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    緑の光線

    • 2008.03.31 Monday
    • 20:16
    映画のタイトル “緑の光線” はフランスの作家
    ジュール・ヴェルヌの小説がベースになっています。 

    他に 『80日間世界一周』 『海底二万里』 
    『十五少年漂流記』 などがあり、
    今回 調べて分かったジュール・ヴェルヌは、
    小説だけではなく科学の分野でも
    多くの業績を残しました。 
    科学者でもあったヴェルヌが書いた “緑の光線” 
    の科学的説明が映画で紹介されていて 
    内容は以下のようなものです。

    海を背景にして老人たちがヴェルヌの小説(緑の光線)に関して話をしています。 水平線の向こうにお日さまが沈む時、カラッと晴れた日にだけ 最後の最後で 一瞬 明るい緑の光を見ることができる。 また夏は大気の状態が適切ではないので見ることは難しく、空気が澄んでいることが必要!

    光の屈折によって起こる現象で、緑の光線を見た人は自分と他人の感情が分かるようになるとのこと。 映画で語られていた老人たちも 何度か見たことがあるようで、自分と他人の気持ちが分かるようになったのでしょうか?

    映画は、隠しカメラである女性を追いかけて撮っているようなドキュメンタリー風になっていて、追いかけられている女性はデルフィーヌ。 彼女は孤独です。 本当は恋人と休暇を過ごしたいのに一人なので何かが満たされないまま 何とか頑張るんだけれど、ワケもなく泣いてしまいます。 人ともっと触れ合いたい心はあるのに、デルフィーヌは他人とうまく交流することができません。 そんな自分が情けなく、またワケもなく泣いてしまいます。

      多くの人で混み合うビーチで過ごしたり、
      一人で散歩をしたり 
      波が激しく打ち寄せる断崖絶壁の階段を
      下ったりして気分を紛らわせようと
      すればするほど 急に寂しくなって、
      またワケもなく泣いてしまいます。

    適当に他人に合わせてやっていくことが不得手なタイプのようで、気がつけばいつも一人。 きっと適当な恋人ではなく、ホンモノの恋人を探しているのでしょうね。 
         だからいつまでも一人。

    他人から見れば苛立つデルフィーヌに、“心から自分がしたいことは何?” と問いかける奴がいました。 そんなことを質問するあんたがしたいことは何やねん? と反発することもなく散歩かな・・というカワイイ返事!

    その言葉通りに、ウロウロ歩きまわって小道に入っていくデルフィーヌ。 しかし心は満たされないようで、自分に合うナニカを探しています。 そのナニカがはっきり分からなくても、現実にそのナニカに出会うまで 彼女はワケもなく泣きながら探し続けることになりそうです。

    * 脚本・監督 エリック・ロメール     * 1986年 作品
    * 出演 マリー・リヴィエール

    虫眼鏡 科学者が言う “緑の光線” を見ようとする気持ちがある人と、疑ってかかる人のこれから先に訪れる時間は 決定的に異なっているはずです。

    アモーレス・ペロス

    • 2008.03.31 Monday
    • 09:48
            

    犬で思い出すのは主人を待ち続けた忠犬ハチ公の秋田犬・・あるいは賢い名犬で知られているラッシーやリンチンチン・・そして愛くるしい目を持つヨークシャテリアの知る人ぞ知る野良犬ベンジー!

    犬はだいたいにおいて忠実でかわいく人間のために役に立ってくれる生き物であると思っていました。 しかしこのような考えを覆されることになったのが闘犬という世界を描いたメキシコ映画の “アモーレス・ペロス”

    ペロペロと長い舌でなめてくれるからペロ(perro)という名前になったと考えれば覚えやすい犬を意味するスペイン語がペロで、福数形のSがくっついて犬たちを描写しているのがこの映画。 アモーレスというのは古い歌で “アモーレ・ミオ(私を愛して)” という歌の記憶から感じることができるように、この映画は愛すべき犬たちのカタチを扱っています。

    ただ実際の犬そのものだけを表現しているのではなく、愛玩犬としてかわいがられるだけではなく 人間として闘う犬たちを闘犬という世界に託して映し出されていたようにも感じます。

    上辺だけの人間描写ではなく、皮をえぐり取ったような露骨な映像は 視覚的には血みどろで汚いけれど、この町(メキシコシティが舞台)で生きている人々の鬼気迫る生活が伝わってきます。

