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    午と馬

    • 2008.02.29 Friday
    • 21:54
                   

    “馬が合う” とは気が合うとか意気投合するという意味で、気が合うのは馬でなければいけません。 一方で十二支の “うま” は牛によく似た漢字の “午”。  一日24時間を午前と午後に分ける “午(ご)” として使われる漢字で、この漢字が十二支のウマになっているのはどうしてかを考えてみたいと思います。

    かつて “午の刻” といえば丁度真昼の12時を示していました。 そのとき時計の二つの針はピッタリ重なり合っています。 これらのことからイメージすると “午の刻” は長針と短針がピッタリ重なっているので 馬が合う仲良しであると想像できます。 しかも一日の前にも後にも偏らない真ん中でくっついています。

    小学生の時 長針と短針の動きを学びましたね。 短い針がほんの少し動く間に、長い針はグルリと一回転しなければいけないので疲れるのは長針ばかり・・ 短い針はボウサンガヘヲコイダと言っている間に ほんの少し動けばよかったのです。 その不公平さが解消される一瞬が午の刻でした。

    芭蕉がこのような句を詠んでいます。 “里見え初めて午の貝吹く” この場合の午の貝は午の刻を告げるために吹く法螺貝のことで、何故か “午の刻” にこだわっています。 方位にも午は使われていて 日本標準時を表す子午線という名前も子(真北)と午(真南)を結ぶことから名付けられました。 だから午は寒いより暖かい方を好むということが分かります。

    さらにもう一つの “馬” について考えてみることにします。 すぐに思い浮かべるのは競馬・・・馬と騎手が一体になって駆け抜けて順位を競います。 馬と人間との二人三脚のレースで、片一方だけ優れていても優勝することはできません。 馬はいつも誰かを乗せて走りたい習性があるのか、西部劇でも男を乗せて走り続けています。

    また登山道で道が険しくなり 乗ってきた馬を返して徒歩になる地点のことを “馬返し” と言いました。 これから先の山道を馬に乗ったまま前に進めない急坂になっている地点で、馬に乗ってきた人は馬から降りなければいけません。 今まで馬が歩いて (走って) くれたその登山道で降りたくなければ引き返すだけ・・しかし頂上を目指そうとするなら 馬はもう動いてくれません。 初めに馬が合うと思っても 気がつけば馬を返さないといけない地点に来てしまっていることはよくあるもの。 もし頂上を目指す気があるのなら歩くのは一人・・ 携帯電話で誰かを呼ぶことは厳禁!

    イチ ニー サン シー ゴー(午)と馬と一緒に歩むことができるのは五までで 最後のジュウ(十)までの道のりを達成させるチカラは孤独の克服と健脚です。 でもそれが叶えば、とても美味い(うまい)二人になり やっとホントの熟寝(うまい)ができる “とき” を迎える馬が合う二人になっているでしょう。

    タガを考える

    • 2008.02.29 Friday
    • 17:15


    愛する妻・イザナミノミコトと死別し、ただ一人残されたイザナギノミコトは その後も禊によって多くの神々を誕生させました。 仕事をすべてやり終えたイザナギノミコトは、淡路の多賀の地に幽宮(かくりのみや)を構えて穏やかな余生を送ったと日本書紀は伝えています。 愛する妻と二人して初めて生み出した思い出の島が淡路島なので イザナギノミコトにとっては感慨深いものがあると考えられる島です。 事実 淡路市一宮町多賀という地に【伊弉諾(イザナギ)神宮】があり、その伝承を裏付けています。

    しかし日本書紀よりも古い古事記には“伊邪那岐(イザナギ)大神は淡海の多賀に坐すなり”と記されていて、淡路と淡海では“淡”は共通していても場所が違いすぎるぅ! しかしココ(滋賀県犬上郡多賀町多賀)にもチャント多賀大社があり、多賀ずくめの地にイザナギノミコトは妻とともに祀られています。 困った!

