親密すぎるうちあけ話

     

一方的に話す女アンナと一方的に聞かされる男ウィリアムが主人公の映画。“男と女の出会いを描いた官能ラブロマンス”という触込み要素は全くありません。むしろ男女の会話(といっても男がひたすら女の話を聞く状況)を重視したユーモア映画という感じで、女が男を振り回しながら高まっていく親密度は何故かセクシー。出会いの発端はアンナがノックすべき扉を間違え、間違えられた方のウィリアムも間違えた彼女を部屋に通したこと。出会うはずのない二人は初めから間違いだらけ。

                      
寒空の中、アンナは精神分析医モニエのカウンセリングを受けるためオフィスビルに急いでいます。6Fまではエレベーターで上がり、その後左の方に向かうべきだった彼女は間違えて右方向に歩み出し、そこに居たのが税理士ウィリアム。情緒不安定だったアンナはその間違いに気付かず、税理士相手に話し始めたのが結婚4年目になる夫のこと。乱れる精神を安定させるため煙草を吸わないといられない様子で、目をシロクロさせているだけのウィリアムを前に思わず泣き出してしまう感情起伏型タイプ。夫が自分の話を聞いてくれないとか、夫が自分を抱いてくれないとか・・話の中心はすべて夫。

 
夫の愛情を取り戻すことが目的なのか、自分のモヤモヤを誰かに吐き出せばそれでヨカッタのか。ドサクサに紛れ、たまたま立ち入った夫婦の話を聞くことになったウィリアムはモニエ医師より聞き上手。しかし実際は聞く立場になかったのがウィリアムで、彼は悩んだ末にDr.モニエの扉をノックします。アンナに真実を言わなければとあせる気持ちがある一方、このままの関係を維持したいのが独身ウィリアム。税理士だった父の後を継ぎ、自宅兼事務所になっている部屋で生活していた彼は現状維持を重んじるタイプ。そんな彼とは対照的なのが納得できない今を見つめ考えることができるアンナ。
                

モヤモヤからの脱却法は自分のことを赤裸々に話すことのようで、彼女が選んだ着地点は陽光あふれる南フランスでの生活。結果的にアンナの悩みを解消させることができたウィリアムは大人になってもブリキのオモチャで遊べる幼児性を残した男。男の話題に多い政治や思想に関する話が全くなかったのが功を奏したのか、アンナは間違いだと分かった後もウィリアムの部屋をノック。彼女にとってのウィリアムは心休まる相手だったのかも。またアンナに惹かれ始めた彼がリズムに合わせて踏むルンルンのステップ・シーンが印象的でした。

 
互いに間違いだと知りながらも逢瀬を重ねるアンナとウィリアムの会話は微妙な絡まりを示し、アンナの意図的秘密はウィリアムの心を翻弄します。世間ずれした男の目から見ると悪女に映るかもしれないアンナですが、素直なウィリアムにとっては何かを秘めた魅力ある女性だったのでは・・ 現在は友人関係にあるジャンヌ(前の奥さんか元カノ?)も未だ彼に惹かれている様子で、ウィリアムを研究すれば女にもてる男になれるかも。 Dr.モニエがウィリアムにこんなことを言ってました。「とうとう女の扉を開けてしまったな」 要するに旦那に圧迫されていたアンナを解放したのがウィリアム? 特に意図したわけではなかったと思うけれど、彼の耳は馬耳東風ではなかった。
       


彼の秘書を務めるマダム・ミュロン(父と関係があったような・・)もユーモアを生み出す存在として一役買っています。アンナの言いなりになっているウィリアムに対し、何か言いたそうだけれど何も言わないミュロン。彼の周囲には口うるさい人がいないことも特徴で、いい意味・・世間ずれしていないのが彼の魅力かも。アンナの話にしても疑ってかからない素直なウィリアムは子供のまま大人になったよう。その素直さがアンナを解放させることになったような気もする。疑いの眼差しで相手を見なければいけない大人の世界で、アンナの話を信じたウィリアムが最後に見せた行動力は最高にカッコ良かった!

