清寧天皇

雄略天皇は皇位継承権を持つすべての者 (どこかで血がつながっている) を殺しまくって天皇になった人物。 その雄略天皇と葛城韓媛 (雄略天皇の焼き討ちで家族を失った) の間に生まれたのが清寧天皇 (白髪皇子) で、彼は誰とも結婚しなかった。 だから血縁関係のある後継者はいない。 結果として清寧天皇が暴虐な父の血を断ち切ったことになる。 しかし一巻の終わりにさせてはいけないということで、ある兄弟に白羽の矢が立てられた。 雄略天皇にとって最大のライバルだった市辺押磐皇子の子たちに・・・ この世の復讐ドラマは果てがない。
 

蜻蛉の滝

      国土を一望した神武天皇は自分の国を以下のように表現していました。
  となめ (雌雄が交尾してハート型になって飛ぶこと) をしている蜻蛉のようだなあ。
     このエピソードから日本は蜻蛉 (秋津) 州と呼ばれるようになりました。
           また女を弄ぶ雄略天皇の話にも蜻蛉が出てきます。
           吉野離宮があった辺りで狩りをしていた雄略天皇。
               その時、虻に腕を刺されたそうな。
                  イタイッ! 殺してやる!
               そこへタイミングよく蜻蛉が出現し
             雄略天皇の血を吸った虻を食ってしまいます。
           痛い思いをした天皇の恨みを晴らした蜻蛉の功績により
          この辺りは秋津野 (蜻蛉野) と呼ばれるようになりました。
   
    
    雄略天皇の逸話から名付けられた蜻蛉の滝は蜻蛉野  (奈良県川上村)  にある。
              黒い岩肌にまとわりつくように流れ落ちる水。
                 繊細な勢いを感じる魅力的な滝だ。        

雄略天皇22年

トップの座に着くため雄略天皇は対立する皇位継承者(邪魔者)をすべて消し去った過去がありました。 身勝手で横暴極まりない雄略天皇ですが、崩御する前年(22年)夢枕に立った天照大神の意思を尊重し伊勢神宮外宮(祭神・豊受大神)の建立に着手します。 天照大神の食事係として呼び寄せられた豊受大神のルーツにあるのが死を目前にしたイザナミで、飢えた両親の間に生まれた倉稲魂神と環境は似ています。 雄略天皇22年という年は命ある雄略天皇最後の年。 神の声は生と死の間にある身勝手な人物に届くのかも。

名告る

       籠もよ み籠持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串持ち
         
この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね
 
そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居れ しきなべて われこそ座せ

          われこそは告らめ 家をも名をも

 
20巻(4500首)もある万葉集の1巻目の冒頭に記されたのが雄略天皇のこの歌。
雄略天皇が管理する大和の丘で見初めた美しい少女の家や名前をしつこく聞いています。彼女は籠と掘串(土を掘り返す道具)を持ち、大和の丘で菜を摘んでいる様子。自分の国に立ち入った少女こそ我が妻となるべき女性・・ということで、家はどこ? 名前は何? 夫になるべき私に言うべきだ!・・と迫っています。

        
“のる”と読まされる『告る』は本来、神の託宣を意味する言葉でした。親が命名した名前ではなく少女のホントの名を知りたかったのが雄略天皇で、古代における真の夫婦は互いに神の意志が加わった名告り行為をする必要がありました。名告ることは求婚することと同義と考えられ、雄略天皇は大和の統治者であることを少女に打ち明けています。一方、菜を摘む少女は結婚するつもりがあったのかどうか。家を教えろ、名を言え、などと迫られると幾分引いてしまうような気もするのですが・・

 

