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- 2022.04.05 Tuesday
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マックスの成長と記憶に影響を与えていたのがヘンリーの呟き。例えばテニスで負けたマックスにヘンリーは以下のような言葉を投げかけています。 “勝利から学ぶものは何もない。だが敗北は知恵を生み出す。大事なことは負け続けないことだ。” そして勝ち続けていたマックスが仕事で負ける時がきます。プロヴァンス滞在が長引き、ロンドンに戻れない状態のマックス。伸びっぱなしの無精ヒゲにヨレヨレファッションの汚いマックスですが、表情は優しそう。人間優しくなると負けが近い? 負けるが勝ちの価値を見出すことができた時こそ真の勝ちを知る時かも。
幸せだった子供時代はそう長く続くはずもなく、自分の居場所を見失いかけていたマックスがヘンリーの死で本来の自分に目覚める内容の映画。自分を愛してくれたヘンリーと疎遠になったまま突然別れの時が訪れ、それでもマックスはヘンリーのすべてだったこの土地と屋敷を売却することしか考えていない。そんな彼に対抗したのが所有者ヘンリーに代わって葡萄畑を管理していた仏人デュフロ。二人(英国vs.仏国)のテニス対決は真剣そのもので、互いに譲らない内面が強調されています さらに売却推進派のマックスの強敵がヘンリーの隠し子だったクリスティ(米国人)。彼女がまたワイン通で、マックスの計画はドンドン遠ざかる始末。
原作は “南仏プロヴァンスの12ヶ月” でお馴染みピーター・メイルだし、監督はプロヴァンスにぶどう園を所有しているリドリー・スコットなので筋書きは見え見えではあるけれどプロヴァンスの美しい景色とワインのうんちく酔いで気分はいい。気候や土壌さらに造り手の愛情で微妙に変化する葡萄から生み出されるワイン。人それぞれ外見や性格の差があるようにワインもすべてにおいて差が出てくるらしい。その微妙な差が分かり始めるとワインの魅力にはまってしまうんだろうね。ところでヘンリーはこの農園でラ・シロックという市場に出回らないワインを密かに造っていました。美味しいものは自分で造るしかないことを知っていたのが英国人でありながら異国プロヴァンスを終の住処にしたヘンリー。
* 監督 リドリー・スコット * 2006年(米)作品
* 出演 ラッセル・クロウ アルバート・フィニー フレディ・ハイモア
★ スローライフに適していると思われがちな田舎リズムの実際はスローではない。
魔物の実態にイチハヤク気付いたのが統制された日本の警察ではなく、統制から大幅にはみ出していた外国人刑事ニックでした。
アメリカ映画でありながら舞台は日本に設定されているので異文化の違いが明確に感じられます。人間同士のコミュニケーション手段となる言語の壁を超えて心が通い合うのに必要なものは暴挙? 日米二人の刑事(高倉健が扮したマサとマイケル・ダグラスが扮したニック)が殺人犯サトーを追いかける映画ですが、日本のルールや秩序を乱してでもサトーを逮捕したいニックとその影響を受け組織の穴から飛び出したマサの男同士の友情もいい。終始英語を喋っていた健さんですが、舞台は日本なのでマイケル・ダグラスに日本語を喋ってもらうのは無理? ドーモアリガットだけでは話が続かないけど・・ネ!
暗い映像が続き、その見えにくさに目が慣れてしまいそうな映画の中盤で鉄工所内の溶鉱炉で火が飛び散るシーンが出てきます。ブラック・レインとは原爆を意味する黒い雨のことではなく、鉄を精錬する際の手順に必要な溶鉱炉で飛び交う火を表現しているのではないかと感じました。いい鉄を生み出すには鉄の中に含まれているカスのようなものを取り除くことが必要で、そのためには固い鉄がドロドロになるまで温度を上げて溶鉱炉で溶かさなければいけない。比重が異なるカスが沈殿することでいい鉄が生み出される仕組みを人間に当てはめれば、ドロドロの醜い闘いを経てホントの人間関係が形成されるのかもしれません。
* 監督 リドリー・スコット * 1989年(米)作品
* 出演 マイケル・ダグラス 高倉健 松田優作 アンディ・ガルシア
★ この映画が遺作になった松田優作の寡黙で存在感のある演技が光っています。
世界には多くの国があり一つの考えだけでは折り合いがつかないのがこの世の現実。しかし世界は異なる思想であることを認め合うことはせず、いつの時代も争いは繰り返されてきました。政治や宗教が絡む映画は嫌いですが、リドリー・スコット監督作品だったので取りあえず鑑賞。アラビア語と英語が話されている映画なのにエエッ!という言葉を発見。それは暗殺集団と訳されていた“ニンジャズ(ninjyas)”。
主人公は中東のイスラム過激派の中心人物アル・サリームを探ろうとしていたCIA捜査官のフェリスとホフマン。異国中東の現地で命懸けの活躍をするのがフェリス。
一方のホフマンは子育てをしながら片手間のように緊急事態に対する命令を下しています。奥さんがどうなってるのか疑問だったけれど、CIAのトップの席を確保しているホフマンが優先させているのは子供?