    いろいろなタイプの人間が描かれていて、みんな自己中心の自分に都合がいい愛が多いなか 一番カッコヨカッタのがエル・チーボという男。 髪の毛ボーボーで口やアゴにもヒゲが生えていて、生きていくために殺人を請け負って生活していました。

    彼は事情があって家族と隔絶された場所で生きてきた一匹狼のようなタイプです。 時折 留守中の自分の娘の部屋に忍び込むという屈折した愛情でしか自分の心を表現できない不器用な男。 でも生きる誇りはいつも持ち続けてきたようで、家族と離れて生活する辛さにも耐えて 男を貫いてきたように感じます。

    そんな彼が最後にこの町を離れる時、髪の毛やヒゲをすべて切り落とし、背広を着て革靴を履いたエル・チーボは以前の男とは別人になっていました。 その彼の後ろに付き従っていく犬・・この犬も闘い続けて瀕死のカラダをエル・チーボに救われたことがありました。

    孤独な男と孤独な犬は、メキシコの乾いてヒビ割れしたような大地を後にします。 米国や欧州の空気とは違った、熱い血がほとばしる感情の激しい映像はやはりラテンの血!

    * 監督 アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ    * 2000年 作品
    * 出演 エミリオ・エチェバリア   ガエル・ガルシア・ベルナル   ゴヤ・トレド

    汗 最後に流れたアコースティックギターの繰り返される音色は印象深く心に残りました。

    メタボリック症候群の克服

    • 2008.03.30 Sunday
    • 20:39
                  

    ゴミ・チリ・クズなど不用物のことをまとめて芥(あくた)と言います。 人間の汗や糞尿も芥のように汚物として処理されます。 また鉄を焼いて鍛える時、剥がれて落ちるクズのことを鼻クソみたいに “金クソ” とも・・この金クソは鉄サビの原因にもなるので、鉄の強度を保ったまま長い期間使用するためには金クソが多く取り除かれる・・すなわちそのクズの山と入れ替わりに品質のいい鉄が生まれます。

    この例からも分かるように人のカラダも糞尿を搾り出すことで健康体を維持することができます。 ついでに精神面のイライラやモヤモヤやコテコテなども排出することで、毎日の心地よさを手にすることができそうです。

    平安時代の歌物語で男女の情事ばかりを扱った作品が “伊勢物語” 作者は女の扱いがうまいプレイボーイの色男として名前が通っている在原業平らしき(?)人物という、何とも思わせぶりな風評・・しかし業平らしきでは誰か分からず伊勢物語の作者は不明! その伊勢物語にアクタという名が付けられた『芥川』のことが記されています。

    芥川とは大阪府高槻市を流れる川で、本流の淀川に流れ込む支流の一つです。 またその川の沿岸一帯が芥川という地名にもなっていて そこに鬼が住んでいたという話になっています。 鬼って節分だけではなく 童話や伝説そして伊勢物語のような古典にも、意外に頻繁に出没する人気者ですね。

    物語では、ある男が高貴な姫を盗み出し京の都から逃れ来て 芥川を越えた所で一夜を過ごしたことになっています。 ポイントは“芥川を越えた” “越えてはいけなかった芥川を越えた!” アクタにまみれなければいけなかったのに、それを越えてしまったことで鬼が出現したような表現です。

    結局 何かの怒りに触れて夜明け寸前 鬼はその姫を食べてしまいました。 姫を盗んだ男はいったい何してるのん・・イライラ・・姫を守れ! 芥川を越えた姫は鬼によって赤ずきんのように食べられました。 鬼は狼のように、姫を待って食べる用意をしていたのかも・・芥川を越えたトコロで!
        
    さてココで掃溜めにいた鶴を考えてみたいと思います。 カラスが得意とするゴミ漁りの場所に白い鶴がいるとやはり目立ちますね。 カラスは黒いから よけいに白い鶴を引き立ててしまいます。 “掃溜めに鶴” という言葉は、カラスに混じっていた鶴が今から飛び立とうとしているように感じられます。

         人をとく 芥川てふ津の国の 名にはたがはぬ ものにぞありける

    広辞苑に説明されている “掃き溜めに鶴” の意味は、つまらぬ所に優れたものが現れたタトエという風に書かれていました。 しかしその反対に、自分にとって不釣り合いな場所から飛び立とうとしている場合も考えられます。 “人をとく芥川” と詠まれた歌から想像すると、何かに縛られたようになっていた鶴が解き放たれたようにも感じます。