みさご居る磯廻に生ふるなのりその 名は告らしてよ親は知るとも   山部赤人

 
みさご(美沙)とは主に海岸に生息する鳥(鳶に似た猛禽)で、渡りをせず日本に留まる留鳥のこと。空中で静止するホバリング飛行から一転、急降下して海の獲物を脚でキャッチするのが上手な鳥。雌雄はよく似ていて群れをなさず夫婦仲がいいらしい。そんなミサゴが生息する場所は人が近付かないという設定で歌に読まれることが多く、みさごが居る磯に生えているナノリソ(神馬藻)のように他の誰にも知られないように、あなたの名を教えてほしい。あなたの親ならすでに知ってるかもしれないが・・ という感じかな。

 
戦場で戦う前に武士が自分の名を告げたり競争に加わる場合などに“名乗り(名告り)を上げる”という言葉が使われます。戦いや競争の場でその人本来の名(性分?)が明らかにされるということなのか。ヤマトタケルを敵にして戦った熊襲族のリーダー“川上梟帥(たける)”はヤマトタケルに胸を刺されて死にますが、その死の淵で自分のタケル(梟帥)という名をヤマトタケル(元は童男)にもらってほしいと申し出ています。戦い敗れた熊襲のリーダーの名前をもらったのが日本を代表するヤマトタケルで、名告り行為は命懸け・・ となると、冒頭に記した雄略天皇は菜を摘む少女と戦うつもり?


一筋道

              

雄略天皇の気まぐれな言葉を信じたため、女の人生を棒に振ったのが“赤猪子(あかいこ)”。本人はそのように思っていなかったかもしれないけれど、宮中に召されることを待ち続けた80年が彼女の人生といっても過言ではありません。“いつかきっと!”を信じて雄略天皇を待ち続けた生真面目な性分の赤猪子に反して軽はずみな口説き文句の記憶すらスッカリ忘れていたのが雄略天皇。適当な男の一言が純粋な女の人生に与えた影響は計り知れないものがあり一筋縄では行かないのが男と女の間柄。

女性名のように使われている“赤猪”は八十神の迫害で殺されたオオナムチが受け止めたモノとして古事記に登場していました。日本海に面した因幡(鳥取県東部)で素兎に出会い、その後伯耆(鳥取県西部)の国を通行していたのが気のいいオオナムチ。海岸沿いの東から西を目指して歩いていたオオナムチは八十神の荷物を自分の肩に背負っていました。人の荷物までショイ込んで歩き続けるオオナムチは八十神訴訟問題を起こす気持ちはなかったみたい。そしてその結果オオナムチは八十神の手を抜かない迫害で死まで受け止めることになります。その死に方は手間山の赤猪岩を受け止めたことによる焼死。赤猪岩を赤い猪だと思ったオオナムチは自分自身の身の安全より赤い猪を助けようとした殉死ともいえる死に方でした。

一人の男を80年も待ち続けた赤猪子の心情や赤猪岩に例えられた燃える岩が象徴する意味はマッスグ? どんな道もマッスグにだけ続く道はないように、真っ直ぐな人の心もいつかドスンとぶつかるのが社会というもの。路上で事故が多発するのは視界に見えていない転換点という急カーブ。しかし赤猪子のマッスグは中途半端ではなく、突き抜けるマッスグを持っていました。80年という気が遠くなる年月を一人で生き、短くなった老い先を自覚した赤猪子の真っ直ぐ人生には最後の仕上げが待っていました。自分で選択したマッスグ人生に泣き言を言わず、総仕上げをしようとした彼女の心情は清く美しい宝塚のよう。

赤猪子の人生ともいえる待ちの時間をそのまま終えるのではなく、過去の出来事を説明し自分の80年の志を雄略天皇に伝えました。“待てば海路の日和あり”という他力本願を捨て、自らの手でモノゴトをクリアにさせる自力更生の道を選んだのが赤猪子。「自分の80年を返してくれ!」と訴えに行ったのではないトコロがこのオバアの魅力。たくさんの土産まで抱え宮中に参内した赤猪子はマッスグをトコトン貫いた女性で、そんな女性に付けられた名前が白ではない赤い猪の子。

雄略天皇は目の前にいる老女・赤猪子を“白樫原童女(かしはらおとめ)”に例え、彼女だけに向けた彼女のための歌を赤猪子にプレゼント。本名・赤猪子の象徴となっている赤に反して雄略天皇が表現した言葉は意外にも“白樫”。雄略天皇の目に映った赤猪子は融通が利かない直進型の動く赤猪ではなく、動かない白樫。他の男と結婚するチャンスもあったはずの赤猪子の意思はユラユラ揺れず、雄略天皇だけに一筋?