 
ルコント・ワールドに設定された男女は常にエロスが散りばめられていて、この映画も二人の性描写は全くないのにセクシーさを感じる仕上がりになっています。ワガママでキレイになっていくのがアンナ、そして彼女に振り回されながらも嘘のような話を真剣に聞くウィリアム。分が悪いのはどう考えてもウィリアムですが、当人はいつも一所懸命の会話を心がけています。以前のルコン作品では悲劇的結末で終わることが多かったけれど、この映画では真面目なウィリアムの明るい未来が描かれていました。現状維持を守り続けたウィリアムがアンナと出会ったことで開いた新たな扉。
間違いを間違いのままにできた二人だったからこそ訪れたハッピーエンドだったように思います。


* 監督 パトリス・ルコント   * 2004年(仏)作品

* 出演 サンドリーヌ・ボネール   ファブリス・ルキーニ

★ 煙草を吸わなかったウィリアムが最後に吸い始める意味は何なのか。


イヴォンヌの香り

       

若い男ヴィクトールと初老の男ルネを翻弄する若い女がイヴォンヌ。男を抱きたいのか、男に抱かれたいのか、あるいは両方なのか・・少なくとも男女関係における彼女は受け身ではありません。官能という言葉にふさわしい仕草を備えた女性がイヴォンヌで、その気がない相手をその気にさせる男女の絡みが描写されているように感じました。イヴォンヌだけにしか創造できない官能美で迫られた相手はまさに恋の奴隷。

 
特に性的興奮に重きを置くのが彼女の手法で、絡みの主導権は常にイヴォンヌ。ヴィクトール・ルネ・イヴォンヌの三人がテーブルを囲んでの食事中のこと。彼女はテーブルの下でヴィクトールにチョッカイ(彼の膝に自分の膝を絡ませる)を出し、彼もまた彼女の挑発に応じてイヴォンヌの太ももに手を伸ばしています。そんな二人の異変を感じ取ったかのように席を立つのがゲイで医者に設定されているルネ・マント。初めはバカデカイ声を出すオジンぐらいにしか思っていなかったルネ。しかし最後に判明するのがルネの長年にわたる心の苦悩で、ホントは娘のようなイヴォンヌを心から愛していたのでは・・
                

その事実を伝えているのがルネの首に巻かれていた淡いグリーンのスカーフ。舞台となったレマン湖畔の瀟洒なホテルの椅子に腰かけていたイヴォンヌの膝にあったのがグリーンのスカーフで、数年後 彼女と別れたルネの首を覆うことになる重要なキーの役割を果たしています。世間ではアルジェリア戦争の真っ最中(1958年)ですが、ココは戦争というものが侵入できない別天地。すぐに消えていく世間一般のダラダラ時間の隙間に入り込むことができた特殊な時間を背景に、男女の揺れる心が表現されています。ルコント監督が得意とする異空間への誘いは日常脱出を目指している人の追い風になりそう。

            

レマン湖畔で過ごした夏の思い出を回想しているのが今(12年後)のヴィクトールで、イヴォンヌに翻弄され続けた男二人が最後の場面(季節は冬)で出会います。
そこで明らかにされるのがルネの後悔とその後の苦しみ。イヴォンヌを失ったヴィクトールに向かいルネが発した言葉は「目を離すなと忠告したろう。」 この言葉から想像すると過去にルネとイヴォンヌの間で何かトラブルがあったように感じます。
そのトラブルの結果が奇妙な友人関係のイヴォンヌとルネで、厄介な二人に巻き込まれたのが徴兵制を回避し避暑地でのんびり暮らしていたヴィクトール。ルネとヴィクトールに共通するのはクリアな現実よりモヤモヤした夢?


