デカローグ 第十話

            

微妙に絡み合うように構成されている連作映画(一話ずつ完結)の最後(ある希望に関する物語)の冒頭はガンガンのハード・ロックが響く舞台。♪殺せ殺せ姦通しろ、姦通して欲情しろ♪という過激な詞を叫んでいるのが映画の主役となる弟アルトゥル。今までのイメージを覆して始まるこの映画のテーマも揃うと価値が出る貴重な連作切手。デカローグの鑑賞の仕方も一話ずつ観るだけでは何かが足りなさそうで、連作であることを観る者に意識させるように仕組まれているのかも。初見は取りあえずストーリーを追うだけで精一杯・・しかし何度か観ることで監督が意図したナニカを発見できるのかもしれません。

 
切手コレクターだった父が亡くなり、久しぶりに出会ったのが兄イェジと弟アルトゥル。切手に詳しくなかった彼らは当初、切手を売って父の借金返済に充てようと考えていました。高価な切手が保管されていた父の部屋は部外者が侵入できないよう厳重な南京錠とアラームがセットされ、窓の開閉もできない始末。厳重警備が施された部屋で孤独な生活をしていた彼らのオヤジさんは切手仲間の間では注目される特殊人物だったよう。亡くなった父の部屋に足を踏み入れた息子(兄弟)は生前とは全く違う別の父を知ることに・・ そして、いつの間にか彼らまでもが切手の魅力にはまっていきます。
              

切手ワールドにドップリはまり込んだ二人は切手のことが頭から離れなくなったような感じで、夜もオヤジさんの家に足を運ぶようになっていました。どの切手がいくらぐらいするか・・という売買に関する知識も身に付け、童心に返ったように切手のコレクションに夢中になっていく二人。家族持ちだったイェジは奥さんも子供もホッタラカシで、切手が持つ魔物に引き込まれていきます。そんな折、メルクリウスという連作切手の一枚が欠けていることを知り奔走する二人。オヤジさんの血は間違いなく息子に受け継がれ、無関心だった切手にますますのめり込んでいく会社員とロック・シンガー。


切手一枚で車が買えたり、連作切手で家が買えるぐらいの特殊な切手保持者は当然狙われやすく、
その落ちが最後に示されます。十戒の “あなたは隣人の家をむさぼってはならない” という戒めの言葉の中の隣人を切手仲間とすると、その隣人にトコトンむさぼられてしまうのが父の遺志を継ごうとした二人の息子。ある希望に関する物語の希望とはすべてを失い一から出直すことかな。切手に執着するあまり互いに懐疑心を抱いていた兄弟でしたが、スッテンテンになった二人は何もない共通点で笑いこけていました。何かを守ろうとすると防御エネルギーが必要・・ しかし何もないと笑える?

               

第八話でソフィア教授にコレクションの切手が揃ったと喜んで見せていた老人が彼らのオヤジさんでしょうね。1931年ドイツ発行のツェッペリン(飛行船)という連作切手が第八話で紹介され、レッド・ツェッペリン(ロックバンド)に反応して記憶に残っていました。知る人ぞ知るの趣味の切手ですが、所有欲をかきたてるナニカがありそうに感じます。所有欲を満たしてくれる趣味はやはりお金が必要で、お金がないと何も買えない。しかしこの映画では交換という形で売買が成立しています。その交換したものがイェジの腎臓と一枚の切手・・ やはり笑うしかない?

 
繊細な音楽とともに話が展開するデカローグですが、最後に至ってバックに流れるのがオール・スラングのロックと太鼓の音。激しいロックの叫びと心臓がパクパクする雰囲気の太鼓の響きは太古の人間を呼び覚ましているように感じます。キェシロフスキ監督がデカローグの最後に示したかったのは何なのか。ある希望という言葉をヒントにして考えると、何もない部屋なら盗まれる心配をしなくてもいい。心配のない毎日なら日々平穏・・ しかし平穏さだけでは満足できない人もいるしネ。映画の中で兄弟が言ってたように、無心になって遊んでいた子供時代の感覚を取り戻すことができれば老後の希望につながる? いろいろ心配しながら老後を生きるのはイヤだ!

* 監督 クシシュトフ・キェシロフスキ    * 1988年 作品

* 出演 ズビグニエウ・ザマホフスキ   イェジ・スツール


★ 金庫番のため弟が飼い始めた黒い犬は全くの役立たずでした。


デカローグ 第九話

            

心臓外科医としての仕事はこなせても、男としての欠陥にショックを受けるロメクが冒頭で紹介されます。大学の同級生だった友人(医師)は彼に治る見込みのない性的不能を宣告し、“妻とは別れろ!”とアトバイス。しかしそう簡単に別れることもできず、ウジウジしている可哀そ〜なロメク。打ち明けられた妻ハンカもセックスだけが夫婦ではないとか言いながら、平気で若い男に抱かれています。こんな夫婦ならサッサと別れた方がいいのでは・・と思ってしまいますが、それでは映画が成り立たない。成り立たすには夫婦の間に懐疑心や嫉妬心が必要となり、ネチネチした夫婦が誕生することに・・ 第九話『ある孤独に関する物語』で孤独な夫婦に設定されたのが肉体の一致を求めながら叶うことのないロメクとハンカ。