一筋縄で行かないのが男女の仲とすれば雄略天皇が白樫に例えた赤猪子となら男男の仲になるので一筋縄で行く? 赤猪子にとっての人生の道は雄略天皇だけに続く一筋道でした。一方 自分の身より赤猪を救うことの方に重きをおいたオオナムチは再生して大国主神になりました。一筋道しか行けなかった赤猪を受け止めた優しいオオナムチは兎の予言通り八上比売を娶り、根国で出会った正妻スセリビメ以外に多くの女性と浮名を流したモテ男の根源はマッスグを受け止めることができた優しい強さ!


雷鳴を轟かせて落ちる鳴雷

             

雄略天皇に鳴雷を呼んでくるように命令され即座に実行したのが、近臣者の “小子部栖軽(ちいさこべのすがる)” という小さそうな人物。 この話が記されているのは、平安時代初期に作成された因果応報に関する仏教説話を中心にした日本霊異記。 一番が大好きな雄略天皇に仕えていた小子部栖軽のルーツは、神ハ井耳(かむやいみみ)命にありました。 

神ハ井耳命とは神武天皇の正妻が産んだ三人の男子のうちの次男・・でも皇位を継承したのは三男の末っ子で後の綏靖(すいぜい)天皇。 では長男(日子ハ井命)はというとほとんど無視です!  末っ子(神武天皇も4人兄弟の末っ子)が優勢な立場にあるのが日本。

チイサコベノスガルが天の鳴雷を呼びつけ呼びつけられた鳴雷が落ちてきた場所が、奈良県高市郡明日香村雷にある小さくて低い 『雷丘』 と言われています。 話では豊浦寺と飯岡の真ん中ぐらいに鳴雷が落ちてきたことになっていて、地理的に蘇我邸があったとされる甘樫丘のすぐ北に位置しています。

呼ばれて落ちてきた素直な鳴雷を拾い上げ雄略天皇の元に馳せ参じたチイサコベノスガルは、雄略天皇の命令をキチンと果たすことができました。 この命令には裏があって、女好きの雄略天皇が夜の仕事に励んでいた時 突如闖入したのがチイサコベノスガル。 慌てた雄略天皇はチイサコベノスガルを追い払いたくて、たまたまその場でとどろいた鳴雷を呼んで来いという言葉を発します。 チイサコベノスガルは素直に言葉を受けて行動できるタイプだったようで、彼の素直さに導かれるように落ちてきたのが素直な鳴雷。

雄略天皇が住まう宮に持ってこられた鳴雷が放った光・・ この光を恐れた雄略天皇は、光の根源である鳴雷を供え物とともに元の場所(落ちてきたトコロ)に戻すことにしました。 
そして自分より先に死んだ忠実な近臣を偲んで雷丘にチイサコベノスガルの墓を造り、墓碑に “雷をとらえた栖軽の墓” という言葉を刻みました。 話はそれで終わらず、このことを恨んだ(?)鳴雷が再び雷鳴を響かせてスガルの墓を蹴とばしたところ またまたその墓が割けて、割けた墓の間に挟まり身動きできなくなってしまったのが鳴雷。

この鳴雷は地上に落ちて囚われの身になりたくなかった可能性があります。 人間を驚かして楽しんでいるのが鳴雷の特性だと思うので、チイサコベノスガルに捕まったことはきっと鳴雷にとって不本意だったのではないか。 自分(鳴雷)の意思に反して天から落ちてしまう原因になったチイサコベノスガルが、自分の落ちた場所で眠ることが許せなかったのが鳴雷?