    この歌の出典は“拾遺和歌集”で遺失物(忘れ物)から拾われた歌のひとつです。 人を解き放つカギはゴミ・チリ・クズが散乱する芥であり、アクタを越えると鶴になるのかも・・出すだけ出し切れば鶴になって掃溜めを離れることができるので、キレイを目指す人は体内毒素を出しましょう。 自分の体内に溜まったアクタを全部出し切れば、解放された強い自分を手にすることができそうです。

    鉄の場合と同じように、アクタの山が高くなればなるほど自分のスリム化が達成できて 
    メタボリック症候群の克服につながると思うのですが・・ついでに自分の身にまとっているヨロイも脱ぎ捨てると、軽くなってキレイの階段を昇り始めることができると思います。  何といってもキレイが一番!

    ベニーズビデオ

    • 2008.03.30 Sunday
    • 10:11
    現実に目で見ている映像と、画面に映る
    ビデオ映像が スイッチひとつで
    パッと切り替わることが
    当たり前のように感じているベニーくん。
    ベニーの部屋の窓の外を映している景色と、
    テレビで報道されているニュースの映像は
    似たようなもので
    どちらもベニーにとっては、
    変なモンスター映画と同じ映像のように感じているようです。
              
    ベニーは裕福な家庭で育った中学生ぐらいのどこにでもいそうな少年。 そんな未成年のベニーが平気で煙草を吸い、自分の部屋で見ず知らずの女の子を銃で撃ち殺します。

    とにかく苛立つベニーで、一番 腹が立つのは 殺した女の子が痛がって助けて!と叫んでいるのに、静かにして!と言って次の弾(たま)をつめて再び彼女を撃っていること。 それでも黙らない彼女に同じように三発目を加えて、
    静かになった部屋でヨーグルトを食べているベニー。

    一度 自分が誰かに撃たれて 彼女の痛みを感じる必要がありそうです。 赤い血が流れた部屋をキチンと片づけて、黙々とした彼の穏やかな行動は その後も続きます。 人が死んでんねんから もっとウロタエテ取り乱せ!と言いたいけれど コチラの想いは届きません。

    映画のなかで 現実に女の子を殺してしまったベニーは、何かを感じたのか坊主頭にして 自分の殺害現場(本人にはそのような気はなさそう)を 自分で撮影していたビデオで 何度も繰り返し観ています。 まるで誰かが撮った映画のように・・それを両親がたまたま見てしまい、家族でまたまた騒がずに密談がなされます。

    この家には騒いでワメク人がいないのでしょうか? 息子が殺人を犯しているのに、落ち着いて話し合いをしている両親の恐怖を感じます。

    ベニーの両親は、殺された女の子やその両親のことを話題にすることなく、静かに解決策を話し合っています。 コワイ家族! でもこれは映画でツクリモノ! しかし現実にはコレ以上のことが起こって、ワケも分からず殺されることがある理不尽な世界が展開されています。

    それにもかかわらず、当事者になったことがない人たちは無関心であり続けているのが現代社会。 きっとソコ(無関心)にハネケ監督はメスをいれているのでしょう。 もう少しマシな社会であることを祈ることしかできませんが・・
    ハネケ監督の挑発的影響を受けて 映画以上のイヤな社会を見つめ直してみようという気になれば、映画は立派な芸術になります。
             
    ハネケ監督が考える映画は以下のようなもの・・                
    「映画は気晴らしのための娯楽だと定義するつもりなら、私の映画は無意味です。 私の映画は 気晴らしも娯楽も与えませんから。 もし娯楽映画として観るなら後味の悪さを残すだけです。 快適で親しみやすいものなど 現代の芸術には存在しません。」

    この映画もハネケワールドの異様な世界が映し出されています。 しかしこの映像は、現代社会で起こっている悲惨な現実のほんのヒトカケラでしかないようにも思います。

    * 監督 ミヒャエル・ハネケ     * 1992年 作品
    * 出演 アルノ・フリッシュ

    豚 リアル感って何なんだろう・・

    ワン・フロム・ザ・ハート

    • 2008.03.29 Saturday
    • 22:56
    この映画を観て初めて知った南太平洋に浮かぶ
    ボラボラ島。
    今では名前も知られるようになり楽園のイメージが
    定着しつつあるけれど、
    当時は映画のストーリーや映像より
    このボラボラ島に心を奪われ 
    いつもブラブラしていられそうで
    イイナと感じたことを思い出しました。

