ビバ!マリア

      
     二人のマリアが繰り広げるミュージカル的西部劇風コメディ革命映画。
               
要するに何でもあり! 

 

               Viva Maria. - YouTube

 

         ルイ・マルが監督した映画とは思えない反面、
          この知的なドタバタはやはりルイ・マル。

幼少期の頃からパパと一緒に世界を巡り爆弾を仕掛ける男っぽいマリアにブリジット・バルドーが扮し、爆弾とは縁のない女っぽいマリアを演じたのがジャンヌ・モロー。女っぽいマリアは旅芸人一座のメンバーで、丁度相手役を失ったところに男っぽいマリアが出現するというタイミングのいいストーリー。旅芸人のメンバーの中には手品師がいたり力持ちがいたりアクロバットを披露する人がいたりでバラバラなんだけど国(革命中のメキシコ)を統率するエライ人に対して立ち向かう時の一致団結力はスゴイ。何台かの馬車を連ね荒地を走り抜ける彼らのルーツはきっと根なし草。日本でいうと大地を耕し農作物を得る弥生人ではなく獲物を追い求めて原野をさ迷う縄文人。また逆行する蒸気機関車や教会内部に保存されている珍しい道具などは必見! 特に印象的だったのがミニ舞台で演じる二人のマリアの歌とダンス。ジョルジュ・ドルリューの音楽が楽しい。
         
                                     

  ドタバタを装いながらもその内容は体制側に爆弾を投げつける反体制映画。

    しかも投げつけるのが聖母マリアと同名の二人のマリアなので
             神聖さはぶっ飛んでいます。
そして神聖さのカケラもない女二人に対抗するのが教会のエライ人(もちろん男)。

     
      爆弾で吹っ飛んだ自分の頭を手で支える教会の長老の言葉。
           
 “これだから・・ 女は・・”

 
          こうして一人の男に尽くすマリアと
  アレコレ男に手を出す男顔負けのマリアが組んだドタバタ革命は成功します。

                

  監督 ルイ・マル   1965年(仏伊)作品


影を殺した男

          

エドガー・アラン・ポー原作の映画“世にも怪奇な物語”に収められた三つの短編映画の中の一つ。『事実は小説よりも奇なり』という言葉通り虚構の小説より奇なのが実際の世の中で、怪奇小説や怪奇映画は実際に起こる可能性のある“奇”の部分に焦点を当てています。奇しき因縁が支配する世の中で奇に出会った場合、必ずそこには因縁が存在しているはず。いい因縁ならイーけれど悪い因縁は切り裂き捨てる必要がある。知らず知らずに悪しき道にハマってしまうのはもしかして悪い因縁?

 
そんな悪い因縁に支配されていたのがこの映画の主人公ウィリアム・ウィルソン(原題)で、幼い頃から人を恐怖で支配していました。彼の描いた筋書き通り周囲のみんなが動くのは彼が秘めていた恐怖のせい? 寄宿学校時代の生徒全員が彼の言いなりで、抵抗する生徒は誰もいない。もし彼に逆らえばどうなるかということは暗黙の了解だったようで、ますます増長して支配力を強めていくのが独裁者ウィルソン。そんな彼をたしなめるように出現したのが転校生と称する同姓同名の少年。競争相手のいなかった彼がその少年に初めて敵対感情を抱き、次に取った行動が邪魔者を消すこと。日本神話に登場する古代の天皇も自分に逆らう奴は皆殺しでしたが・・

         

成長した彼は医学生となり心を裸にする人体解剖の場に臨んでいました。通りかかった女性がその人体解剖の生贄となり手足を縛られメスで切り刻まれる寸前、出現するのがウィルソンと瓜二つの良心的な男。その彼が紐で手足を縛られ身動きできない状態の女を解き放ったにもかかわらず、自由になった彼女が抱きついたのがあのウィリアム・ウィルソン。一番印象的だったのがこの場面で、この女・・何考えてるねん! と思いましたデス。サディストにはマゾヒストがお似合い? ウィリアム・ウィルソンの悪事に対し、それを認める女はもっと悪い。

 
舞台は変わって、アラン・ドロンが扮した美貌の持ち主ウィルソンをけなす女性がポーカーの賭博場に・・ ブリジッド・バルドーが扮した気の強そうな女性がその人。イカサマでその女から金を巻き上げ自分のモノにした極悪人ウィルソン。女の背中を鞭で叩くシーンで、女が悲鳴をあげなかったのはスゴイ! そんな修羅場に又しても出現するのが分身を意味するドッベルゲンガー(ドイツ語)。この映画の核になっているのがウィルソン(悪)に対抗するもう一人の自分(善)で、恐怖とイカサマで他者を支配するウィルソンを倒せるのはウィルソン自身でしかない。


         