    困ってしまったのでイザナギノミコトがどちらか一方に落ち着いたという考えを捨てて
    素直に記と紀を両方信じることにしてみました。 すると以下のようなことが導き出されます。 初めは古事記が伝える地(淡江の多賀)に留まり・・そしてしばらくの時を経て日本書紀が伝える地(淡路の多賀)に移動したという風に考えると納得できますよね。この移動は北東から南西に向けて動いています。 鬼の通り道と同じ。 ではイザナギノミコトの正体は鬼だった・・ウゥ〜ン説得力はまるでナシ!

    しかしイザナギノミコトは妻を失ったとき、その原因となった迦具土神を十握剣で殺しています。 理由はどうあれ我が子を殺していることを想像すると、そのときの形相は鬼のようであったと思われます。 またイザナギノミコトの周りで“たが(多賀)”がシツコクくり返されています。 “たが”とは桶や樽など水を貯えておく器の外側を堅く締め固めるのに用いる輪ッカのことで もしタガが外れると桶も樽も使い物になりません。 タガをしっかりかけておかないと器の機能を果たさず 水漏れの原因にもなるので タガはガタガタしないようにカッチリはめ込んでおくことが必要です。

    また哲学用語の一つに他我(たが)というのがあり 自我に対する語として位置付けられています。 『自分が持っている我』に対して『他人が持っている我』を他我と呼び、他人が感じる痛みや哀しみを自分のものとして感じ取る意識のようなもの。 イザナギノミコトは死に直面した妻の痛み(他我)を感じ取ったのかもしれません。 

    だから初めは淡海の多賀に居たけれど 妻の他我を感じ取り一番初めすなわち原点回帰をするため、夫婦二人が元気だった時に産んだ淡路島を安住の地に選んだと考えてみました。 イザナギノミコト一人の自我だけではなく妻の他我を自分のものにしたからこそ辿り着けたと思います。 “赤の他人”とは全く縁がない人のことではなく、赤い血の痛みを感じることができる自分以外の他者をそのように呼ぶのでは・・

    由布岳の神はつかみにくい

    • 2008.02.29 Friday
    • 12:00


    現在の九州は七つの県で構成されているけれど、かつては筑後・筑前・肥前・肥後・豊前・豊後・日向・大隅・薩摩の前と後ろに分かれる県が多く 宮崎県は日向だけ そして鹿児島県は大隅と薩摩で他の県はすべて前と後ろに分かれて構成されていました。

    この豊国の後ろを受け持つ豊後国(現在の大分県)に由布岳(豊後富士)がそびえています。 東と西の二つの峰からなる山の麓には湯布院温泉があり、観光地としても魅力ある場所。 この地域は山に囲まれた盆地でこんな伝説が語り継がれてきました。

    昔は盆地ではなくすべてが水に覆われた大きな湖だったという話から始まります。 その大きな湖を由布岳の神である宇奈岐日女神が水を乾上がらせて 人々が住める土地にしようとしたところ 湖に棲んでいた龍が自分の居場所がなくなってしまうので 少しだけでも湖を残してほしいとこの龍に懇願されました。 そこで宇奈岐日女神が残した湖が現在の金鱗湖であるというストーリーです。

    伝説や祭りに多く取り上げられているのが 乾くか湿るか・・季節でも冬は乾燥して夏はジメジメしているようにモノが腐りやすいのは夏! 虫も発生して不潔感が増すのもやはりジメジメして湿気が高いことが原因の夏! そんなヌルヌルを吹き飛ばすため食べるのは鰻。
           
    この伝説に登場している龍は、どちらかといえば乾いているより湿っているほうを好んでいます。 宇奈岐日女神は水を奪ってしまうので乾燥好みで虫嫌い! 由布岳の南西に位置する金鱗湖のさらに南西に 虫嫌いの姫を祀る“宇奈岐日女神社”があります。 通称【六所宮】あるいは【木綿(ゆう)神社】と呼ばれています。 古代の祭りで木綿を幣(ぬさ)として榊につけて祈る風習があり木綿の神聖さを示しています。 しかも温泉の名前は湯布院できっと神聖な温泉地なのでしょう。
     