    ストーリーだけを追えば語ることは何もないけれど、
    映像がこれほどに現実ばなれしている作品も珍しいのではないかと思います。
    これがもしかしてコッポラ監督のネライだったりして・・

    現実はつまらないからせめて映画の中でキラキラを体験してみようという試みか、
    あるいはリアリティーがないということは社会の現実と似ているんだヨというメッセージなのか?  特殊な映像だけに いろいろ監督の想いを想像してみたくなります。

    完璧にすべてがツクリモノであるということがマルワカリのオール・セットで撮影されました。

     音楽ではしわがれ声のトム・ウェイツと、 
     柔らかく透き通った声のクリスタル・ゲイルが
     担当して少しだけ話題になりました。 
     両極端の男と女を象徴的に声で表現しているよう
     にも感じます。

    ストーリーのなかで男と女が5年目の記念日に、お互いプレゼントをしました。 女から男に贈ったのは、ボラボラ島行きの航空券。 男から女へのプレゼント(?)が家の権利書で・・ちょっと興醒め!  この男・・堅実ではあるかもしれないけれど、女心を理解していないです。

    このように男と女は永遠にズレを生じさせながら、それでもこの世には男と女しかいないので “何か合わない” とどこかで感じながらも、妥協あるいは習慣で生活し続けていくことになるのでしょうか。 

    * 監督 フランシス・フォード・コッポラ    * 1982年 作品
    * 出演 フレデリック・フォレスト   テリー・ガー   ナスターシャ・キンスキー

    ムード ボラボラ島という名前がどのようなイキサツでつけられたのかスゴク興味があります。 

    ひまわり

    • 2008.03.29 Saturday
    • 20:34
    “ひまわり” を漢字で書くと
    “日回り” あるいは “向日葵”
    太陽を追って花が回転するという風に
    言われているけれど、
    実際は明るい方を向いて
    花びらが開くとそのままの状態で
    動かなくなるらしい。

    そんなひまわりが咲き乱れている
    ロシア(製作時はソビエト連邦)の大地に
    異国(イタリア)人のジョバンナは、出征したまま帰って来ない夫を探すため 
    はるばるこの地にやってきました。 
    駅で見かけたイタリア人に声をかけても、相手はイタリア人ではなくこの土地の者だと言い切ります。
      
    浜辺で出会ったジョバンナとアントニオは情熱的な恋に落ちて結婚します。 離れたくない二人は、狂人を装って戦争逃れを画策しました。 しかし芝居は見破られて、極寒の地ロシアへ送られてしまったアントニオ。 妻のジョバンナは生きていることを信じて待ち続けました。 

    兵士たちが列車から降り立つ駅で、アントニオの写真を手にかざして夫の安否を尋ねようとします。 そんな時、雪深いロシアのダダッピロイ地を 引きずる足で歩いていた男がアントニオではないかという情報を得て 彼女はロシアに旅立つことを決めました。

    列車の窓から見えるのは、風に揺れながらもしっかり立って咲いているひまわりの花。 このひまわりが咲いている場所で 多くのイタリア人そしてロシア人が命を落としました。 戦士たちが重い荷物を背負って足を引きずり、息絶え絶えに歩いた白い大地に根付いた大輪のヒマワリ。

     戦死者の真っ赤な血と凍りつくような
     真っ白い雪が混じり合った大地が 
     今は黄色に染まっています。

     アントニオを見つけたジョバンナは、
     以前の自分が知っている
     夫ではないことを悟ります。 
     何の言葉も交わさずに列車に飛び乗ったジョバンナ。 諦めきれなかったアントニオは、もう一度 彼女と話すためイタリアに旅立ちました。 しかし彼女は、アントニオを受け入れることなくロシアで待つ妻と子のところに彼を戻そうとします。

    ロシアという異国で戦い生き残ったイタリア人は、もうイタリア人であり続けることはできません。 現実の社会でも、戦争という狂気が引き起こした多くの苦しみにモガキながら 人々は生き続けてきました。

    戦争を知らない世代がどれだけこのような映画で感じようと それはフィクションであり、真実の痛みには及びません。 流した涙も、寝る前には忘れているのが現実!
    せめて私たちにできることがあるとすれば “生きる” ことの意味を考えてみるぐらい・・

