スポンサーサイト

  • 2022.04.05 Tuesday

一定期間更新がないため広告を表示しています

  • 0
    • -
    • -
    • -

    事と次第による琴

    • 2008.08.31 Sunday
    • 20:57
               

            琴取れば 嘆き先立つ けだしくも 琴の下樋に 妻や隠れる   

    これは万葉集に含まれている作者不詳の歌で、琴を弾くのではなく “琴を取る” という表現がユニークだと思います。 琴を自分の手に取ることが 『琴取る』 ということなのでしょうか。 通常の琴の大きさを思えば簡単に手に取れるようなサイズではないのが琴。 そんなビッグ・サイズの琴を取る状況を想像すると、自分の膝に琴をのせて琴を弾こうとしているのかもしれません。 琴を手元(膝の上)に引き寄せれば、嘆きが大きくなってくるという状況?

    『琴の下樋(したひ)』 というのは、琴の音を響かせる胴体部の箱のこと。 琴を膝の上にのせた作者は、もしかしたら(けだしくも)妻がこの下樋に隠れているのではと感じているように思います。 イメージを膨らませると、琴取るとは妻を膝の上に置いて抱きかかえているように感じます。 その妻は下樋に隠れている・・ すなわち下樋(棺桶のようなもの)に隠れた妻は死んでいるのではないか。

    “琴取る” という言葉で思い出すのは、オオナムチがスセリヒメを伴って根の国を脱出するシーン。 根の国を管理していたスサノオノミコトの難問をクリアして、オオクニヌシに名前を改めることができたオオナムチが根国脱出の際に盗み出した(取った)のが生太刀・生弓矢そして天詔琴(あめののりごと)という琴。 オオナムチがスセリヒヒメを背負っての根国脱出で、この琴が木に触れて大地を揺るがすような音をたてたという記述があります。

    スセリヒメを背負ったうえに琴まで持って出ることは、かなりの肉体的パワーが求められるはず。 手に持ちやすい太刀や弓矢に加えて琴を持つことはかなり難しいはずですが、変身したオオナムチはそんな荒業をやってのけました。 死者の国の象徴である根国からこの世に生還する時に琴が木に触れて大地がどよめいたということは、琴は大地をどよめかすパワーを持っている楽器?
           
    そういえばヤマトタケルの血を受け継いでいた仲哀天皇は、琴を弾きながら死んだようなことが記されていました。 事と次第によっては、琴は死との関わりがかなり深いように思います。 死者の国からオオナムチが持ち出してきた琴は、スサノオノミコトのパワーがたくさん詰まっているはず。 根国の琴がこの世で動き出す(大地が揺れる)ときの象徴は、その琴が木(気?)に触れたとき。 すなわち大地の下に隠れているスサノオノミコトが怒った時ではないかと思います。

    琴の “下樋” とは、琴の音色を響かせる空洞になっている部分のことでした。 目には見えない空気を閉じ込めた箱の役目は、音を振動させること。 また音を振動させる下樋という語は、“したふ(慕う)”という意味にもつながるように思います。 “樋” というのは家の雨水を受け流す “とい” のことで、溝状・筒状になった “とい” をつたって雨水は地面に送られます。 この歌では下にある樋、すなわち地中深くつながっている地下水脈のようにも考えられます。 下樋に隠れた妻は地下水脈に水を送るように、夫に何かを訴えたかったのかもしれません。
          
    日本には “琴” という漢字があてられた砂浜が何ヶ所かあります。 泣き砂(鳴り砂)でよく知られている石川県輪島市の琴ヶ浜・島根県大田市仁摩町の琴ヶ浜・京都府京丹後市の琴引浜など泣き砂と何らかのつながりがあってのことと考えられます。

    泣き砂で構成されている砂浜を歩くと、上から押された石英粒同士が擦れてキュッという音がします。 少しでも異物が混入したり石英の粒が均一でなければ、このような音は発生しません。 だから泣き砂海岸であるということはすべて同一に近い砂ばかりの集合体であるといえます。 砂が “泣く” あるいは “鳴る” ということは、それだけ特殊な状況に置かれている場合に限ってのことで 不純物が混じった砂は泣くことはありません。