    さて宇奈岐日女神が棲むという由布岳を水面に映す金鱗湖は湖底から温泉と冷泉が湧き出る湖で 冬には温泉の湯気が立ち昇るように幻想的な霧に包まれる金鱗湖を出現させてくれます。 温度差がある湯と水が同じ一つの湖から湧き出ていることの不思議さとともに
    目には見えない湖底の神秘が霧となって私たちに見せてくれる事実はやはり神の領域。

    宇奈岐日女は“うなぐひめ”と読み【うなぐ】とはうなじ(頚)に玉などを掛けることを意味しています。 また陸のことを“ろく”とも読み“六所宮”というのは陸地を創った神を祀るという風に解することができます。 人は肺呼吸で生活するため魚類のように水の中で息をするのはエラい(しんどい)ので、やはり人間にとって生きていける範囲は陸地に限られています。

    しかし由布岳のような高い山になるとその全容を水面に映すため 湖の中にも山があるような錯覚に陥ります。 山の神であるはずの女神の名前が宇奈岐日女というのは実態が霧のようにぼやけて つかむことができない謎を秘めているようです。 宇奈岐日女の真実の姿は金鱗湖に棲むという龍のようなウナギ?

    トウをへし折る

    • 2008.02.28 Thursday
    • 22:12


    “初々しい女性”とは世の中にすれていなくて、まだ純真さが残る少女のような女の人というのが一般的! しかし時間の経過と共にトウが立ってくると 食べられたものではないなどという表現が女性に限って使われます。 女性は食べられるものなの?

    【トウ】というのはフキなどの花茎のことで茎立(くくたち)とも呼ばれています。 この“蕗のトウ”が芽吹くのは早春の野山で春一番にモッコリ頭を出します。 香りと苦さが特徴で 春の訪れを知らせてくれる食材としても人気がありますね。 しかしフキノトウと呼ばれてはいても実際にはフキの花のツボミのことで、葉より先に花の芽を出すので一般的順番が逆になっている植物です。

    トウと言われる茎は地下茎になっていて地上に出現しません。 食材として私たちが食べているフキノトウはフキの花のツボミの部分のこと。 アレッ? 何かオカシイと感じませんか? 花が開かないまだツボミ・・女性にたとえると可憐さが残る乙女の頃の食材を
    フキノトウという名前で私たちは食べています。 トウが立つと不味くて食べることができないはずのフキノトウは苦さも十分にあり 冬眠から目覚めた熊が一番に口にするとも言われています。 初々しさとは苦さのこと? うぃ!

    フキの特徴として何より注目すべきことは、花が一番に現れます。 地下茎でつながっている葉は花が咲いた跡に出てきます。 煮物などの食材に使う細長いフキはこの葉の茎の部分で、これを私たちはフキという名で食べています。 このように考えるとフキノトウとフキとは全く異質のもののように感じます。 一体化していないというか・・バラバラの別行動というか・・ 

    君がため 春の野にいでて 若菜つむ 我が衣手に 雪は降りつつ
    作者は平安時代前期の光孝(こうこう)天皇・・55歳で即位した後も炊事は自分でしたと吉田兼好が徒然草で記しています。 

    愛する人のため 自分が寒い想いをしてまでも 先に花のツボミをへし折ることの意味は何でしょう? いつまでも初々しさを女性に残してもらうために 年の一番初めに出てくるフキノトウのトウをへし折ることがいかに大切かを光孝天皇は知っていました。 そうすればフキノトウとフキとは別行動をすることなく名前も同じフキになり、花は永遠に枯れることはありません。

    仲哀天皇のルーツ

    • 2008.02.28 Thursday
    • 17:36
                     

    一人で琴を弾きながら突如死んだ仲哀天皇の父はヤマトタケル そして母親は一般的に名前が通っていないけれど両方の道に通じていそうな名前の“両道入姫(別名・石衝毘売)” 母親の両道入姫は垂仁天皇(仲哀天皇にとってはヒジイサン)が妃のうちの一人綺戸辺(かにはたとべ)に生ませた子でした。 

