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- 2022.04.05 Tuesday
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ルイ・マルが監督した映画とは思えない反面、
この知的なドタバタはやはりルイ・マル。
幼少期の頃からパパと一緒に世界を巡り爆弾を仕掛ける男っぽいマリアにブリジット・バルドーが扮し、爆弾とは縁のない女っぽいマリアを演じたのがジャンヌ・モロー。女っぽいマリアは旅芸人一座のメンバーで、丁度相手役を失ったところに男っぽいマリアが出現するというタイミングのいいストーリー。旅芸人のメンバーの中には手品師がいたり力持ちがいたりアクロバットを披露する人がいたりでバラバラなんだけど国(革命中のメキシコ)を統率するエライ人に対して立ち向かう時の一致団結力はスゴイ。何台かの馬車を連ね荒地を走り抜ける彼らのルーツはきっと根なし草。日本でいうと大地を耕し農作物を得る弥生人ではなく獲物を追い求めて原野をさ迷う縄文人。また逆行する蒸気機関車や教会内部に保存されている珍しい道具などは必見! 特に印象的だったのがミニ舞台で演じる二人のマリアの歌とダンス。ジョルジュ・ドルリューの音楽が楽しい。
ドタバタを装いながらもその内容は体制側に爆弾を投げつける反体制映画。
しかも投げつけるのが聖母マリアと同名の二人のマリアなので
神聖さはぶっ飛んでいます。
そして神聖さのカケラもない女二人に対抗するのが教会のエライ人(もちろん男)。
爆弾で吹っ飛んだ自分の頭を手で支える教会の長老の言葉。
“これだから・・ 女は・・”
アレコレ男に手を出す男顔負けのマリアが組んだドタバタ革命は成功します。
監督 ルイ・マル 1965年(仏伊)作品
エドガー・アラン・ポー原作の映画“世にも怪奇な物語”に収められた三つの短編映画の中の一つ。『事実は小説よりも奇なり』という言葉通り虚構の小説より奇なのが実際の世の中で、怪奇小説や怪奇映画は実際に起こる可能性のある“奇”の部分に焦点を当てています。奇しき因縁が支配する世の中で奇に出会った場合、必ずそこには因縁が存在しているはず。いい因縁ならイーけれど悪い因縁は切り裂き捨てる必要がある。知らず知らずに悪しき道にハマってしまうのはもしかして悪い因縁?
成長した彼は医学生となり心を裸にする人体解剖の場に臨んでいました。通りかかった女性がその人体解剖の生贄となり手足を縛られメスで切り刻まれる寸前、出現するのがウィルソンと瓜二つの良心的な男。その彼が紐で手足を縛られ身動きできない状態の女を解き放ったにもかかわらず、自由になった彼女が抱きついたのがあのウィリアム・ウィルソン。一番印象的だったのがこの場面で、この女・・何考えてるねん! と思いましたデス。サディストにはマゾヒストがお似合い? ウィリアム・ウィルソンの悪事に対し、それを認める女はもっと悪い。
自分の邪魔をする奴は皆殺しシステムに従い、ドッベルゲンガーを殺したウィルソン。“世界は終わりだ。希望も終りだ。”という言葉を残してウィルソンのドッペルゲンガーが息絶えると同時にウィルソン自身も生きることができなくなってしまうのがドッペルゲンガー現象? 教会の鐘が鳴り響く中、神父さんが見つけたウィルソンの死体の腹にはあのナイフが・・ 教会から飛び降りたウィルソンのホントの姿がこうして明らかにされました。影を殺した男こそ影だったのかも。
* 監督 ルイ・マル * 1967年(仏)作品
* 出演 アラン・ドロン ブリジッド・バルドー
★ くどいですが、自分をいたぶる男にしがみつく女は嫌いだ!