    根国から持ち出された琴は、木に触れただけで大きなどよめきの音をあげました。 その琴(コト)はきっと不純物が混入していない琴(コト)だったので、木に触れただけで大地を揺るがすような音になったのではないかと考えます。 死者が眠る根国には不純物は一切ないのではないか。

    そんな死者からの贈り物と考えられる天詔琴は、現在 この世に存在しています。 泣き砂が限られた地域にしかないように、もしこの世で不純物がない素敵なコトに遭遇できれば それはきっと自分を守ってくれていた死者(先祖)からのプレゼント。 その純粋なプレゼントの配分を決定するのがきっとスサノオノミコトなんだろうな。

    故郷はクレタ

    • 2008.08.30 Saturday
    • 23:01
                

    海中を泳ぐ(浮く?)牛の背中に腰かけているのは、 『エウロペ・エウロパ(Europa)』 というフェニキア王女です。 花レイのようなものを角に巻き付けてエウロペを振り返るカワイイ牛の正体は、ギリシア神話の最高神ゼウス。 キレイな女を見ると必ず手を出す浮気性の神がゼウスで、ローマ神話のジュピターに相当しています。

    ゼウスによって弄ばれた美しい女性は必ずといっていいぐらいに妊娠して子供を生みました。 エウロペも例外にもれず白い牡牛に化けたゼウスに連れ去られ、二人がたどり着いた場所は長く東西に連なるクレタ島。 エーゲ海と地中海を隔てるギリシア最大の島で、古代ギリシア以前に栄えていたエーゲ文明の中心地でもありました。

    クレタ島を含む多くの島々が浮かぶエーゲ海に栄えたエーゲ文明は、その後ギリシア本土からヨーロッパ大陸に多大な影響を与えました。 その根本の生みの親がエウロペまたはエウロパと呼ばれる女性で、ヨーロッパ(Europe)のローマ字読みになっているのが興味深い。 そしてゼウスとエウロペの子が、紀元前18世紀から16世紀に栄えたクレタ文明の王ミノア。

    この神話を題材にして17世紀前半のバロック期に活躍した “グイド・レーニ” が描いたのが 『エウロペの略奪』 という絵。 絵から受ける印象は略奪され反発しているような感じはなく、むしろゼウスにもたれかかって自分の故郷フェニキアを思い出しているようにも感じます。 
    ゼウスが化けた牡牛も、トンマな顔立ちで憎めそうにない雰囲気。 角を飾る花レイはきっとエウロペによって編まれたもの。 レイのカタチが永遠を表す 『∞』 になっているのがオモシロイ!

    ギリシア神話ではエウロペはゼウスに略奪されたことになっていますが、この絵を観ているとお互い示し合わせた駆け落ちのような雰囲気が伝わってきます。 異国の王女を略奪(お互い同意)したゼウスは、大陸と切り離された二人だけの島を目指そうとした? 
    ある説によるとゼウスはクレタ島の洞窟で育てられたという話もあるので、二人で自分の故郷に戻ったという風にも考えられます。

    多くの女を孕ませたゼウスだけれど、エウロペに対する愛情は格別に深いものがありました。 その深い愛情の痕跡は、冬の夜空を彩る牡牛座に残されているとのこと。 
    レーニが描いたゼウスとエウロペは、海上を漂いながら二人の最終地点を探しているところかもしれません。

    レミーのおいしいレストラン

    • 2008.08.30 Saturday
    • 20:31

        

    主人公レミーはフランスの首都パリから遠く離れた田舎に住んでいたネズミくん。 彼はよくキク鼻と味覚を感じる舌に特性があり、ネズミ一族の間で毒味役の仕事を任されて毎日を送っていました。 毒がないものなら何でも食べるネズミ派ではなく、味にこだわりを持っていた味覚重視型のネズミがレミー。 ネズミ一族の中でも浮いたような存在だったレミーは、ある日家族の群れから離れて一人ぼっちになってしまいました。

    そんなレミーを励ましたのが、 “誰でも名シェフ” という本を書いた一流レストランの料理長グストー。 誰とも会話することができない状態で地下室に追い込まれていたレミーに、地上に上がって周囲を見渡してみるように勧めたのが本の中のグストー。 死んでいたグストーは本の中からレミーを応援し、結果的にレミーが憧れていたパリに導くことができました。 
    このようにレミーが敬愛する死んだグストーは、レミーが産み出した空想的存在のように描かれています。


