猪笹王

考える葦を地で行くクエビコは動けなかったがゆえに頭を使って空想の世界を広げた。 その結果、誰にも知られていなかったスクナビコナ (神産巣日神の手の俣から落ちこぼれた) の名前を言い当てることができました。 頭のてっぺんから足の先まで筋が通っているのが一歩足。 下半身が二股に分かれる人間とは一線を画しています。

           笹を隠れ蓑にした巨大な猪(猪笹王)も一本足でした。
                出身は奈良県上北山村の伯母ヶ峰。
         その峰で猪笹王は鉄砲を持った猟師に撃たれて死ぬのですが、
      死んでも死にきれなかった王は復讐のため亡霊となってこの世に蘇ります。
    その蘇った場所というのが和歌山県本宮にある湯の峰温泉(源泉は92℃)でした。
             伯母ヶ峰から湯の峰温泉の方位は鬼が通る道と同じ。
         寒い山を下って熱い温泉に向かった猪笹王の生死の温度差は激しい。 


遊戯の主役

子供の頃の遊びで主役になることが多いのが鬼。鬼になった子が他の子を追いかけ回し、その鬼につかまると今度はその子が鬼になり先と同じように他の子を追いかけ回す鬼ごっこ遊びの主役はもちろん鬼。鬼につかまった子が鬼になるということから考えると鬼が他者に与える影響力は大きい。その影響力を嫌ってか、家の内には入れてもらえないのが鬼。           

      
わらべ歌の♪かごめかごめ♪遊戯で輪の真ん中に一人目隠しされ、しゃがまされる役が鬼でした。鬼を真ん中にして、その周囲をグルグル回るのが籠目になぞられた鬼の友達。籠の中に押し込められた(あるいは自ら籠の中に入った可能性も・・)鳥はいついつ出やるという歌詞の意味するところは鬼の出現を待っているようにも感じます。安全な籠の中の鳥(目隠し状態で小さくなっている鬼)が外に出やるタイミングが夜明けの晩。そしてその夜明けの晩にすべるのが因縁関係にある鶴と亀。その鶴と亀がすべって(一体化という意味もある)籠(?)から抜け出す瞬間は夜が完全に明けきらない夜明けの晩。


窮屈な籠の中に入れられた鬼は最後に後ろの正面に居た人物の名前を当てなければいけません。
自分の後ろにいる誰か・・その関係が鶴と亀? 後ろの正面とは自分自身のことで、自分が誰かを当てるのが“かごめかごめ”遊びの原点かも。他者に対して影響力のある鬼が円の真ん中に配置されているカゴメカゴメ遊びのポイントは鬼を外に出そうとしているのか、あるいはその逆か。鬼は外という言葉を思い出すと鬼は外に出たがっている? カゴメカゴメで周囲を囲まれた鬼が外に出ることができるのは後ろの正面すなわち自分を知る時。

                  
良きにつけ悪しきにつけ影響を与え合うのが前後一体の空を舞う鶴と地を這う亀で、天と地の間で右往左往しているだけでは自分の本名(鬼が云う魂)は分からない。


目一つの鬼

  鬼は物に隠れて顕はるることを欲せざる故に、俗に呼びて隠(穏)と云うなり   


    日本初の漢和辞典(
和名類聚抄)に記された鬼は“於爾(オニ)”。
オニが活躍できるのは人が眠りに就いている夜(無意識状態にある時間帯)だけで、
      人が目覚めて意識を取り戻すと鬼の出番はありません。


ビックリ箱の中身が分からない時に恐る恐る覗き込んで言うのが“鬼が出るか蛇が出るか”。 
般若面のイメージが強い鬼と大酒飲みの八岐大蛇を思い出す蛇が対になっています。物に隠れて顕れるのが鬼、そして酒を飲んで出現するのが蛇?

            
出雲国風土記に“目一つの鬼”が登場しています。大原郡阿用(あよ)の郷(島根県雲南市阿用川流域)を舞台にした地名説話の一つで、この目一つの鬼はこの地にやって来て男を食べました。八岐大蛇の好物は女、そして目一つの鬼の好物は男?