また“世界を救うのは自分だ”とか“自分だけを信じていればいい”とフェリスに言っていた人物の自分とはホフマンのこと。かなり高飛車な物言いに反発を感じていたのがフェリス。血を流し痛い思いをしているのはフェリスだけで、ホフマンは偵察機から映し出された映像を高度調整しながら映像だけで判断して勝手な指示を出しています。保護された安全な世界でツベコベ言っていたホフマン・・それも何かを食べながら命令していることが多かったです。「いい加減にせえよ!」と誰だって言いたくなるのが心情。
現代の最新機器を使ってハイテク管理するCIAに対して、テロ組織はアナログ派で砂煙を巻き上げて人工衛星のカメラを煙に巻きます。上から偵察されていることを見越したテロ組織の演出はオモシロカッタ! 砂漠に一人放置されたフェリスのもとに三台の車がやってきて彼を中心にグルグル回転させて砂煙を立てておいてからフェリスを連れ去るというもの。三方向に分散して消えた三台の車・・どの車が彼を連れ去ったのか見当がつかないのが最新機器を駆使していたCIA。
映画のタイトルを直訳すると“嘘の世界”、そして原題は“嘘の肉体(Body Of Lies)”。世界も肉体も嘘なら真実はどこにあるの? あるいはこの世に真実は存在しない? 嘘の世界で嘘の肉体がぶつかり合って勝負をしても答えは嘘。テロ組織を追いかけていたCIAも、CIAの目を掻い潜って欧州の都市部で爆破行為を成功させたテロ組織も嘘ってことになるよね。
そんな中、犬に足をかまれて負傷したフェリスの手当てをしたのがアイシャという女性。食事に招待されたフェリスは彼女の姉の家を訪問します。そこで薄型テレビでバスケの試合を観戦していた二人の男の子に出会い、料理についての話が交されました。彼らの言葉によると母が作る料理は不味くハンバーガーやパスタが好きだと・・生まれる国より生まれる世代で嗜好が違うように感じました。
ラストは監視されていたフェリスがホフマンから離れ、監視の目を解かれます。ホフマンと一緒のCIAオフィズでの仕事を要請されたにもかかわらず、彼は危険な中東生活を選択しました。伸びた髭や顔立ちから感じるところフェリスの故郷は米国ではなく中東だったのかもしれません。異国で自分の傷を治療してくれた女性を見つめるフェリスは嘘の世界ではなく真実の世界を見つけようとしたように感じました。ところで問題の“ニンジャズ”の故郷はいったいどこなのか。
* 監督 リドリー・スコット * 2008年 作品
* 出演 レオナルド・ディカプリオ ラッセル・クロウ
★ 映像で何度か繰り返されるアラビア語の中で“インサ(意味はアイニク)”と“インシャラ(神のご加護を)”という言葉が印象に残りました。
YouTube - 「ワールド・オブ・ライズ 」予告編
「このまま行って!」とテルマ。「本気なの?」とルイーズ。前に続く道はなく深い渓谷があることを知っていたテルマとルイーズが下した決断はこの世から飛び出すこと。彼女たちの背後には多くのパトカーが詰め掛け武装した警官に包囲された状態であるにもかかわらず、二人の女性の表情は穏やかで美しい。互いに親友の絆を深めたテルマとルイーズを乗せた加速する車は砂煙を立ててジャンプ! これがこの映画のエンディング。
中年おばさんのテルマ(主婦)とルイーズ(ウェートレス)は日常から離れ自分を解放させる旅に出ます。特にテルマの旦那ダリルは横柄で威圧的な奴なので、最終的に逃げ出したくなるテルマの気持ちはスゴク分かる。もう一人のルイーズは独身だけれど恋人ジミーがいます。このジミーの方が遥かにダリルより頼れる感じで、女性をキチンと尊重しています。しかしこの世にはダリル系の男が多いのも事実。奥さんに逃げられても仕方ないです。
この映画は男が女に対して平気で行う無神経なセクハラとそれに対する女の怒りを扱っているように思うのですが・・旅先で羽目を外したテルマにレイプしようとした男の破廉恥な言葉に銃を向けたのがルイーズ。物語では彼女もまた以前にレイプされかかったことがあったようで、そんな男を許せない様子。テルマも羽目を外しすぎたので一方的に男が悪いとは断定できないけれど、結果として二人の荒野に向けた過激な逃亡運転がスタートします。