死刑台と地下鉄は全く違うものなのに、ルイ・マルが監督した処女作・死刑台のエレベーターの続編のようなイメージで感じていた“地下鉄のザジ”。思い込みとは恐ろしいもので、エスマルの脳の中では死刑台が地下鉄に重なり一つのものとして表現されている感覚をズッと持ち続けていました。勝手な脳の一人歩きを許してしまった結果、死刑台のエレベーターで投げかけられた罪と罰の次の舞台は地下鉄だと信じきっていた勝手な脳にノーを突き付けたのがゼウスと同じZから始まるザジでした。
舞台は押し合い圧し合いの人々でごった返していたパリ。都会に人々が集中するのは日本だけのことではないようで、半世紀も前のフランスでも右往左往する多くの人々であふれ返っていました。さらに表面化しない地下鉄までがストを決行していたため、地下鉄組まで表面化し右往左往しています。大人を操るのが得意なザジは地下鉄に乗るのを楽しみにママに連れられ田舎なら上京。しかしママの目的は恋人に逢うことで、ザジはガブリエル叔父さんに預けられることに・・ そんな忙しそうな人ばかり登場するこの映画でひと際異彩を放っていたのがガブリエルの奥さん。
男性的なアルベルティーヌに対し、男なら誰でもすがろうとする未亡人も興味深い。
紫ファッションで統一した彼女は男を求め夜のパリを徘徊する女性で、男連中からは毛嫌いされるタイプ。子供のザジにこんな言葉「私と一緒に歩いてくれる?」を投げかけ、ザジもこのオバサンにはサジを投げています。そして最後にセットされた場所はガブリエルが女装ダンスを繰り広げるハリボテ・バーで、食器や食べ物が飛び交うドタバタ劇がしばらく展開。地下鉄とザジを結び付ける接点も分からないまま映画は終盤に至り、“これは何なんだ!”という唖然状態でキタナ〜イ映像がしばし続きます。まさに登場人物みんながザジの口癖“ケツ喰らえ”を実践している感じ。
眠りから覚めたザジはラストで身勝手なママ(パパはママに殺されたらしい)と対面。「地下鉄に乗れた?」と尋ねたママにザジが答えた言葉は「年とったわ」の一言。開けてはいけないと念を押されていた玉手箱を開けて年とった浦島さんを思い出すセリフで、ザジがパリという街の玉手箱を開けてしまったのかもしれない。地下鉄に乗りたかったザジはパリの深部を覗きたかった? 最終的に地下鉄に乗れたザジ・・しかし眠っていたので何も記憶はない。わずか数日のパリ滞在だったけれど、ザジが夢の中で見たパリは退廃ムードが漂っていました。
* 監督 ルイ・マル * 1960年(仏)作品
* 出演 カトリーン・ドモンジョ フィリップ・ノワレ
★ 軽快なテンポで右往左往するザジと一緒に半世紀前のパリ見物を楽しめるビビッドな映画。
不倫関係にあった大人の男女が愛を優先させたが故に、邪魔者が消されることになる映。その邪魔者扱いされたのが女フロランスの旦那で会社社長でもあったカララ氏。
そして邪魔者消滅実行犯がフロランスの愛人であり、カララ氏が信頼を寄せ片腕のように仕事をこなしていたジュリアン。社長夫人と社長の間で板挟みにならなかったジュリアンは仕事より愛に重きを置くタイプ。彼がもし仕事を優先させるか、板挟みに苦しむタイプならこんな発想(邪魔者を消す)はしなかったはず。盲目の恋の暴走は誰にも止めることができず、さらに若い男女がその暴走を加速させていきます。
ルイ・マル(当時25歳)の処女作品として有名なこの映画・・初めて観ました。退廃的ムードをかもし出すマイルス・デイビスのトランペットの響きはまさに閉塞感の象徴? ジャズといえば煙草ムンムンのイメージで、爽やかな高原シーンから始まるサウンド・オブ・ミュージックと対極に位置するけだるい音楽が使われています。輝く青空の先にある自由を求めても時間に流され腐敗してしまうのがこの世の原点であるなら、この閉塞状況から脱出しなければいけないと考えたのが盲目同士の社長夫人とその愛人。自分たちの幸せ以外何も見えなくなっていた孤独な二人に用意されていたのはさらに深い孤独で、愛の確認は孤独の確認のようなもの?
その途中で関わってくるのがジュリアンのスポーツカーを盗んで高速道路を突っ走る若い男ルイ。世間にも多いタイプの若者で、スピードに興じることが好きなルイは人の言葉にすぐにきれますそしてルイが運転する車に同乗する女性も彼に輪をかけたチャランポランで、口では「そんなことをしてはダメ」とか言いつつヤッテルことは出鱈目。こんな連中が社会に野放しにされていること自体が危険なことで、運が悪いと彼らの出鱈目行動に人生をかき回されることに・・“人を見たら泥棒と思え”という格言を改めて心に刻んだ次第。
* 監督 ルイ・マル * 1957年(仏)作品
* 出演 ジャンヌ・モロー モーリス・ロネ
★ スパイが使いそうなジュリアンの持ち物(小型カメラ)に写っていた二人を撮ったのは誰?