 食べられた男というのがこの地の開墾者で、田を佃りその田を守っていたらしい。

    その守りが災いとなったのか、男は目一つの鬼に食われてしまいます。

    彼の両親はというと竹藪に隠れたまま息子を助け出す行動には至らず、

         ただ竹藪の中に身を潜め震えているだけでした。

 その時その震えで竹の葉が動き、男が「動動(あーあー)」と叫んだことから
     
アヨ(初めは阿欲で後に阿用)という地名になったという話。

      意味がまるでワカリマセーン!と風土記作者に訴えたい!

 

       ここで注目したいのが田佃り男を食べた目一つの鬼。

    鬼が出るか蛇が出るかで、この地(阿用の郷)に出現したのが鬼。
               しかも目一つの鬼!

 夜間に出現したと思われる目一つの鬼に食われたのは男・・ではこの鬼の性別は?

    女を食い物にしていた蛇に対し、男を食い物にしていたのが目一つ鬼。

   鬼が出るか蛇が出るか・・ビックリ箱の中身は開けてみないと分からない。


殺される対象

           

日本を代表するお伽話の中で“桃太郎”や“一寸法師”に殺される側に立つ鬼がいるかと思えば“瘤取り爺さん”のように深夜踊り騒ぐ鬼も登場しています。諺にも『鬼が出るか(住むか)蛇が出るか(住むか)』という表現があるように鬼と肩を並べているのが蛇? “人間の心の奥底に潜む考えは計り知れない”というような意味で鬼と蛇が対になっているこの諺を推測すると、人間の心の奥底に潜んでいるのは鬼か蛇。角や牙がある強いイメージの鬼と手も足も出ない蛇ではタイプがまるで違っています。夢語り的なお伽話で殺されたのは鬼。そして神々が登場する記紀で殺されたのは蛇。

            
また陰陽道や風水で鬼が出入りすることで忌み嫌う方位が“艮(うしとら)”の北東で鬼門と呼ばれています。平城京から平安京に遷都する際も比叡山を鬼門に配するよう設計されたことは有名な話。ということは朝廷側に立つ人物が恐れるのは鬼?
また“鬼は外 福は内”の節分から鬼を考えると鬼の居場所は常に外で中に入れてもらえない? 仲間意識のない独立独歩型の鬼は仲間意識を大事にする朝廷側からすると目の上のタン瘤? そこで鬼の侵入を阻み平安京の平穏を保つために建てられたのが比叡山延暦寺。

           
恐ろしい形相で人を恐怖のどん底に陥れる怪物のような鬼がいるかと思えば、死者の霊魂を鬼に例えて表現する場合もあるのが複雑怪奇な鬼。牛の角や虎の牙がありウシトラ方向から侵入しようとする鬼は上半身が裸で下半身が虎皮の褌姿、そして金棒を持っています。当然このようなタイプの人物はチームワークを乱す恐れがあるのでますます蚊帳の外。常に部外者に置かれてしまう鬼の住処で有名なのが京都府北西部の丹後地方に連なる大江山。大江山という名の峰があるのではなく800m前後のいくつかの連山の総称が大江山。


      

方向的には北東から南西に連なりその地域の境界になっている峰々で、雲海が発生しやすいことでも有名らしい。大江山の鬼退治伝説はいくつかの話があり、退治されたのは土蜘蛛の陸耳御笠、それに英胡・軽足・土熊そして酒呑童子。要するに素直に従ってくれない人たちを朝廷人が鬼と呼び、そんな鬼グループが殺されたのがこの大江山辺り。雲海が発生しやすく似たような高さの峰が続く大江山は隠れ家にもってこい? 争いが絶えない社会と断絶し隠遁生活を始めたのが鬼かな。しかし結局は見つけ出され殺される羽目になった鬼。