           

冒頭で紹介されるクレジートシーン(湖上でキラキラ揺れながら移動する光)が印象的。その後、白いサマードレスに身を包んだイヴォンヌが船に乗っている場面が映し出されます。陸の上で繰り広げられる現実的な話ではなく、浦島さんのような海を舞台にした話がこの映画の主題かな。目で見るより鼻で嗅ぐことが要求される映画で、モヤモヤ感の中に漂う男女の官能を最大に演出できるのがイヴォンヌという女性。危険人物ではあるけれど、彼女の魅力(ファッション&仕草)にハマるとダラダラした時間が一気に輝き出す感じ。ラストにおけるルネの選択も輝く方向だったのかも。

 
対岸に向かう船上のイヴォンヌとヴィクトール。どのようにして生活しているのかを尋ねるイヴォンヌに彼は昆虫で生活していると答えています。特殊な蝶の収集をしている家系に生まれたヴィクトールはお金の心配をしなくてもいいロシアの伯爵。
「もし結婚すれば伯爵夫人になれるのね・・」と言うイヴォンヌに果たして結婚する意志があったのか。「私が湖に落ちたらこれが形見になるわ」と呟きショーツを脱ぐイヴォンヌ。どこまでが本気か、あるいはすべてが嘘か・・しかし彼女の浮いた会話は時を止める! 一瞬を大事にするイヴォンヌの言葉は刹那的で世間では評価されないけれど、淀む時間を浄化させる効果はあると思う。

 
イヴォンヌを魔性の女と見るか、純粋に生きることを楽しもうとしている女性と見るか、はたまた身分不相応な生き方に執着しているノータリンな女と見るか・・それを決めるのは男。「愛しすぎるか、愛が足りないのが人間だよ。」という言葉を残したルネはイヴォンヌを愛しすぎた? 夏の思い出を回想するヴィクトールの顔が炎に揺らいでいるシーンが何度も出てきますが、その炎の主はルネ。最後に一番鼻を刺激したのはイヴォンヌではなくルネ・マント医師でした。


* 監督 パトリス・ルコント    * 1994年(仏)作品
* 
出演 サンドラ・マジャーニ   ジャン・ピエール・マリエル


★ 人間社会にうまく馴染めなかった三人が創り上げたひと夏の異空間。

              

            YouTube - Yvonne's Perfume


歓楽通り

     

第二次世界大戦を機にかつて日本にも存在した娼館(遊郭)は姿を消しました。
遠いフランスにもその潮流は押し寄せ、男に快感をもたらす遊女の居場所もなくなりつつありました。戦勝国アメリカの意向に従い夢の娼館オリエンタル・パレスは消える運命にあり、隔離された男と女だけが知る睦み物語も同時に消えることを余儀なくされた時代を背景にした映画。主人公プチ=ルイは娼館で生まれた(父は客、母は娼婦)男の子で、娼婦たちの肩を揉んだり背中のファスナーを上げるのが彼の仕事。普通の男は女のファスナーを下ろすのが仕事、そしてプチ=ルイはその逆。

 
一人のママだけではなく多くのママによって育てられた彼は女性の世話を焼くのが苦にならない男の子へと成長。男の世話は女が焼くもの・・という常識にとらわれない考えのプチ=ルイは娼婦の間で気に入られ、外の男社会に飛び出すことなく自分の生涯を遊女に捧げる夢を追いかけます。彼の夢は運命の女性と運命の出会いをし、その女性を世界中の誰より幸せにすること。外の男社会でこんな言葉を発っしようものなら鞭打ちの刑か、ひどい場合は斬首?