    グストーが残したレストランにヒョンなことでたどり着いたのがレミー。 彼はそのレストランの雑用係に雇われていた料理下手な新人 “リングイニ” と出会って、彼が作った不味いスープを見事な味に変貌させました。 トコトン料理ができないリングイニと料理は得意だけれどネズミのため人前に出ることができないレミーが作ったスープは美味しいという評判が立ち、グストーに対立していたイーゴまでもが認めるようになります。

    その後 二人して作る料理はリングイニの帽子の中に入ったレミーが受け持ち、レミーの指示でリングイニが動き回るという奇妙でオモシロイ展開になっていきます。 リングイニの髪の毛を引っ張って合図を出すのがレミーの仕事。 引っ張られる髪の毛の通り動いて作業するのがリングイニの仕事。 二人がいなければ美味しい料理はできないという切っても切れない関係の二人は、レミーというネズミとリングイニというトンチンカンな男。

    ネズミの操り人形になって右往左往するリングイニは、女の中の男? ブツブツ文句を垂れながらもネズミの言いなりになってネズミ奉仕するタイプが変な名前のリングイニ。 しかし彼は最後に料理していた人物(?)の正体をばらします。 自分ではなく、頭に隠れていた小さなネズミであることを・・



    誰でも名シェフという考え方に異を唱えていたイーゴの要望に応じて、レミーが挑んだ料理は 『ラタトゥイユ(ratatouille)』 という南フランスで親しまれている田舎料理。 この “ラタトゥイユ” という田舎料理がこの映画の原題になっていて、ネズミ(rat)がかきまぜた(touille)ものという意味が込められているように思います。 ナス・ピーマン・ズッキーニなどの野菜と香草を混ぜて煮込むゴッタニ料理を食べたイーゴは、幼い頃に作ってくれた母の味を思い出したようで深い感動に包まれていました。

    衛生管理を重んじるレストランの厨房に不衛生なネズミがいたことが世間に知れ渡り、当然 グストーのレストランは閉鎖され社会から消されることに・・ しかしレミーが作る秘密のレストランに足繁く通うイーゴの姿がありました。 きっとレミーの鼻と舌で絶妙な味になっていたのでしょうね。 キチキチと区別せず、ゴテゴテにしてしまうのがレミーの良さでもあり 人の反発を食らう大きな原因にもなっているように思います。

    * 監督・脚本 ブラッド・バード       * 2007年 作品

    食事 ネズミに似合わず、パリの空気が感じられるジャズっぽい音楽が印象深かった。

    Old Black Joe

    • 2008.08.29 Friday
    • 22:38
                   

    作曲は学生時代の音楽の教科書にも多くの曲が掲載されていた “スティーヴン・フォスター”。  エスマルが感じるフォスターの曲は、野原と風と清潔感。 単調なリズムが多いので退屈さを感じてしまう場合もありますが、自分自身が年齢を重ねてその単調さの清潔感がイイナと感じるようになりました。 突然 熱を上げて夢中になるような曲ではないけれど、落ち着いた静かな時を演出してくれるように感じます。

    ジョーというのはフォスターの妻の実家で雇われていた使用人の黒人。 そんなジョーのことを歌にすると約束していたフォスターが、彼のことを思って創った曲が 『オールド・ブラック・ジョー』。 奴隷として蔑まれ、家畜のように働かされたジョーの切ない心情を歌ったもの。 “自分の友人たちもみんな死んでしまってあの世で自分を呼んでいる。 オールド・ブラック・ジョーと。 年とった自分も行こう・・友人が眠る世界へ』 というような意味の歌。

    フォスターの代表曲を挙げると以下のような懐かしい歌ばかり・・ 夢路より(夢見る人)・スワニー河(故郷の人々)・おお、スザンナ・金髪のジェニー・草競馬など、タイトルを見ただけでメロディーを口ずさめそうな曲が多い。
         
    1826年生まれのフォスターは順調な人生を送っているように見えていたのですが、妻との別居や両親の相次ぐ死でしだいにアルコールに依存するようになっていきます。 世間に受け入れられる曲を生み出すこともできないまま、貧しさだけが増していく生活が続きました。