 
人間の心の奥底に潜むのが鬼でも蛇でも退治されるしかないのがこの世の掟。一度死んだ鬼が生き返ることはありませんが、一度死んだ蛇は何度も生き返っています。
スサノオノミコトが退治した八岐大蛇という蛇は日本の宝の一つとなった刀を内包していた蛇。手も足も出ない(出さない)蛇は殺されてもすぐに生き返るのが特徴ですが、独立独歩型の鬼は殺されてしまえばハイそれまで。ところで瘤取り爺さんに登場していたダンス好きの鬼も殺される対象になるんでしょうか。楽しい宴会が好きなだけの鬼が殺されるなら世も末だっ!


浅間山の鬼

              

       ふき飛ばす 石も浅間の 野分かな      芭蕉
 


昨日(20092月1日)浅間山の噴火警戒レベルが引き上げられ、
昨日と今日の分岐点になる0時を過ぎた(151頃)浅間山が噴火しました。 火口から灰や小石などを噴き上げるパワーを現在も持続させている浅間山(2568m)。 長野県と群馬県の境界線上にそびえる浅間山は過去にもしばしば噴火を繰り返し、その都度自ら山容を変えてきたダイナミックな山。

 

浅間山の場合はアサマヤマとしか読まないのに、浅間神社になるとアサマあるいはセンゲンという読み方になる“浅間”。 山の奥深いトコロから噴煙を上げるのが噴火というものの実体だと思うので この山に付けられた名前は奥深くなく粗末なことを意味するアサマという名前には矛盾を感じます。 この山が持っている内面部分と付けられている名前が合致していない山が浅間山?

           

今回 噴火警戒レベルが上昇したので人が近づくことができなくなりました。 何度も噴火していることを想像すると人に近付いてほしくないのが浅間山の本心かな。

本来の山のカタチを俗化させる張本人の人間を避けたいがために浅間山は噴火を繰り返してきたのかもしれません。

 

黒い溶岩で構成された“鬼押し出し”の奇観は浅間山独自の荒々しいもの。 少なくとも人間がこの山に近付き、宅地造成しようという気には絶対させないものを持っています。 こうして人の侵入を拒んできた結果 人間の汚い手に染まることなく浅間山本来の姿を残してくれました。 芭蕉が目にした浅間山と現在我々が目にする煙モコモコの浅間山の外見は大きく変化しただろうけれど、今日は噴煙に加えて灰や石までも吐き出した浅間山の内面は今もこれからも変わることはなさそう。

     

ところでセンゲンと読まされることが多い“浅間神社”は浅間山近くにありません。

浅間神社の総本宮があるのは静岡県富士宮市で富士山信仰と結びつき、今日まで発展してきました。 主祭神は天孫ニニギノミコトの妻コノハナサクヤヒメ。

彼女は旦那にワシの子か?と疑われ、燃え盛る火の中で我が子を産んでその事実を証明した勝気な女性。 燃え盛る火とはコノハナサクヤヒメが旦那に処女性を疑われたことに対する怒り爆発だったと思います。

 

今日 噴火した浅間山で祀られているのは鬼?  鬼押し出しという観光地に多くの鬼(赤い溶岩が冷えて固まった黒い岩)がいるようです。 節分を前に虐げられ続けた鬼の怒りが爆発して今日の浅間山噴火につながったのかも・・そういえば鹿児島県・桜島も浅間山に刺激され(?)今日 噴火したらしい。 同日に東と西で爆発した日本列島は、地下にドロドロしたものを抱えているんだろうね・・きっと!