 
“トリコロール/白の愛”でも性的不能の夫が登場しています。妻(フランス人)の主張で一方的に離婚を突き付けられ深い傷を負った夫(ポーランド人)が最後に妻に突き付けたのは自分が過去に味わった痛み。やられたらやり返すというバトル精神は異国人同士の結婚に起こり得るようで、その点デカローグの夫婦は同じポーランド人なのでバトル要素はまるでありません。その結果、似た者同士のネチネチしたムードは避けられず、精神的つながりを求めるハンカに対し引け目を感じているのがロメク。その一方で、肉体を満足させてくれない夫に苛立ちを抱えている感じのハンカ。バトルには至らない分、淀んだ空気が感じられるのですが・・

           

その淀みの原因と考えられるのが若い男に抱かれつつ旦那とは別れないとキレイゴトを言っているハンカ。もちろん彼女も悩んではいるだろうけれど、自分の肉体を満足させるためのコソコソ電話などを考えるとやってることはその辺の浮気妻と何ら変わらない。やはり精神的苦悩を感じているのはロメクの方で、ハンカはその場を取り繕っているぐらいにしか見えない。キェシロスキ監督の映画にしてはかなり俗っぽい浮気話がテーマになっていますが、その反動で心に刻まれるのがロメクの患者でソプラノ歌手を目痣していた若い女性の存在。

 
一般の女性ではなかなか出せない高音域のソプラノ歌手を続けるには心臓の外科手術が必要らしく、彼女はその手術に不安を抱いていました。手術を受け持つ立場にあったロメクは彼女とその手術に関する話をした直後、ヴァン・デン・ブッデンマイヤー(監督が創作した作曲家)のレコードを購入。家で心地良く聴いている最中にけたたましく鳴り響くのが電話のベル。この映画の主役は黒い電話(鳴ってなくても頻繁に出てくる)といってもいいぐらいに、ハンカは電話でコトを済ませています。ある面、ハンカを象徴するのが電話のような感じ・・ そしてその電話を盗聴するのがロメク。どう考えても仮面夫婦にしか見えないなあ。


           

1991年製作の映画“ふたりのベロニカ”が生み出されることになる下地はこの映画?
ヴァン・デン・ブッデンマイヤーが作曲した美しい旋律の曲は限られた女性にしか歌えない難しい曲でした。その難しい曲を歌うよう勧めていたのがロメクで、彼女は歌うことより生きることを望んでいました。男と女の生き方の差が感じられるような気がします。そこで美しく生きたいロメクが選択するのが人生のジャンプ。彼が絶望の淵に至った時、そしてジャンプが失敗に終わった時など常に彼のそばにいたのがモノ言わぬある人物。しかしハンカには近付こうとはしていない。真の孤独を知っていたのはやはりロメクかな。

 
十戒の言葉が “あなたは他人の妻を取ってはならない” というもので、夫婦はもともと他人同士。他人である男女が夫婦になる道は信頼以外にはないはずで、最終場面から想像するとジャンプしたロメクはやっと妻を信じることができるようになったのかも。ハンカも以前の自分を捨て、新たな自分に生まれ変わろうとしていました。孤独な夫婦であったが故、互いに悶々とした悩みを抱え、その壁を壊す努力をしていたように感じます。それにしてもキェシロフシキ監督の手にかかると、浮気妻までが神聖な空気に包まれてしまうのが不思議。


* 監督 クシシュトフ・キェシロフスキ   * 1988年 作品

* 出演 エヴァ・ブウァシュチェク   ピョートル・マハリツァ


★ 変な自転車でロメクに付きまとっていたあの人物は荷物を肩に背負わない?


デカローグ 第八話

           

ユダヤ人迫害をテーマに救う側(現実は裏切り行為)の人物ソフィアと救われる側のユダヤ人少女エルジュビエタの長きにわたる苦悩を描いた映画。この両者(救う救われる関係)が隣人関係に当てはまるような話の構成で、キリスト教の隣人に関する教えは“あなたの隣人を自分のように愛せ!”。一方、十戒では“あなたは隣人について偽証してはならない”という戒めで、その戒めに従い偽のキリスト教洗礼の後見人になることを拒否したのがソフィア夫妻。隣人とは単に自分の近くにいる人を意味するのではなく、救い救われることが決定付けられた親密で危険な関係を表現しているように思います。

当時6歳だった少女の命を救うことを目的に画策されたのが見かけだけの洗礼で、最終的に夜の外出禁止命令が出されていた危険な街中に幼い少女は放り出されることになります。それから40年の歳月を経てソフィアは大学の倫理学(哲学)教授となり教壇で命の大切さを語り、その講義を聴講していたのが危険と背中合わせの恐怖を体験したエルジュビエタ。彼女は現在、ソフィアが執筆した本を翻訳する仕事に就いていました。初めは自分を救おうとしてくれていたソフィアが土壇場で裏切り行為に走った意味が理解できず、そのソフィアの考えを知りたいがためにエルジュビエタは翻訳という仕事を選んだように思います。

            