囚われの身になっていた鳴雷が、またしても挟まったのがスガルの墓に建てられた石の割れ目。 雄略天皇によって救出された鳴雷は何とか死を免れました。 そこで雄略天皇は新たな墓碑に次の言葉を刻んでチイサコベノスガルの業績を称えました。 “生きている時だけでなく、死んでからも鳴雷をとらえた栖軽の墓” と。

生きている時は鳴雷を呼んで天から落とし、死んだ後も鳴雷を自分の石の割れ目に挟んで封じ込めたチイサコベノスガル。 スガルの血筋は神武天皇の次男だった神ハ井耳命でした。 彼は皇位を狙っていた異母兄の手研耳命を殺そうとした際、イザ殺す段階で手足が震えて殺すことができず 一緒に居た弟の神沼河耳命が兄に代わって殺しました。

記紀では躊躇せず義兄を殺した神沼河耳命が日本の二代目天皇になり、兄の神ハ井耳命もそのことを了承しました。 天皇になるための資格は、何のためらいもなく簡単に人を殺すことが必須条件のような気がします。 チイサコベノスガルはそんな血は流れていなかったということ・・ 逆に雄略天皇は残虐性を持っていたということになります。 では鳴雷はどんなルーツだったのか?  

火の神を出産するため犠牲になって死んだ母イザナミノミコトの亡骸の左足に誕生したのが鳴雷。 迦具土神の犠牲になって命を落とした母親のウジやハエがたかる亡骸(黄泉国)が鳴雷のルーツです。 呼ばれて素直に落ちてくる鳴雷の故郷は黄泉国。 この話から感じる黄泉国の黄色い泉は決して濁っていないように感じます。 鳴雷にとって似たような気性だと信じた素直なチイサコベノミコトの背景には雄略天皇の存在がありました。 そんな雄略天皇に救われたのが鳴雷・・ 人間関係は奇妙で不思議!

女相撲の演出

               

高野山や比叡山がかつて女人禁制の山だったように、 “相撲” の世界も女人禁制のはず! しかし日本書記に記された雄略記によると雄略天皇十三年秋九月に女相撲が行われたと書かれています。 命じたのは雄略天皇、命じられたのは采女そしてその女相撲を強制的に観るよう仕向けられたのが “猪名部真根(いなべのまね)” という石の細工人でした。

彼は今まで石を細工する際 間違って刃を傷つけたことは一度もないというぐらいの完璧な細工人。 そこでその事実を信じることができなかった雄略天皇は、采女にフンドシを締めさせ女相撲を実践させました。 この話は史実というより何かを伝えるためのフィクションに構成されているように思います。

雄略天皇は自分に逆らうヤツラを全員殺して天皇の地位を確立したことでも有名な人物。 とにかく自分がトップでないと気が済まないようで、万葉集のトップを飾る歌も何故か?当然!雄略天皇の “こもよ みこもち・・” で始まる歌。 これらのことから考えても雄略天皇はトップが好きでトップにいなければイライラするようなタイプだと思います。 
そんな雄略天皇の反感を買った人物がもしかして猪名部真根?

雄略天皇は真根にこのように問いかけました。 「たまには間違って刃先をぶつけて欠けさせることはないのか?」 真根の答えは、「決してそんなことはございません」 という雄略天皇にとっては信じ難い言葉。 その真根の言葉を受けて雄略天皇は、采女たちの相撲を真根の目に触れるトコロで行わせています。 真根は横目でチラチラ女相撲眺め、その結果 誤って斧の刃先を台座の石にぶつけてしまい刃が欠けてしまいました。       