 

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若返りの源

              

桃太郎誕生に関する昔話で一般的に知られているのは、川上から流れてきた桃を割って生まれたのが桃太郎でした。 しかし江戸時代の草双紙(絵が挿入されている物語)では、桃を食べて若返った爺さんと婆さんの子としてこの世に誕生したのが桃太郎になっています。 この話から想像すると桃は若返りの要素を含んでいる果実ということに。 
自然の摂理を考えると、バックするはずがない時の流れに逆行した夫婦から生まれた子が目指したものは鬼退治。
     
桃太郎の真の目的は鬼が持っていた宝物を盗むことで、鬼退治はタテマエにすぎませんでした。 自分の島(鬼ヶ島)を持ち自分の島に宝物を隠していたのが鬼の実態。 そして鬼が宝物を持っていることを知っていたのが桃太郎ということになりそう。 自分の名前が付けられた鬼ヶ島に隠し持っていたものは、隠れ蓑に隠れ笠そして打出の小槌。 

正体がバレないように、自分を蓑と笠で隠して打出の小槌を持っていた人物が鬼? 打出の小槌をトントン打てば、何でも自分の好きなものが出現するという夢のようなものを持っていた鬼を退治して 鬼の持ち物を奪ったのが流れに逆らった夫婦を親に持つ桃太郎でした。

神話の世界で語られていた桃の木は、黄泉国とこの世を隔てる境目(黄泉比良坂)に生えていた木。 ギリシア神話で桃に該当する木は赤い実がなるザクロ。 ザクロもあの世とこの世の境界線上にありました。 黄泉国(あの世)で穢れた妻を見てしまったイザナギノミコトは、一度その場所で死んだという風に解釈することができます。 何故なら、その後イザナギノミコトは再生を果たすべく 自分の着衣や持ち物のすべてを捨てて多くの神々を生み出しました。 黄泉国で反吐体験をして一度死んだからこそ、新たに生まれ変わるチャンスを得たイザナギノミコト。

そんなイザナギノミコトがこの世に帰還する途中、妻が遣わした黄泉醜女(よもつしこめ)に追いかけられたことがありました。 何が何でも危険色の黄泉国を脱出したいイザナギノミコトは、追いかけてくるヨモツシコメに三つのものを投げつけています。 一つ目は自分の髪の毛を束ねていた黒い鶴草。 二つ目は髪の毛を梳かす櫛の歯。 どちらもイザナギノミコトの頭部に関するものが投げ捨てられました。

しかしヨモツシコメは一向に諦める気配はありません。 相変わらず女が男を追うという物語が展開します。 追われたイザナギノミコトが最後(三つ目)に投げつけたのが、黄泉比良坂に生えていた桃の木に実っていた三つの桃の実。 醜女はこの桃の実を怖がり、その後イザナギノミコトを追いかけ回すことはなくなったという展開になっています。
若返りパワーを含む桃の実を嫌った黄泉国住人の醜女たちが恐怖に感じたことは、元に戻ること? せっかく積み重ねたものをすべてご破算にすることが彼女たちの恐怖?

桃は古くから日本で栽培されていた果実で、邪気を払うパワーを持っていました。 穢れ多い黄泉国の腐敗物を取り除くパワーがあった桃を見た途端、逃げ出したのがヨモツシコメ。 
ウジやハエが発生する不衛生な場所を住み処にしていたヨモツシコメにとって、邪気を払う桃は都合が悪いはず。 そんな桃を食べた爺と婆は、老いという邪気が払われて若返ったのかも・・ そして生まれてきたのが桃太郎。

桃ちゃんと太郎くんの二人分のチカラを凝縮させて闘う決意をしたのが桃太郎ではないか。 蓑や笠をかぶって正体を現さないズルイ鬼が、打出の小槌を打つだけで好きなものを手に入れることが許せなかったはず。 自然の摂理に逆らってでも子供を産もうとした爺と婆の好物は桃。

赤と白の区別をしなかった二人がこの世に産み出したものは、桃ちゃん(赤)と太郎くん(白)が交りあった桃太郎(ピンク)。 正体不明の鬼から奪った打出の小槌の所有者は、現在 赤と白のカオスが好きな桃太郎という結論になりました。 宇宙の原初も混沌状態だったことを考えると、混沌に陥ることは決して悪いことではなく若返りの源であるようにも思います。

鬼になったハチコ

                 