    垂仁天皇の正妻(日葉酢姫命)の子がヤマトタケルの父親になる景行天皇なので ヤマトタケルを中心に考えると父親(景行天皇)と自分の妻(両道入姫)は異母兄妹の関係になります。 

    これは父方の血が濃い近親結婚といえますね。 こうして近親結婚で生まれた子が皇位に就いたけれど不審な死に方をした仲哀天皇でした。 不審な死と父方の血の濃さが気にかかり 仲哀天皇の足跡をたどってみたいと思います。

    古事記では熊襲征伐のため急に滞在先の紀伊国から長門国を経て筑紫(九州)に向かったとされ、行宮(仮の宮)として“詞志比宮”を住まいとしたという話です。 日本書紀では“橿日宮”という漢字があてられていて神武天皇が即位した橿原を思い浮かべます。現在の福岡市東区香椎にある香椎宮の近くで仲哀天皇は住んでいました。 

    大和から遠く離れた西方の橿日宮で熊襲征伐のための策を練っている時、妻の神功皇后にある神託が下ります。 『西方の宝の国を討つべし』 しかし仲哀天皇はこの言葉を信じようとはせずニセ者の神ではないかと疑いました。 そのことが原因かどうかは明確にされないまま 仲哀天皇は日本の西方に位置する橿日宮で死んでしまいます。 一人で琴を弾いているときの突然のデキゴトでした。 大和から西さらに西に国を見ることができなかった仲哀天皇は死にました。
                      
    橿日宮跡とされている古宮跡が香椎宮本殿の北東にあり、すぐそばに仲哀天皇の屍を納めた棺を掛けた(?)椎の木というのが六角形になった玉垣に囲まれた中にあります。 掛けたという状況は土の上に横にして置くのではなく、縦に立てかけたということなのでしょうか。 伝承によるとそのときイイ香りがしたので香椎という名がついたという話。

    どうも分かりにくくて理解しにくいけれど 仲哀天皇の死と橿(樫)の木・椎の木に何か関係があるのかな。 フムフム・・クンクン・・イイ香り? 普通は死ぬと腐敗臭でクサイニオイが充満するはずだけれど 死んでイイ香りがするというのはウジやハエがたかる屍とは全く違うということだと思います。

    仲哀天皇の母方(両道入姫)に綺戸辺という人がいました。 “綺(かにはた)”というのは薄い細幅の絹織物のことで繊細さを象徴しています。 またキレイ(綺麗)の綺にこの漢字が使われています。 近親結婚で生まれた子は欠陥が出てくることがあるから 避けた方がいいという話もよく言われます。 

    欠陥というのはこの絹織物のような繊細さと綺麗さにあるのかもしれません。 こんなものを持ち合わせていると、糞にまみれた社会を生き抜くことは到底できません。 糞だらけの世を生き抜くためには、図太い政治家のような精神を持っていることが必要とされます。

    ウソやホントなどはどうでもよくて 西に国があろうがなかろうが首を縦に振ることが生き抜くコツ! しかし それで一巻の終わりかというとそうではありません。 死ぬ時に琴を弾いていた仲哀天皇のルーツは後の異母兄弟に受け継がれ、再び活躍したのは仲哀天皇の妻だった神功皇后。 正妻だった人の言ったことに疑問を挟んだ仲哀天皇は琴を弾きながら死にました。

    木の股から通じる国

    • 2008.02.28 Thursday
    • 11:20


    性格的にいろいろな面を持っていた可能性がある大国主神は、大己貴神・葦原色許男神・八千矛神・宇都志国玉神と そのときどきに応じて呼び名が変わります。 今回の話は大国主神がまだ大国主神になる前のオオナムチと呼ばれていた時のこと・・