    孤独をウマク紛らわすことができなかった彼は、1864年 安宿の小部屋で倒れそのはずみで割れたピッチャーの 破片で頸動脈を切り死んでしまいました。 37年という短い生涯に200曲近い曲を残してジョーのようにあの世へ旅立ったフォスター。 しかし彼が残してくれた曲は、苦しみのようなイメージはまるでなく野原を吹き抜ける風のように清潔感と透明感を感じる曲ばかり。 苦しみから生まれるものが愚痴や不満でないことが嬉しい。

    甘い一夜酒

    • 2008.08.29 Friday
    • 18:29
                

    酒造りに欠かせないのが “杜氏” と呼ばれる人たちの存在です。 その杜氏の租神である “高橋活日命” を祀った神社が奈良県桜井市にある大神神社の摂社である活日神社。 例祭日は四月四日で奇数を重んじる日本では珍しい日に指定されています。 崇神天皇が日本を統治していた頃に酒の醸造に取り組み成功したのが高橋活日ということらしい。 
    活日に命令したのが三輪山に眠る大物主命で、一夜漬ならぬ一夜造りの酒を造らせました。 酒を造るにはある程度の醸造期間が必要なのでは?  一夜で酒ができる?

    酒はずっとずっと以前の神話にも記されていました。 スサノオノミコトが退治した八岐大蛇は、用意されていた酒を飲んでベロンベロンに酔いつぶれていた所をバッサリ斬りつけられて死にました。 ヤマタノオロチが命を落とす原因になった酒を造って用意したのが、ともに大山祇神の子だった足名椎神と手名椎神。 この夫婦神も酒造りが得意な神といえます。
          
    後の世 奈良県吉野に住んでいた国栖(くず)人と呼ばれていた人たちが、吉野宮を訪れた応神天皇に一夜酒を捧げ歌舞を披露したという話がありました。 国栖人は一夜酒(甘酒)を造る能力に優れ、ダンスも上手だったことが伺い知れます。 
    彼らは主に岩穴を住み処にする非稲作民でした。 大和国成立以前に住んでいたと考えられる民族が国栖人で、明るい世界を管理する人たちによって暗い岩穴に追い込まれクズのように捨てられた民族だったのでは?
           
    また酒に関するこんな話もありました。 応神天皇が皇太子時代 敦賀の気比から戻ってきた日に酒宴が催され母の神功皇后は以下のような歌を詠みました。  『此の神酒は吾が神酒ならず 神酒の司(かみ) 常世に坐す石立たす 少名御神の神寿ぎ・・』 と詠まれた歌に示された通り、神酒を造ったのは常世国に渡った “少彦名神”。

    大己貴神と一緒に出雲国を造っていた最中 突然その作業を放り投げて常世国に渡った神でした。 通常は “少彦名神” という名で記紀に記されていますが、遠い常世国では男を意味する “彦” が失われて “少名(御)神” になっています。

    常世国では性が失われてしまうか、あるいは男がいない世界が常世国であるのかも。 
    他にも神武天皇(四人兄弟の末っ子)のすぐ上の兄だった御毛沼(三毛入野)神も荒海を航海中 常世国を目指しました。 少彦名神と御毛沼神の共通項は、途中で何かがイヤになって現実逃避的な行動に出ていること。 目を背けたくなるような不快なモノを見たのか、現実そのものがイヤになったのか・・ 詳しい理由は分かりませんが、現実逃避を実行すると行ける場所が常世国?

    “非時香菓(ときじくのかくのこのみ)” という木の実のナル国が常世国でした。 垂仁天皇のために十年もかけてその実を求めて探し回った田道間守という人の伝説も残っています。 『非時香菓』 とは夏に実り寒い季節にも耐えいい香りを長く保つことができる木の実のこと。 これを食べると不老不死のカラダを授かるという木の実であるらしく、生きている人間がこの実を見つけた場合 果たして幸せになれるかどうかは疑問ですが・・

    この実がナルという常世国に行った少彦名神が造った神酒は、夢のように心地よく酔わせてくれる酒でどこにでも行けるチカラを備えていたのかもしれません。 一夜酒造りが上手だった高橋活日や国栖人が造った酒は、辛口の酒ではなく甘口の酒でした。 しかも活日は大物主神の命令で造らされたのが甘酒。