しかし幸いにも彼が居たのは女ばかりの娼館だったので逆に彼女たちの間では人気者。
男の道を大きく踏み外したまま特殊な夢を追いかけていた彼の願いは叶い、運命の女性マリオンと出会います。娼婦として新たに加わったマリオンの表情は暗い。そんな彼女の夫を目指したのがプチ=ルイかと思いきや、彼がマリオンのためにしたことは彼女の恋人探しという奇妙な展開。自分の一生をかけてマリオンを幸せにしようとした男が選択したのは自分以外の男探し。


                      

奇妙な関係を構築するマリオンとプチ=ルイ。
彼の夢はこの世でマリオンと夫婦になることより、違うナニカを求めていそう。ルコント監督が得意とする夢の世界における男女の一体感? あるいは男社会から逃避したいプチ=ルイの女性変身願望? 
もしくはプチ的立場を利用してマリオンの脳に侵入すること? いずれにしても彼が男社会に通用するはずはなく、社会もこのような男を求めてはいない。しかし女性の目から見ると女に尽くす男となり、女社会では評価が高い?

 
そんな彼に愛された娼婦マリオンは歌手として舞台に立つ夢を持っていました。そのキッカケとなるラジオ番組のオーディションを紹介したのはもちろんプチ=ルイ。
男でありながらマリオンの母親的役割を果たしていた彼はマリオンと一緒に夢を追いかけます。多くの観衆の前でレティシア・カスタ自身が披露したマリオンの夢舞台を現在のプチ=ルイが懐かしむように思い出す物語構成になっています。そして今・・

彼が生涯愛し続けようとしたマリオンはいない。

       

   “私の手のひらにそう書いてあった いつかあなたに出会う日が来ると 
 どのように出会うのかは分からないけど 
あなたを愛していれば出会えるはず”
  “髪に触れる日が来ると書いてあった あなたの瞳に幸せな私が映るはず 
 でも一つだけ心配 私を愛してくれるかしら 
大丈夫 そう書いてあったから“
 
消滅させられる娼館の前で客を待つ三人の娼婦もあの頃を思い出していました。
しかし雨の中、寄って来る男は誰もいない。男が足早に向かう先は奥さんが待つ家庭で、娼婦たちが入れる場所ではない。

 
“私たちにできることはコレしかないのに・・”という娼婦の言葉も虚しく、戦後の世界は健全化を求め睦み合う男と女の場を消し去ろうとしていました。男が女であっても許された時代は終わり、男は男でなければいけない時代が到来しつつあった境目に花開いたプチ=ルイの物語。絵画的風景の美しい川辺で流れていたスウィング・ジャズの時代は終り、新たなジャズが生まれようとしていました。そんな時代の変化に対応できなかったのがマリオンとプチ=ルイ。外の社会と隔絶していた二人は夢の世界でしか生きることができず、最後は哀しい結末が・・ しかし哀しいと感じるのは第三者で、彼らの夢は成就したのかもしれない。


* 監督 パトリス・ルコント    * 2002年(仏)作品

* 出演 パトリック・ティムシット   レティシア・カスタ


★  赤線に対抗するのは白線それとも黒線?

 

   YouTube - 映画『歓楽通り』より 手のひらに書いてあったから♪


髪結いの亭主

   

女の稼ぎを当てに自分は仕事もせずノラリクラリの気まま生活を求める男のことを髪結いの亭主と呼び、少年時代から女に養ってもらう男(女のヒモ)に憧れを抱いていたのが主人公アントワーヌ。彼の趣味はアラブ音楽に合わせて踊る自己流ダンス。“女を養うのは男の仕事”という固定観念にとらわれず、自分の道を邁進したアントワーヌ。少年時代からズ〜ッと彼の心を占めていたのが豊満な理髪師の手による洗髪の際に感じる恍惚感で、女性のニオイが大好きだったアントワーヌ少年はイイオッサンになっても相変わらずの夢を見続けていました。ママのオッパイを恋しがる少年から脱皮できないまま大人になってしまった彼の落ち着ける場所は豊満な乳房の谷間しかないようで、女を養うことより女に面倒を見てもらうことこそ男の甲斐性と考えているのがアントワーヌ?

