 この町で開催される8日間も続くというカルナバル(謝肉祭)を歌った曲が日本で言う “花祭り”。  日本では釈迦が生まれたとされる4月8日の灌仏会を花祭りと呼んでいますが、この曲とは関係ないみたい。 

    2003年に世界遺産に登録されたウマウアカ渓谷があるウマウアカという町で生まれたのがこの花祭り。 ジメジメ感を全く感じさせないイメージのフォルクローレの故郷は、アンデスの山々が連なる3000m級の高地。 空に近い場所を住み処にした人々が生み出した音楽は、明るく楽しい“花祭り”。 “コンドルは飛んでゆく” とは雰囲気が違うけれど、少なくとも日本の演歌的要素はかけらもない。

    日本は梅雨とかいうジメジメした時期がありますが、アンデスの地は空気も乾燥していて爽やかなんだろうな。 気候が音楽に与える影響はきっと計り知れず、カルナバルで8日間も楽しめる土地を手っ取り早く知るにはこの曲を聴くのが一番!
              

          YouTube - アンデス民謡 ♪花祭り♪

    高知県の古仏

    • 2008.09.26 Friday
    • 22:25
    今朝 高知新聞に高知県須崎市上分という集落の小さなお堂(地元の人は大日如来堂と呼んでいたらしい)に安置されていた “大日如来像” が湛慶(たんけい)によって彫られたものであることが断定されたというニュースを読んで、もう少し詳しく知りたいと思い調べてみました。 まず安置されていた場所がほとんど名前もないような小さなお堂だったことに興味を持ちました。

    『湛慶』 とは鎌倉時代初期の仏師(彫刻家)・運慶の六人(全員が仏師)の息子のうちの長男。 彼の代表的な仏像は京都三十三間堂の本尊・千手観音像で、全国的に湛慶作の仏像はそれほど多くないらしい。 そんな状況で高知県の片田舎に安置されていた大日如来像は、結構 小さく(高さ約49cm)かわいい感じがします。 父・運慶の男っぽい彫り方に比べて、息子・湛慶は男っぽさだけではない繊細な部分も加味して彫り上げたこの大日如来像は童子のようにも感じられます。
                        

    今回 断定された大日如来像以外にも湛慶作の仏像が四国遍路33番札所の雪蹊寺(高知市長浜)にあります。
                       

    上の写真の毘沙門天像が湛慶作で、他に両脇侍像も含んでいるらしい。 “毘沙門天” とは四天王(四方を守る神)の一つ北方を守護する神で、夜叉(インド神話で森林に住むとされる神霊)や羅刹(足が速く人を食う悪鬼)を率いている神。 ということは、夜叉や羅刹(らせつ)とお友達?
                
    それにしても運慶の子・湛慶が彫った仏像が高知県にあるというのも不思議な話。 
    父・運慶の作風を継承しながらも、どこか優しさが感じられるような作風を持つ湛慶が彫った大日如来像は名前がないお堂にひっそり安置されていました。 都でガタガタ騒がれるより、自分でコツコツ彫り続けるのが好きだったのが湛慶?

    この大日如来像を含む県内の仏像二十五体とその写真が展示される “古仏との対話” 展が明日から11月9日まで高知県香美市土佐山田町の香美市立美術館で開催されます。 湛慶が彫った仏像を目の前にすれば、名もないお堂で湛慶が過ごした時間を感じることができるかも・・ 誰かに完成品を見てもらうことより、自分が丹精込めて彫り続ける時間が湛慶にとって一番大切だったのではないかと感じました。

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