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- 2022.04.05 Tuesday
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われこそは告らめ 家をも名をも
雄略天皇が管理する大和の丘で見初めた美しい少女の家や名前をしつこく聞いています。彼女は籠と掘串(土を掘り返す道具)を持ち、大和の丘で菜を摘んでいる様子。自分の国に立ち入った少女こそ我が妻となるべき女性・・ということで、家はどこ? 名前は何? 夫になるべき私に言うべきだ!・・と迫っています。
“のる”と読まされる『告る』は本来、神の託宣を意味する言葉でした。親が命名した名前ではなく少女のホントの名を知りたかったのが雄略天皇で、古代における真の夫婦は互いに神の意志が加わった名告り行為をする必要がありました。名告ることは求婚することと同義と考えられ、雄略天皇は大和の統治者であることを少女に打ち明けています。一方、菜を摘む少女は結婚するつもりがあったのかどうか。家を教えろ、名を言え、などと迫られると幾分引いてしまうような気もするのですが・・
みさご居る磯廻に生ふるなのりその 名は告らしてよ親は知るとも 山部赤人
雄略天皇の気まぐれな言葉を信じたため、女の人生を棒に振ったのが“赤猪子(あかいこ)”。本人はそのように思っていなかったかもしれないけれど、宮中に召されることを待ち続けた80年が彼女の人生といっても過言ではありません。“いつかきっと!”を信じて雄略天皇を待ち続けた生真面目な性分の赤猪子に反して軽はずみな口説き文句の記憶すらスッカリ忘れていたのが雄略天皇。適当な男の一言が純粋な女の人生に与えた影響は計り知れないものがあり一筋縄では行かないのが男と女の間柄。
女性名のように使われている“赤猪”は八十神の迫害で殺されたオオナムチが受け止めたモノとして古事記に登場していました。日本海に面した因幡(鳥取県東部)で素兎に出会い、その後伯耆(鳥取県西部)の国を通行していたのが気のいいオオナムチ。海岸沿いの東から西を目指して歩いていたオオナムチは八十神の荷物を自分の肩に背負っていました。人の荷物までショイ込んで歩き続けるオオナムチは八十神訴訟問題を起こす気持ちはなかったみたい。そしてその結果オオナムチは八十神の手を抜かない迫害で死まで受け止めることになります。その死に方は手間山の赤猪岩を受け止めたことによる焼死。赤猪岩を赤い猪だと思ったオオナムチは自分自身の身の安全より赤い猪を助けようとした殉死ともいえる死に方でした。
一人の男を80年も待ち続けた赤猪子の心情や赤猪岩に例えられた燃える岩が象徴する意味はマッスグ? どんな道もマッスグにだけ続く道はないように、真っ直ぐな人の心もいつかドスンとぶつかるのが社会というもの。路上で事故が多発するのは視界に見えていない転換点という急カーブ。しかし赤猪子のマッスグは中途半端ではなく、突き抜けるマッスグを持っていました。80年という気が遠くなる年月を一人で生き、短くなった老い先を自覚した赤猪子の真っ直ぐ人生には最後の仕上げが待っていました。自分で選択したマッスグ人生に泣き言を言わず、総仕上げをしようとした彼女の心情は清く美しい宝塚のよう。
赤猪子の人生ともいえる待ちの時間をそのまま終えるのではなく、過去の出来事を説明し自分の80年の志を雄略天皇に伝えました。“待てば海路の日和あり”という他力本願を捨て、自らの手でモノゴトをクリアにさせる自力更生の道を選んだのが赤猪子。「自分の80年を返してくれ!」と訴えに行ったのではないトコロがこのオバアの魅力。たくさんの土産まで抱え宮中に参内した赤猪子はマッスグをトコトン貫いた女性で、そんな女性に付けられた名前が白ではない赤い猪の子。
雄略天皇は目の前にいる老女・赤猪子を“白樫原童女(かしはらおとめ)”に例え、彼女だけに向けた彼女のための歌を赤猪子にプレゼント。本名・赤猪子の象徴となっている赤に反して雄略天皇が表現した言葉は意外にも“白樫”。雄略天皇の目に映った赤猪子は融通が利かない直進型の動く赤猪ではなく、動かない白樫。他の男と結婚するチャンスもあったはずの赤猪子の意思はユラユラ揺れず、雄略天皇だけに一筋?
一筋縄で行かないのが男女の仲とすれば雄略天皇が白樫に例えた赤猪子となら男男の仲になるので一筋縄で行く? 赤猪子にとっての人生の道は雄略天皇だけに続く一筋道でした。一方 自分の身より赤猪を救うことの方に重きをおいたオオナムチは再生して大国主神になりました。一筋道しか行けなかった赤猪を受け止めた優しいオオナムチは兎の予言通り八上比売を娶り、根国で出会った正妻スセリビメ以外に多くの女性と浮名を流したモテ男の根源はマッスグを受け止めることができた優しい強さ!