一人で琴を弾きながら突如死んだ仲哀天皇の父はヤマトタケル そして母親は一般的に名前が通っていないけれど両方の道に通じていそうな名前の“両道入姫(別名・石衝毘売)” 母親の両道入姫は垂仁天皇(仲哀天皇にとってはヒジイサン)が妃のうちの一人綺戸辺(かにはたとべ)に生ませた子でした。
垂仁天皇の正妻(日葉酢姫命)の子がヤマトタケルの父親になる景行天皇なので ヤマトタケルを中心に考えると父親(景行天皇)と自分の妻(両道入姫)は異母兄妹の関係になります。
これは父方の血が濃い近親結婚といえますね。 こうして近親結婚で生まれた子が皇位に就いたけれど不審な死に方をした仲哀天皇でした。 不審な死と父方の血の濃さが気にかかり 仲哀天皇の足跡をたどってみたいと思います。
古事記では熊襲征伐のため急に滞在先の紀伊国から長門国を経て筑紫(九州)に向かったとされ、行宮(仮の宮)として“詞志比宮”を住まいとしたという話です。 日本書紀では“橿日宮”という漢字があてられていて神武天皇が即位した橿原を思い浮かべます。現在の福岡市東区香椎にある香椎宮の近くで仲哀天皇は住んでいました。
大和から遠く離れた西方の橿日宮で熊襲征伐のための策を練っている時、妻の神功皇后にある神託が下ります。 『西方の宝の国を討つべし』 しかし仲哀天皇はこの言葉を信じようとはせずニセ者の神ではないかと疑いました。 そのことが原因かどうかは明確にされないまま 仲哀天皇は日本の西方に位置する橿日宮で死んでしまいます。 一人で琴を弾いているときの突然のデキゴトでした。 大和から西さらに西に国を見ることができなかった仲哀天皇は死にました。
橿日宮跡とされている古宮跡が香椎宮本殿の北東にあり、すぐそばに仲哀天皇の屍を納めた棺を掛けた(?)椎の木というのが六角形になった玉垣に囲まれた中にあります。 掛けたという状況は土の上に横にして置くのではなく、縦に立てかけたということなのでしょうか。 伝承によるとそのときイイ香りがしたので香椎という名がついたという話。
どうも分かりにくくて理解しにくいけれど 仲哀天皇の死と橿(樫)の木・椎の木に何か関係があるのかな。 フムフム・・クンクン・・イイ香り? 普通は死ぬと腐敗臭でクサイニオイが充満するはずだけれど 死んでイイ香りがするというのはウジやハエがたかる屍とは全く違うということだと思います。
仲哀天皇の母方(両道入姫)に綺戸辺という人がいました。 “綺(かにはた)”というのは薄い細幅の絹織物のことで繊細さを象徴しています。 またキレイ(綺麗)の綺にこの漢字が使われています。 近親結婚で生まれた子は欠陥が出てくることがあるから 避けた方がいいという話もよく言われます。
欠陥というのはこの絹織物のような繊細さと綺麗さにあるのかもしれません。 こんなものを持ち合わせていると、糞にまみれた社会を生き抜くことは到底できません。 糞だらけの世を生き抜くためには、図太い政治家のような精神を持っていることが必要とされます。
ウソやホントなどはどうでもよくて 西に国があろうがなかろうが首を縦に振ることが生き抜くコツ! しかし それで一巻の終わりかというとそうではありません。 死ぬ時に琴を弾いていた仲哀天皇のルーツは後の異母兄弟に受け継がれ、再び活躍したのは仲哀天皇の妻だった神功皇后。 正妻だった人の言ったことに疑問を挟んだ仲哀天皇は琴を弾きながら死にました。