    八十神によって何度も殺されかけつつ どうにか生き延びてきたオオナムチだったけれど
    突然 山の上から落とされた大石によって殺されるという出来事が起こります。 その落ちてきた大石というのは、赤いイノシシに見せかけた真っ赤に焼けた大石。 その赤い塊をオオナムチはカラダ全体で受け止め、そのまま死んでしまいました。 避けることをせずに まともに受け止めてしまった結果 オオナムチは死にました。

    木に挟まれて死んでいたオオナムチの母親は、死んだ息子にこのように言いました。 「あなたがこれ以上ココにいたら、また八十神に殺されついには滅ばされてしまうわ。危険を避けるため木の国の大屋毘古神のところに行きなさい。」 そのことを又しつこくキャッチした八十神は大屋毘古神のところに押しかけました。 これ以上オオナムチを守ることができないと感じた大屋毘古神は木の股から逃がして スサノオノミコトが住む“根の堅州(かたず)国”に行くようにアドバイスをしています。

    木の股が根の堅州国への入口であり出口のよう・・木の股とは木の幹内部にポッカリ開いた空洞のことで、神社などで時々見かけます。 木の幹はポッカリ穴が開いているのに、朽ちることなく天に向かって葉を繁らせています。 その生命力は地下に根を伸ばした奥深いトコロからの栄養分なのでしょう。 熊が冬眠する際に洞穴や木の空洞部分を冬眠場所に選ぶことから考えても、熊は本能的に安全な場所を知っていることが分かります。

    人間に例えると、お母さんのお腹の中にいた胎児の頃が一番安全でした。このことから想像すると“木の股”とはお母さんの子宮がイメージされます。 暗闇ではあってもとても安心していられる場所・・根の堅州国もそのイメージに近く、スサノオノミコトの管理下のもと暗闇に覆われてはいても 静かでユッタリとした時間が流れているように感じます。 同じ暗闇でもウジやハエがたかる黄泉国とは違って、安心できる暗闇です。 

    その根の堅州国でスサノオノミコトの娘・須勢理姫と出会い、その後も彼女の父親であるスサノオノミコトによる試練が続くけれど 須勢理姫のアドバイスでその困難を克服してオオナムチは地上世界に戻ってきます。 もう以前のオオナムチではなく大国主という名にふさわしい人物になっていました。

    そういえば八上比売(やがみひめ)も自分が産んだ子(父親はオオナムチ)を木の股に挟んでいました。 木の股からは根の堅州国に通じているはずなのでオオナムチ二世として
    多くの試練をクリアーして地上に戻ってきているはず・・“木俣神”という名前とは別に“御井(みい)神”という名も持つ神で、御井とは井戸を表しています。 木の股から通じる根の堅州国では、人が生きていくのに欠くことができない真清水がコンコンと湧き出ている場所で カレカレの世の中でも、どうにか生き続けることができました。 

    石が動くとき

    • 2008.02.27 Wednesday
    • 20:54


    北を目指すJR北陸本線は、石川県金沢市の北に隣接する津幡町で七尾街道(能登国方面)と北陸街道(越中国方面)に分岐しています。 その分岐点から東に向けて北陸街道に沿うようにして走るJRが、石川県と富山県の境にある倶利伽羅トンネルを抜けると到着するのが“石動”駅。 倶利伽羅峠は源平合戦で木曽義仲が平維盛を破った境界ポイントとして有名な峠で その源氏側に勝利をもたらした倶利伽羅峠の東側に位置しているのが先に記した“石動” 読みにくいというか・・全く読めない石動の読み方は“いするぎ”。 動くはずのない石が動くという漢字をあてて【いするぎ】と読むことにこだわり今回の旅は始まります。

    かつて倶利伽羅山(砺波山)の東の麓に砺波関(となみのせき)が設置され 隣国であったにもかかわらず加賀国と越中国とは簡単に往来することはできませんでした。 この砺波山があるのが富山県小矢部市でJR石動駅も小矢部市に属しています。 また富山県の北 氷見市と石川県の中能登町を隔てるようにそびえている山が“石動山” 石動山は石川県側に属しています。 似たような地(石動)が石川県と富山県にあり、しかも県境に位置しているということも気になります。

