イエスが言うこの世の逆転は正常化への第一歩だと思います。
目の見えなかった者(すでに出来上がってしまっているこの世の金融システムに翻弄されいる者)
が試練と苦難を経る過程で獲得できるもの。
それが見えるようになるということ。
逆に見えると自称する者(一例として見ても見なくてもNHK料金を払わされるシステム)は、
人類全体の原罪を背負ったイエスの痛みを感じることができない。
だからこの世はこんな風な経過(お金に頼る)をたどってしまったのだろう。
イエスの出現によって、
今まで見えなかった者が見えるようになるというこの世の逆転が、
正常で清浄な社会システム(見えると自称する者は排除される)を生み出すものと確信しています。
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最後の最後に right place にたどり着けるなら、
その人は果報者だ。
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「さあ、町と塔を建てて、その頂きを天に届かせよう。
そしてわれわれは名をあげて、全地のおもてに散るのを免れよう」
危険な全体主義の始まりである。
結果、バベル(ごちゃ混ぜ)の塔が建設され、
全体主義による見かけ(統一を装う)だけの塔は崩壊する。
神は全体主義を嫌っている。
にもかかわらず、
過去も現在も、世界は全体主義を通そうとする。
逆らうと資産凍結。
ごちゃ混ぜの国がどれだけ平和を叫ぼうが、
ごちゃ混ぜなんだから平和になれるわけがない。
豊かで何不自由ない生活が笑いや快楽を生む。
さらにソロモンは
『死ぬ日は生まれる日にまさる』と言う。
人生を謳歌している限り。人は成長しない。
人を成長させるもの、
それは、自分がみじめであわれであることを知ること。
神はそういう人たちを引っ張り上げる。
神によって人は未来を見通せないように創造された。
今はみじめであわれであっても、
そのみじめであわれな人を神は放っておかない。
みじめであわれによる霊の純化は
神が私たちに求める霊の成長過程の一つである。
成長した霊は神の御許に行くことを約束される。
笑いや快楽がなくても、
神の御許に向かって歩む日々は幸せである。
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38年間(少なくとも大人)を寝たきり(何もしない)で過ごした病人に、
イエスは言う。
「良くなりたいか」
続けて、
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」
床とは?
すでに失われてしまった38年間という歳月かな。
イエスの霊を体内に取り込んだ病人は、
イエスの言葉通り、床を担いで歩き始める。
寝たきりだった病人が過去を反省して歩き始めるという解釈で進むと、
今までの自分(病人)を捨てて新しい自分(何かできる)になることができた。
イエスが介入すると今までの自分(罪人)ではいられなくなるのかも。
先のことを考えても分からないことを考え続けるだけの病人(大人)は、
後は野となれ山となれの小人(何も考えない)になった(戻った)。
思いのままに吹く風のように、
霊から生まれた私たちも思いのままに生きればいい?
どこから来てどこへ行くのか知らない(自分の意志は捨てた方がいい)
さすらい人への勧め?
風が吹けば・・・・・・・桶屋がもうかる。
その途中の7つの点々の部分は
砂が舞い上がり,
砂が目に入り,
目が悪くなる人が増え,
そのため三味線弾きで生計を立てる人が増え,
三味線が売れる。
三味線には猫の皮が必要だから猫が捕られ,
それによってネズミが増え桶がかじられる。
途中はどうでもいい?
大切なことは初めと終り。
神は言う。
「私はアルファでありオメガである」
アルファ(誕生)とオメガ(死)をつかさどる神。
神(風)の意志に近付きたいのなら、
途中はどうでもいいから、
風が吹けば(神を知る)どうなるのかの結論を導き出す必要がある。
それが生きることだから。
楽あれば苦あり×
苦あれば楽あり×
苦あれば苦あり〇
『人は一生、
暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある』 伝道の書
こんな一生送りたい?
嫌だ!
こんな一生なら生きていても仕方がない。
とっとと死んだ方がいい。
神とサタンに翻弄されたヨブも、
妻にこう言われる。
生きていても苦しむだけなんだから、死んだ方がいいんじゃない」
これらの共通項は生きることに失望すること。
失望することで、神に近付くことができる。
だから生きることを楽しんでいる間は、
神(誰でも奥深くに存在する)との距離は増大するばかり。
神は私たちに何を待ち望んでいるのか?
私たちが生きることに失望し、
生きることに辟易してしまうこと。
生きることに楽しめなくなった私たちは、
その時、神の顔がおぼろけに見え始める。
パンドラが携えてきた希望は箱の中にしかない。
この世に嫌気がさして、希望が住まう箱の中に籠ろう。
そうすれば箱の中に残されていた希望の後押しで、
神を呼び出すことができるかもしれない。
神は私たちの失望(今までの罪細胞が神細胞に入れ替わる)を待っている。
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この世にまん延するもろもろの悪は、
開けられた箱の中からすぐに飛び出す。
空っぽになったかと思われる箱の中に残された希望。
簡単に飛び出さなかった希望は、この世にはない。
ノアの箱舟のように、
箱の中に入った人だけが希望を知る。
]]>形あるものとして見える偶像は、
愛すべき対象にはならないということですね。
見たくなくても目を開くと見えてしまう偶像に対して、
神の霊感はどれほど見たいと思っても見させてはくれません。
そう簡単には見えない神の霊感と
目をつぶっていても気配で見えてしまう偶像。
「偶像を捨て、神に立ち返れ」と訴えた人物がいました。
預言者エレミヤがその人。
神に立ち返る前に何をしなければいけないのか?