ソフィア(sophia)あるいはソフィー(sophie)という言葉は知・智を意味するギリシア語で、一般に哲学と訳されているギリシア語の“philosophia”を直訳すると知・智を愛する(philos)ということになります。ソフィーの選択という自己探求の本が一時期話題になっていましたが、人間の内部に存在する女性要素(ソフィア)を愛することが哲学という学問の本質なのかも。そんなソフィアと幼い時に関わったのがエルジュビエタというユダヤ人女性で、彼女は長い時間をかけてソフィアという女性を研究していたのかもしれません。

 
聴講生としてソフィアの講義に耳を傾けていたエルジュビエタはソフィアの“子供の命が最重要”という一言に反応します。40年前のある晩、子供の命より自分の命を優先させたのがソフィア。人間である限り他者より自分を優先させることは当然だと考えるエルジュビエタですが、子供を捨てた人物が子供の命が最重要と言うことには納得できなかった? ソフィアの裏切りで死の淵を彷徨うことになった幼い少女は何とか生き延びてはいたものの、過去の辛いこだわりは長く尾を引いていました。そしてソフィアはエルジュビエタに言います。「どんな理想や思想・・何よりも子供の命の方が大切だ。」 ナチとユダヤ人の間には何やら怪しい地下組織が関与していたようで、その組織(心の奥に潜むささやき?)に従ったのがソフィアでした。


            

最後にほんの少しだけ登場する仕立屋職人の会話もユニークで好感が持てました。
危険を承知でエルジュビエタを匿うことを了解していたのがこの仕立屋さんで、戦時中の話も戦後に起こったことも、さらには今の話もしたくないというのがこの仕立屋オヤジ。エルジュビエタが当時のお礼を言いたいと打ち明けても、その話を無視して服の話ばかり。しかし19432月自分は6歳だったというエルジュビエタに対し、自分は22歳だったと遠くを見つめながら交した一瞬の会話が心に残ります。そんな彼の目はとてもキレイだった。

またソフィアが早朝のランニング途中に出会った柔軟な身体の若者も印象的。どのような意味を持たせているのかは理解しにくいですが、しなやかな人間の身体は美しいと感じました。キェシロフスキ監督が投げかけた今回のテーマは一番深いのではないかと感じる人と人の間に存在する裏切りと赦し。その点では浮いた存在が仕立屋さんと手と足が逆転している若者で、ソフィアの周囲にはユニークなタイプの人が多いように感じました。知や智を意味するソフィアは脳の中だけに存在するのではないというのが監督からのメッセージかな。


* 監督 クシシュトフ・キェシロフスキ   * 1988年 作品

* 出演 マリア・コシャルスカ   テレサ・マシェスカ


★ ポーランド語の“タク(tak)”が何度も繰り返されていました。タク!


デカローグ 第七話

           

母エヴァと娘マイカの長年にわたる確執を描いた映画。大人の女性(エヴァとマイカ)の間で板挟みになるのがエヴァの孫でありマイカの娘であるアンカ。冒頭で紹介されるのが怖い夢にうなされ大声を上げる6歳のアンカで、泣き叫ぶ娘をなだめようとするマイカに対し茶々を入れアンカを取り上げるのがエヴァ。アンカはマイカが16歳の時に産んだ子で、未熟なマイカに子育ては無理だろうというエヴァの勝手な判断がその後のねじれ(エヴァとマイカの対立)を生じさせていました。

 
アンカの実の母親はマイカですが、戸籍上では祖母になるエヴァがアンカの母になっていました。そうなると結果的にマイカはアンカの姉でしかなく、幼いアンカを支えることができるのはエヴァしかいない。そういう方向に持って行こうとしているのが家族の大黒柱になりたそうなエヴァで、彼女の夫ステファン(マイカの父)に出る幕を与えようとはしない。家族間ですべてを仕切りたいのがエヴァかな。彼女はかつて学校の校長でもあった女性で、生徒だったマイカとその学校の教師だったヴォイテクの間に生まれたのがアンカでした。アンカ誕生に際し、娘の気持ちより自分の気持ちを優先させ采配を振るったのがアンカの祖母となるエヴァ。

          

エヴァの生き甲斐らしきものが子育てのようで、その目的は自分の思う通りに我が子を完成させたい趣味的嗜好が伝わってきます。幼い頃なら子は親の言いなりになりますが、そういつまでも人形を演じるわけにはいかないと感じ出すのが自我の芽生え始める思春期の頃。マイカも親の期待に応えるべく人形を演じていたようですが、マイカの妊娠を機に母と娘の間に大きな亀裂が生じます。親の言うことをきかない子はいらないというのがエヴァの考え方のようで、そんな母親をますます嫌うのがマイカ。

 
副題“ある告白に関する物語”の十戒に対応する言葉が『あなたは盗みをしてはならない』。ある告白(あなたのホントのママは私よ!)をするのがマイカで告白されるのが6歳のアンカ。エヴァの元からアンカを連れ出しヴォイテクの元に身を寄せていたマイカですが、その状況を受け容れたくないのがアンカ? ヴォイテクの家に連れて行かれたアンカは熊のぬいぐるみの中で眠ってばかり。幼いなりにマイカの異様さに気付いているようで、マイカをママとは認めたくないのかも。我が子を安心させるのが親の務めとするなら、我が子を混乱させているのがマイカ。確かにマイカの腕の中では安心して眠れそうにない。


