暴虐の限りを尽くして皇位に就いた雄略天皇は、即位後も自分の意にそぐわないと 見境なく相手を殺しまくり斬りまくりました。 ある面 人間離れしているような気もします。 5世紀の半ば頃に国を統治していたと考えられる天皇で、自分の思う通りを貫き通した人物でもあります。
とにかく自分の邪魔をするヤツは すべて敵とみなして話し合いで解決を図ることをせず、強大な武力で相手をこの世から消しました。 そんな権力を行使する天皇に逆らえば殺される可能性があるので、反対を唱える人は誰も現れず すべてこの国の統治は雄略天皇の意思が優先されて、国の統制が図られていました。
女の扱いも身勝手この上なく、一夜に何度も交わった “童女君(おみなぎみ)” が生んだ子を初めは我が子と認めず、「一晩で孕むはずはない!」 と言ってのける人物。 この言葉・・どこかで聞いたことがあったっけ・・ 確かニニギノミコトが木花開耶姫と契ったときも 「一晩しかやっていないのに本当にワシの子か?」 と疑っていたのと同じ血が雄略天皇にも流れているようです。
その時のコノハナサクヤヒメは火中出産で男(ニニギノミコト)をアッ!と言わせるタメゴロー的女性でしたが、今回の雄略天皇が手をつけた女は “采女(うねめ)”。 采女とは、地方豪族が天皇家に服従する証しに人質として差し出す女性のことでした。
采女の童女君の父は、春日和珥臣深目で “和珥(わに)氏” の血筋。
また名前の童女君から推測すると、まだ幼い少女のような感じがします。
そんなワニ氏の血を受け継いだ童女君が、雄略天皇に疑われながら生んだ子が “春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)” でした。
雄略天皇は疑って自分の子とは認めず 春日大娘皇女の養育は放棄していました。
しかし庭を歩く姿が余りに雄略天皇によく似た少女がいることに気付いた側近の者(物部目)が、雄略天皇にその事実を伝えました。 「一夜で身籠るのは変だ」という雄略天皇の発言に対して物部目が次に言った言葉は、「一夜に何回交わったのか?」というかなり立ち入った質問。 雄略天皇は、こんな立ち入った質問によく覚えていたと感心するぐらいの記憶力で 「七回!」
結局 物部目の発言がキッカケになって、春日大娘皇女は雄略天皇の子として認められることになりました。 この話は、日本書紀に記述されていて古事記にはありません。 その後 成長した彼女は、仁賢天皇の皇后になって 後の世を雄略天皇以上に震え上がらせた武列天皇を産むことになります。
神代の頃の女性は火中出産で男を震え上がらせたけれど、時代が下ると現在の世と同じで 神から人への変遷が記紀から読み取れます。 童女君の血筋である和珥氏とは、奈良盆地北部を勢力圏とする豪族で天理市和爾(わに)町など地名に残っています。 和爾町に隣接する櫟本町に “和爾下(わにした)神社” があって、参道脇に “影媛あわれ” と題されたこんな歌が記されています。
『石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎて 物多に 大宅過ぎ 春日
春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り
玉もひに 水さへ盛り 泣きそぼち行くも 影媛あわれ』
この和爾下神社は別名を “春道宮(はるみちみや)” と言いました。 のどかな春の日を求めようとした影媛の恋人・平群の鮪(しび)が武列天皇によって殺されたことを憐れんで詠まれた歌のようです。
雄略天皇も孫になる武列天皇も、男としての猛々しさが勝っていて のどかな春の日には余り興味がなかったのでしょうか? スサノオノミコトが演じた神代の清々しい猛々しさは失せて、神から人への醜悪ぶりが増していくことになります。