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- 2022.04.05 Tuesday
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高層建築物が建ち並ぶマンハッタンを背景にクレジット・タイトルが紹介されるように、舞台となるのはマンハッタン中心部。そんな利便性の高い場所に豪邸を構えることができるのは大富豪ぐらいで、シングル・マザーとなったメグがこの豪邸に立ち入ることができたのは富豪の旦那と離婚したから。いわゆる慰謝料としてこの家を手にすることになったのが主人公メグと11歳の娘(初見では息子に見える)サラ。4階建ての豪邸にはエレベーターや緊急事態が発生した時の隠れ家(パニック・ルーム)まで用意されていました。
ラスト映像で感じたこの映画のテーマは罪と罰。先日観たフィンチャー監督の“セブン”もキリスト教世界の7つの大罪を扱った内容で、セブンより説教がましくないのがヨカッタ。生命を脅かされるような事態に直面した時、人はどのような行動を取るのか。危険な目に遭遇しパニック・ルームに隠れた母と娘がパニックを引き起こした不審人物と果敢にも対決する映画。大人の男三人に対して母と娘がペアを組む女性二人。どう考えても不利な立場に置かれているメグとサラですが、外部からは誰も侵入できないパニック・ルームに隠れたことが幸いとなり強盗を相手に戦闘開始。
ジョディ・フォスターが演じたメグは夫の浮気が原因で離婚直後という設定で、少なからず心の傷を抱えています。ワインで何とか気を紛らわそうとしているけれど彼女が受けていた心の傷は結構大きい。そんな状況の中、新たな第一歩を踏み出そうとしていた丁度その日に遭遇したのが強盗。偶然の闖入ではなくパニック・ルームの地下に大金が眠っていることを知っての犯行でした。以前から金銭トラブルを抱えていたのが先の富豪で、パニック・ルームもそのために用意していたらしい。
大金が隠されているその部屋に隠れた二人はその事実を何も知らない。“取るものを取ってこの家から出て行って!”とカメラに向かって叫ぶメグ。パニック・ルームには他の部屋を監視するテレビ・モニターが設置されていて、外部と話すことは可能。だから内部から外部にメッセージを送ることはできても、外部の声は内部には届かない。そんな特殊な部屋で突然の闖入者を撃退しようとしていたのが母と娘。娘のサラも持病を抱えていたのに男たちに立ち向かう強い精神力の持ち主で、一般に多いオロオロしているだけの少女ではありません。外見通り少年っぽい少女で、男っぽいメグの娘が中性的魅力のサラ。
パニック・ルームの地下に眠る大金を盗み出すために集まったのが富豪の甥ジュニアとパニック・ルームの設計者バーナム、そして黒マスクの残虐そうな男ラウール。三人もの男が女性二人(一人はまだ子供)と対峙し次第に追い詰められていく筋書きは痛快! あらゆる知能と体力を駆使して対立する彼らですが、ホコロビが見えてきたのが男組。特にラウールの粗雑さが表面化し、そのラウールを撃つのがバーナム。優しい性分のバーナムと雑なラウールは初めから合わない感じだしタイプがまるで違う二人(考えるバーナムと暴力に訴えるラウール)なので撃たれても仕方ないかな。
人間の普遍的テーマである罪と罰は聖書にも記されていて、最後の場面はまさに十字架に磔にされたイエス・キリストの処刑を思い出しました。その刑を受けることになるのがパニック・ルームに精通していたはずの黒人バーナム。サラの命の恩人でもあった彼が手にした大金は風に舞い、大の字になったバーナムが最後に映し出されます。犯罪者ではあったけれど、メグもどこかでバーナムを助けようとしていた雰囲気も感じられる。パニック・ルームの設計者バーナムは初めからこの部屋に入ることはできないと断言していたけれど、最後に成功させ大金を手にします。しかしこの屋敷から離れる前に彼に下された罰。罪人ではあったけれどバーナムが一番人間的魅力に溢れていたように感じました。
* 監督 デヴィッド・フィンチャー * 2002年(米)作品
* 出演 ジョディ・フォスター フォレスト・ウィテカー
★ フィンチャー監督のこだわりは罪を犯すこと?