    “石動山”は古代から信仰の山あるいは修験の山として幾多の苦難を乗り越えてきました。 破壊されつつもすべてが失われることなく蘇ることができた山で、名前のように石が動くことは滅多にない現象で 破壊されつくしても蘇ることができる山でした。 石動山縁起というものまで存在していて、雲を呼び起こす峰であったことが記されています。 頂上には今でも“伊須流岐比古神社”が鎮座してイスルギヒコノミコトが祀られています。

    伝わる話によると動宇石(?)が天から落ちてきて、山が揺れ動いたため石動山と名付けられ その落ちてきた石というのが実は星だったという話。 キラキラ光るものが天から落ちてきて動かない山が動いた? 当然 現実に星や隕石が落ちてきたことを言っているわけではなさそうです。 では何を表現しているのかを考えると、人智の及ぶところではないナニカが地上に出現したと考えるのが自然ですね。 それがよく言われる奇跡(奇石)というもので、神の存在を信じるキッカケになるのでしょう。

    “いする”という言葉を漢字で表現すると医する・慰する・委する それでパソコンに委ねて(委する)イスルギを漢字変換すると“石動”と即座に変換されました。ビックリ!
    委ねることは信じること・・信じる力が強いと動くはずのない石を動かすことができる・・そう信じていたのが小さな星の神たちなのでしょう。
           
    酒造りが得意だった少彦名神も親(高御産巣日神)の掌のスキマから こぼれて落ちてしまうぐらいに小さな神だったことを思い出すと、天から落ちてきたという星はこの少彦名神のことだったのかも・・酒を自ら造ってガブガブと飲み干し 石を動かした張本人は少彦名神で、少彦名神の意志が石を動かしたのではないかと感じます。

    沖ノ島伝説の謎

    • 2008.02.27 Wednesday
    • 15:31


    「今は昔」で始まる古代説話集の今昔物語からタイトルの沖ノ島伝説を紹介します。 その前に以前から気になっていたのが“今は昔”という意味。 時間は流れ続けているので 今という瞬間はすぐに過去という昔になるということを表現しているのか、あるいは単純に今と思っている今は過ぎた昔のことなんだよというメッセージなのか・・そこのところが明確にはされていません。

    映画でかつて話題になった“バック・トゥー・ザ・フューチャー”というのがありました。 そのまま訳すと未来に戻るということで 今は昔とピッタリするのではないかと思います。 今昔物語は12世紀前半に成立したと考えられている説話集だけれど編者は分からず 詳しい履歴もわかっていません。 説話というのは作者が明らかにされている小説とは違って、過去から伝え語られてきた伝説が主体になっています。 戦乱の世を経てもなお 人間社会で大切に保存されてきた伝説が昔から今に伝えたい意味を 今一度しっかり考えてみたいと思います。
            
    一千余りもある説話のなかから“沖ノ島伝説”を取り上げます。 九州の玄界灘に浮かぶ宗像神社に関連するお宝ザクザクの沖ノ島ではなく、四国の最南端 高知県宿毛市に属する沖ノ島の話。
      
    その昔 村人が幼い妹兄(いもせ)を連れて舟で海辺の畑に田植えに出かけました。 かなり状況的に想像しにくい行動パターンで、しかも海辺に畑とは納得しがたい変な気分を胸に伝説は着々と進行していきます。 仕方なく進行に沿って 無理にでも海辺に畑を作って水が浸透しやすい砂浜で田植えをすることをイメージするしかありません。(こんなトコで田植えできるぅ?) 二人の子供(兄と妹ではなく妹が先になっています)は そのうち遊び疲れて舟の上で眠ってしまいました。 潮がだんだん満ち、その満ち潮で舟は沖へ沖へと流され二人はある島に辿り着きました。 潮が満ちると砂浜だったところに海水が浸入してくるのでこの小舟は海岸から陸のほうへ移動したと考えられます。 妹兄は嘆き悲しんでいたけれど、そんなことばかりもしていられません。 生きるために舟に積んであった農具を使って耕作し作物を育て島で暮らすうちに いつしか夫婦になっていたという話。