    劇場公開された当時 反戦映画というように言われていたけれど、この映画に登場していた人たちはみんな 社会に翻弄された穏やかな人で、絶望の戦争を受け入れ哀しみを越えて生き続けた人ばかりでした。

    * 監督 ヴットリオ・デ・シーカ     * 1970年 作品
    * 出演 ソフィア・ローレン   マルチェロ・マストロヤンニ

    おはな ロシアでは食用のひまわりが栽培されているそうです。

    アポロンがかぶり続けた冠

    • 2008.03.29 Saturday
    • 09:41
                   

             “金の矢は恋に陥る矢 鉛の矢は恋を拒む矢”
    それぞれの矢が刺さった瞬間、アポロンはダフネに想いを寄せ ダフネはアポロンを鬱陶しいと感じる 悲劇もしくは人によっては喜劇と感じる物語が始まります。

    アポロンとはギリシア神話に登場する太陽神で、日本では天照大神がその役を受け持っていました。 アポロンはギリシア神話の最高神(ゼウス)の息子で、月の神・アルテミスはアポロンの双子の妹になります。 アポロンとアルテミスは双子なのでほぼ同時に生まれています。

    日本でゼウスにあたる神はイザナギノミコトで、太陽神と月神は双子ではなく 順番は太陽神(女)がトップでした。 二番目に月神(男)そして三番目に異端児スサノオノミコトが生まれています。 このように国によって伝えられている話は異なっているけれど、太陽と月を管理する神は、あらゆる国において絶対的存在でした。
             
    さて今回の話の中心人物であるアポロンは、常に月桂樹の冠をかぶっていました。 その冠をかぶり続けることになったイキサツが、先に書いた金の矢と鉛の矢の二種類の恋の矢。 金の矢を受けたアポロンはダフネを追いかけ回し、鉛の矢を受けたダフネは逃げ惑います。 

    ダフネは川の神の娘なので流れ続ける意味も込められ、アポロンから離れるため流れました。 その流れ続けたダフネは、ついにアポロンから逃げるのにも疲れ果て、最後に自分の姿を何か別のものに変えてくれるように父に頼みました。 川が流れ続けるようにカタチなきダフネが、変身させられたものが月桂樹の木。

    一方アポロンとダフネを振り回した神がどこかにいたはずです。 金の矢と鉛の矢を刺して、カゲからこっそり見ていたイタズラ好きの神がエロス! エロスの母はアフロディーテという名の美の女神。 エロスは母の血を受け継ぎ、アポロンとダフネに求めたものは美しいカタチの愛! 二人なら創ることができるという見通しがあったはず。
       そのエロスの目に叶ったアポロンとダフネの結末は?

    月桂樹になってしまったダフネにアポロンはショックを受けました。 しかしそのままで終わらせないところが太陽神である確たる証拠! ダフネそのものである月桂樹の枝葉を輪にして冠を作り 生涯 月桂樹の冠をかぶり続けたのがアポロンでした。

    ダフネが刺された鉛は、意外にも人にとって必要不可欠な元素で 特に骨や脊髄を構成する重要な元素です。 鉛中毒のイメージが影響しているのか 鉛の有用性があまり語られてきませんでした。 他の金属のように空気に触れて酸化は進むけれど表面に酸化皮膜を形成するため、内部への腐食が進みにくいという利点があります。 人にたとえるなら、悪いウィルスが侵入してきてもはね返すことができるパワーが鉛にはありました。 

    嫌われながらもダフネを追いかけたアポロンは骨格を形成する鉛を手に入れ、さらに愛の証しとして月桂樹のいい香りに包まれていたことになります。 調子がいいアポロンの中心世界が描かれているようですが、後の世に影響を与えたのはダフネの方です。 オリンピックの優勝者の頭にかぶせられ賞賛の意を表す月桂樹の冠。 やはり勝利者へ導くのは女神の仕事なのでしょうね。

    付け加えておくと鉛を英語で言うと “lead”。 lead はリーダー的存在として “導く” という意味にも使われています。 ダフネが刺された鉛の矢は、単に中毒を引き起こすだけのナマリではなく 人や社会を導いていく力の大きな源になりました。