初めはルイーズに頼りっきりで旦那にも気を使っていたテルマが、この旅をキッカケにドンドン強い女性に変化していくのが興味深い。特にルイーズが恋人ジミーから受け取った大金をJ.D.という若造に盗まれて以降のテルマの変身ぶりは痛快! 天性の素質だったのか、強盗だったJ.D.に教えられたのか・・いずれにしてもテルマは強盗を丁寧に上手にやってのけます。この辺の物語進行は深刻にならず、むしろ奇妙なユーモアを感じさせてくれます。
荒野をさすらうのは男だけとは限らないということを示してくれたリドリー・スコット監督。男でありながら目線はテルマ&ルイーズという女性二人にかなり傾倒しています。でも見方を変えれば横柄な旦那に嫌気がさしツマラン生活から逃げ出したくなったのがテルマだったので夫ダリルの横柄さが妻テルマの人生を解放したとも言えるんですよね。
正当防衛のつもりのアクシデントが意図的な強盗にまでエスカレートし、しだいに暴走していく二人は楽しそう。ラストでルイーズがテルマにキスをするのですが、女同士のキスというよりママ(ルイーズ)が成長した息子のような娘(テルマ)を抱き締める雰囲気を感じました。一人で何もできなかったのによくココまで成長したネという母性のような愛情がルイーズにはありました。
女二人の逃避行の結末は冒頭に示したように車ごと飛びます。その決断をした時の彼女たちの表情はサイコーに輝いていました。グランド・キャニオンの深い渓谷に吸い込まれて果てるのではなく、落ちることで一層強くなったテルマとルイーズに出会えそうな明るさを残してくれたように思います。
* 監督 リドリー・スコット * 1991年 作品
* 出演 スーザン・サランドン ジーナ・デイヴィス ブラッド・ピット
★ 二人が逃亡に使った車は雷も避けるフォード社の屋根がないサンダーバード。
Thelma & Louise:Ending Scene
1960年代を代表する宇宙映画はキューブリック監督が表現した理解しにくい“2001年宇宙の旅”。会話はほとんどなく映像と音楽による創造的空間が印象深かった。
それから約10年後に生まれた宇宙映画というかバケモノ映画がローマ字読みするとアリエン“Alien”。明るい映像が多かったキューブリック監督に対して闇の宇宙を描いたのがリドリー・スコット監督。
この世にアリエン見たこともない生命体が発する信号に遭遇したのが宇宙船ノストロモ号。海を航行する乗り物は船・・そして宇宙空間を飛行する時の乗り物も船。
宇宙船に乗り込んでいたメンバーは男五人女二人・・長い時を船内カプセルで眠っていたような様子でノイズ信号をキャッチした段階で彼らは眠りから覚めるというのがオープニング。
人間の五感も彼らが体験した宇宙と同じで、自分とは異なる異種人種に出会うことで神経が目覚める感覚を表現しているように感じます。五感の次の感覚とされる第六感が目覚めるのは危険が伴う異種人種との出会い。映画では“空気の密度の微妙な変化”と表現していたその変化を感じることができる要素が人の第六感。言葉で表現できなくても間違いなく淀んだ空気を感じる瞬間はあるよね。
そんな空気密度の変化に引っ掛かったのが猫・・象徴的な意味合いが感じられる猫はエイリアンの存在を人間より早くキャッチできました。環境の変化に対して抜群の適応力を持っていたのがエイリアン。エイリアンを真ん中に挟んで科学部長を務めるアッシュと判断力に優れたリプリーの対決映画のようにも感じます。
何より恐怖に感じたのは異星人を地球に連れ帰るため本社(?)が特別に乗船させたのがアッシュだったこと。彼は本社の人造人間で他の乗船員の命より優先させたのがエイリアン分析。よだれタレタレのエイリアンより常に沈着冷静なアッシュは赤い血が通っていない器だけの男。本社の命令に忠実なアッシュは自分の脳で考えず命令に従うだけのロボトミー。
「構造も攻撃本能も見事な完全生物がエイリアン」という発言をしたのがアッシュ。