    この流された島というのが今で言う沖ノ島のことで、島の中心に妹背山があります。 妹兄と書いて“いもせ”と読んでいた伝説から判断すると妹の背になっているのが兄ということになり この妹兄二人で造ったのが妹背山? こうして伝説通り妹と兄をシンボルにした妹背山が沖ノ島の真ん中にあります。 

    妹背山というのは万葉集にも詠まれている有名な山で、この伝説をあてはめると妹と兄が造った近親相姦的山という結論になるけれど 現代の目線で近親結婚を探るのではなく
    今は昔と語られている伝説が伝えたいストーリーとして理解することが大切です。 ではどういう理解をすればいいのかという難問にぶつかってしまいます。 そういう時には背に負ってもいい人を見つけて追いかけてみるのも一つの手!

    猿田彦神と貝

    • 2008.02.27 Wednesday
    • 10:55


    貝とは堅い貝殻を身にまとっている軟体動物のことで ナメクジやイカ・タコなども貝の仲間になっています。 カラダはクニャクニャで骨がなく ネバッコイ粘膜に包まれたカラダがもし乾燥すれば 即その貝は死にます。 だから死なないために貝殻という防御すべきものとペアを組んで非情な自然界を生き延びてきました。
                
    三重県松阪市小阿坂町にある阿射加(あざか)神社は その骨がない貝に手を挟まれて死んだと伝わっている猿田彦神が祀られています。 毎年1月14日に行われる神事が“御火(おひ)だめし”と“粥だめし”の二つのタメシゴト。 御火だめしは毎月の天候を占うため、その月を書いた樫の木の先端を囲炉裏で焼き燃え具合を判断します。

    早く火がつき燃えやすいとその樫の木(月)は乾燥しているので雨が少ないと予測するのでしょう。 逆に湿気を含んだ樫の木(月)は、火がつきにくく燃えにくいことから多雨の月とみなされます。 乾いているか湿っているかを試す神事は空の気象だけではなく人間の気性にも通じる所がありそうです。 失恋して泣いたカラスは笑い 同じように失恋して泣いた白鳥はどうなるのか。

    またもう一つの神事である粥だめしも御火だめしと同日に行われます。 その粥だめしの実態は小豆と米を混ぜ合わせた“小豆粥”に 竹筒を挿しいれてその筒の中に入り込む粥の量で豊作を占いました。 粥というのは固形物がなくなるくらいにトロトロに煮込むことが美味しく仕上げるコツ。 固形物(小豆と米)が噛まなくてもいいドロドロエキスに変化し互いに混ざり合えば それだけ竹筒に混入しやすくなると思うので 豊作とはこの混入する量が多いということなのかな。 それにしても日本には不思議な神事(実験)があるものです。

    阿射加神社の祭神・猿田彦神は高天原から落ちてきたニニギノミコトを道案内して 日向に連れて行った神で 案内できるぐらいにその道を知っていたということですね。 容貌は鬼か天狗のようにイカツイ猿田彦神に気後れすることなく対峙したのが 高天原からニニギノミコトに付き添った天宇受女命。 その後 彼女は猿田彦神が行きたいという伊勢の狭長田の五十鈴の川上まで送り届けたということになっています。 猿田彦神自身が目的地を指示して そこに連れて行ったのが天宇受女ってこと? “どうして一人で行かないの”という疑問が出てくるけれど 猿田彦神は一人ではなく二人で行きたかったのでしょう。そこに・・そして最後を見届けた天宇受女命は猿女君(さるめのきみ)という名を賜り夫婦になりました。