    真の姿は蛇だった大物主神が求めていたものは、時間のかからない甘酒すなわち一夜酒。 時間をかけて醸造した酒より一夜で簡単に造れる甘酒を好んだ大物主神のホントのホントの正体は、キツイ酒で酔わされ殺されたヤマタノオロチかもしれません。 しかしヤマタノオロチは殺されても殺されても懲りずに生き返って日本全国に出没しているお騒がせクン。 
    フラフラしながらも尾の先に隠していた剣は、日本の三種の神器の一つになった草薙の剣。 ヤマタノオロチと大物主神が同体とすれば、足がない蛇をもう一度見直す必要がありそうに思います。

    吉野のクズと呼ばれた人たちも、一夜酒で踊って楽しむ夢を見ることができた人たちのことを言うのでしょう。 スサノオノミコトに退治されたヤマタノオロチもまた酒が好きで夢見心地で殺されたとしたら・・ というわけで酒と常世国は深くかかわっていて、その権限を握っているのは彦が失われた少名御神という神でした。 酒に飲まれず酒を飲んで愉快に過ごすことができるなら、歌って踊る人たちが棲む常世国に一歩近付けるように思います。

    諦めないヒツジ

    • 2008.08.25 Monday
    • 23:37
             

    前後のアシ4本をヒトマトメにして縛られた子羊が不自然な状態でどこかに据え置かれたまま、眠っているように感じる絵。 しかし遠目で眺めると羊がジャンプしているようにも感じられるのですが・・ そのように見えてしまう原因は、頭だけ地に付けてお尻の部分が浮いているからカナ。 

    身動きがとれずどうしようもなければ、この羊はもっとダランと仰向けに転がり羊の腹が見えるはず。 中途半端なポーズを維持している羊は、縛られながらも穏やかな表情を崩さずジットしています。 どこかに踏ん張る意志が隠されているからこそ、ジャンプする羊にも見えるということでしょうか。

    転がっているのでもなくジャンプしているのでもない奇妙な羊を描いたのが “スルバラン”。 切り取られた自分の乳房をお盆にのせて持っていた女性(アガタ)を描いたのもこの人でした。 神秘的なナニカを感じさせてくれるスルバランが描いたこの絵の題名は、『神の子羊』。 イエス・キリストの仕事は羊飼いだったので、キリストに飼われていた羊の群れの一匹なのかもしれません。

    転がるなら転がる ジャンプするならジャンプするほうがエスマルは好きなのですが、キリストに飼われているかもしれない羊は内面にナニカを秘めて中途半端な状態を保っています。 旧約聖書に語られていたカインとアベル兄弟が神に捧げたものは麦(カイン)と羊(アベル)。 神が受け取ったのは羊だけで、カインが捧げた麦は避けました。

    荒れ地でも芽を出しグングン育つ麦より、モコモコした毛がかわいい羊の肉のほうが口に合っていたのが神ってことになりそう。  転がりそうで転がらない奇妙な羊クンは曖昧模糊な神に似ているような気がします。 キリストの象徴として描かれることが多いモコモコしたヒツジを受け取ったのが曖昧模糊な神でした。  類は友を呼ぶ?

    ノアを検証する

    • 2008.08.25 Monday
    • 22:20
                  

    旧約聖書創世記に記されているアノ家族の名前はノア(Noah)・ファミリー。 
    地上に増えすぎた身勝手な人間たちに愛想を尽かした神は、全員殺戮を思い立ち大洪水を引き起こします。 神の独断で誕生させられたり殺されたりする人間は、やはり神の機嫌を取らないといけない?  神の機嫌取りがうまかった(?) “ノア一族” は神の指示に従って船を造りました。 船の材は糸杉(ホワイト・オークという説もある)という指示を出している神の意図はナニか?