  出羽三山の開祖として伝えられている人物が、崇峻天皇の子 “蜂子(はちこ)皇子”。
出羽三山というのは山形県庄内地方にある三つの山(月山・羽黒山・湯殿山)を言います。 それぞれの高さを調べてみると一番北にある羽黒山は414mと一番低く、その羽黒山のほぼ真南に位置する湯殿山は1500m そして南北のラインから少し東にずれて位置しているのが1984mの高さを誇る月山(がっさん)です。 (下の地図参照)

     

出羽三山という風に同じグループに入っているものの、すべてがバラバラなような気がするのですが・・ しかし地図で確認すると、その共通点が見えてきました。 一番高い月山の稜線が緩やかに北に連なる尾根上に羽黒山があります。 同じように月山から南西方向に険しく連なる峰上にあるのが湯殿山。 北への道は緩やかで歩きやすそうだけれど、南西を目指す道はかなり険しく大変そう・・ 月山は春スキーのゲレンデとしても有名で、この北斜面なら気持ちよく滑れそうです。

また出羽三山は修行の場としての霊山として、古代から多くの人々に崇められてきました。 峰入りという荒行を克服することで、修験者(山伏)が一度死んで新たな自分に生まれ変わるというもの。 それほど簡単なことではないと思いますが、新しい自分に出会えるという喜びは その修行を体験した人でないと分からないのでしょう。

自分が知らない新たな自分に出会えるかもしれないチャンスを手にすることができる場所が “出羽三山” です。 開祖と言われている蜂子皇子は、神武天皇と同じように三本足の烏に導かれて羽黒山に上って羽黒権現を獲得し出羽三山を開いたということです。 蜂子皇子は、まず一番北にある羽黒山から南方を目指したことが分かります。

身の丈高く肌の色は真っ黒で、耳元まで裂けた口というように描写されている蜂子皇子は鬼の外観と似ています。 伝説によると余りの醜さで天皇になることができず、飛鳥から逃れて寒い北に向かったとか・・ 天皇になるためには外見も重視されていたようで、醜い人物はその段階(ミニクサ)で 天皇の資格を剥奪される運命にあったということでしょうか。

蜂子皇子の父親は蘇我馬子によって暗殺された崇峻天皇でした。 暗殺されるキッカケ
を作ったのが崇峻天皇の后だった “小手子(蜂子皇子にとっては母親)”。 彼女は、自分に対する愛情がなくなった夫(崇峻天皇)に不満が募って、敵の蘇我馬子に夫の独り言を密告したことが原因で 崇峻天皇は暗殺されたという風に日本書紀に記されています。 これでは夫の愛情を求める小手子(こてこ)自身が、夫の崇峻天皇を本当に愛していたのか疑問が残るところ。 古今を問わず不可解な愛情に振り回される男と女・・ 愛とは何?

天皇だったにもかかわらず父が暗殺されたので自分の命も狙われることを憂慮し、飛鳥の都を飛び出し陸路ではなく船で北に向かいました。 一方イトコにあたる聖徳太子が蜂子皇子に仏門に入るようアドバイスしたという話も伝わっています。 

後の世に聖徳太子一族はすべて滅ぼされることになることから考えると、蜂子皇子が逃れた東北地方(出羽国) は都から遠く離れていた田舎だったので滅亡を免れたのかもしれません。 もし都にいたなら殺されていたかもしれない蜂子皇子は鬼のような形相になりながらも、この地で何とか生き残り多くの人々の苦しみを取り除いたという話です。

出羽三山のなかで一番高い月山(がっさん)の山頂に月山神社があります。 名前のように祭神は月読命・・ 月読命が管理する夜はモノゴトが見にくいので、人と人がぶつかり合うことも少なく静かな夜を与えてくれます。 父を殺された蜂子皇子は憎しみで相手に立ち向かうことは避けました。  醜いと言われる “鬼” も蜂子皇子と同様 闘うことより静かな時間を選んだのではないでしょうか?