そんな変態タイプに属する彼の嗜好に応えようとしたのが美人理髪師マチルド。彼女の仕事中も見張り役のようにベッタリとくっ付き、早々に店を閉めて二人がするのが店内セックス。仕事より旅行より何より優先させているのが場所も時間も無視した二人だけの世界で、実際は現実逃避。二人の愛情表現の一つなんだろうと思うけれど、アントワーヌを旦那にしたマチルドも愛に偏り過ぎ! 愛ってこんなに息が詰まるもの?という沈滞化した空気のせいか観ていて結構疲れる。もっと爽やかな愛はないのか、爽やかなならそれは愛とは呼ばないのか。愛を模索すればするほど奥深い迷路をさ迷い続けることにもなりそうで、危険覚悟で臨まなければいけないのが愛の世界。

                

ルコント監督がこの映画で描きたかったのは他者が入り込めない、あるいは他者に入り込ませない絶対的な男女の愛? そんな愛の世界に溺れてしまうと現実を生きるのが難しくなってしまいそう。換気扇のない部屋で二酸化炭素が充満し、新鮮な酸素を供給できないまま窒息死してしまいそうな二人。しかしそれをヨシとしていたのがマチルドとアントワーヌ。“愛してるフリだけは絶対しないで!”というマチルドの言葉を受け止めていたアントワーヌですが、他者の侵入を拒む二人の愛は彼らだけが酔っているようで退廃的ムードが漂っています。退廃の対極に位置する健全な愛(愛は元々不健全)はこの世には存在しないと言わんばかりの結末で愛の成就はコレしかないの?

マチルドの先の言葉(フリはしないで!)や思い詰めた結果の結末から想像すると、彼女の真剣な愛を過去に引き裂いた男がいたように感じる。男に裏切られ愛に飢えていたのはマチルドの方で、アントワーヌはどちらかというとオッパイが好きなだけかな。男の愛が消える前に自ら命を絶つことで二人の愛を永遠のものにしようとしたマチルドの心の奥底にあったのは仕事より金より男の愛? 移り気な男の愛を求めたところでロクなことにはならないと知っていたのは多分マチルド。だからこそ何も知らないアントワーヌを受け容れることができたのでは・・

過去の辛い記憶(幼い頃の写真は一枚もないという彼女の言葉があった)を消すためアントワーヌをヒモにしたマチルドの心を思うと切ない。こうなるとヒモという存在も結構タイヘン! 女を精神的にも肉体的にも喜ばせることがヒモの大きな務めで、場所をわきまえず(彼女の仕事中)にマチルドを熱くさせるアントワーヌは立派に職務を果たしていました。客の洗髪をしているマチルドに近付き彼女をイイ気持ちにさせることができたアントワーヌ。彼女のその快感が客に伝わってしまうのか、ルコント監督の演出が際立つ恍惚的表情の客にはニンマリしてしまう。現実逃避を感じさせる二人の不健全セックスは健全を求める社会のなかで居場所を見つけるのはやはり難しい。
     

ビリー・ワイルダーが監督したヒモ映画で思い出すのがジャック・レモンとシャーリー・マクレーン共演の“あなただけ今晩は”。自分のカラダを売って男に金を貢ぐ女性の話でしたが、フランスとアメリカではヒモに関する考え方が違うようで深刻なのはブツブツ言わないフランス女性。ブツブツ女性なら初めから愛を追求することはないと思うけれど、マチルドはいつも寡黙でアントワーヌと過ごす時間を大切にしていました。彼のほうも豊満な乳房が目当てなので一応仲良くやっていますが、時間に流され淘汰される危険性を秘めているのが実体のない愛。実体のないものを実体として示したのが最後のマチルドの瞬間的行動でした。

彼女がしたためていた手紙で彼女の真意が明かされます。“あなたが死んだり私に飽きる前に死ぬわ 優しさだけが残ってもそれでは満足できない 不幸より死を選ぶの・・・ 愛してたの あなただけを 永遠に忘れないで“ 愛を真正面から見つめたマチルドの愛に対する姿勢は純粋過ぎるが故に自分にも相手にも厳しいものでした。永遠でなくても純粋でなくてもいいから、そよ風のように頬をなでる爽やかな愛はないものか。マチルドなら優しさだけが残った愛のフリと言うかもしれないけれど、愛してるフリでもイイカナという気持ちに至った映画。