人間同士のコミュニケーションは全くなく通常ではなかなか聞き取れない自然界の生き物が生じさせるユニークな呼吸音に感動した映画。まずオープニングのクレジットが無音で、冒頭シーンは薄暗い野原。そこに出てくるのが鼻をクンクンさせながら餌を探しているアナグマくん。鼻息荒くアチコチ餌を嗅ぎ回っていた彼はトロトロしている間に車に轢かれてあの世行き。オレンジ色の車をぶっ飛ばしていた少女(この時は男に見える)がアナグマの加害者で夜が明けきれない薄暗い時間帯の事故でした。
偉才を発揮するルイ・マル監督(当時43歳)の確かな偉才を体感できるワンダーランド映画。ほとんど分からんストーリーなのに映像から発散される不思議な吸引力で視覚・聴覚が刺激され、見始めると一気に観てしまいたくなる気分にさせられました。爆弾音が渦巻く現実から全力疾走で駆け抜けるのがリリーの運転する車。奇妙な館に侵入する前に彼女は銃殺される女性を目の当たりにしています。ルイ・マルが設定した戦場は男と女の闘い? 男性兵士が女性兵士を銃殺する前に抱擁しているシーンがあり、意味深な戦場風景でした。
特にベッドに寝たまま無線で意味不明の言葉を発していた婆さんが一番不気味!
大きなネズミだけを話相手に何年も過ごしているような感じで、宇宙のノイズをチェックしながらワカラン相手に何かを報告しています。“このバアサン何者やねん!”と大声で叫びたい気分で、ますます映画から目を離せない状態に・・ オカルト的要素とは違う淀んだ空気が充満している婆さんの部屋には多くの時計がありました。
時間に縛られているようには見えん生活をしてるにも関わらず、このバアサン解放されていません。そして部屋中の鳴り出す時計をすべて窓から放り投げるのがリリー。
彼女こそ何にも縛られていないものの象徴かも。
乳房を消毒してオッパイを吸わせる意味は何なのか。多くの画家が表現した“慈愛”というテーマになっていたのが複数の赤ん坊に乳房を与える女性でした。突き抜ける少女リリーは慈愛に溢れた女性ということか・・ そうなるとリリーの前に寝ていた無線で交信するあのバアサンも慈愛に溢れていたことにもなり、突き抜ける不気味さと理解不能の混乱を同居させたまま映画は幕を閉じます。しかし最大の謎はリリーが差し出す乳房。女を捨てて慈愛に満ちた母親になったというメタファーとして納得させようと思ってはみたものの、リリーが婆さんに乳房をふくませるシーンは二度と見たくない。
* 監督・脚本 ルイ・マル * 1975年(仏・西独)作品
* 出演 キャスリン・ハリソン テレーズ・ギーゼ
★ 夜空にあってもナイに等しいのがブラック・ムーン。
切ない・苦しい・辛い・悔しいなどマイナス感情は実際にその体験をしないと分からない。エスマルの青春期(70年代)に♪戦争を知らない子供たち♪という歌がヒットしましたが、その頃の日本を背負っていたのが実際の戦争体験者。それ以降、戦争体験者は当然減り続けているわけで当時の戦争を知らない子供たち(老年期)とその戦争を知らない子供たちに育てられた若者で構成されているのが現在の世界。想像する限り、我々が今感じる痛みは戦争時の痛みに比べ大したことはないのだろうと思う。
映画の主人公ジュリアンと同年齢で現実のユダヤ人迫害を目にしたルイ・マル監督は
何が何でもこの映画を完成させたかったという話が伝わっています。ルイ・マル少年が見た本物のユダヤ人迫害は切ない(映像から感じたエスマルの気持ち)ものでした。迫害から逃れることのできない運命を静かに引き受けるユダヤ人の凛とした強さと、戦争社会におけるナチスの非情な社会的統制を感じました。どれだけ不条理だと叫んでも通じないのが政治権力による統制システムで、理由があろうがなかろうがユダヤ人は連行され殺されるのが戦時下におけるルールでした。
舞台になったのは中高一貫のカトリック系男子校で、ゲシュタボ勢力が増大しつつあった1944年1月のこと。冒頭で紹介されるのが駅のホームでママに抱きついている甘えん坊ジュリアンくん。学校では負けん気が強い悪戯少年なのにママの前ではアカンタレの気の弱い男の子。家族とのクリスマス休暇を終えたジュリアンは汽車に乗り、神父さんが運営する寄宿舎を目指しています。車窓を隔てた向こうの景色は厳しい冬の寒さが感じられ、戦時下におけるナチス台頭を暗示しているかのよう。迫害されるべき対象にされたユダヤ人に関する知識はほとんどありませんが、映画に登場するユダヤ人少年ボネは賢い。
ゲシュタボ行動で不快だったのがレストランへの立ち入り。静かに食事をしているのに身分証明書を出せとか何とか・・うるせえ奴ら! ある紳士に証明書を提出させ、ココはユダヤ人禁止だとかツベコベ言うのが彼らの仕事。嫌がらせを好むタイプなのか、そんな不快な人間を相手にしなかったのがそのユダヤ人紳士。ボネもそうですが、ユダヤ人ってどちらかといえば無口なのかな。才能がありすぎて凡人相手にツマラン会話はできない? また体制に従うことを拒否する傾向も感じられ、体制側からすると排除したいのがユダヤ人?