修験道という言葉が持つ厳しさとは裏腹に出羽三山に祀られている神は、キラキラ輝く天照大神とは丁度逆の暗くて見にくい神々で、夜を好むタイプのように感じられます。 人の憎しみや怒りが作り出す世界(昼)に比べて夜は眠たくなるので 自分が創った夢の世界で自由に遊ぶことができます。 夜の出演者である魑魅魍魎(ちみもうりょう)たちは、人を怖がらせても争うことはしないはず!  

後ろの正面

       昔から廃れないで現在まで伝えられてきた児童遊戯のカゴメカゴメ。
           真ん中にしゃがんで両手で目を覆っているのがオニ。
       そのオニの周りを何人かの子供たちがカゴメカゴメの歌を唄いながら
               手をつないで横歩きをするものでした。
                  「後ろの正面だあれ?」 
                という歌の文句が終わると同時に
           周りを回っている子どもたちもしゃがみこみました。
        そしてオニが自分の後ろにいる人物を当てることができれば正解!
       
                      ということは、 
   “後ろの正面” とは後ろに居る人物が真正面を向いた状態を指すように思います。
      後ろからオニ(自分)を見ている人・・ 表現を変えればオニの後見人?

                    

         後ろの正面に座っている人物が見えるものは鬼の背中。
           子供は親の背中を見て成長すると言いますね。
      親である鬼が後ろの正面に座った自分の子を当てることが最大のポイント。
      こうして子はいつも親の背中を真正面に見ることができる位置に座ります。

魔法の棍棒

                

打出の小槌を手に入れて大きくなったのは “一寸法師” で、 初めに持っていたのは鬼でした。 一寸法師は、若い頃 子供ができなかったジイさんとバアさんが住吉神に祈って授かった子で、バアさんの腹の中から出現しました。 しかし現実的には老夫婦の交わりで一寸法師という赤ん坊が誕生することは難しく、生みの親は住吉の神と考えられます。

住吉神の子は何年たっても大きくならなかったので、一寸(約3.03僉頬〇佞般症佞韻蕕譴泙靴拭 一寸法師はお椀が舟になるくらいの視点でモノを見るので、多くの人が見落としてしまう小さいモノも 人が吐き出すチリ・ゴミ・クズなど一寸法師にとっては大きいものに見えたはず。 また逆に小ささを利用して他人のポケットに入り込み スパイ的役割を果たすことも簡単にできそうです。

一寸法師はその後 武士になるため京の都を目指しました。 その都の大きな屋敷に住む娘をさらいにきた鬼と対決して、娘を守ろうとしたのが一寸法師。 初めは鬼に食べられてしまうのですが、刀として持っていた針で鬼の腹の中を突き刺し 鬼は余りの痛さに一寸法師を吐き出してしまいました。 慌てて逃げていった鬼の忘れ物である打出の小槌でトントン打つたびドンドン大きくなった一寸法師。

鬼の所有物だった打出の小槌が一寸法師を大人に成長させたことが分かります。 では、鬼はどうして打出の小槌を所有していたのか? 出る杭(釘)は打たれるという言葉通り、鬼の役目が出る杭や釘を打つことだったので道具として必要だったのではないか・・

鬼の大切な道具だった打出の小槌は、鬼から一寸法師にバトンのように手渡されました。 こうして住吉神の子だった一寸法師は一寸ではなくなり、立派な大人としてその娘と結婚しました。 一寸法師の一寸先に闇はなく、住吉神という親の七光があったと判断できます。

打てば響く打出の小槌の所有者は他にもいました。 その人物は七福神の一人であるインド出身の “大黒天”。 二俵の米俵の上に腰を据えて、左肩に大きな袋を背負い右手に持っているのが打出の小槌。 日本に来る以前は、インド神のトップに君臨するシヴァ神(破壊神で男根を象徴する)の化身 “マハーカーラ” と呼ばれていました。

初めは凶暴な神だったマハーカーラは、日本にやってきて仏教に参入してからは 何故か鬼を退治する仏教の守護神として扱われるようになりました。 しかし打出の小槌を持っていたのは、本来は鬼だったのでは・・・ 一寸法師のように大きな矛盾に立ち向かうためにあえて言葉にすると、鬼が持っていた打出の小槌を奪ったのが大黒天?