ベンジャミン・バトンを監督したデヴィッド・フィンチャー作品という理由で鑑賞した映画。ズバリ!自分とは合わない映画で疲れました。次々に起こる汚い殺人事件の映像は薄暗くて分かりにくいしキリスト教世界の7つの大罪をテーマした説教がましい犯人の言葉も鼻につく。好きな映画ではない・・というより嫌いな映画なんだけれど強烈なナニカを残す映画でもありました。そのナニカとはラストでサマセット刑事がヘミングウェイの文章から拝借して呟いたこの言葉に凝縮されています。
“『人生はすばらしい。この世は戦う価値がある。』・・・後の部分は賛成だ”
六日後に定年を控えたサマセット刑事を演じたのが渋い口調のモーガン・フリーマン。殺人者に翻弄される内容のこの映画で最後まで平常心を失わなかった老齢刑事とコンビを組んだのが新たな勤務地としてこの街に赴任してきたミルズ刑事。ブラッド・ピット扮する若いミルズ刑事は沈着冷静なサマセットとは対照的で、血気盛んなドタバタ刑事。そんな二人が対峙することになる殺人事件の奥は深く、ラスト(憤怒)への導き方は異常で残酷! その憤怒のカードを犯人に突き付けられるのがミルズ刑事で、何とも救いようのない結末・・だからこそこの世は戦う価値がある?
キリスト教世界で大罪とされた7つの罪とは大食い・強欲・怠惰・傲慢・嫉妬・肉欲そして怒り。犯人が設定したラッキーゼブンであるはずの7番目の怒りを爆発させたのが犯人に目を付けられたミルズ刑事。犯人が敢えてミルズの怒りを爆発させるように誘導する気分の悪い展開で、この現実に直面して怒りを感じなければ人間とはいえないように思う。そんな不快な7番目の罪に誘導したのがケヴィン・スペイシー扮する猟奇殺人の張本人ジョン・ドゥ。“自分は神に選ばれた男だ!”などとほざくジョン・ドゥは冷静に計画殺人を遂行することができました。神の存在を忘れた人間に神を思い出させる・・とか何とか言って不快極まりない暴言を吐く異端者ですが、7つの大罪を計画するのに多くの難しい本を図書館で借りる緻密な頭脳も持ち合わせていました。
人は罪があるからこそこの世に生きている(生かされて)いる訳で、この世を構成しているのは罪のある人々。何らかの罪を背負って誕生した生命に神の意志が加わっているとするなら、この世の悪に対決することは可能なはず。しかし現実的には自分が生きていくだけで精一杯。そんな社会を象徴するかのように、人生経験豊かなサマセットはこんな言葉をミルズに投げかけていました。「レイプされた時は“火事だ〜!”と叫ばないといけない。“助けて〜”だけでは誰も来てくれないから」
多くの事件に関わったサマセットならではの考え方。救いようのない社会で戦い続けた独身の彼は、せめて定年後の人生は静かに暮らしたいと思っていました。
映画の山場は何といっても多くの送電線が張り巡らされた鉄塔が立ち並ぶ荒野。7つの大罪のうち残り二つ(嫉妬・怒り)を残して自首してきた犯人ジョン・ドゥの意図は何なのか。すばらしい結末が用意されている・・とミルズに語るジョン・ドゥは自分の世界に酔っているようにも感じます。彼が計画したという残り二つの遺体現場に直行する車の中で多くを喋り続ける犯人・・そしてその相手をするのがミルズ。ハンドルを握っているのがサマセットで、犯人の言葉を聴いているだけの無口なサマセット。ミルズの妻トレイシーがサマセットに悩みを打ち明ける気になったのは彼のこの無口さが原因しているような・・ 穏やかな生活を望んでいた彼女は仕事に打ち込む夫を愛してはいたけれど、夫が赴任したこの街を嫌っていました。
そんな彼女の秘密を知っていたのがサマセット、そしてもう一人知ることになるのが陰湿なジョン・ドゥ。ラストの異常な展開で当初感じていたのは犯人がミルズを怒りの罪に陥れるために仕組んだ罠だと・・ 箱の中身は偽物で犯人が自分を撃たせるために嘘を言っているのでは・・と想像していたけれど、サマセットの表情から事実を感じ取ったミルズは当然のことながら犯人を射殺。犯人の計画通り7つの大罪ストーリーは完結してしまうという救いようのない終り方で、サマセットの存在があったからこそ何とか鑑賞できた不快度パンパンの映画。その不快さ故に悪に立ち向かう人が生まれる可能性を秘めた映画だったともいえるかな。