    イトスギを調べて分かったことは、枝を余り広げず上に真っ直ぐ伸びる傾向の木(ヒノキ科イトスギ属)。 欧州では死の象徴として扱われることが多く、庭園や墓地などに植えられています。 変わったところでは、イギリスの邸宅の戸(入口であり出口)がイトスギ産ということらしい。 また薬用としての効果も高く、イイ香りがするエッセンシャル・オイルを抽出することができる木。 そんなイトスギで造るよう神がノアに命じた方舟(アークark)。

    聖書の話によると、大洪水が起こる危険性があることをノアは人々に伝えたのですが、周囲の人々はそんな戯言を信じずノア一族以外の人間は全員この世から抹殺されました。 
    聖書のこの話を信じると、現在生きている我々はノア一族の血を引いた者ということに・・ 
    そんな重要人物のノアを筆頭にして、家族は妻と息子夫婦三組で合わせて8人家族。 後の世に影響を与えた三人の息子の名は、長男セム次男ヤペテそして末っ子のハム。

    ノア一族8人が乗り込んだ船の内部は三階建てで、小部屋がたくさん設けられていました。 8人の人間に追加して神が選んだのは、繁殖能力に優れた雄と雌の生き物のすべて。 
    こうして多くの生き物たちも一緒に乗り込んだ方舟の扉が閉められ、神の裁きがその7日後に下ります。 40日間 昼も夜も一日24時間ずっと雨が降り続き、世界は水の底で陸地は全くない状態。 それから150日後 水が引き始め地面が現れたという風に展開していきます。 当然 その出現した陸地には何もなかったし誰もいなかったことが想定されます。

    大洪水の荒波にも耐えて漂流し続けたノアが造った方舟は、高さ132m幅22m高さ14mもある直方体のカタチをした箱のような船でした。 数字がすべて偶数ということなので、ミミチュア・サイズの船も造りやすい。 その船がたどり着いた場所がトルコ東端に位置する標高5千メートル級のアララト山。 この山は長い期間にわたって虐げられてきた歴史を持つアルメニア民族のシンボルとされている成層火山で、富士山などと同じグループに属する円錐形の美しいカタチの山。

    さて神の意志で生かされることになったノア一族の後日譚というのがあります。 大洪水で生き残ったノアは葡萄を栽培する農夫になりました。 ある時 泥酔して裸で寝てしまったノアを見たのが末っ子のハム。 見ただけで終わればよかったのに、ハムは父の裸体を嘲笑してしまったことがアダになり、彼の子孫は呪われ兄セムとヤペテに仕える奴隷の立場に立たされてしまいます。

    問題はきっと父親の裸体を嘲笑したこと? 泥酔して自分の本性をさらけ出したノアを、息子のハムがあざ笑ったことがよくないのでしょうか。 ハムの二人の兄は顔を背けながらもノアの裸体に着衣を羽織ったという風になっています。 やはり兄も顔を背けたくなるぐらいノアの本性は悪かった? しかし目を背けたくなるような本性だったノアを生かそうとしたのが神であることは間違いありません。 神は酒飲みで裸体をさらけ出すノアが好き? そんな神が好きなノアを嘲笑したハムは、その後 呪われた人生を送ることになりました。

    これらの話から感じることは、呪われることのない毎日を過ごすために心がけたいことは、酒を飲んで自分をさらけ出すこと。 少なくとも神はそんなノアを敢えて方舟に乗せて生かし、ノアの血を残そうとしました。 日本でも酒飲みで有名な八岐大蛇は、何度も退治されながらしぶとく生き残って日本のアチコチに出没しています。 八岐大蛇を退治したとされるスサノオノミコトが最後にたどり着いた場所(根の国)にも、蛇が同居していました。 神は意外にもネチネチした蛇を再生させ復活させているように思います。
     
    神に選ばれたノアを検証した結果 導き出されたノアの性癖の傾向は、酒飲みで自分を失うぐらいベロンベロンに酔っ払っちゃうこと。 神は自分をシッカリ保っている人物の中には侵入しにくいようで、グデングデンになって自分のすべてをさらけ出すノアのようなタイプは入りやすい?  結論はノアの中に神がいた!