“鬼に金棒” のような打出の小槌を鬼が持っていることは危険なので、黒幕の大黒天が鬼の金棒を奪ったという推理ができます。 大黒天は大黒頭巾というカブリモノを被っていました。 自分の本当の姿を他人に見せたくないので、頭巾を被って変装している可能性も・・ カブリモノ(被り者)は “駆落ち者” あるいは “落人” という意味が含まれていて、母国インドから日本を目指し 荒海を渡って逃げてきた神なのかもしれません。

インドでは凶暴性がむき出しになっていたけれど、日本に落ちてきて人が変わったように温厚になったということも考えられます。 初めは戦闘的な男男(おとこおとこ)神だった大黒天は、後に厨房に祀られました。 厨房は一般的に女性が立つ場所・・だから男男だった大黒天は日本に来てから、バランスのとれた男女(おとこおんな)に変化したのではないかという推理。
 
一寸法師と大黒天が持っていた打出の小槌は、願い事が叶う魔法の小槌。 魔法の小槌の本来の持ち主は鬼なので、 “魔法の棍棒” の可能性は大きいと思います。

コケないダルマがこけるとき

               

     ダルマは歩いたり走ったりできないので、自らコケることはないと思います。
   もしこけるとしたら、それは誰かに押されて倒されるという場合に限ってコケます。
    底が丸くしかも重心が低く作られているので、ますますコケにくいのがダルマ。

            ダルマは、禅宗の開祖と伝えられている 
         “達磨” が坐禅をしている姿を真似て作られました。
  坐ったまま背骨をピンと伸ばして精神統一を行っているのが、本来のダルマの姿です。
        坐っているので重心は低く、転倒する可能性は皆無のはず。

           そんなダルマが七転びというのは幾分解せません。
        足がない蛇と同様、コケルという現象からは程遠いのがダルマ。
  コケないはずのダルマが誰かのチカラで七回倒されも、諦めずに起き上がるその姿勢が
          七転び八起きの精神に一番近いのではないかと思います。

          しかしコケないはずのダルマがこけることがありました。
                子供の頃を思い出してください。
      誰しもが矛盾を感じながらも滅多に起こらない言葉を唱えて遊んでいた時
             この言葉を唱える主は “オニ” でした。
          そのオニが唱えた言葉は、 『だるまさんがころんだ』
                 この言葉は、マジナイ言葉で 
        他にも 『坊さんが屁をこいだ』 とか 『神様の言うとおり』
     
          この三つの共通点は、1から10までを数える時の呪文。
   1から10まで順番に数字を数えるよりもっとリズミカルに数えることができました。
          そしてオニが1から10まで数え切った瞬間に振り向いて、
         動いた人物を見つけたらオニの交代というヘンテコな遊び。
               オニが先頭で呪文を唱えている間に、
          後ろにいる他の子供たちがオニに近付くというもので
         オニに動いている瞬間を見られることがいいのか悪いのか・・
         オニに見られると今度は自分がオニになることができました。

              オニだけが唱えることができた呪文は、
      桁を変える(1から9までの一桁台から10の二桁台)呪文でもありました。
        この言葉を唱えれば横一文字の一に縦の線がクロスして十になる・・
                   すなわちプラスになる。 
        桁が変わりさらにプラスになるというオニが唱えた呪文の言葉。

            ケタ違いのことが起こる可能性を秘めているのは、
        坊さんが静かな席でクサイ屁をこいでミットモナイ思いをしたとき!
    コケそうではないダルマの腰にあった重心が移動して、頭のテッペンに上ったとき!
   最後に自分の心の奥深くに眠っている神さまの言う通りに従って行動を起こしたとき!

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