    西向く人々

    • 2008.03.28 Friday
    • 19:50


    平安時代から鎌倉時代にかけて“遊女の里”として栄えた大阪北西部にある神崎や江口は、淀川河口部の支流だった神崎川が分岐している辺りの場所にありました。 川の分岐は別の言葉で表現すると合流する地点でもあり、違ったところを流れてきた川が合体して一つに混じり合う場所でもあります。 当時は全国にも知れ渡るぐらいの歓楽街で、流れ者の男と女が出会って一夜を共にしました。 自分の居場所が分からない男のために、一夜妻を務めた女の物語がココで生まれました。
          
          世の中を 厭ふまでこそ 難からめ 仮の宿りを 惜しむ君かな 

    この歌は西行が江口の遊女に宿を乞い、断わられたときに詠んだと言われています。 能にも取り上げられている演目で、ある僧が摂津国の遊女の里(江口)に立ち寄り そこで西行の先の歌を口ずさみました。 そしてその歌を聞いて現れたのが江口の君の幽霊。 昔から幽霊の存在は確認されていたのですね。
    「畏れ多くも法師様を遊女の里にお泊りさせることはできなかった」と幽霊が当時の心境を語ります。 泊めようと思えば簡単に泊めることができたはずの遊女の里で、あえて断った辛さを訴えました。

    遊女の里はあくまで一晩だけの仮住まいの場所で、さ迷う男が安心して過ごせる場所ではないということを 西行に言いたかったのではないかと思います。 江口の君は自分のことより、相手(西行)のことを想って宿を断わったことが想像できます。 一夜妻を相手にせず、これからもずっと一緒に添い遂げることができる人を 探してほしい気持ちがあったのではないでしょうか。
               
    能で演じられた江口の君の魂は、その後 普賢菩薩になって西の空に飛び去ったという話になっていて、幽霊が登場しても怪談にはならず、ファンタジーになっています。 西に行くという “西行”という名前と、西方向に飛び去ったという “江口の君” との関わりが気にかかります。 神武天皇が目指した東は全く注目されずに、西行のことをずっと気にかけていた江口の君が目指した方向は西でした。

    東より西を目指した江口の君の息子と言われている人物が歴史上にいました。 その人物の名は源為朝・・平安時代末期の弓矢を射ることに優れた武士として伝わっている為朝は、保元の乱で崇徳天皇側について敗れ 伊豆大島に流罪さらに追われて自害した人物です。 この為朝が自ら名乗ったのが鎮西八郎で、またまた西に関係する名前になっています。 鎮西というのは九州を表していて、かつては筑紫(つくし)と呼ばれていました。

    為朝に絡む伝説が伊豆大島のさらに南の八丈島と青ヶ島にも残されています。 この二つの島は昔から男女別々に生活することが習慣化されていました。 為朝はその習慣をやめさせる為、あえて法を犯して八丈島(女護ヶ島)の女との結婚を選びました。 その頃 男ばかりが住んでいた青ヶ島には葦がたくさん生えていたので葦ヶ島と呼ばれていたのを 為朝が嫌って葦を青に変えて“青ヶ島”という名前になったという話。

    わざとらしい話に仕上がっているけれど、考えないといけないことは葦を青に変えたということ。 そして男だけの島ではなくなったので葦が青になったという風にも考えられます。 葦はジメジメした湿地帯に生えるので、為朝はそのジメジメを嫌い さわやかな空の青(海の青もあるけれど今回は無視)を目指そうとしたのではないか・・
                 
    西の空に向けて飛び立った江口の君の魂は、かつて宿を断った西行のことをずっと気にかけていました。 鎮西八郎と名乗った為朝は、江口の君の息子で因習に囚われていた男女別々の島をなくして互いに交流できる島にしました。

    西に関わっている人は自分以外の人のことを気にかけて、他人に尽くし(筑紫)ているように感じます。 そして為朝のようにシメッポイことを嫌うのも特徴として考えられます。
          
    ところで記紀神話に語られている我が国は葦原中ッ国と呼ばれていました。 考えられることは湿地帯が多かったということですネ。 現在の日本はどうなんでしょう?  池や沼は多いように思うのですが・・ 湿地を好む生き物たちにとっては生活しやすい環境の日本です。

    フォロー・ミー

    • 2008.03.28 Friday
    • 09:58
    地位も経済力もある完璧エリート会計士がチャールズ・・
    そんな彼が、ふとした縁で出会って結婚したのが
    ショート・カットの似合うベリンダ。