* 監督 パトリス・ルコント   * 1990年(仏)作品
* 出演 ジャン・ロシュホール   アンナ・ガリエナ

★ 自国のシャンソンよりアラブ音楽に興味を示したアントワーヌは痩せた女性より豊満な女性(肉体?)が好きでした。

 YouTube - El Marido de la Peluquera ("Mathilde") Pedro Guerra e Ismael Serrano
 


仕立て屋の恋

    

ミシンを上手にかけていた仕立て屋イール(Hire)氏の屈折した純愛を描いた映画(原題はMonsieur Hire)。彼はアパートメントの一室で一人静かに暮らしてしていました。近所付き合いが苦手だったイール氏の身なりは職業柄(?)いつも背広にネクタイで、趣味の覗き見をする時もその服装は変わりません。節穴から覗くようなコソコソした覗きではなく正々堂々の仁王立ち覗き。音楽を聴きながら、あるいは簡単な食事(ゆで卵)をしながら、常に彼の目線はある女性に注がれていました。


そんな変態趣味の対象にされたのがイール氏の部屋の窓から丸見えのアリスという女性。
彼女は向かいの部屋(イール氏の部屋)には誰も住んでいないと思っていたようで、無防備な彼女を観察するのが孤独なイール氏の楽しみになっていました。(ますます変態ダッ!) エミールという恋人に抱かれるアリス、甘えるアリス、下着姿のアリス、リンゴをかじるアリス。テレビ画面でアリスのドラマを観るように彼のアリス観察は続きます。人生いろいろ人もいろいろ・・とはいうもののイールの目にかなったアリスもこれまた普通からかけ離れていたように思います。

               

見られていることを知った彼女は警察に連絡もせず、逆に自分の方から見せる行動を取り始めます。そんなアリスの挑発的行為や甘い言葉に屈することなく、なおも続けられたのが生の女の自然観察。どっちも変態?という男女で構成されているこの映画に流れる空気こそがフランス風という感じ。また“列車に乗った男”で強烈な印象を残したパトリス・ルコント監督の異次元を見つめる目が感じられる作品でもあるような・・日常の男女の営みとは一線を画した幻想のように描かれたイール氏とアリス。
しかし実体は純情なイールに対して打算があったアリス。恋人エミールの犯罪を隠すためで、アリス自身もその犯罪に加担していたことが次第に明らかにされます。          

 
エミールが関わった犯罪とは冒頭に示されていた若い女性ピエレットの死体遺棄事件。最後に明らかにされるその事件の真相から想像すると、エミールとアリスそして殺された女性の三角関係のもつれが浮かび上がってきます。その事実に気付きながらアリスに惹かれるイールの心情とは如何なるものか。悪い方に考えればピエレットを殺してでもエミールを一人占めしようとしたアリスの毒牙が感じられる犯罪で、最終的にイール氏も彼女の毒牙に引っ掛って命を落とす結末が用意されています。それと同時にイール氏の純情な想いが犯罪を解決する結果となり、アリスに対する当然の裁きも用意されていたのがせめてもの救い!

        
 


ところでルコント監督の演出で気になったのがイール氏の禿げ頭を強調していたこと。意図的なカメラ目線は彼のスッキリしたヘアをしつこく映し出していました。また真面目そうに見えて意外な行動に出るのが彼の個性? 観客がボクシングに興奮している最中にアリスに接近し、彼女の胸元に手を忍び込ませる大胆なイール氏。彼女の恍惚的表情は演技なのか、それとも本気の陶酔か。公共の場で敢えてこんなことをしている二人は困ったもんですが、現実の騒々しい今という時間からタイムスリップしていたようにも感じます。現実重視のエミールに惹かれながら幻想重視のイールにも惹かれていたのがアリスかな。