要するに雄略天皇は、真根の気が散るように女相撲を企画したという風に考えられるのですが・・ だって女相撲でしょ! 締めているのは股のフンドシだけなので乳房がユラユラ揺れてしまう。 ぶつかるにしても乳房が邪魔になりそうだし・・ 女同志が乳房を揺らして闘うというのはチョット見苦しい! 見苦しいけれど面白そうな女相撲をつい観てしまった真根は、キッチリ雄略天皇の策略に引っ掛かってしまいました。 処刑寸前の真根はギリギリで死を免れたという話の意図するところは何なのか。

雄略天皇は間違って刃先を欠けさせることは絶対にないと自信を持って言い放つ真根の言葉に、反発しているように思います。 人間だから間違うことはあっていいのだという考え方もできますが・・ さらに雄略天皇が仕掛けたことは、通常の相撲ではなく女相撲。 相撲は裸になって闘うことを考えると、女に相撲をさせると必然的に女を裸にできる? 裸の女に気が散るのは男なら自然ですね。 気を散らさず黙々と仕事をこなす男のほうがちょっと心配だったりして・・

真根と雄略天皇の逸話から想像できることは、古代日本から脈々と受け継がれてきた女人禁制という仕組み。 女人禁制とは神聖な場所と考えられていた社寺や霊場などへ女性が立ち入ることを禁止する制度のこと。 特に呪力の獲得を目指す修験道で女人禁制システムが図られていることを思うと、呪力を手にするには女が近くにいては困るということかな。 男の本能的な性への欲望で神聖な道を汚す怖れがあるのかも・・ いずれにしても女人禁制と神聖さは合致しているように思います。

今昔物語に語られていた “久米仙人” も初めは神通力を持っていたけれど、久米川の川辺で洗濯していた女性の白い脛に見とれてしまい神通力を失い堕落して(?)その女性を妻にしたという話が伝えられています。 久米仙人は神通力を失ったからこそ白い脛の女性と結婚できたことを思うと、結婚するには神通力があると不都合ということでしょうか。 
逆に神通力を獲得したければ女人結界の世界に身を置く必要がありそうです。

多くの女を周囲に侍らせていた雄略天皇は神通力に通じていなかった可能性が・・ 神通力より女に目線が注がれているようで、トップを好むタイプは女好き? 女相撲を演出した雄略天皇の真意は、自分自身が女相撲を観たかったからではないか・・ 猪名部真根が巻き込まれた女相撲は、日本を代表する日本書記に記されていて 演出者は何事も一番でないと納得できない雄略天皇でした。 日本国というものが垣間見える話だと思います。

雄略天皇の血筋

   

暴虐の限りを尽くして皇位に就いた雄略天皇は、即位後も自分の意にそぐわないと 見境なく相手を殺しまくり斬りまくりました。 ある面 人間離れしているような気もします。 5世紀の半ば頃に国を統治していたと考えられる天皇で、自分の思う通りを貫き通した人物でもあります。

とにかく自分の邪魔をするヤツは すべて敵とみなして話し合いで解決を図ることをせず、強大な武力で相手をこの世から消しました。 そんな権力を行使する天皇に逆らえば殺される可能性があるので、反対を唱える人は誰も現れず すべてこの国の統治は雄略天皇の意思が優先されて、国の統制が図られていました。

女の扱いも身勝手この上なく、一夜に何度も交わった “童女君(おみなぎみ)” が生んだ子を初めは我が子と認めず、「一晩で孕むはずはない!」 と言ってのける人物。 この言葉・・どこかで聞いたことがあったっけ・・ 確かニニギノミコトが木花開耶姫と契ったときも 「一晩しかやっていないのに本当にワシの子か?」 と疑っていたのと同じ血が雄略天皇にも流れているようです。

その時のコノハナサクヤヒメは火中出産で男(ニニギノミコト)をアッ!と言わせるタメゴロー的女性でしたが、今回の雄略天皇が手をつけた女は “采女(うねめ)”。 采女とは、地方豪族が天皇家に服従する証しに人質として差し出す女性のことでした。