    チャールズはロンドンの上流階級の出身。
    ベリンダは特に何もないけれど飾らない
    素朴さが魅力的な女性でした。
    育ち方に大きな差があった二人の間に、不穏な空気が
    結婚直後から漂い始めます。
             
    丘まで日の出を見に行くと言い残して、
    一日中帰って来ない妻・ベリンダに 夫・チャールズは浮気をしているのではないかという疑念を感じ始めます。 
    そこでチャールズは私立探偵に頼んで、ベリンダの毎日を秘密に探って報告してもらうことに・・その雇われた探偵がクリストフォルという男で、仕事のためにベリンダの後を付け回すことになりました。

    タイトルのフォロー・ミーは、私の後から付いてきてという意味で、そのベリンダの意向に従ってクリストフォルは、彼女を付け回します。 一歩 誤れば、ストーカー犯罪になる危険な仕事を べリンダに分かるように(?)間隔を保ちながら追いかけます。

    べリンダのほうも彼が後から付いてきてくれることを確認しながら行動しています。 二人の間に交わされる言葉はなく、目で何かを伝えるようなアイ・コンタクト!
    二人の間に芽生え始めた 二人にしか分からない心の触れ合いでした。

    ベリンダが求めたものはチャールズの地位や経済力あるいは品のいい家柄ではなく、チャールズそのものだったと思います。 

    チャールズと過ごす安定した生活全般と結婚したのではなく、チャールズその人をもっと知りたいために結婚を選択しただけで 枠にはまった結婚生活はベリンダには似合いません。

    いつも目立つ白いレインコートを着て、少し離れた所から見つめ続けていたクリストフォルを真似て今度は、チャールズが甘いお菓子(マコロン)を口に含んで 妻を見つめているベリンダの夫の優しい目がありました。 

    * 監督 キャロル・リード     * 1972年 作品
    * 出演 ミア・ファロー  トポル   マイケル・ジェイストン

    ソフトクリーム 妻を教育しようとしたチャールズが、逆に教育され 今まで感じたことがない自由な世界を体験することになりました。

    サマーストーリー

    • 2008.03.27 Thursday
    • 19:53
    18年ぶりに英国南西部にある田舎町
    ダートムーアを訪れた主人公・フランク。
    若かった彼は、ダートムーアという美しい大地に忘れることができないものを残して、
    この土地を去りました。

    その忘れることができなかったものとは・・
    恋した女と過ごした数日間の輝いていた自分? あるいはなだらかに広がる緑の絨毯に敷き詰められたダートムーアという土地?
    もしくは恋はしたけれど愛することはしなかったメグという名の女?
     
    フランクはロンドンで弁護士の仕事をしていたエリート。 母を失った孤独な娘がメグで、彼女はこの大地の一軒家・女主人に引き取られて過ごしていました。 そこによそ者のフランクが介入して、穏やかだった波が荒立ち始めます。 若さゆえの熱情で妊娠してしまったメグ。 結果的にメグはフランクに捨てられ、フランクの子を誕生させると同時に彼女は死んでしまいます。
     彼女の遺言に従い、生まれてきた男の子は
     フランクと名付けられました。
     
     彼女の墓は墓標も何もなく、雄大なダートムーアを
     見渡せる場所に築かれました。

     そこはメグとフランクが初めて逢った場所。 
    “彼がこの土地に帰ってきた時にすぐに彼を見つけることができるから”・・というメグの言葉を 18年ぶりに聞かされることになったフランク。
      
    メグは自分の命と引き換えにフランクの子をこの世に誕生させて死にました。 短い命ではあったけれど、フランクの人生より何倍も濃い日々を送ることができたと思います。

    お墓のそばで、ピンク色の可憐な花が揺れていました。 メグが土になったそばで、これからも毎年かわいいピンク色の花を咲かせることになるのでしょう。 恋だと思っていたメグの心は、愛のカタチに変えることができる清い心で 不確かな愛を完成させました。

    しかし・・何とも・・相変わらずなのは・・フランクで・・男はこの程度ってことですね。

    * 監督 ビアーズ・ハガード     * 1988年 作品
    * 出演 ジェームズ・ウィルビー   イモジェン・スタッブス

    アート 初めはだるい恋愛映画の印象があったけれど、ダートムーアの大地に根付いたピンクの花の効果があったのか 最後は深く心に刻まれました。   

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