    どこかに幸せが

    • 2008.08.24 Sunday
    • 23:30
                    

    タイトルを聞いても知っている人はそんなに多くないと思うけれど、このグループ(ロック・キャンディーズ)のメンバーの一人は後にアリスを結成する谷村新司。 ジャケット写真の一番奥にいるのが谷村さん。  ロック・キャンディーズ(ロッキャンと呼ばれていた)時代も含め、
    アリスとしてデビューした頃もそれほどレコードは売れなくて辛い試練の時がありました。

    高校生だったエスマルは、ある日大阪天王寺にある近鉄百貨店(だったと思う)の特設会場にアリスが出演することを新聞で知り、翌日 友人を誘って午後から自主的に早退して天王寺に駆け付けたことがありました。 チンペイ(谷村さんのこと)のファンになった原点がこの曲。 “ね〜え〜 聴いてごらん 耳を澄まし 真っ青な真っ青な風(?)のなかで ハラリとこぼれたのは な〜に〜 アレはねあれは 淋しい(?)人が歌うウタ” というような歌詞。

    ラジオで知ったのではなく、高校の文化祭(体育祭?)終了後に行われたクラスの親睦会の席で誰かが紹介して この歌をみんな一緒に歌ったのがキッカケで谷村新司を知ることになりました。 高校時代の懐かしい思い出の一コマに 『どこかに幸せが』 という曲が眠っています。 そんなこんなで、当時ギターをほんの少し鼠のようにかじったことがありました。 
    コードだけ覚えてカシャカシャするだけの初心者レベルだったけれど、ギターを弾きながら歌う気分は楽しかったよ。

    サウンド・オブ・ミュージック

    • 2008.08.24 Sunday
    • 22:10

          

    オーストリアの作曲家モーツァルトの生誕地ザルツブルグを舞台にして、ジュリー・アンドリュースが扮した家庭教師マリアとその指導を受ける7人の子供たちが歌い踊るミュージカル映画。 修道女として神とともに生きようとしていたマリアが、修道院を抜け出し見晴らしのいい高原で歌い踊るシーンが幕開けになります。

    神の目線を感じる俯瞰する眼は、まず山の荒々しい呼吸(靄がかかって見にくい)を映し出し、渓谷を越え切り立った崖を経てなだらかな高原に行き着きます。 その高原にいたのがマリア。 風とともに戯れるようにクルクル舞って登場するのが主人公マリア。 
    “心が沈む時 わたしは高原に行く そこで聴くのはわたしを待っていてくれる懐かしい調べ” と歌う 『サウンド・オブ・ミュージック』。  この歌の原点は高原?



    その後 場面は切り替わって修道女たちが歌う荘厳なミサ曲。 これはこれでいいけれど、マリアのイメージとは違っているような・・ 他の修道女もまたマリアの人柄を愛しつつ、規律を重んじる修道院の生活とはかけ離れた自由奔放さをマリアに感じていたようです。 
    その結果 マリアは修道院から追放(?)されてマリアの舞台は人生の修行の場である外の世界へ。 神に守られた静かな修道院から、イタズラ盛りの子供が7人もいるややこしい場所を神から与えられたマリア。

    そんな未知の場所がオーストリア海軍退役軍人だったトラップ大佐が住む大邸宅。 12人目の家庭教師としてマリアはこの家に派遣されました。 規律と秩序で動いているのがこの家の特色で、子供たちは父が吹く笛の音で行進したり止まったりしています。 犬のように笛で呼ばれて動くように躾けられていたのがトラップ家の子供たち。 笛で呼ぶナンテことは受け入れられないマリアは、大佐の厳しさにモノオジせずチャッカリ笛で大佐を呼びます。



    大佐がウィーンに出かけている間にマリアは子供たちと一緒に近くの草原にハイキング。 その時に歌われる歌が有名な “ドレミの歌”。  日本では7音階の7番目の音は『シ』・・ 
    しかし英語では 『ティー(tea)』 と発音していました。 他にも意外な発見があったドレミの歌を子供たちと一緒に歌っていたマリアはサイコーに素敵! 家庭教師というより彼らのママのような感じで、トラップ家に失われていた歌を取り戻させたのがマリア。 
    彼女と全く正反対の大佐の心は、マリアの影響で人間的な血が通い始めます。

    トラップ大佐に惹かれ始めたマリアは、自分の心の愛情に混乱し一度は修道院に戻ります。 神とともに生きるため修道女になろうとしていたマリアの心に入りかけたのがトラップ大佐。 ダンスの息がピッタリ合っていた二人は、難関を乗り越えて何とか結婚に至ります。 
    しかし時代の流れはナチスが台頭し、祖国オーストリアがナチスによって併合されようとしていた1930年代が背景になっています。 大佐はドイツに迎合することができず、ドイツから睨まれる立場に置かれてしまいます。