見たくないのに見えてしまう偶像を捨てる。
人生において繰り返される取捨選択の結果が、
その人を形づくっていきます。
まずは捨てなければいけないもの、
それは、目を閉じているのに耳で見えてしまう偶像。
『わたしを呼べ。
わたしはあなたに答え、あなたの知らない
隠された大いなることを告げ知らせる』エレミヤ書33章3節
愛してはいけない偶像(この世のすべて)を愛している限り、
私たちの知らない隠された大いなることが明かされることはない。
ヘルプミー! もっと大きな声で、ヘルプミー! 繰り返し、ヘルプミー。
終りのない円環する時の流れから出させてください。
この切実な祈りが、
隠された大いなることの扉の前に届けられますように。
死を定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか』 ローマの信徒への手紙
死やお金の不安、さらに老いる惨めさを抱いて生きることは苦痛です。
その不安や苦痛から解放されるポイントが、神を自分のものにすること。
神より科学を優先させるこの世にあって、
心底神ととともに歩むことを実践するなら
どのような結果に至るのだろうかという実験的チャレンジをしてみよう
という気持ちになっています。
一般的に人が避けて通ろうとする惨めで憐れという心境は、
十字架刑に処せられることが定められた(御父の意志)イエスが味わった境地です。
この世とは真逆の生き方をするにはエネルギーが必要ですが、
イエスに近付けるのなら、やってみる価値は十分にあるだろうと思います。
惨めで憐れな自分を知ることで、
神の手が差し伸べられるのではないだろうか。
何故なら、神の命令で死んだイエスは、
その後復活という偉業を成し遂げたのだから。
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悲しみを述べるには及ばない
言葉は感じうるものに過ぎぬ
互いに遠く隔てられて
結びつく至福に恵まれずとも
魂同士は接吻できる
おろかなものは脚でしか
出会う機会をもてないものだが
僕らの魂は肉体によって
封じ込まれてはいない
だから嘆き悲しむには及ばない
イングランドの詩人ジョン・ダン(John Donne)の
魂の喜びという詩です。
死ねば一巻の終りとは言わせない
炎のような意志を感じます。
二人の愛は僕が逝くことで完成するという感じで、
肉体をまとうことから解放された魂は
一つに成り得るということでしょう。
この世の嘆き悲しみは、ほんの一時のもの。
そのためにも、
まず接吻する相手をこの世で見つけておく必要がありそうです。
ところが神の掟(この木の実を食べると死ぬ)に背いた途端、
裸であることを知り、
その裸である自分たちを恥だと感じるようになる。
裸であることを恥とは思わないアダムとイブ。
一方、裸であることを恥だと思うアダムとイブ。
その間に何が起こったのか?
食べてはいけないと厳重注意されていた木の実を食べて、
彼らは死に至る(肉は生きていたとしても霊はすでに死んでいる)。
裸であることを恥だと感じる要因は、
腐るしかない肉だけで生きようとするその行為ではないか。
神と結び付いていたはずの
霊(裸であることは恥ではない)を失った二人は、
神とともに過ごすことができた楽園から
離れることを余儀なくされる。
聖書は神から離れることを罪と定めている。
アダムとイブも、
神が食べてはいけないと定めたものを食べたことで、
彼らは罪を犯し死ぬことを運命付けられる。
この世に生きていると、
ついついこの世がすべてのように思って
この世を愛し、この世のルールに従おうとするけれど、
この世に迎合することは神を受け容れていない証拠でもある。
こうして神とともに歩めなくなった人間は、
ただひたすら死というゴールを目指して、
お金や地位や権力で身をまとうことになる。
神から離れると裸ではいられなくなるのでしょうね。
素朴なパンフルートの音色で裸を取り戻そう!
]]>聖書の御言葉を読んでも心に深く届かず、
特に何をするわけでもないのに
落ち着きのない日々が続いていました。
そしてひょんなことから、
このブログを編集してユーチューブにアップさせたい!
という気持ちが頭から離れなくなり、
何かとせわしい日常と格闘しながら
ようやく今日に至っています。
久しく忘れていた熱中いう快感におぼれることで、
アンチエイジングにつながることを期待しています。
フォスターの♪おやすみ、愛しい人♪という曲。
フォスターの最期は悲哀に満ちていますが、
多くの心にしみる楽曲は、
その後を生きる私たちに安らぎを与えてくれました。
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愛の根源は神です。
こんなおかしな世の中で何とか発狂せずに生きていけるのは、
聖書という愛の書に出会えたから。
私たちのために命を投げ出したイエスの意志を源として、
そのイエスの意志を継いだ弟子たちの意志も併せて
今、聖なる彼らの意志は、
神を愛する私たちに惜しみない愛を降り注いでくれています。
奴らに取り込まれないようにするために!
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ナマコは海底に溜まった大量の泥(沈殿物)を飲み込み、ろ過して
あとにキレイな砂をうんちとして排出する。
だからナマコの肉体は海の掃除機(フィルター)ということになる。
ナマコがいてくれるおかげで、何とか地球は存続できている。
海鼠こそ賢愚の外にありぬべし 松瀬青々
さらにナマコは危険が自らに迫ると、
ねばねばした長い腸のようなものを放出して自身を守る。
彼らは自分の使命(海の浄化)だけに生き、命を終える。
当然、賢愚を争う人間グループには入れない。
古事記の天孫降臨場面で大小の魚を集めて、
アメノウズメが天孫ニニギノミコトに従うかどうかを問いただす。
大抵の魚たちは仕えることを約束するのだけれど、
ナマコだけが何も答えなかった。
集団(主従関係)に属さないナマコは、
聖書が言うこの世から出なさいという言葉を真っ先に実行した。
そうだ! ナマコに従おう。
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