平安時代から鎌倉時代にかけて“遊女の里”として栄えた大阪北西部にある神崎や江口は、淀川河口部の支流だった神崎川が分岐している辺りの場所にありました。 川の分岐は別の言葉で表現すると合流する地点でもあり、違ったところを流れてきた川が合体して一つに混じり合う場所でもあります。 当時は全国にも知れ渡るぐらいの歓楽街で、流れ者の男と女が出会って一夜を共にしました。 自分の居場所が分からない男のために、一夜妻を務めた女の物語がココで生まれました。
世の中を 厭ふまでこそ 難からめ 仮の宿りを 惜しむ君かな
この歌は西行が江口の遊女に宿を乞い、断わられたときに詠んだと言われています。 能にも取り上げられている演目で、ある僧が摂津国の遊女の里(江口)に立ち寄り そこで西行の先の歌を口ずさみました。 そしてその歌を聞いて現れたのが江口の君の幽霊。 昔から幽霊の存在は確認されていたのですね。
「畏れ多くも法師様を遊女の里にお泊りさせることはできなかった」と幽霊が当時の心境を語ります。 泊めようと思えば簡単に泊めることができたはずの遊女の里で、あえて断った辛さを訴えました。
遊女の里はあくまで一晩だけの仮住まいの場所で、さ迷う男が安心して過ごせる場所ではないということを 西行に言いたかったのではないかと思います。 江口の君は自分のことより、相手(西行)のことを想って宿を断わったことが想像できます。 一夜妻を相手にせず、これからもずっと一緒に添い遂げることができる人を 探してほしい気持ちがあったのではないでしょうか。
能で演じられた江口の君の魂は、その後 普賢菩薩になって西の空に飛び去ったという話になっていて、幽霊が登場しても怪談にはならず、ファンタジーになっています。 西に行くという “西行”という名前と、西方向に飛び去ったという “江口の君” との関わりが気にかかります。 神武天皇が目指した東は全く注目されずに、西行のことをずっと気にかけていた江口の君が目指した方向は西でした。
東より西を目指した江口の君の息子と言われている人物が歴史上にいました。 その人物の名は源為朝・・平安時代末期の弓矢を射ることに優れた武士として伝わっている為朝は、保元の乱で崇徳天皇側について敗れ 伊豆大島に流罪さらに追われて自害した人物です。 この為朝が自ら名乗ったのが鎮西八郎で、またまた西に関係する名前になっています。 鎮西というのは九州を表していて、かつては筑紫(つくし)と呼ばれていました。
為朝に絡む伝説が伊豆大島のさらに南の八丈島と青ヶ島にも残されています。 この二つの島は昔から男女別々に生活することが習慣化されていました。 為朝はその習慣をやめさせる為、あえて法を犯して八丈島(女護ヶ島)の女との結婚を選びました。 その頃 男ばかりが住んでいた青ヶ島には葦がたくさん生えていたので葦ヶ島と呼ばれていたのを 為朝が嫌って葦を青に変えて“青ヶ島”という名前になったという話。
わざとらしい話に仕上がっているけれど、考えないといけないことは葦を青に変えたということ。 そして男だけの島ではなくなったので葦が青になったという風にも考えられます。 葦はジメジメした湿地帯に生えるので、為朝はそのジメジメを嫌い さわやかな空の青(海の青もあるけれど今回は無視)を目指そうとしたのではないか・・
西の空に向けて飛び立った江口の君の魂は、かつて宿を断った西行のことをずっと気にかけていました。 鎮西八郎と名乗った為朝は、江口の君の息子で因習に囚われていた男女別々の島をなくして互いに交流できる島にしました。
西に関わっている人は自分以外の人のことを気にかけて、他人に尽くし(筑紫)ているように感じます。 そして為朝のようにシメッポイことを嫌うのも特徴として考えられます。
ところで記紀神話に語られている我が国は葦原中ッ国と呼ばれていました。 考えられることは湿地帯が多かったということですネ。 現在の日本はどうなんでしょう? 池や沼は多いように思うのですが・・ 湿地を好む生き物たちにとっては生活しやすい環境の日本です。