自分の邪魔をする奴は皆殺しシステムに従い、ドッベルゲンガーを殺したウィルソン。“世界は終わりだ。希望も終りだ。”という言葉を残してウィルソンのドッペルゲンガーが息絶えると同時にウィルソン自身も生きることができなくなってしまうのがドッペルゲンガー現象? 教会の鐘が鳴り響く中、神父さんが見つけたウィルソンの死体の腹にはあのナイフが・・ 教会から飛び降りたウィルソンのホントの姿がこうして明らかにされました。影を殺した男こそ影だったのかも。

 
若い頃はイマイチ理解できなかったルイ・マルが描く世界。年齢と体験を経て少しは感じるようになってきたのが生と死の世界で、生き方は死に方・・ そして死に方こそ生き方に関係しているように思います。最後に独裁者ウィリアム・ウィルソンは自ら教会の塔から身を投げて死ぬのですが、その死体から察すると彼は独裁者ではなかったのかもしれない。常に死というものを見据えて映画製作に携わっていたと思われる監督の目にこの世はどのように映っていたんだろう。


* 監督 ルイ・マル    * 1967年(仏)作品

* 出演 アラン・ドロン   ブリジッド・バルドー


★ くどいですが、自分をいたぶる男にしがみつく女は嫌いだ!


地下鉄のザジ

            

死刑台と地下鉄は全く違うものなのに、ルイ・マルが監督した処女作・死刑台のエレベーターの続編のようなイメージで感じていた“地下鉄のザジ”。思い込みとは恐ろしいもので、エスマルの脳の中では死刑台が地下鉄に重なり一つのものとして表現されている感覚をズッと持ち続けていました。勝手な脳の一人歩きを許してしまった結果、死刑台のエレベーターで投げかけられた罪と罰の次の舞台は地下鉄だと信じきっていた勝手な脳にノーを突き付けたのがゼウスと同じZから始まるザジでした。

 
人間アニメを観ている感じで、登場人物すべてが忙しそうに動きっぱなしの喋りっぱなし。50年前のパリを観光しているつもりで鑑賞すればいいのかもしれないけれど、今までのルイ・マル作品の印象と違い過ぎて速いテンポについていけない。タイトルになっている地下鉄の意味は何なのか・・さらに地下鉄とザジ(ませた女の子の名前)の接点は・・ などと考えているうちにワカラン話は小気味いいリズムで突進します。筋書きでは地下鉄に乗りたかったのが田舎から出て来たザジで、それでタイトルは地下鉄のザジ。ルイ・マルの映画にしては単純すぎる!

            

舞台は押し合い圧し合いの人々でごった返していたパリ。都会に人々が集中するのは日本だけのことではないようで、半世紀も前のフランスでも右往左往する多くの人々であふれ返っていました。さらに表面化しない地下鉄までがストを決行していたため、地下鉄組まで表面化し右往左往しています。大人を操るのが得意なザジは地下鉄に乗るのを楽しみにママに連れられ田舎なら上京。しかしママの目的は恋人に逢うことで、ザジはガブリエル叔父さんに預けられることに・・ そんな忙しそうな人ばかり登場するこの映画でひと際異彩を放っていたのがガブリエルの奥さん。

 
スタイル抜群の女性で極めて口数が少なく、能面のような表情の彼女は浮いています。そんな彼女が最後にドタバタ騒ぎの連中から眠っていたザジを抱き抱え、地下鉄で脱出します。普段は家に居ることが多いような彼女が動き出すとスゴイ! 何がスゴイかというと、オシクラカンジュウ状態になっていたパリの街を自転車で疾走する姿。バックに流れるのがクール・ジャズっぽい音楽で、彼女の表情もクール。レインコートを着用し、白いスカーフを頭に巻いた彼女はまるでマネキン風。異次元世界からの来訪者のような感じで、混雑した車の間を上手にすり抜けて走ります。この映画で一番印象に残ったのがホモと言われていたガブリエルの妻アルベルティーヌかな。


            

男性的なアルベルティーヌに対し、男なら誰でもすがろうとする未亡人も興味深い。
紫ファッションで統一した彼女は男を求め夜のパリを徘徊する女性で、男連中からは毛嫌いされるタイプ。子供のザジにこんな言葉「私と一緒に歩いてくれる?」を投げかけ、ザジもこのオバサンにはサジを投げています。そして最後にセットされた場所はガブリエルが女装ダンスを繰り広げるハリボテ・バーで、食器や食べ物が飛び交うドタバタ劇がしばらく展開。地下鉄とザジを結び付ける接点も分からないまま映画は終盤に至り、“これは何なんだ!”という唖然状態でキタナ〜イ映像がしばし続きます。まさに登場人物みんながザジの口癖“ケツ喰らえ”を実践している感じ。

       
眠りから覚めたザジはラストで身勝手なママ(パパはママに殺されたらしい)と対面。「地下鉄に乗れた?」と尋ねたママにザジが答えた言葉は「年とったわ」の一言。開けてはいけないと念を押されていた玉手箱を開けて年とった浦島さんを思い出すセリフで、ザジがパリという街の玉手箱を開けてしまったのかもしれない。地下鉄に乗りたかったザジはパリの深部を覗きたかった? 最終的に地下鉄に乗れたザジ・・しかし眠っていたので何も記憶はない。わずか数日のパリ滞在だったけれど、ザジが夢の中で見たパリは退廃ムードが漂っていました。