* 監督 デヴィッド・フィンチャー * 1995年(米)作品
* 出演 ブラッド・ピット モーガン・フリーマン グウィネス・パルトロウ
★ “人生はすばらしい”と感じることができる瞬間に出会えた人は素晴らしい。
今過ぎゆく時間に逆らうことなくベッドに横たわっているのは主人公デイジー。死を前にした彼女は娘に何かを伝えるべく、ある男が残した遺書のような日記を読んでもらっています。赤ん坊で生まれ若い頃を楽しみ老いて死ぬという“時の刻み”はすべての人に共通ですが、日記に登場するベンジャミン・バトンはその流れからはみ出していました。そのはみ出し理由は生まれた時から老人(外見だけで中身は子供)だったこと。彼を産んだ母は出産を終えると同時に死に、残された父親は余りの不気味さに息子を老人施設の玄関前に棄て去ります。こうしてこの世に誕生したその日に天涯孤独の身となったのがベンジャミン・バトン。
赤ん坊はこうあるべき!という常識を覆して誕生したベンジャミンはシワシワ老人の赤ん坊。その後、時間に逆行する形で老人から若者そして今度は正真正銘の赤ん坊の姿へと数奇な人生を歩むことになります。彼がたどった人生の終りが赤ん坊ということから想像すると原点回帰の生き方を達成したとも思える筋書き。原作は村上春樹の翻訳で日本にも広く紹介されたF・スコット・フィッツジェラルド。時を刻むことは前に進むことが原則で、たとえ若返りの人生でも最後に待っているのは死という終りの時。たとえ逆回転する時計を作っても過ぎた時間を元に戻すことはできません。
映画の舞台に設定されていたのは1918年のルイジアナ州ニューオーリンズ。ジャズ発祥地としても有名なこの地域でボタン工場“バトン社”を営んでいたのがベンジャミンの父親トーマス・バトン。死に瀕する妻から託された願い(息子を守ってあげて!)をいとも簡単に放棄してしまったバトン氏。そんな薄情な父に成り代わって赤ん坊を育て上げたのが信心深い黒人女性クイニー。長生きできないと医者から宣告されていたのに結果として長生き(赤ん坊になるまで生きた)できたのは彼女のおかげ。ファースト・ネームの名付け親がこのクイニーでラストネームは見勝手な父側の姓バトンを受け継いでいます。これらのことからベンジャミン・バトンの人となりがある程度分かる感じ。
同年齢のいたずらっ子と接するチャンスもないまま老人施設で育ったベンジャミンは遊ぶにしても体力が伴わず中途半端な老人型幼少期を送ることになります。老人っぽい雰囲気ではあっても中身はまだ子供だったベンジャミンと気が合ったのが当時まだ幼かったデイジー。老人と少女という不釣り合いな二人の関係は人生の丁度真ん中辺りで外見も年齢もピッタリの時を迎えます。二人の時がクロス(X)で交わった瞬間、すでに新たな時は否応なく刻まれ続けるのがこの世のシステム。年をとろうが若返ろうが刻まれる時に逆らえる人は誰もいない。そんな環境でわずかな時間だったけれど肉体も精神も一致して二人が過ごせたことはヨカッタ!
何かに操られるような人生を送ったデイジーとベンジャミンですが、すべての記憶を失っていた赤ん坊のベンジャミンは死ぬ直前デイジーの腕の中で彼女のことを思い出します。そして今、デイジーにも死が迫っていました。この映画で象徴的に使われていたハチドリ(hummingbird)が横たわっているデイジーの窓辺でホバリングしています。蜂と同じようにブンブンという音をたてることから命名された極めて小さい鳥で、先に逝ったベンジャミンの化身の姿だったのかも。
* 監督 デヴィッド・フィンチャー * 2008年(米)作品
* 出演 ブラッド・ピット ケイト・ブランシェット
★ 老いる時の流れと若返りの時の流れがクロスすると神聖なX(あるいは卍)になるように感じました。
YouTube - 「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」予告編