采女の童女君の父は、春日和珥臣深目で “和珥(わに)氏” の血筋。
また名前の童女君から推測すると、まだ幼い少女のような感じがします。
そんなワニ氏の血を受け継いだ童女君が、雄略天皇に疑われながら生んだ子が “春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ)” でした。

雄略天皇は疑って自分の子とは認めず 春日大娘皇女の養育は放棄していました。
しかし庭を歩く姿が余りに雄略天皇によく似た少女がいることに気付いた側近の者(物部目)が、雄略天皇にその事実を伝えました。 「一夜で身籠るのは変だ」という雄略天皇の発言に対して物部目が次に言った言葉は、「一夜に何回交わったのか?」というかなり立ち入った質問。 雄略天皇は、こんな立ち入った質問によく覚えていたと感心するぐらいの記憶力で 「七回!」

結局 物部目の発言がキッカケになって、春日大娘皇女は雄略天皇の子として認められることになりました。 この話は、日本書紀に記述されていて古事記にはありません。 その後 成長した彼女は、仁賢天皇の皇后になって 後の世を雄略天皇以上に震え上がらせた武列天皇を産むことになります。
 
神代の頃の女性は火中出産で男を震え上がらせたけれど、時代が下ると現在の世と同じで 神から人への変遷が記紀から読み取れます。 童女君の血筋である和珥氏とは、奈良盆地北部を勢力圏とする豪族で天理市和爾(わに)町など地名に残っています。 和爾町に隣接する櫟本町に “和爾下(わにした)神社” があって、参道脇に “影媛あわれ” と題されたこんな歌が記されています。

     『石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎて 物多に 大宅過ぎ 春日 
        春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 
         玉もひに 水さへ盛り 泣きそぼち行くも 影媛あわれ』

この和爾下神社は別名を “春道宮(はるみちみや)” と言いました。 のどかな春の日を求めようとした影媛の恋人・平群の鮪(しび)が武列天皇によって殺されたことを憐れんで詠まれた歌のようです。

雄略天皇も孫になる武列天皇も、男としての猛々しさが勝っていて のどかな春の日には余り興味がなかったのでしょうか? スサノオノミコトが演じた神代の清々しい猛々しさは失せて、神から人への醜悪ぶりが増していくことになります。   

雄略天皇に似いた神

       

口数が少ない “一言主神” と 暴虐な君主として名を馳せた “雄略天皇” にまつわるこんな逸話があります。 そのストーリーとは雄略天皇が大和の葛城山へ狩猟に出かけたとき、向かいの尾根を自分たちと同じように狩りをしながら歩いている一行に出会いました。 その一行というのが葛城山を本拠とする一言主神のグループで、雄略天皇は持っていた弓矢や従者たちの着ている衣を脱がせて一言主神に献上しています。 でも自分自身(雄略天皇)が着ている服は脱がなかった?
    
それからしばらくして二人はまた出会い 一緒に狩りをして楽しんだという話です。 なに・・それでオシマイなの? そしてまたまたしばらくして 二人は出会い一言主神が雄略天皇と争って狩りをしたので 天皇は怒って一言主神を土佐国に追放しました。 雄略天皇を中心にして話をまとめると初対面ではかなり丁重に人に接しています。 再会した時にはどうってことなく一般的によくありそうなシーンです。 

そしてホップ・ステップ・ジャンプで飛んだ三回目が問題でした。 もし争わずに一言主神が従っていれば流されるようなことはなかったとしたら 神は天皇に従わなければいけないってこと? あるいは口数が多い神ならこんなことはしていなくて 口数が少ない一言主神だったからということも考えられます。

とりあえず物語に従うと天皇を怒らせた原因として考えられることは “競い合い”? 二度目に会った時は仲良く狩りをしていたのに 相変わらず気まぐれな雄略天皇です。 「自分と張り合う奴は許さん!」ということなら常に一番でなければいけないのが天皇ということになってしまいます。 一言主神は常に口数が少ないので逆らわずに天皇の指示通り土佐に流されました。