* 監督 ルイ・マル    * 1960年(仏)作品

* 出演 カトリーン・ドモンジョ   フィリップ・ノワレ


★ 軽快なテンポで右往左往するザジと一緒に半世紀前のパリ見物を楽しめるビビッドな映画。


死刑台のエレベーター

          


不倫関係にあった大人の男女が愛を優先させたが故に、邪魔者が消されることになる映。
その邪魔者扱いされたのが女フロランスの旦那で会社社長でもあったカララ氏。
そして邪魔者消滅実行犯がフロランスの愛人であり、カララ氏が信頼を寄せ片腕のように仕事をこなしていたジュリアン。社長夫人と社長の間で板挟みにならなかったジュリアンは仕事より愛に重きを置くタイプ。彼がもし仕事を優先させるか、板挟みに苦しむタイプならこんな発想(邪魔者を消す)はしなかったはず。盲目の恋の暴走は誰にも止めることができず、さらに若い男女がその暴走を加速させていきます。

 
「もう耐えられない。」という切羽詰まったフロランスのこの言葉で始まるオープニングは印象的。何らかの限界に達していた二人の思考は一致し、自由を求め実践したのがカララ氏殺害。後から加わる若い男女の無軌道さと似たり寄ったりで、到底大人の思考とは思えない。今から殺人を犯そうとするジュリアンの沈着冷静な確信犯的態度から想像する限り、繊細さは持ち合わせていないと思う。恋愛が人生ゲームなら殺害も人生ゲーム・・ 殺害ゲームが終れば二人は自由の身? フロランスとジュリアンの不倫恋愛はある種の窒息状態に達していたようで、二人はその閉塞感から逃げ出す手段として突破口を求めていたように思います。

                

ルイ・マル(当時25歳)の処女作品として有名なこの映画・・初めて観ました。退廃的ムードをかもし出すマイルス・デイビスのトランペットの響きはまさに閉塞感の象徴? ジャズといえば煙草ムンムンのイメージで、爽やかな高原シーンから始まるサウンド・オブ・ミュージックと対極に位置するけだるい音楽が使われています。輝く青空の先にある自由を求めても時間に流され腐敗してしまうのがこの世の原点であるなら、この閉塞状況から脱出しなければいけないと考えたのが盲目同士の社長夫人とその愛人。自分たちの幸せ以外何も見えなくなっていた孤独な二人に用意されていたのはさらに深い孤独で、愛の確認は孤独の確認のようなもの?

 
言葉を変えると孤独を感じる人にしか愛は存在しないように思うし、愛を知ろうとすればするほど孤独の闇に落ちていくのが愛の追求? 利己的な愛を求めたが故にジュリアンが閉じ込められることになる暗闇のエレベーターは孤独の象徴かな。そのエレベーターから何とか脱出を試みるジュリアン。死刑台という風に形容されたエレベーターの意味するところはすべての人の心に潜む孤独感? ビル(この世)の中で上がったり下がったりを繰り返しているだけで、どこにも到着しないし誰とも心を通わせることはできない。カメラは夜の街を娼婦のように彷徨い続けるフロランスと闇のエレベーターに閉じ込められたジュリアンを交互に描写しています。


           

その途中で関わってくるのがジュリアンのスポーツカーを盗んで高速道路を突っ走る若い男ルイ。世間にも多いタイプの若者で、スピードに興じることが好きなルイは人の言葉にすぐにきれますそしてルイが運転する車に同乗する女性も彼に輪をかけたチャランポランで、口では「そんなことをしてはダメ」とか言いつつヤッテルことは出鱈目。こんな連中が社会に野放しにされていること自体が危険なことで、運が悪いと彼らの出鱈目行動に人生をかき回されることに・・“人を見たら泥棒と思え”という格言を改めて心に刻んだ次第。

 
エレベーターの中で一晩を過ごしたジュリアン。まさか自分がドイツ人夫婦を殺害した犯人にされているとは思ってもいない。そんな朝のカフェに居合わせたジュリアンを新聞と見くらべていた女の子の挙動が面白くて笑える。取調室に連れていかれた彼は殺人犯ではあっても対象になる相手が違う。その辺の食い違いがこの映画の魅力かな。もしかして世間で起こっている事件はこんな風に食い違っているのかもしれない・・ナンテネ。その食い違いを何とかしようとしたのがフロランスで、過去の二人を写した楽しそうな写真がその食い違いを証明する結果になりました。


* 監督 ルイ・マル    * 1957年(仏)作品

* 出演 ジャンヌ・モロー   モーリス・ロネ


★ スパイが使いそうなジュリアンの持ち物(小型カメラ)に写っていた二人を撮ったのは誰?


ブラック・ムーン

          

人間同士のコミュニケーションは全くなく通常ではなかなか聞き取れない自然界の生き物が生じさせるユニークな呼吸音に感動した映画。まずオープニングのクレジットが無音で、冒頭シーンは薄暗い野原。そこに出てくるのが鼻をクンクンさせながら餌を探しているアナグマくん。鼻息荒くアチコチ餌を嗅ぎ回っていた彼はトロトロしている間に車に轢かれてあの世行き。オレンジ色の車をぶっ飛ばしていた少女(この時は男に見える)がアナグマの加害者で夜が明けきれない薄暗い時間帯の事故でした。


偉才を発揮するルイ・マル監督(当時
43歳)の確かな偉才を体感できるワンダーランド映画。
ほとんど分からんストーリーなのに映像から発散される不思議な吸引力で視覚・聴覚が刺激され、見始めると一気に観てしまいたくなる気分にさせられました。爆弾音が渦巻く現実から全力疾走で駆け抜けるのがリリーの運転する車。奇妙な館に侵入する前に彼女は銃殺される女性を目の当たりにしています。ルイ・マルが設定した戦場は男と女の闘い? 男性兵士が女性兵士を銃殺する前に抱擁しているシーンがあり、意味深な戦場風景でした。

 
リリー自身もロングヘアーを隠して帽子をかぶっていたため初めは男に見えてしまいます。あるいは男に見せなければ殺されるという自分の置かれていた状況を知っていたのがリリー? 一目散に逃げ出す彼女の車はガタガタ・・ それでもガムシャラに突き抜ける彼女の精神力はスゴイ。“理屈の通じない別世界”だと冒頭で紹介するのが脚本も手掛けたルイ・マル。確かにリリーの突き抜けるような行動はこの世でドスンとぶつかっている人たちとは全く違うもの。理屈抜きの奇妙な館へ迷い込んだリリーが目にしたものは“不気味”という一言に尽きる。

              


特にベッドに寝たまま無線で意味不明の言葉を発していた婆さんが一番不気味!
大きなネズミだけを話相手に何年も過ごしているような感じで、宇宙のノイズをチェックしながらワカラン相手に何かを報告しています。“このバアサン何者やねん!”と大声で叫びたい気分で、ますます映画から目を離せない状態に・・ オカルト的要素とは違う淀んだ空気が充満している婆さんの部屋には多くの時計がありました。
時間に縛られているようには見えん生活をしてるにも関わらず、このバアサン解放されていません。そして部屋中の鳴り出す時計をすべて窓から放り投げるのがリリー。
彼女こそ何にも縛られていないものの象徴かも。

 
蛇・百足さらに羊・鶏・豚そして最後に黒鷲が登場するシンボリックな展開のなかで興味深いのが純潔を象徴する一角獣の会話。リリーとだけ会話する一角獣は154年後に戻るとか言いながらこの屋敷を去ります。しかしこの館の主がリリーと入れ替わった途端、再度(154年も経ったの)登場。この世には存在しないはずの一角獣は理屈が通じない世界の生き物のようで、宇宙語を理解しないと一角獣の心は分からない。そして一度は去った一角獣がリリーのベッド(以前あのバアサンが寝てた)のそばに・・ その後“ちょっとお待ちを”というリリーの言葉でエンドになるのですが、問題はそのちょっとお待ちを・・の後。


           

乳房を消毒してオッパイを吸わせる意味は何なのか。多くの画家が表現した“慈愛”というテーマになっていたのが複数の赤ん坊に乳房を与える女性でした。突き抜ける少女リリーは慈愛に溢れた女性ということか・・ そうなるとリリーの前に寝ていた無線で交信するあのバアサンも慈愛に溢れていたことにもなり、突き抜ける不気味さと理解不能の混乱を同居させたまま映画は幕を閉じます。しかし最大の謎はリリーが差し出す乳房。女を捨てて慈愛に満ちた母親になったというメタファーとして納得させようと思ってはみたものの、リリーが婆さんに乳房をふくませるシーンは二度と見たくない。

 
ルイ・マル作品の中でも特に芸術性が高い映画で、理屈が通じない別世界があるかもしれないと感じている人にはお勧めの映画。頭のネジを回転してくれる不気味さを味わいながら、人間以外の生き物が生じさせる音に耳を傾けながら、そしてリリーが相手を選ばず乳房を与える意味(かなりこだわっています)は何なのかを想像しながら異様な世界の意外な美を体感してください。


* 監督・脚本 ルイ・マル     * 1975年(仏・西独)作品

* 出演 キャスリン・ハリソン   テレーズ・ギーゼ  

★ 夜空にあってもナイに等しいのがブラック・ムーン。

 

          YouTube - Black Moon - Talking Unicorn


さよなら子供たち

           

切ない・苦しい・辛い・悔しいなどマイナス感情は実際にその体験をしないと分からない。エスマルの青春期(70年代)に♪戦争を知らない子供たち♪という歌がヒットしましたが、その頃の日本を背負っていたのが実際の戦争体験者。それ以降、戦争体験者は当然減り続けているわけで当時の戦争を知らない子供たち(老年期)とその戦争を知らない子供たちに育てられた若者で構成されているのが現在の世界。想像する限り、我々が今感じる痛みは戦争時の痛みに比べ大したことはないのだろうと思う。

             
映画の主人公ジュリアンと同年齢で現実のユダヤ人迫害を目にしたルイ・マル監督は
何が何でもこの映画を完成させたかったという話が伝わっています。ルイ・マル少年が見た本物のユダヤ人迫害は切ない(映像から感じたエスマルの気持ち)ものでした。迫害から逃れることのできない運命を静かに引き受けるユダヤ人の凛とした強さと、戦争社会におけるナチスの非情な社会的統制を感じました。どれだけ不条理だと叫んでも通じないのが政治権力による統制システムで、理由があろうがなかろうがユダヤ人は連行され殺されるのが戦時下におけるルールでした。

              

舞台になったのは中高一貫のカトリック系男子校で、ゲシュタボ勢力が増大しつつあった19441月のこと。冒頭で紹介されるのが駅のホームでママに抱きついている甘えん坊ジュリアンくん。学校では負けん気が強い悪戯少年なのにママの前ではアカンタレの気の弱い男の子。家族とのクリスマス休暇を終えたジュリアンは汽車に乗り、神父さんが運営する寄宿舎を目指しています。車窓を隔てた向こうの景色は厳しい冬の寒さが感じられ、戦時下におけるナチス台頭を暗示しているかのよう。迫害されるべき対象にされたユダヤ人に関する知識はほとんどありませんが、映画に登場するユダヤ人少年ボネは賢い。

 
ボネを初めとしてユダヤ人少年を何とか救いたい一心で学校に連れて来たのが神父さん。当時の社会情勢からすると体制に逆らう要注意人物と見なされ、自分自身も危険な目に合うことは承知で彼らを救おうとしていました。学内で開催されたチャプリンの映画鑑賞会で笑い声に包まれていたあの穏やかな瞬間を思い出すと胸が痛い。またボネとジュリアンが共演した息の合うジャズピアノもヨカッタなあ。息が合うと素敵なメロディが生まれ、息が合わないとナチスに寝返ったジョゼフみたいになってしまう? 違う人間同士が息を合わせ何かを生み出せれば、お互いの人生が輝くはず。


         

ゲシュタボ行動で不快だったのがレストランへの立ち入り。静かに食事をしているのに身分証明書を出せとか何とか・・うるせえ奴ら! ある紳士に証明書を提出させ、ココはユダヤ人禁止だとかツベコベ言うのが彼らの仕事。嫌がらせを好むタイプなのか、そんな不快な人間を相手にしなかったのがそのユダヤ人紳士。ボネもそうですが、ユダヤ人ってどちらかといえば無口なのかな。才能がありすぎて凡人相手にツマラン会話はできない? また体制に従うことを拒否する傾向も感じられ、体制側からすると排除したいのがユダヤ人?

 
この映画を観て強く感じたのがルイ・マル監督の誠実な心。戦争を知らない人だらけで構成されているピンボケ世界に真摯な映像をプレゼントしてくれたルイ・マルに感謝したい。若い頃はフランス映画を敬遠する(観ても理解できなかったのだろうと思う)ことが多く、ルイ・マル作品に触れるようになったのはごく最近のこと。バタバタ生活からジックリ生活に切り替えたことで、フランス映画の良さが少し分かるようになりました。この映画を観てほしい。この映画は観なければいけない。何としてもこの映画は観る必要がある! だってニセモノばかりの世界でこの映画はホンモノ(思い出すと涙が出る)だから。

* 監督 ルイ・マル    * 1988年(仏・西独)作品

* 出演 ガスパール・マネッス   ラファエル・フェジト


★ ジュリアンの愛読書は男女が絡む千夜一夜物語。


ダメージ

              

人間というものの深淵なテーマでしかも答えが出ない“罪と罰”が描かれていると感じた映画。政治家だった主人公スティーヴンはある女と出会い、マットウな社会人から堕ちていきます。しかし彼を誘惑した女は堕ちなかった。結果として彼が愛した女は大したことはなかったというのが正直な感想。しかし見かけのスティーヴンで終わるのではなく、ホントの自分を知るキッカケを与えてくれたのがこの女。

 
政治家として着実に自分の地位を確立していた矢先の彼は宿命のようにアンナという女性に出会い、神(悪魔?)に魅入られたような雰囲気で激しいセックスを重ねます。二人が出会って肉体関係に至るまでの時間はスゴク短く(ほとんど会ってすぐ)、二人の間に交される言葉はありません。目だけですべてを語り合っているような怪しい雰囲気!

 

会話のユーモアや互いの趣味などの話は一切なく、肉体だけが先行する異様でバトルのような二人の肉体関係。狂気のような激しさで肉体の合一を図ろうとする二人・・ 錆びて動かなかった運命の歯車が突如として回転し始めたような怖い空気を内包していました。 
               

運命的なナニカを秘めていたスティーヴンは、妻・息子・娘を持つ四人家族。もしアンナに出会わなければ出世もして社会から認められる男になっていたと思います。
でも神あるいは悪魔は彼を放っておくことはしなかった。アンナは15歳で兄を自殺で失うという辛い体験があり、その寂しさを癒すため男遍歴を繰り返してきた孤独に対応できないタイプかな。アンナが自分自身で解決できない孤独は、結局 彼女の周囲の人たちを巻き込み彼らの人生を転落に導くという破滅物語に向かっていきます。

 
そんなとんでもないトバッチリを受けたのがスティーヴンの妻イングリッド。そして自分の父親(スティーヴン)と自分の恋人(アンナ)のセックス・シーンを目撃してしまったマーティンは吹き抜けの階段の手すりから転落して死にます。運命の扉が開くとステキなことに出会うこともあるけれど、今回の扉は人生の転落。運命に操られるように自分の本能のままに動いたのが、権力志向だったはずのスティーヴン。
しかし実際の彼は権力より不確かな愛を求めていたようにも感じます。

          

そして彼のストレートな部分を見抜いていたのがアンナの母。マーティンとの結婚を控えてスティーヴンに身を引くように忠告し彼もその忠告を受け入れアンナと別れようとしていたのに、彼女の妖艶な誘惑に負けてしまうチョットかわいい男がスティーヴン。彼の真っ直ぐなキャラクターは政治家より芸術家に向いているのかも・・真っ直ぐ過ぎる性格でこの世を生き抜くことはちょっと難しい。自分に降りかかった運命に逆らわなかったスティーヴンの末路は侘しいものでした。 

 

「あなたと一緒にいたいからマーティンと結婚するのよ」という言葉を発したアンナ。この段階でスティーヴンはアンナの自己中を見抜かなければいけない。女の目から見てもアンナの性格は悪い! 男に愛を与えるどころか男を破滅させる方向に導くように感じます。悪魔(アンナ)に魅入られた人生は破滅するしかないということなのかな。

 

自分を支えてくれた家族に対して大きな罪を背負ったスティーヴンは日常世界から消えます。 マーティンにもらった写真を拡大して映画のように眺めていたスティーヴン。彼が何度もアンナに質問していたのがこの言葉“君は何者だ?” この答えを知りたいがために狂気の道を突き進んでいった男が選んだのは過去のすべてを捨て去ることでした。自分が犯した罪を償おうとしたスティーヴン、そして罪の意識もなく次の罪を重ねるアンナ。余韻を残す幕切れで映画は終わります。

* 監督 ルイ・マル      * 1992年 作品
* 出演 ジェレミー・アイアンズ    ジュリエット・ビノシュ

★ 1932年生まれのフランス人監督ルイ・マルは、若い頃はもちろん還暦を迎えてからも異彩を放つ映画を社会に突き付け世界の映画ファンに影響を与えました。

  

     YouTube - Damage US Trailer - Juliette Binoche 1993


五月のミル

                

コーヒーミルは煎ったコーヒー豆を粉末状にする道具で、五月のミルは水や木がないと生きていけないと言っている田舎志向のおじさんの名前。 ミルは毎日 家の周りをブラブラして蜂やザリガニなどと戯れている現実社会から浮いたような生活をしています。 このおじさんの仕事はありません。 いわゆる無職・・ ブルジョワ家庭に生まれたので、お金に不自由せず、この年(60歳前後ぐらい)まで遊びながら生きてきたような雰囲気が漂っています。 

仕事や社会の現実とは異なる世界に身を置き、特に女に興味を示す助兵衛オジサン。 孫もいて世間の目から見ればお爺さん年齢なのですが、仕事もせずに遊び続けてきた成果の結果 若々しい好奇心を維持していました。 ミルの言葉によると飛行機に乗ったこともなく、生まれてからずっと自分が住んでいる家の周りをうろついて遊んでいた様子。

1968年パリで起こった若者たちによる反体制運動を五月革命と呼び、その後 世界じゅうに吹き荒れた学生紛争の発端になった運動が時代の背景になっています。 そんな社会の変革期にあった五月革命とは何の接点もない生活をしているのがミル。 家の周りの自然環境すべてが興味の対象になっていて、都会生活者とは一線を画するタイプのよう。

ツール・ド・フランスに出場できそうな自転車を所有し、いつも自分の部屋に愛用の自転車を持ち帰るという優雅な生活をしています。 母親とお手伝いさんのアデルと一緒にのどかな毎日を送っていたミルは、母の死をきっかけに遺産相続という人間社会の現実に巻き込まれていきます。 一人っ子ならそんな心配はないけれど、彼には兄弟がいたので仕方なく分配話に付き合わされることになりました。

                   

ミルが住んでいた家は、白壁に絡まった蔦が美しい大きなお屋敷。 屋敷の周りは田園風景が広がりぶどう畑も所有し、庭にはサクランボの実がたわわに実り 絵に描いたような風景のなかで物語は展開していきます。 桃源郷を感じさせてくれる映像は、現実から逸脱したルイ・マルが感じている美的感覚なのかもしれません。 バックに流れる音楽は、ステファン・グラッペリが奏でるヴァイオリン・ジャズ。 争いが絶えない社会から遠いところに位置しているのがミルであり、ルイ・マルの分身的存在のような気がします。

愛用の自転車で蜂蜜採りやザリガニ捕りに興じているミルは、子供の心を維持したまま年を重ねたおじさん。 そんな彼と対照的に描かれていたのが彼の弟ジョルジュ・・ そして交通事故で死んだミルの姉の娘クレール。 ジョルジュはパリの変革運動に興味を示し、古美術商のクレールは高く売れそうな家財に興味を示します。 血はつながっている家族でも、大人になると方向性がこのように大きく変わっていくようです。

                  

急死した母親の遺体のそばで、繰り広げられる家財の点検・・ 金になるのならないのの話が遺体が横たわっている部屋のすぐ隣で行われています。 いつもは顔を合わせない親族一同が集まって話題にしているのは、お金の話と政治の話。 子供時代はお金に執着しないのに、どうして大人になるとお金に執着するようになるのか・・

五月革命の影響で食料品やガソリンが手に入らないという状況が続き、社会のストライキは葬儀屋にまで及び母親の葬式ができなくなるという異常事態に発展します。 しかし意外にも呑気なミルたち家族。 葬儀ができないのなら自分たちで母親の遺体を埋めようということになり、年がいっている使用人に穴掘りを任せてブルジョワ家族は 優雅な屋外ランチ・タイムを楽しんでいる様子。
                    

しかも男女関係が結構乱れて、みんなやりたい放題の家族です。 誰かが誰かに合わすようなことはなく、みんな勝手に好きな話をして好きなことをしているみたい・・ そんな好き勝手な調子がいい人々に対して非難する目ではなく、むしろ面白がっている目で見つめているのがルイ・マル監督の目線のような気がします。

屋敷を売りに出すという話もいつしか消えて、ミルと死んだ母親のダンスが最後のシーン。 若返った母と長男のミルは、ほとんど同年齢のような感じで軽快なリズムに合わせてステップを踏んでいます。 母親にとってミルは、他の多くの家族の中で一番 気に入っていた存在だったのかも・・ 家族全員を送り出した後 多くの調度品が片付けられ広くなった部屋で母と息子が踏むステップは、桃源郷を感じさせる夢の一瞬!

* 監督 ルイ・マル        * 1989年 作品
* 出演 ミシェル・ピコリ    ミュウ・ミュウ   ドミニク・ブラン

よつばのクローバー アチコチ行かなくてもミルみたいに楽しく毎日を過ごせるのは無職だったから・・

好奇心

           

“母子相姦” という言葉から感じる陰湿さを全く感じさせないママと14歳の少年との交わりで話題になった映画。 当時 上映禁止や映像カットの騒ぎになるなか、ルイ・マル監督自身が 「自分の体験だ」 などと おおっぴらに言うものだから社会に対して投げかけた波紋はますます広がる始末。

社会の常識に屈しなかったルイ・マルの熱い想いは、無事 日の目を見ることになりました。 1954年 フランスのディジョンという都市が舞台。 仏印戦争(こんな戦争があったの?)が時代の背景になってはいるものの、主人公の少年ローランは戦争とは全く関係がないジャズに身を置いて遊びほうけている秀才クン。

戦争で傷を負った兵士たちのために寄付を!という掛け声だけで、友人と寄付金集めをしているローラン。 レコード店で寄付を募るフリをしながら、好きなチャーリー・パーカーのレコードを拝借してしまうという 調子がいい放蕩息子の両親は経済的にも恵まれた生活をしていました。
     
父親の仕事は産婦人科医 母はセクシーな魅力に溢れた不倫をしている女性。 イタリア人のお手伝いさんもいて、三人兄弟の末っ子として育ったローランは、キレイな母親の愛撫が大好き! 学内の神父から懺悔を求められてもそのときだけ適当に懺悔したふりをして、実際のローランはその直後に煙草の煙を吐いている始末。 でもアッケラカンとしていてイイカンジ!
                   

彼の兄弟も含めてやりたい放題の若さは、規律や統制を大いに乱しています。 そんな息子たちの母親クララもまた、やりたい放題で好きな男と一緒に車でデート。 戦争で毎日 死者や負傷者が出ている社会にあって、ローランやママは好き勝手な毎日を送っていました。 とにかく優先させているのは、社会のことより自分がしたいこと。 カッコつけないローランの気性は、母親の因子が勝っているのかも。

チャーリー・パーカーのサックスがバックで流れ続けます。 サックスの音色が突出するチャーリーのジャズとローランの自由気ままな行動は、どこかで結びついているよう・・ 激しい女好きとやりたい放題の自由という点において・・ そしてついでにローランの母親もやりたい放題。 しかし何故か陰湿な空気が流れないのはフランス流? それとも ルイ・マル流?