          

“あなたは盗みをしてはいけない”という戒めを破り、娘の子を自分の子にしてしまったのがエヴァ。彼女が必要としているのは自分に素直に従う子。初めはマイカにその勝手な夢を託そうとしていたようで、子供を支配下に置きたいだけかも。そんな母に敵対し我が子を取り戻そうとするマイカですが、当然仕切り上手なエヴァにかなうはずはない。二人の間に挟まれたアンカの心情を察すると、早く大きくなってこの窮屈な家から出た〜い気分? 男を寄せ付けず我が子をコントールする母重視の女世界は息がつまりそう。この場から逃げ出したくなる男の気持ちが何となく分かる感じ。

         
ラストは母親の干渉から逃れるため始発電車を待つアンカを抱いたマイカと娘を追いかけて来たエヴァとステファンが織り成す早朝の駅が舞台になっています。最終的にエヴァを選んだアンカ。そして一人、始発電車に乗るマイカ。“すべてから逃げている”と自ら言っていたマイカはその言葉通り、過去のすべてを捨て新たな一歩を踏み出すことに・・ 過去のすべてから逃げ出すということは人生の敗者のようにも感じますが、誰しも怖くてできないのが過去を捨てること。一方、自分が考えていた通りにマイカだけが離れアンカは自分の元に戻ってくるという好都合の展開になったエヴァ。結果的に弾かれることになったマイカを父ステファンはどのような気持ちで見送ったのか。


* 監督 クシシュトフ・キェシロフスキ   * 1988年 作品

* 出演 アンナ・ポロニー   マヤ・バレルコスカ


★ 子育てが生き甲斐になってしまう母に育てられた子は苦しく感じるのでは・・


デカローグ 第六話

              

少年っぽい幼さを残した19歳の青年トメクの夜の楽しみは向かいマンションの一室に住む大人の女性マグダを覗き見すること。成長期における好奇心がそのような行動に走らせるのか、彼のエネルギーは女の覗きに集中しています。覗かれている方のマグダも状況的には覗かれても仕方のない環境(全面開放の窓)で、覗かれるかもしれないことを承知しつつ自分をさらけ出しているように感じます。覗きたいのなら覗けば・・という態度で夜な夜な違う男を相手に愛とは何の接点もない世界にのめり込んでいるマグダ。マグダラのマリアを連想してしまうような名前の彼女の私生活は娼婦的で開放的。そんな彼女の虜になってしまったのが両親の愛情を知らずに育ったトメクでした。

         
マグダの反応を知りたいがため、無言電話をかけたり偽造した為替を郵便受けに入れるトメク。郵便局に勤めていた彼は職務を利用し、やりたい放題の悪戯で彼女を振り回します。その本音は彼女にもっと近付きたいというトメクの愛情表現の一つだったのかもしれないけれど、彼より遥かに年上で人生経験も豊富だったはずのマグダは結果として彼の感情を踏みにじることに・・ 何も知らない相手(マグダ)に突如“愛してる”という言葉を投げかけたトメク。彼にとっての愛はその対象物を覗き見すること? 当然苛立ったマグダは彼を挑発し、彼が抱いていた幻想のような愛を粉砕!

今までの体験上この世に愛が存在するとは思っていないのがマグダだったのかも。

              

“あなたは姦淫してはならない”というのが十戒の言葉で、その戒律をベースに映像化されたのが『ある愛に関する物語』というこの映画。広辞苑には不正な男女の交わりが姦淫だと説明されていました。どういう場合が姦淫となるのかヨウワカラン説明ですが、少なくとも法律上の夫婦間に姦淫が存在することはない。世の中には感情のもつれで殺人事件にまで発展してしまう男女の姦淫もあり、“命懸けで愛したのに・・”という加害者の言葉を耳にすることがあります。財産などが関与しない姦淫関係にある男女が試されるのが愛?

                 
純粋にマグダのことを好きになったトメクですが、それは多分愛ではない。音楽や映画が好きという程度の趣味で彼はマグダを覗き見していたのでは・・ マグダに受け入れられたトメクの純粋な歓びは感じますが、その後のマグダのキツ〜イ反応で彼は手首を切って自殺を図ります。純粋さが試される瞬間だとは思うけれど、愛はそんな軟弱なものではないと思う。傷つけたり傷つけられたり・・が当たり前の愛の世界で、愛を持続させることは並大抵ではないはず。その点において自殺を図ろうとしたトメクは愛から脱落しています。


              

一方、トメクの心を傷つけた自責の念に苦しむのがマグダ。トメクの痛みを自分の痛みとして感じる彼女の感情の変化こそ愛? 取り返しのつかないことを言ってしまったマグダの高飛車な態度は急変し、反対に自分の部屋からトメクを覗き見する始末。
彼の安否を気遣う彼女は奔放な女性から優しいお姉さんに変身していました。互いに影響力を与え合っているようなトメクとマグダ。愛が持つ本質の一つと考えられるのが人から人に伝わる影響力?