流されたとされる土佐一ノ宮の “土佐神社” には味鋤高彦根神と一言主神が合祀されています。 味鋤高彦根神といえば天稚彦の葬儀のため高天原を訪れたとき、天稚彦の家族に生き返ったと勘違いされるくらいに稚彦に似ていた神です。 「死人と間違えるとは許せん!」と怒って持っていた剣で喪屋を斬り倒してしまったという話も伝わっています。

キーワードは “似ている” こと・・高知県では【似ている人】のことを【似いた人】というように表現します。 高知県の地図を見ると仁井田という地名がアチコチにあって 雄略天皇と一言主神 天稚彦と味鋤高彦根神 お互いどこか似ていたようです。 似ているということは区別がつきにくく、古代社会では一つの許されない罪だったように思われます。 ただ似ているということだけで罰せられた無口な一言主神・・

この神の一言を想像してみました。 やってられん! こんな世界はイヤダ! つまらん争いはやめろ! うるさい静かにせえ! 美しいものはないのか! 一言主神はたくさんの言葉をため込んでいたのですね。

赤猪子の衣は赤かった

            

「おまん(土佐弁であなたという意味)!他の男に嫁がないでおれ。いずれ宮中に召すから・・」 こうして声をかけられた“おまん”は引田部赤猪子(ひけたべのあかいこ)。無責任にも気まぐれに声をかけたのは雄略天皇でした。 その言葉を鵜呑みにして待つこと80年(今いくつ?)。 

今でもいい加減オバアなのに このまま時を重ねればあの世行きの紙キレが舞うだけなのでナントカセニャと考え 自分が今まで生きてきた仕上げをするための行動に出ました。 その行動とは雄略天皇のおそばに行くこと・・そこでたくさんの献上品を携えて雄略天皇を訪れました。 ところが女に声をかけることが日常の雄略天皇は赤猪子のことは記憶に残っていなかったのです。

しかしこうして自分が言った言葉を信じて待っていてくれたような雰囲気のオバアを目の前にして 追い返すこともできず・・かといって結婚するにはその時期を逸していることを考え 今 目の前にしている赤猪子の80年という歳月の心の内を思いやり 歌を贈りました。

    御諸の 厳白樫(いつかし)がもと 白樫がもと ゆゆしきかも 白樫原童女
 
赤猪子は雄略天皇にとって神聖な女性として捉えられています。 特に白樫が何度もくり返され赤猪子を白樫にたとえて “ゆゆ(由由)しい” と表現しています。 白樫はギリシャ・ローマ神話で神に捧げる木とされています。 また雷が落ちやすい木という説を裏付ける話としてギリシャ神話の最高神であるゼウス(Zeus)が人間の愚かな行為に警告を発するとき 他の木より堅い樫を選んで矢を射るためと信じられていました。 もし堅くなければ射られることはなかったので堅いというのも考えものではあります。

また “樫の実” は一つの殻に実がひとつしか入っていないことから歌を詠むとき “一人” を引き出す枕詞としても使われています。 さらに徒競走の “徒” をカシ(かち)とも読み “乗り物に乗らずに自分の足で歩く” という意味になります。 これらのことから考察すると赤猪子は白樫にとてもふさわしい女性でした。

しかし 考えようによっては雄略天皇の言葉を信じずに他の男と出会って結婚する道もあったので生きることは何とも微妙。 でも結婚したからといって幸せになるとは限らないし・・・クドクド

とにかく結果として赤猪子はひとりを選びました。 白樫にたとえて自分のことを詠んでくれた雄略天皇の歌をきいて 赤猪子は赤染めの袖を濡らしたという風に記されています。 赤猪子はただ一人誰にも頼らず誰にも愚痴を言わないで生きてきたことが想像できます。 赤染めの衣の赤はとても寂しかった赤猪子の心から噴き出した真っ赤な血の色の赤?     

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