* 監督 ルイ・マル * 1988年(仏・西独)作品
* 出演 ガスパール・マネッス ラファエル・フェジト
人間というものの深淵なテーマでしかも答えが出ない“罪と罰”が描かれていると感じた映画。政治家だった主人公スティーヴンはある女と出会い、マットウな社会人から堕ちていきます。しかし彼を誘惑した女は堕ちなかった。結果として彼が愛した女は大したことはなかったというのが正直な感想。しかし見かけのスティーヴンで終わるのではなく、ホントの自分を知るキッカケを与えてくれたのがこの女。
会話のユーモアや互いの趣味などの話は一切なく、肉体だけが先行する異様でバトルのような二人の肉体関係。狂気のような激しさで肉体の合一を図ろうとする二人・・ 錆びて動かなかった運命の歯車が突如として回転し始めたような怖い空気を内包していました。
運命的なナニカを秘めていたスティーヴンは、妻・息子・娘を持つ四人家族。もしアンナに出会わなければ出世もして社会から認められる男になっていたと思います。
でも神あるいは悪魔は彼を放っておくことはしなかった。アンナは15歳で兄を自殺で失うという辛い体験があり、その寂しさを癒すため男遍歴を繰り返してきた孤独に対応できないタイプかな。アンナが自分自身で解決できない孤独は、結局 彼女の周囲の人たちを巻き込み彼らの人生を転落に導くという破滅物語に向かっていきます。
しかし実際の彼は権力より不確かな愛を求めていたようにも感じます。
そして彼のストレートな部分を見抜いていたのがアンナの母。マーティンとの結婚を控えてスティーヴンに身を引くように忠告し彼もその忠告を受け入れアンナと別れようとしていたのに、彼女の妖艶な誘惑に負けてしまうチョットかわいい男がスティーヴン。彼の真っ直ぐなキャラクターは政治家より芸術家に向いているのかも・・真っ直ぐ過ぎる性格でこの世を生き抜くことはちょっと難しい。自分に降りかかった運命に逆らわなかったスティーヴンの末路は侘しいものでした。
「あなたと一緒にいたいからマーティンと結婚するのよ」という言葉を発したアンナ。この段階でスティーヴンはアンナの自己中を見抜かなければいけない。女の目から見てもアンナの性格は悪い! 男に愛を与えるどころか男を破滅させる方向に導くように感じます。悪魔(アンナ)に魅入られた人生は破滅するしかないということなのかな。
自分を支えてくれた家族に対して大きな罪を背負ったスティーヴンは日常世界から消えます。 マーティンにもらった写真を拡大して映画のように眺めていたスティーヴン。彼が何度もアンナに質問していたのがこの言葉“君は何者だ?” この答えを知りたいがために狂気の道を突き進んでいった男が選んだのは過去のすべてを捨て去ることでした。自分が犯した罪を償おうとしたスティーヴン、そして罪の意識もなく次の罪を重ねるアンナ。余韻を残す幕切れで映画は終わります。
* 監督 ルイ・マル * 1992年 作品
* 出演 ジェレミー・アイアンズ ジュリエット・ビノシュ
★ 1932年生まれのフランス人監督ルイ・マルは、若い頃はもちろん還暦を迎えてからも異彩を放つ映画を社会に突き付け世界の映画ファンに影響を与えました。