 
ラストは元気になったトメクを見て嬉しそうな表情を示すマグダとブッキラボーにトメクが言い放った「もう覗かないよ」という言葉。愛の夢から覚めたトメクの前にマグダが現れても嬉しそうな表情を示さなかったのは気になるけれど、まだまだ若いトメク(とてもイイ声)。現実を教えてくれたマグダと健全な交際をするのか、現実を知ったことでマグダと別れようとするのかはすべて神の計らい。孤独な二人が知った愛の片鱗を発展させることができれば年齢差を超えて夫婦になれるかもしれない。
しかし映像が示す限りではトメクの情熱は冷めていたので無理かも。


* 監督 クシシュトフ・キェシロフスキ    * 1988年 作品

* 出演 グラジナ・シャポフォスカ   オラフ・ルバシェンク


★ 壊れやすい人の心はホントの愛に触れることで強くなれると思う。


デカローグ 第五話

          


動機が明確にされない個人的殺人とその殺人を犯した罰として法の下で裁かれる殺人(死刑執行)を扱った映画。
前半は殺人を犯すことになる青年(ヤツェク)と新米弁護士(ピョートル)がそれぞれ交互に描写され、後半で加害者(殺人者)と弁護士という形で出会います。冒頭、ピョートルの考え方として示されていたのが犯罪抑止力効果につながることを疑問視する国の死刑制度。日本でも自分が死刑になることを求め敢えて無差別殺人を犯す場合もあったりするので、死刑制度が凶悪犯罪を軽減させる方向に向かわせるとは思えない。


キェシロフスキ監督が投げかけた社会における殺人という罪。
しかし戦争という名の殺し合いの場なら英雄視されてしまうのが母国のために闘う軍人で、多くの矛盾を含む殺人というテーマに答えを見い出すことはできない。人間が歩んできた長い歴史の中でイサカイのない時期はなかったようで、ぶつかり合うことが生きること? 
どっちみちみんな平等に死ぬんだからイサカイの時間はもったいないと思うんだけれど、人は過去も現在もぶつかっています。

             


映像は監督の意図的手法(緑のフィルターを装着)で次元の違う異空間が示されていて、
人と人が織り成す映画というより誰かの脳内を映像表現したように感じます。
ヤツェクに殺されるのがタクシー運転手で、どこにでもいそうな俗っぽいおじさん。殺されなければいけない理由は見当たらない・・ なのに殺されてしまう理不尽さ。一方加害者となるヤツェクは過去に縛られていて、あの時あんなことが起こらなければ(妹を交通事故で失う)という被害者意識が強い青年。そのことが引き金になり社会に不満を抱いていたような・・ そこでムシャクシャして誰かを殺したい気分になった?

 
前半では身勝手な振る舞いで社会をかき回していたヤツェクでしたが後半で弁護士と会話していた彼はまるで別人。彼の心の奥にあったイライラの核が抜け落ちたかのようで、死刑執行を前に不安を示すヤツェク。人の心は一定ではなくコロコロ変わるもの・・犯罪の前と後で、こんなに違ってしまうのかという風な映像表現で“罪を憎んで人を憎まず”という言葉が思い出されました。しかし遺族側にしてみれば納得できるはずはなく殺人を犯した加害者の罪は一生消えない。その背景にあると考えられるのが加害者の社会における疎外感? 映画の中のヤツェクもまた一人ぼっちでした。

         

十戒に示された言葉は“あなたはなにものをも殺してはならない”。その言葉に反して殺人者になってしまったヤツェク。彼がタクシー運転手を殺害しようと決めたタイミングで交差点の真ん中にいたある人物と目が合います。彼の意志を見透かしたように首を少し横に振る人物を振り切り、ヤツェクは計画を実行。その後に展開するのが目を覆いたくなるむごい殺害シーン。この場面だけで判断すればヤツェクは殺されなければいけない凶悪犯罪者。そしてそんな彼を救おうとするのがまだ社会の荒波に呑みこまれていない熱血漢ピョートル。

 
ヤツェクが犯罪に手を染める前の段階で二人は同じ喫茶店に居たことが後半で明らかにされます。もしその場で何らかのつながりができていれば犯罪を防ぐことができたのではないかと考えるピョートル。しかし何かが起こって初めて何かを感じるのが人の愚かなところで、ピョートルの考えは甘いように思います。加害者になって初めて被害者の痛みを知るのは現実的には遅いのですが、何かに気付くためには大きな代償が必要なことは確か。ただヤツェクを深く知ろうとする人が近くにいればタクシー運転手が殺されることはなかったようにも思う。満たされない心を満たすのは自分しかいない・・しかし誰かに満たしてほしいと願うのが人の心かな。


* 監督 クシシュトフ・キェシロフスキ  * 
1988年 作品
* 出演 ミラスラフ・バカ   クシシュトフ・グロビシュ

★ デカローグという自作の映画にキェシロフスキ監督は次のような言葉を寄せています。 誰の人生でも探求する価値があり、秘密と夢があると私は信じる”


デカローグ 第四話

               

記紀伝承上の神武天皇(謂れのあるイワレビコ)は近親関係にある両親から誕生しています。普通では想定しにくい近親愛は小説や映画の題材に使われることが多く、十戒をベースにしたデカローグ第四話(父と娘に関する物語)も父(ミハウ)と娘(アンカ)の近親愛がベースになっていました。アンカを産んだ母は出産後すぐに亡くなったという設定で、母親不在の家庭であったが故に起こり得た近親愛だったように思います。しかもその亡くなった母が娘に一通の手紙を残していたというのが何とも思わせぶりで、謂れ因縁がありそうな父と娘と死んだ母。

 
冒頭で紹介される一つ屋根の下に暮らすミハウとアンカは父と娘というより親しい友人のようでもあり、悪戯半分に水をかけ合うことの意味は何なのか。その日、出張の多い父はいつも持参していた先の手紙を家に置いて出発。“死後開封のこと”と記された封筒の中には娘に宛てた母からの手紙が入っていました。そのことをすでに知っていたアンカは思い悩んだ末、開封してしまいます。しかし開封させるように仕向けたのは父。その後、開封したのは事実ではなく自分が母の字を真似て書いたものだと白状する娘。娘が書いたのか母が書いたのか真実は分からないですが、その手紙の内容は“あなたはミハウの子ではない”ということ。

          

アンカの母は自分の夫を裏切り身籠ったというトンデモナイ事実が判明します。問題は夫婦間にありそうですが、物語の中心は何故か父と娘。アンカ出生の秘密がホントか嘘かハッキリせず、最後まで釈然としない気持ちで分かりにくい映画でした。血縁関係にある父と娘が愛し合うことは社会的にタブーですが、もし血縁関係のない父と娘の愛ならOK? しかし血がつながっていなくても父と娘であることには変わりなく互いに異性として愛を感じるのは理解しにくい話で、この設定には家族というものの裏に隠された秘密があるのかもしれない。

 
ルイ・マル監督の映画“好奇心”で表現されていたのも成長段階にある少年とママの二人きりの秘密の話で、近親愛の意味するところは秘密の共有かな。アンカとミハウの場合も二人きりで生活していた時間が長く、その過程で何らかの意識が互いに芽生えたということかも。しかし核心に近付くことはしなかった二人。核心まで近付こうとする恋愛は滅多にないと思いますが、この映画の二人は自分の内面を相手に伝えずにはいられない激しい心の高まりを感じていた様子。見方を変えると核心に触れたくなる関係が近親愛?
            

父と息子が主人公の第一話も母不在の家庭で起こる悲劇でした。二人きりというのが余りよくないのかなあ。キリスト教世界でも三位一体説が重視されているように、二つの要素(仲がいい父と娘)では何かが足らない。そしてその足らない部分を互いに求めたのがアンカとミハウ? 父と娘という立場以上の好意を相手に伝えたかったという風に理解しましたが、そこまでしなくてもいいのでは・・という気持ちも強いです。しかしこの映画の二人はそこまでヤッチャイました。  

 
デカローグに共通して言えることですが、気になる登場人物がいました。問題の封筒をアンカが川辺で開封しようとしていた時に、向こう岸から白いボート(前後が尖った菱型)を漕いでやって来た男性。彼の意志で動かされているかのようなアンカは二重になった内側の手紙を開封しようとしていました。しかし彼と目線が合い、開封するのを止めています。母からアンカに宛てられた手紙をそのまま別の封筒に入れていた父。外側だけ開封したアンカは内側を見たのか見なかったのか。明確なことは示されないまま、父と娘は問題の手紙を葬り去ります。ややこしいことに頭を突っ込むことはせず、今まで通りの毎日を選んだ父と娘に納得。


* 監督 クシシュトフ・キェシロフスキ   * 1988年 作品

* 出演 アドリアーナ・ビエジンスカ   ヤヌーシュ・ガヨス


★ 誰かにとっての真実は誰かにとっての嘘になることを教えてくれた映画。


デカローグ 第三話

              

第二話でドクターを振り回したドロタ同様、第三話でも女性がかつての男を翻弄しています。設定された時はクリスマス・イヴで、男を振り回す女性の名前がエヴァ。
そんな彼女に振り回されるのがタクシー運転手のヤヌーシュで、彼はサンタさんの格好をして家族(妻と二人の子)にプレゼントを用意する子煩悩なパパ。しかし優しいパパ(夫)の顔の裏にはもう一つの男の顔がありました。ヤヌーシュにとっては過去の女だったはずのエヴァ・・ しかし実際は忘れようとしても忘れられない恋の相手だったのかも。

 
恋する男女が何の障害もなく結婚に至ると痛み(孤独感)を体験することはできません。敢えて痛みを知る必要はないと考えるかもしれないけれど、この世に隠されている美は深い孤独を知った人にしか見えないらしい。物語は三角(エヴァにもう一人の男がいた)関係にあった二人が数年後のクリスマス・イヴに出会うところから始まります。エヴァと別れ幸せな生活に恵まれたヤヌーシュ。一方二人の男の間で揺れていたエヴァはその後、もう一人の男エドヴァルトとも別れ独りだったよう。孤独の寂しさ故、あるいは幸せそうなヤヌーシュに復讐するため(?)彼女は過去の男に近付きます。男女の仲は均衡を保つことがが大事!

            

ヤヌーシュの家の電話が鳴る少し前、彼は教会でエヴァを見かけていました。過去の男に唐突な電話をかける前、自ら伏線を敷いているのがエヴァ。彼女が執筆したクリスマス・イヴの脚本をもとに、聖なる日が演出されようとしていました。主役をつとめるエヴァの相手役が今は幸せ家族の一員となっていたヤヌーシュ。幸せに恵まれなかった女が幸せに恵まれた男の家をかき回す感じで、三角関係にあった過去の男女は立場を変え現在も似たり寄ったりの形で再会しています。

 
腐れ縁の二人はさびた鎖を断ち切ることができないようで、生と死の狭間で生きているように感じます。特にエヴァのヤヌーシュに対する感情はかなり激しい。愛しながら憎んでいるのか、憎みながら愛しているのか・・ これでは幸せになれるはずがない。そんなエヴァに振り回されながらも彼女の意志を尊重しているのがヤヌーシュ。彼女の部屋の洗面室で髭そりの刃を念入りにチェックしていた彼は、その時エヴァの嘘を見抜いたのでは・・
          

心の奥をさらけ出すエヴァ、そんな彼女に惹かれ嘘に付き合うヤヌーシュ。腐れ縁の二人の間にあるのは不安定なもろさで、安定を優先させる結婚とは縁遠い。しかし時間に押し流されるだけの日常に埋没しないという特性を持つエヴァは、自分だけの手作りクリスマス・イヴを持とうとしていたようにも感じます。そして最後に明かされるのが孤独に耐えて生きてきたエヴァの生死を委ねた賭け。翌朝7時まで彼が自分と付き合ってくれれば、これから先も一人生きていこうと・・ もしそうでなければ睡眠薬で死ぬ覚悟をしていたエヴァ。

“安息日を覚えて、これを聖とせよ”というのが十戒のテーマで、エヴァがこれからの日々を生きていく糧(安息日)になったのがこのクリスマス・イヴ? しかし寝ずに旦那を待ち続けたヤヌーシュの妻にとっては最悪の夜だったはず。三角関係がもたらす悲劇で幸せになれる人は誰もいない。それでも三角形は聖なるカタチ? 二人きりでは見えてこないドロドロが見えてくることこそ聖に近付く第一歩かな。

* 監督 クシシュトフ・キェシロフスキ  * 1988年 作品

* 出演 ダニエル・オリブルフスキ   マリア・パクルニス


★「自分の家が見つからない」と言っていた浮浪者は孤独を知る者の代弁者。


デカローグ 第二話

            

第一話では冷静な頭脳で判断する男(父親)が表現されていましたが、第二話の中心人物は何やら思いつめた雰囲気の女性ドロタ。サブタイトルは“ある選択に関する話”で、思いつめた彼女のある選択が夫の生死に影響しているように感じました。ドロタは同じアパートメントに一人で暮らす老医師と話がしたいようで廊下で彼を待ち続けています。情緒不安定な様子のドロタは煙草を吸いながら彼を待ち続けますが、老医師は相手にしない。それでもしつこく老医師にまとわりつく彼女は現在妊娠中。

彼女の夫アンジェイは老医師が勤務していた病院の患者で、ドロタは夫の病状がこれからどうなるのか知りたくて老医師にまとわりついています。その理由はお腹の子が夫の子ではないというのが主な理由かも。“二人の男(旦那と不倫相手)を自分は同時に愛してしまった”とか何とか・・都合いいドロタの発言を聞くことになるのがアンジェイの担当医。先のことを心配するドロタに対し、自分としてはできる限りの治療を施すだけで先のことは分からないという立場の老医師。しかし彼は最後にその考えを翻しています。
          

思いつめるタイプの彼女は切羽詰まったようにこんな言葉をぶつけています。
“もし夫が生き延びるならお腹の子を堕胎しなければいけない。しかし夫が死ぬならお腹の子(愛人の子)を産みたい。” 死にかけている夫とこれから生まれる我が子を天秤にかけているような発言で、自己中ドロタの身勝手さが判明。しかし先のことは分からないという判断を下していたアンジェイの担当医が最後に宣告したのは“あなたの夫は死ぬだろう”ということ。

その宣告が下される前、ドロタはある決断をしていました。夫が死んでも助かっても彼女は堕胎する決意で、すべてを失ってもいいという覚悟の現れだったようにも感じます。二人の男を同時に愛してしまった板挟みに苦しむドロタの決断はすべてを御破算にすること。思いつめた彼女の選択は至ってシンプルでキレイ。過去に執着していると前に進めないことに気付いた彼女が優先させたのは自分? 御都合主義的行動でウロウロしていた彼女ですが、最後までウロウロしているだけではなかったのが最上階に住むドロタ。
            

何度か象徴的に出てくるのがアンジェイの病室の水漏れ。滴り落ちる水滴(実際の描写ではなくアンジェイが感じている水漏れ?)は何を意味するのか。前半に比べ後半の水漏れ速度のほうがが速く、水が漏れている状態は心地いいものではなかった。
しかも溜まった水はサビ色で曰くありげな理解不能の映像と音響。さらにこの映画には理解不能の結末が用意されています。