    ラストはザルツブルグ音楽祭の当日。 舞台に立つことを嫌っていた大佐が歌った “エーデルワイス”。 本来はエーデルヴァイスという高貴な白を表すドイツ語らしい。 会場にいた人たちと合唱したエーデルワイスは、アルプスやピレネー山脈に自生する高山植物。 
    薄く白い雪をかぶった花を咲かせることから “ウスユキ(薄雪)草” とも呼ばれている花がエーデルワイス。 そんな花が咲くアルプス山脈を越えてスイスに亡命しようとしたのがトラップ・ファミリー。 いつの日か愛する我が祖国に戻れる日を夢見て・・

    この映画を彩った音楽は、どの曲も力を与えてくれる曲ばかり。 同じ日本語で会話してもコミュニケーションできない言葉より、意味が少しぐらい分からなくても 音楽は国境を超えることができるように思います。 現実のイヤなことに出会った時こそ、この映画の出番! 
    すべての道が塞がれるようなことは決してなく、小さな道もきっとどこかに通じることを信じたマリアのように いつも楽しいウタを歌って毎日を過ごしたいと思いました。

    * 監督 ロバート・ワイズ      * 1965年 作品
    * 出演 ジュリー・アンドリュース     クリストファー・プラマー

    ムード “ウェスト・サイド・ストーリー” も監督したロバート・ワイズ監督は、1979年 “スター・トレック” の監督も手掛けました。

    サロメの所望

    • 2008.08.23 Saturday
    • 23:28
            

    右側に描かれた男(頭部だけ)の名は洗礼者ヨハネ。 真ん中の彼女が両手で支えているのはお盆にのせた聖ヨハネの生首です。 新鮮な生首をのせたお盆から顔を背けながらも、目線はチラッと生首に注がれているように見える女性はサロメ。 
    ティツィアーノが描いた 『洗礼者ヨハネの首を持つサロメ』 という名の絵です。 
    すると聖ヨハネの首を斬ったのはサロメってことになるのかな。 あるいは誰かによって斬られた首をサロメがゲットしたということ?

    サロメ(Salome)は一世紀頃、古代パレスチナに実在した女性として伝えられています。
    オスカー・ワイルドの戯曲 “サロメ” のモデルになったのがこのパレスチナに実在した女性ということらしい。 またキリスト教世界で、キリストの弟子の一人にサロメという名の人物がいたという話があります。

    キリストの弟子は全員 男じゃなかったっけ? またキリストの弟子の中には “ヨハネ” という名の人物がいました。 しかしこのヨハネは、絵画などで描かれる洗礼者ヨハネとは違います。 当然 サロメがお盆にのせたヨハネは洗礼者ヨハネで、新約聖書のヨハネ福音書を書いたキリストの弟子ではありません。 洗礼者ヨハネはキリストを洗礼した人・・ 言葉を変えればキリストの人生に大きな影響を与えた人ということに。

    そんなキリストの人生に大きく関わった聖ヨハネの首を欲しがったのがサロメ。 ティツィアーノが表現したサロメは、残虐性を好む人食い女のようなイメージは全く感じられません。 
    大事そうにヨハネの頭部を抱える彼女の表情は穏やかそうで美しい。 窓から見える景色は流れゆく雲しか見えていないので、サロメは塔の高い一室にいるのでしょう。

    サロメという名はヘブライ語 “シャローム” を起源として名付けられた名前です。 
    シャロームは平和を表す言葉。 平和と名付けられたサロメは洗礼者ヨハネの首を所望したことから想像すると、キリストに与えた影響がどんなものか知りたくてその彼の脳の中身を覗いてみたかったのでは? そしてできることなら今度は自分がヨハネに大きな影響を与えたくて彼の首を斬った? その結果 洗礼者ヨハネはサロメの希求に応えてチャントお盆の上にのりました。

    PR

    calendar

    S M T W T F S
         12
    3456789
    10111213141516
    17181920212223
    24252627282930
    31      
    << August 2008 >>

    電力切り替えのアドバイス

    wifi のある生活

    パソコンの買取なら

    誰でもず〜っと!

    インターネット選びをサポート

    selected entries

    categories

    archives

    recommend

    recommend

    recommend

    links

    profile

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM