若者のすべて

            

アメリカでも南北戦争があったように、映画の舞台になっていた地中海に突き出たイタリアも経済的格差を生じさせる南北問題を抱えていました。 この映画に登場している一家の出身は、イタリア南部の貧しい農村に設定されています。 そんな南イタリアを故郷に持つ一家が貧しさから脱け出すため、北側に位置していたミラノを目指して故郷を後にした家族の物語が丹念に描かれています。

三時間の長編・・ 丹念すぎて観ていて幾分疲れてしまいました。 父親を亡くした五人兄弟のうちの長男を頼って、母とともにミラノに到着した四人の弟たちの世話をしなければいけない立場に立たされた長男。 しかしこの長男・・サッサと結婚して自分の妻と子の新たな生活をスタートさせます。 残された兄弟の結束は固く、みんなで力を合わせて現在の貧しい生活から抜け出そうと頑張ります。

“ロッコとその兄弟” という原題からも分かるように三男のロッコと二男のシモーネを中心に、その二人に関わる娼婦ナディアが重要な役割を果たしているように思います。 彼女も社会の底辺の仕事(娼婦)から脱け出すことができなかった女で、破滅型の人生に向かいます。 そんな彼女を愛したのがロッコとシモーネ。 でも果たして二人ともホントに彼女を愛していたのか疑問が残るところ・・  
                      

二人の兄弟(シモーネとロッコ)を相手にしたナディアは二人の男の間で揺れながら、最終的にシモーネに殺されます。 一方 ナディアを翻弄した兄弟は互いに憎しみ合いながらも兄弟愛が強い傾向にあり、観ていて納得しにくい点がたくさんありました。

そしてその一番納得できない人物が聖人風のロッコ。 アラン・ドロンが扮した一見 すべてを許して受け入れようとしている聖人のようなロッコにヴィスコンティ監督が託した想いは映画の最後に明らかにされます。 「許してはいけないこともある。 シモーネを許しすぎたことが不幸の原因だ。」 と言ったのが彼らの弟(四男)チーロ。 自分の二人の兄を冷静に見てきた結果の言葉だと思います。

チーロが言っていたように、シモーネと似たような人生の選択をしたロッコは ぶつかり憎しみながらもいつもシモーネや母のことを気にかけていました。 「人間のクズだ!」 とシモーネに言いながらもそんなクズを許してしまうロッコに垣間見えるのは、偽善者的要素。 ナディアに優しく接しながらも、イザとなれば肉親のほうを大切するロッコに魅力はありません。 シモーネに対する自己犠牲は観ていて気分が悪かった!

             

自分の人生なのに家族や兄弟のために犠牲を払うというロッコの精神は、どう考えても嘘っぽい。 犠牲的精神は一見 美しく感じますが、この映画から受けるロッコの家族愛はイヤ〜なカンジ。 口先だけでキレイゴトを言うな! とロッコに言いたい。 ナディアに救いの手を差し伸べながら 土壇場でその手を引っ込めるような善人を装った悪人は、根っからの悪人よりタチが悪いと思いました。

かなり気分が悪いこの映画の救いは、イタリア北部に拠点を置くアルファ・ロメオ社に就職した四男のチーロ。 家族を想う気持ちは大切だけれど その家族に縛られるような生き方を選んだシモーネとロッコには息がつまる・・ そしてこの二人以上に息がつまるのは、二人の対立を傍で扇動しておもしろがっていた若者たち。 名前がない扇動者に振り回されることなく楽しい自分の生き方を追求する人は、観ていて楽しいし重苦しさがないので納得できるのですが・・

* 監督 ルキノ・ヴィスコンティ      * 1960年 作品
* 出演 アラン・ドロン    レナート・サルヴァトーリ    アニー・ジラルド

ノーノー  ロッコがナディアと別れる時に言った 「シモーネを救えるのは君だけだ」 という発言はやはり偽善者の言葉であり、そう簡単に誰かが誰かを救えるとは思えません。

地獄に堕ちた勇者ども

          

舞台は1933年ドイツ・・ 第一次世界大戦で敗北国になったドイツが紆余曲折を経て しだいにヒトラーを首相に求める空気が高まっていた時代が背景になっています。 政治的強大さを持ちつつあったナチスとエッセンベック一族が経営する鉄鋼会社は、武器製造という面で互いに結び付いていました。 映画の初めと最後はオレンジ色の火花を散らす溶鉱炉内のシーンで、人間社会を象徴的に表しているような幕開けとさらに激しい火花が炸裂しているエンディング。

長い名前の人物がつらつら出てくるので、まず人間関係に戸惑ってしまいます。 例を挙げると鉄鋼会社を経営するエッセンベック一族・・ これらのブルジョア階級の人々と血族的なつながりはないフリードリッヒという鉄鋼会社の重役。 初めの段階で会社のトップだったヨアヒム・エッセンベックの息子が死んでいないという設定で、会社の継承権が誰に委ねられるかというのが エッセンベック一族の最大の関心事。 どこにでもよくある血族間の血みどろの争いというやつです。
               

会社のトップ(権力)を目指して邪魔者を消していくシステムに翻弄されている人々のなかで、浮いている人物がマルティンという長身の青年。 彼は祖父ヨアヒムの誕生日パーティの余興でマレーネ・ディートリッヒを真似て歌をうたいます。 “若い男に用はない 欲しいのは本当の男”  この青年がエッセンベッグ現社長ヨアヒムの直系の孫になっています。

父を幼くして失い母だけの手で育てられたマルティンは、母の愛情を激しく求めるマザコン・タイプ。 男が求める権力とは程遠いところにいる存在で、女としてまだ汚れていない少女に興味を示す傾向にありました。 そして彼の母親がソフィという野心家の女。 彼女は気が弱い会社の重役を務めていたフリードリッヒをけしかけてヨアヒムの殺害を決行します。 権力者の妻になるためにするべきことは、邪魔者を消すという単純作業。

子供の優しい母親というより権力志向の女性で、男の操り方がウマイ! そんな女性が産んだ子は社会のはみ出し者で、プレゼントを抱えて娼婦の家に入り浸りの毎日。 そこで出会った純粋無垢な少女リサと束の間の安らぎを得たマルティンだったけれど、ナチズムの嵐に飲み込まれてしまいます。 この世に彼が求める安らぎの場はなく、勝者と敗者の永遠に続く競争。 安らぎの世界とは対極の場にある競争の最前線にいたのが彼の母親ソフィ。

                       

母親を求めるマルティンの歪んだ愛情は憎悪に変わり、彼はついに母を犯します。 近親相姦後のソフィはまるで別人の女になったような雰囲気で、マルティンの子供時代を懐かしんでいました。 男をけしかけてトップを目指そうとしていた彼女の姿はもうそこになく、虚脱感が漂う廃人のようになっていました。 そのような方向に導いた息子マルティンはというと、ナント!ナチスに入党して幹部のような立場にいました。

登場人物は他にエッセンベックの甥(コンスタンチン)やその息子(ギュンター)さらに姪夫婦などが関わっていますが、一番強烈な印象を与えられたのが似ている親子なのか全く相反する親子なのか理解に苦しむソフィとマルティン。 そしてもう一人エッセンベック一族の遠縁だというアッシェンバッハは曲者。 影で彼ら一族を操り、あらゆる人物の背中を押し続けエッセンベック一族を崩壊に導いた悪魔的存在です。

                

そのアッシェンバッハがこんな言葉を残しています。 「権力には必ずそれに対抗する権力を用意すること。 それが政治の基本です。」 ナチスの親衛隊将校だったアッシェンバッハの精神はドイツという国だけにとどまらず、あらゆる時代あらゆる国で生き続け 戦争という罪が問われない殺人を繰り返しています。

安らぎの場を母親の深い愛情に求めていたマルティンは、最終的にアッシェンバッハと同類になってしまいます。 出口が見えないこの世で自由な生活をするには、権力を手にすることしかないということなのでしょうか。 ヴィスコンティが描いたこの映画に救いを見いだすことはできません。 気が滅入りそうな重苦しい無力な気分のまま、火花が飛び散るシーンで映画は終了します。

* 監督 ルキノ・ヴィスコンティ      * 1969年 作品
* 出演 ダーク・ボガード   イングリッド・チューリン   ヘルムート・グリーム

雷 ソフィの最後の変身は哀れではあるけれど、表情は落ち着いた安らぎに似たものを感じました。

夏の嵐

          

1866年 イタリアはオーストリア軍によって北部を占領され、オーストリア兵士がヴェニスに駐留しているという時代背景の設定がなされています。 イタリアの裕福な伯爵夫人(リヴィア)がオペラ鑑賞をしている場面がオープニング。 オペラ劇場の内部装飾の華やかさと一致してオペラ鑑賞をしている富裕層の人々にとって、イタリアが一部占領された状況にあっても関係なくオペラを楽しんでいます。

そんな豪華絢爛な世界でリヴィアは、敵国である白い軍服を着たオーストリア軍将校(フランク)と出会いました。 女たらし系のフランクは、口がうまくリヴィアの女心を弄んでいます。 初めは自分の心を制御しイタリアへの愛国心を口にしていたリヴィアだったけれど、しだいに男独特のワル加減の魅力にはまっていきます。 女の一途な愛をますます翻弄するフランクの過去は語られていませんが、 「女は愛さない」 という気になる発言がありました。

                 

リヴィアを翻弄し女心をトコトン乱しているフランクに対して感じたことは、裕福さへの反発と同時に女が言う愛情を徹底して信じないという幾分歪んだものでした。 外見はただの女たらしだけれど、自分が携わっている戦争というものに対する嫌悪も抱いていたように感じます。 ウワベの自分だけではなく悪の部分もすべて含んだ自分を真に愛してくれる誰かを求めていたのはないか・・ こういう男はやりにくい!  ママのお腹に帰りなさいと言いたくなります。

原題は “Senso(官能)” ・・官能を刺激するという言葉があるように、その人独自の本能に近い感覚が官能という言葉に込められているように思います。 自制心を取っ払って表面化する現象が官能とするなら、フランクはリヴィアの官能を呼び覚ましたということに・・ 彼女を傷つけ乱し、いたぶり続けたフランクの最後は惨めなものでした。

                 

健全な明るい世界で求める愛情なら、最後は悲劇になることはないと思います。 そういう面においてフランクは闇世界の人間・・ 人を信じることができないあるいは信じようとしないフランクは、自分を心配して来てくれたリヴィアに暴言を吐いて自らを追い込んでいくことになります。 「君が見ているのは僕じゃない・・ 僕の幻影を見ているだけだ。」 自分が幸せになろうと思わない限り、幸せが向こうからやってくることはない。 腐った人生に明るい陽射しを呼び込むには、自分自身が腐った存在にならないことだと思います。

自分はリヴィアに買われた男だと言って自ら落ちぶれていったフランクの意図的な言葉の暴力は、余りに痛ましいし気分が悪い。 その一方でリヴィアの召使いだった女は、忠実に彼女の立場に気を配り いつもリヴィアを守ろうとする存在でした。 フランクの歪んだ精神は、周りの人を不幸にする自虐性が含まれていたように思います。

* 監督 ルキノ・ヴィスコンティ      * 1954年 作品
* 出演 アリダ・ヴァリ    ファーリー・グレンジャー

怒り ヴィスコンティ監督はミラノの名門ヴィスコンティ家の伯爵。

郵便配達は二度ベルを鳴らす

第二次世界大戦中の1942年、この映画で監督デビューを果たしたヴィスコンティは当時36歳。

ヴィスコンティがこの映画につけたタイトルは、 “妄執(ossessione)”。
しかし原作は、米国出身のジェームズ・M・ケインが書いた 『郵便配達は二度ベルを鳴らす』 というタイトルでした。

その原作者の了解を得ずにヴィスコンティが映画化したので、日本でも長い間 日の目を見ることなく時間が流れ 映画制作から37年後の1979年になって日本で公開されました。 そういうわけでこの映画を中心に考えると、監督が自分の処女作に命名した名前は “妄執” あるいは “執念” というような意味がふさわしいのではないかと思います。 しかし もしこの映画が妄執というタイトルだったら、こんなに人の話題にはなっていなかったのではないか。

物語の男と女は出会ってすぐに目だけで互いに感じ合っています。 その後もこの二人・・ メクバセで何かを伝えるようなことが多く、言葉では伝わらない二人の世界を築こうとしていました。 男(ジーノ)は自分の居場所が定まらず放浪生活を続けていて たまたま立ち寄った飲み屋で目が合ったのがその店の主人の妻ジョヴァンナ。 彼女は旦那が家政婦のようにしか扱ってくれないことに不満を抱いていました。 しかし貧しさを体験していた彼女は、暴力的な夫のもとでも安定があったので我慢できていました。

二人は惹かれ合いながらも一度は別れます。 男は自由な生活 女は安定した生活を求めていたので進むべき方向性が異なっていました。 ジョヴァンナは飛び出しかけたイヤな夫との生活に戻り、ジーノはお金もなく列車に乗ります。 そんな無一文のジーノを助けたのが同じ列車に乗り合わせていた自称芸術家のスペイン系男。 彼は何かとジーノのことを気にかけていました。
  しかし偶然なのか必然なのか、
  別れたジョヴァンナとジーノはある街で再会。
  ジョヴァンナの夫がオペラ・コンテストに参加するために
  訪れていた街で、傘売りを手伝っていたのがジーノ。
  椿姫を歌っていたジョヴァンナの夫はいい声でした。
  そして変わらない想いを確認した二人は、
  目で合図してある行動を選択します。
    二人の変わらない情熱を成就させるための選択は、邪魔者の夫を消すこと。

愛を成就させようとした二人はしだいに破滅への一途をたどり始めます。 女は将来の安定のため 夫が残した店でパーティを開いてお金を稼ごうとするのですが、そんな毎日に耐えられないのがジーノ。 夫の保険金が入るというときにも彼は怒りを爆発させていました。  愛する人と生活するため働いてお金を稼ぐことと愛する人の愛情を求めることは、現実世界ではウマク折り合いがつかないように思います。

そんな中でもがきながらも何とか再出発しようとしていた二人に訪れた悲劇。 かつて車の転落でジョヴァンナの夫を見殺しにしたジーノは、一度ならず二度までも車の転落事故を起こしてしまいました。 この事故で死んだのは、自分の子を身籠っていたジョヴァンナ。 二人が大喧嘩をした時も愛していたジーノを信じて待ち続けたジョヴァンナでした。

では警察にジーノの罪を密告した奴は誰なのか・・ かつて自分を助けてくれたことがあったスペイン系の男。 彼もまたジーノのことが好きだったみたいで、人間の心の奥は複雑です。 男や女にもてるジーノは、この世でお金を稼ぐことを一番に考えないで 目に見えない愛情を何とか手に入れようとしていた男らしくない男だったように思います。

* 監督 ルキノ・ヴィスコンティ      * 1942年 作品
* 出演 クララ・カラマイ    マッシオ・ジロッティ    ジュアン・デ・ランダ

リサイクル ジーノが運転していた車は二度事故を起こし二人の人間を殺してしまったので、ジーノには罪を償う時間が必要です。

ベニスに死す

     

「努力によって美が創れると信じているのか? それ(美)は自然に発生するもので努力とは関係ない。」 オーストリアの作曲家グスタフ・マーラーをモデルにした主人公アッシェンバッハが、芸術家と称される友人に凡人であることを揶揄されるシーンが 映画のなかで何度かくり返されます。

『私は思うのだが人間の本当に生きている生命感が目の前に現れてくれば、それは決してほほえましいものであろうはずがない。むしろイヤな感じに違いない。』  これは爆発する芸術家 岡本太郎の言葉です。

イヤな感じ・・映画のなかのアッシェンバッハという名の老いを漂わせる人物にも イヤな感じが随所に感じられました。 美少年タジオに見とれ、一言も言葉を交わすことなく目で彼を追い続けているとても幸せそうな男に 美が創造できるとは信じがたい気分にさせられます。 あえて俗っぽく表現するなら、いい年したおっさんが清楚で純潔を守っているような少年をつけ回して ストーカー行為に及んでいるような雰囲気です。

映画の時代は1911年で、第一次世界大戦の三年前に設定されています。 療養のためベニスを訪れた音楽家は、過ぎ去った自分の若い日々そして美しい妻の面影を 追い求めるようにしてこの地に降り立ちました。 そして出会ったのが、音楽家にとっては美の化身のような存在のタジオ。

白い背広を着て白い帽子をかぶった正装で、
浜辺のタジオを熱い眼差しで追い求めます。
タジオの水着ファッションも現代とは全く違って優雅で素敵!
またタジオが着ていた水兵さんのセーラー服も、
通常は目にすることがなく よく似合っていました。
映画のなかで表現されたタジオ一家(ポーランド貴族)の
ファッションは、世界が戦争に向けて動き出す前の
ささやかな安らぎタイムのような気がします。
            
「君は老人だ。老人ほど不純なものはない。」 映画のなかで音楽家が友人から投げかけられた言葉。 しかしストーリーの展開にともなって ひたすらタジオを追い求める惨めなまでのアッシェンバッハの化粧や目線こそ、美しさそのものではないのかという想いがしだいに湧き上がってきます。

情けないまでの惨めさが美につながる道なのかもしれないという気持ちに変化してきたのはこの映画の最後。 アッシェンバッハが自分の死を意識しているせいなのか、他人の視線を全く意識することなく 彼の目はタジオのどんな小さな動きも見逃さずに美の化身を追いかけました。
          
ペストが蔓延して誰もいなくなった浜辺で一人の男が死にました。 死の直前 彼の頭のなかは、自分に向けて振り向いてくれたタジオの姿が焼きつけられていました。 
美しさは狂気を含む感覚で創り上げられる芸術家だけのものではなく、努力によって創ることができるかもしれないということを一人の音楽家が教えてくれたように思います。

* 監督 ルキノ・ヴィスコンティ   原作 トーマス・マン    * 1971年 作品
* 出演 ダーク・ボガード     ビヨルン・アンドレセン

本 当時15歳だった美少年・タジオ(ビヨルン・アンドレセン)の美しさは長く続くものではなく、いつの時代も美の存続は難しそうです。

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