    物語ではその後 猿田彦神は“阿邪訶(あざか)”の浜で漁をしていたとき比良夫(ひらぶ)貝に手を挟まれて 死んだということになっています。 猿田彦神を祀る阿射加神社の粥だめし神事から想像すると“粥”という字は【弓】という字に挟まれて 歯がなくても食べられるトロトロの米になるように 猿田彦神も比良夫貝に手を挟まれ海と交じり合って一体化していったのではないかという 白昼夢のようなイメージが広がります。 御火だめしで占われたドライかウェットの判断は 海に沈んだ猿田彦神がすでに答えになっていました。

    鬼界ヶ島に住んでいる人

    • 2008.02.26 Tuesday
    • 21:28


    桃太郎の話では鬼ヶ島に住んでいるのは鬼でした。 では“鬼界ヶ島(きかいがしま)”には誰が住んでいたのでしょうか? 鬼ヶ島は想像上の島・・しかし鬼界ヶ島は史実が伝えていることから現実に存在する島と考えられています。

    俊寛(平安時代の僧)が平家打倒を目論み京都東山の鹿ケ谷の山荘で行われた密談が露呈して 親密な関係にあった清盛の怒りが爆発! そして清盛が密談した彼らを流したのが南海の孤島とされている鬼界ヶ島でした。 密談に加わった他の二人(藤原成経・平康頼)と共に島流しにされ孤独の日々を送っていた俊寛たちのもとへ届けられたのは 水色の手紙ではなく赦免状。

    こうして一年後 罪は赦されることになり京に戻ることになったのは三人のうちの二人だけ。 赦されなかったその一人が俊寛でした。 清盛の俊寛に対する信頼が強かっただけに 俊寛だけは赦されずそのまま島に取り残されることになりました。 人と人とのかかわりは親密さがあればあるほど その裏切りは許し難いものなのでしょう。 他の二人はいなくなり俊寛は一人きりで孤独と向き合うことになりました。

    そうして何とか耐えて過ごした二年目が終わり再び鬼界ヶ島に訪問者がありました。 その訪問者とは俊寛が京に居た頃よく世話を焼いていた有王で、都で俊寛の妻と娘が亡くなったことを伝えます。 その事実を聞いた俊寛はその後 食を断ち最後は餓死したということが伝えられています。 想像すると 俊寛の孤独な心を支えて今まで何とか頑張ってこれたのは元気で暮らしている家族がいたからこそで その家族が死んでしまったのなら生きる意味がないと感じるのも納得できるように思います。 家族を失い天涯孤独になった俊寛は 何の迷いもなく死を覚悟し死に直進しました。 餓死というのが俊寛の心を物語っています。

    平家物語では鬼界ヶ島に住んでいる人々をこのように記しています。 『住民は色黒で話す言葉も理解できない。 男は烏帽子をかぶらず女は髪の毛を下げない。 農夫はいないし穀物はない。衣料品もない。』 南方の島ということから色黒は理解できます。言葉で話さなくても別の交流の仕方が彼らにはあるのでしょう。 男は黒い烏帽子をかぶっていないのなら髪の毛がそのままムキダシに見えているということ。 女は髪の毛を下げないということは、伸ばさず坊主頭にしていたのかも・・ また農耕民族ではなく狩猟生活を常としているみたいです。 南海上なので裸の方が何かと楽なのですね。 以上 鬼界ヶ島に住んでいる人の奇怪さがかなりはっきりしてきました。

    子供の様子が記されていないことから想像すると、男性と女性の区別が混沌としていて
    妊娠から出産に至るケースが少ないとも想像できます。ある面一人ぼっちの人たちばかり・・・このような人たちが住んでいる島に俊寛は流されました。

    近松門左衛門が創作した人形浄瑠璃の一つ“平家女護島(へいけにょごがしま)は俊寛を題材にした作品で ストーリーは俊寛自身の意志でこの島に残ることを決めたことになっています。 船を見送る時 その強さとは反対に泣き叫ぶ様子が表現されています。 きっと俊寛の魅力はこんな“痩せ我慢”にあるのかな。 冬が去り春を迎えてもまだ寒い日がヒョッコリ訪れるように 俊寛自身が頭では大丈夫と思っても やはり春寒のようにホントの心は寒くてたまらなかったはず!

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