“今から堕胎しに行く”と言うドロタに対し“やめなさい”と言う医師。先のことはワカランと言っていた医師が此の期に及んで“助からん”と誓って明言しています。その後しばしの暗転時間が挟まれ元気になったアンジェイが医師の部屋をノックし、それほど驚きもせず彼を招き入れるアンジェイの担当医。ドロタに明言していたあの発言は嘘だったのか、あるいは予期せぬ奇跡が起こったのか。

まあ元気になったのはヨカッタけれど、アンジェイが回復することをすでに見抜いていた老医師の矛盾する発言はどういうこと?“あなたはあなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない”という十戒とどう結びつくのか理解できなかったです。最後は『こんなことあり?』というキツネにつままれたような感じで、この世の不思議をまた一つ垣間見たようなモヤモヤした映画の終り方でした。自分だけが信じる自分だけの神を信じていた老医師の選択でアンジェイは助かったのか、あるいは彼の妻ドロタの御破算選択が功を奏したのか・・何とも複雑!

* 監督 クシシュロフ・キェシロフスキ   * 1988年 作品
* 出演 クリスティナ・ヤンダ   アレクサンデル・バルディーニ

★ 音楽家のドロタは悪女なのか聖女なのか。


デカローグ 第一話

              

旧約聖書の中で神がモーセに与えたとされる十戒をベースに脚本化したのがポーランドのキェシロフスキ監督。それぞれ独立した“10篇の話(デカローグ)”のうち、第一話のサブタイトルが“ある運命に関する話”。“あなたは私の他になにものをも神としてはならない”という十戒の言葉(一番目)も加えられています。話の中心として考えられるのがモノゴトを数値で推し測るタイプの大学講師の父とその子(パヴェル)が引き受けなければいけなくなった運命の戒め。数値を当てはめ出てくる公式の答えは机上の空論に過ぎなかったことが最後に示されます。


ある運命といっても突然降って湧いたように起こるのが運命ではなく、
何らかの原因があるからこそ起きるのが運命を感じさせる事故。一言も喋らず氷点下の屋外で焚き火をする人が冒頭に出てきます。燃え上がる火のシーンとともに焚き火を続ける人が何度か描写される意味深映像で思うのは、これほど寒い屋外に人が居たこと。しかも一晩中焚き火をしている様子。父は息子がスケートできるかどうかを判断するため実際に川の氷の厚さをチェックしていたにもかかわらず、亀裂は起きてしまいました。

                     


時間的ズレが及ぼす数値は計測不能。
人の行動パターンや心の変化はコンピューターのように画一化されておらず、賢いコンピューターがはじき出す答えは万能ではないことがこの映画で証明されています。コンピューターを駆使して家の戸締りや蛇口の開閉を仕切っていたのがパヴェルで、すべては父から学んだこと。父を敬愛し父のような生き方をしようと頑張っていた息子。しかしその一方で死という事象を深く見つめる子で、こんなこと(計測)をしても意味がない・・という思考も持ち合わせていました。

 
母不在の家庭で父の背中だけを見て育ったパヴェルに不確かな愛というものを伝えようとしたのが信仰心の篤い叔母イレーナ。父が息子を抱き締めることはなさそうだけれど、父の姉イレーナは強くパヴェルを抱き締めていました。生きることの意味を探しているパヴェルに年長のイレーナが言った言葉が“人生とはプレゼント”。モノであったり、ココロであったり、人それぞれだとは思うけれど誰かが誰かに与えるプレゼントが生きる理由と考えていたのが弟とは正反対の姉イレーナ。男女の性の違いもあるだろうとは思うけど、数値入力に頼り過ぎると思わぬ落とし穴が・・ その落とし穴を出現させるのが神の仕事?


             

ほとんどのモノゴトは計測可能であることに気付いた父を真似ることで父に近付こうとする息子。チェス大会で活躍できたのも父の思考と父を真似た息子が一致団結した結果で、決められた数値を当てはめさえすれば答えが出ると思っているのが男という性? コンピューターが導き出す絶対的な裏付けがあったからこそ、凍った川でスケートをしても大丈夫という風に考えた父。しかし現実は割れないはずの氷が割れ、危険な裂け目が出現します。その事故とタイミングを合わせるかのように父が普段使っていたインクビンが割れるという異常事態が発生。


信じる信じないに関わらず、この世に出現したのは神? 
何度か映し出される無言の人物は相変わらず外で焚き火をしています。天気予報のデータを信じ、コンピューターの性能を信じた賢い父は目の前にいた人物を見ているようで実際は全く見ていなかったのかも。予測不可能な事故ではなく、大切なことを見落とした結果の事故だったように思います。神が人に与えるのは愛だと言っていたイレーナの言葉が今となっては切ない。


* 監督 クシシュトフ・キェシロフスキ  * 1988年(ポーランド)作品

* 出演 アンリク・バラノウスキ   ヴォイチェフ・クラダ


★ キェシロフスキ監督にしか表現できない映像は神が存在することを伝えているように感じました。


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