リプリーがどうすればエイリアンを退治できるかの質問に対するアッシュの答えは
“すばらしい純粋さで生存のため良心や後悔などに影響されることのない完全な生き物なので退治するのは無理!” 結局 アッシュの言葉通り、リプリー以外はみんな完全生物に殺されました。
乗組員の一人ケインの顔にこびりついたエイリアンは脱皮しながらドンドン大きくなるのが特徴で、強烈な酸性の白い液体(血液?)を吹き出す完全生物は何かを象徴してるのかも。コンピューター・システムに語りかけても答えが出なかったエイリアンを最後にバシッと退治したのは女性リプリー。映画が製作されて30年という時間経過を経ても何も変わることができない地球システム。宇宙映画というよりむしろ地球映画を表現しているように感じました。
* 監督 リドリー・スコット * 1979年 作品
* 出演 トム・スケリット シドニー・ウィーヴァー
★ 一度観るだけではアッシュの言動を理解するのに不十分なので、二回目は胡散くさいアッシュを意識しながら鑑賞してね。
タイトルの“グラディエーター(gladiator)”を調べると『古代ローマの剣闘士』という風な説明がされていました。 剣を握って闘う人すなわち殺し合いをする人のことをグラディエーターと呼んでいます。 映画の中で人と人が殺し合う場所は古代ローマの円形闘技場“コロシアム”。 殺し合うのを喜んで観ている当時の民衆の心は如何なるものか。
“ローマは一日にして成らず”の諺通り領土拡大を目指し、その拡大のためにエネルギーを注ぎ続けたローマ帝国。 他民族の土地を手に入れるためには戦争で勝たなければならず、兵士を率いてローマ皇帝のためにローマに尽くそうとしたのが主人公マキシマス。 妻と息子が待つ故郷に帰ることを夢見ていたマキシマスは、家族の存在を支えにローマに愛を捧げて果てた軍人としてこの映画は彼を描いています。
時は西暦180年、ローマ帝国の皇帝はマルクス・アウレリウスという老齢に達した男。 彼は息子コモドゥスに皇位を譲らず、息子以上の愛情で接していたマキシマスに皇位を譲ろうと考えていました。 コモドゥスは君主となるための四つの徳(知恵・正義・忍耐・自制心)は持っていなかったけれど人の上に立つのに必要な野心を持っていました。 父の愛情が自分に向けられていないことを知ったコモドゥスは父を殺害し自らがローマ皇帝に・・事態の急変に不信を抱いたマキシマスは殺害される寸前、何とか自分のチカラで復活します。
途中で何度もマキシマスの故郷に対する憧れのような広大な土地のフラッシュバック映像が入ります。 オープニングもラストも麦畑をゆっくり歩く彼の姿は、単に戦争映画だけではないことを伝えています。 血で血を洗うコロシアムでの目を背けたくなる殺し合い映像と対比させて表現されていた死に瀕したマキシマムがイメージする故郷の美しい景色。
マキシマスは故郷で自分の妻と息子が惨殺され木に吊るされた無残な姿を目にしていました。 指示したのは新たに皇帝になったコモドゥス。 そして最終的に皇帝コモドゥスと奴隷の立場にあったマキシマスはコロシアムでコロシアイをするというとんでもない事態に発展します。 遺跡として名高いコロシアムの中でこんな殺戮が行われていたのかと思うとショック! それと同時に殺し合う現場を劇のように楽しんでいる一般民衆はアホか。
リドリー・スコット監督の計算されつくした映像と音楽そして哲学的会話は強烈なインパクトがありました。 特に皇帝がコロシアムの観衆を前にして闘いの裁きをするのに親指を上にしたり下にすることでグラディエーターたちの生死が決まります。 そしてそれを見て喜び興奮する民衆。 一番アホなのは誰なのか。 自分よりローマの将来に命を捧げたマキシマスはコロシアムでコモドゥスを倒し多くの観衆の前で死にました。 彼の死を目にした民衆こそがこれからのローマを築く原動力にならなければいけないと感じました。
* 監督 リドリー・スコット * 2000年 作品
* 出演 ラッセル・クロウ ホアキン・フェニックス コニー・ニールセン
☆オープニングに映し出された風に揺れる麦畑はマキシマスの故郷に続く道でした。