陰湿さを感じさせない空気は、映画のなかで常識や規律を口にする人が誰もいないことが原因なのではないかと思います。 日本で特に多い 「勉強しなさい」 という言葉を発した人は誰もいませんでした。 親が子供を管理せず、子供の自由にさせていたことがこの爽やかさを生んでいるようなカンジ。 母親がデートで不在中、ローランはママのように化粧をして女を演じていました。
             

型にはまった息子を育てることだけに熱中している母親ではなくて、彼女は自分の感情に素直に好きな男と付き合っていました。 しつけや教育を重視する親の立場を放棄して、二人一緒に遊ぶという友人のような関係にあったのがローランと彼の母親クララ。 付き合っていた男と別れてショックを受けていたママを相手に慰めている息子ローラン。 どう考えても親と子の関係には見えない・・ むしろ恋人か友人のように感じられました。

そして最後に訪れた二人の親密な関係・・ 「これからどうなるの?」 とローラン。  「これだけよ。誰にも話さないのよ。私たちだけの秘密。後悔なんてしないのよ。懐かしく思い出すのよ。」 とクララ。 本の知識より経験を重視していたクララの考えが現実になって、秘密を共有することになった二人。 仲がヨカッタ母と息子は、あらゆる神話物語に象徴されているように秘密を共有することが多いのもまた事実。

* 監督 ルイ・マル       * 1971年 作品
* 出演 ブノワ・フェルー     レア・マッサリ

マル秘 ママの遺伝子をたくさん受け継いでいたのが三人兄弟の末っ子ローラン・・ だから否応なく惹かれ合ってしまったのかも。

プリティ・ベビー

     

1917年の合衆国ルイジアナ州ニューオーリンズの歓楽街が舞台になっています。 ルイジアナ州はかつてフランス領だったせいで、英語とフランス語が公用語に用いられ 民法はナポレオン法典が用いられるというアメリカ南部にあってフランスの香りが残されていた場所でした。 ニューオーリンズという土地でジャズが栄えた要因は、フランスの血が色濃く残されていたからではないかと思います。

ジャズの発祥場所が米国南部に位置するこの辺りで、軍港として栄えていたニューオーリンズにあったサロン風の高級売春宿で主にジャズが演奏されていた時代が背景になっています。 もちろん演奏者は奴隷としてアフリカから連れてこられた黒人で、娼婦と黒人が絡むジャズは、悪魔的で退廃的な音楽という風に社会から見られていた時期がありました。
     
ニューオーリンズジャズが刻むリズムは気だるさがあり、シャキッとする気分ではありません。 朝からベッドでグズグズしているような時に合うリズムで、人間関係が複雑に絡んだ、ややこしい仕事に取り組もうとする気分にはさせてくれません。 スペインなどで習慣化されているシエスタ(昼寝)に合うのがニューオーリンズジャズ。

                

そんな音楽を産み出したのがある面 売春宿というシステムでした。 ココで生活していた流れ者の女たちの一人ハティとその娘(12歳に設定)ヴァイオレットが主人公。 ヴァイオレットの父親は誰か分からず、またしてもハティは妊娠して出産する事態を迎えていました。 娘のヴァイオレットは同居する娼婦たちの動きを観察して、12歳の餓鬼であるにも関わらず 男を誘う眼と男に投げかける言葉と彼女のファッションは一人前の女・・ でもバストは平らなスリム系。 ロリコン好みの人は是非 このサロンへどうぞ!

お金持ちの男たちばかりが集まるサロンに、ある日一人のカメラマン(ベロック)が訪れました。 お金を払って写真を撮るだけで、女を買おうとしないベロックに興味を持ったのがヴァイオレット。 彼女の母親はすでに彼女を捨てて、馴染みの客と結婚生活を初めていました。 見様見真似で男と対峙して我がままブリを発揮しているハティの一人娘の姿はまだまだあどけない子供。 しかししだいにベロックも彼女の大胆さに惹かれていきます。

            

そしてヴァイオレットにプロポーズ・・ 快く承諾した彼女と大人の男との結婚生活は そんなに長く続くわけはありません。 娘と父親関係の二人が過ごした時間はまるでシエスタ。 同時に時代の波で、この辺りの売春宿が一掃されることになりました。 娼婦の移動も含めて黒人たちが演奏していたニューオーリンズジャズの活動拠点も移されることになります。

売春宿と結びついていた気だるい雰囲気が強かったジャズは、その後 場所を北部のシカゴに移して違った要素のジャズが演奏されるようになっていきます。 しかしジャズの生まれはニューオーリンズで、その時代に関わっていた娼婦や黒人が好んだのが、気だるい感じのサロン風室内楽でした。 “プリティ・ベビー” という映画は、過ぎ去って戻ることのない気だるい時間を巻き戻してゆったり楽しませてくれるシエスタのひと時でした。

* 監督 ルイ・マル       * 1978年
* 出演 キース・キャラダイン   スーザン・サランドン   ブルック・シールズ

リボン  1990年代のプリティ・シリーズとは何の関係もないこの映画は、女性のカラダはある年齢を境にこんなに変化してしまうということがスゴク分かる作品。

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