 
後半場面でイールはアリスとの生活を夢見てスイスへの逃亡を考えていました。駅でアリスを待ち続けるイール・・ しかし彼女が選択したのは犯罪の片棒を担いだエミール。エミールの方を愛していたというより自己愛のための選択だったようにも感じるアリスの裏切り。また知り合って間もないイール氏を本気で信じることができなかったのかもしれないし、彼女にとってのイールは気分転換だけだったのかもしれない。女心の奥の奥は本人にも分からないけれど、純情なイール氏にはふさわしくない女だったように思う。イールの憧れだったアリスの実体はこんなもんで、こんな女のために命を捨てる必要はなかったのに・・ スッキリヘアーで覗き見を趣味にしていたイール氏は純粋でした。

* 監督 パトリス・ルコント     * 1989年(仏)作品

* 出演 ミシェル・ブラン   サンドリール・ボネール


★ 犯罪者に仕立てられた仕立て屋イールの最後は切ない。


列車に乗った男

列車は線路の上を左右に揺れながら走り続け、
見ている景色は一瞬で通り過ぎて
記憶には残りません。
しかも線路と車輪が擦れ合う摩擦音のために
独特の音を奏でます。
もし遠い所に行きたければ、
列車に乗って降りなければ列車が運んでくれます。

この映画の初めと終わりは
列車に乗った男が映し出されていて、
初めの男と終わりの男は違います。

初めに列車に乗ってこの街に来た男は、ミランという皮ジャンが似合う体格のイイ男。
彼は列車から降り立った街の薬局で、アスピリンを買ったのはいいけれど発泡タイプだったため水が必要でした。 

たまたま薬局で狭心症の薬を買いに来ていた男が、ウチの水を使えばいいということで(かなり不自然!)ミランは初対面の男の家に行きアスピリンを服用しました。 ミランは列車に乗っていた時から頭が痛かったみたいです。 頭痛を抑えるための水を提供したのが、マネスキエというミランより年上の男。 二人とも体調がすぐれないのか薬が必要だったことが縁で出会いました。

マネスキエはこの街の住人で、彼はこの街から一度も離れたことはなく 多くの物語や詩を読んで経済的に苦労することもなく、立派な調度品に囲まれた家で生活していました。 ミランを相手に喋り続けているのがマネスキエで、ミランは無口な聞き役で質問しない男。 ミランにとっては、現実に生きていくことが大切で空想的な話はどうでもいいことなのかも・・

             

マネスキエは家の鍵をなくして、そのまま玄関のカギをかけずに生活をしていました。
「合鍵はあるのだが・・」と言いながら その合鍵を使おうとしないマネスキエ。
そんな彼の家に二泊することになったのがミランで、二人とも土曜日にそれぞれ別の用事がありました。

マネスキエは常に穏やかな時間を生きてきたようで、正反対のミランに銃の撃ち方を教わります。 ミランは逆に落ち着ける場所を求めていて、部屋履きのスリッパを履きたいと思っていました。

土曜日のマネスキエの用事は心臓の手術で、ミランの用事は銀行強盗。 時間があれば銀行強盗を手伝ってあげたかったと言っていたマネスキエは、ミランの人生に興味を持っていました。 ミランの方も詩に興味があり、マネスキエの人生に憧れていたようです。

ラストで二人の男は同時に死にます。 しかし その後 二人とも同時に息を吹き返しました。(何かを象徴させている) 同時に死んで同時に生き返った不思議な関係の二人は、道路の左右に立って立場を逆転させます。 その時 マネスキエがミランに放り投げたものがありました。

この映画の最高に美しい場面はやはり最後にありました。 自分の本当を探していた二人は、同時に死んで同時に生き返ることで これからの新たな時間を生きることができるように思いました。

* 監督 パトリス・ルコント     * 2002年 作品
* 出演 ジャン・ロシュフォール    ジョニー・アリディ

人影 偶然の出会い風に創り上げられた意図的な映画は、現実の世にも偶然を装いながらナニカが起こる可能性を示してくれています。

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