兎道稚郎子

71歳という高齢で即位した応神天皇(111歳で崩御)の皇位を継ぐ立場にあったのは兎道稚郎子。 彼は応神天皇の妃だった宮主宅媛の子で皇后(仲姫)の子ではない。
にもかかわらず応神天皇は皇后の子(大雀命)をさて置き末っ子の兎道稚郎子を後継者に指名しています。しかし実際は先代の意志に反して皇位を継ぐことになるのが天皇のなかでも特に知名度の高い仁徳天皇(大雀命)。

 
行きつく先はすでに決まっていたかのように正妻の子が皇位を継承するわけですが、応神天皇の皇女の一人に兎道稚郎子(うじのわきいらつこ)と同じ名前の兎道稚郎女という気になる人物がいます。性が違うだけで同じ名前を持つ二人の母は和邇氏の祖・日触使主の娘二人。大雀命に皇位を譲った兎道稚郎子の母が姉の宮主宅媛で、仁徳天皇の妃になった兎道稚郎女の母が妹のおなべひめ(ふざけた名前だ)。

 
一方未熟な末っ子に皇位を継がせようとした応神天皇の意志に従わず、その末っ子を消そうとするのが大山守命。母は応神天皇の名前に似た品陀真若王の娘(高城入姫)で、大雀命の母で応神天皇の正妻だった仲姫の実姉になる女性。応神天皇とこの姉妹は景行天皇の孫同士という間柄になり、血縁的に近い。現代の世でもよく耳にするのが財産をめぐる肉親同士の血みどろバトルで、近い関係は“骨肉相食む”危険性を秘めています。

                    
その点、皇位を奪い合わず互いに譲り合ったとされる大雀命と兎道稚郎子は血縁的に近くなかったのかも。さらに仁徳天皇の妃として嫁いだ兎道稚郎女には子がなく、次の代に禍根を残すことはない。難波天皇という名で呼ばれた仁徳天皇に対し、和邇(和珥・和迩・丸邇)氏の血筋を受け継いでいた兎道稚郎子は宇治天皇(播磨国風土記)とも呼ばれていたらしい。兎道と書いてウジと読む兎道稚郎子&兎道稚郎女の生き方は火中出産で生まれた三人兄弟の真ん中の子でほとんど話に加わらない火須勢理命に似ているように感じます。

 
山(弟)と海(兄)の対立を避け、地球とは違う場所を自分の住処にしているような・・ またスサノオノミコトの一人娘で大国主の嫡妻だった須勢理毘売も子がなかったことなどを合わせて考えると、兎道を歩む弱い二人は山にも海にも属さずその真ん中(平地?)で生きるタイプ。バランス重視型の二人に流れているのが大和盆地東部(天理市)を拠点に活躍していた古い豪族ワニ氏の血筋。兎の相手をするのは亀(爬虫類)だけではなく、因幡のワニ(爬虫類)もそうだった。自ら身を引くことで大雀命に皇位を譲ったとされる兎道稚郎子ですが、実際のところは政治に疎く自信がなかったのかもしれないネ。 


磐之媛

神武天皇も避けて通った難波を都にしたのが巨大天皇陵で知られる仁徳天皇(大雀命)。素朴な雀という名前が象徴するように統治者・仁徳天皇は民衆に負担をかけまいと質素倹約の日々を過ごしていました。雨が漏れる部屋があっても修理せず漏れない部屋(多くの部屋がある?)に移動するのが大雀命の手法で、竈の煙が立ち上るのを待っていた様子が伺えます。火のない所に煙は立たず、煙が立つことの意味は民衆が燃えて暮らすことを望んでいた? 聖帝と呼ばれる所以も自分より民衆を優先していたから?

母(神功皇后)の胎内に長い間いた応神天皇の子として生まれた大雀命のライバルだったのが菟道稚郎子皇子(異母弟)で、応神天皇が皇太子に指名した人物でした。
しかし菟道稚郎子皇子は大雀命に皇位を譲るため自殺。不自然な彼の自殺はその後の大雀命に大きな影響を与えることになるのですが、結果として父の皇位を継承することになるのが大雀命。その大雀命が正妻として迎えたのが嫉妬深いことで知られる葛城襲津彦の娘・磐之媛。見て見ぬ振りで夫の浮気を許せなかった磐之媛の出身地は一言主神と同じ葛城地方。

 
醜い顔立ちのため夜しか活動しないのが一言主神で、属しているのは鬼グループ?
神代の時代に溯って思い出すのが一言主神と同じように醜い顔立ちだった磐長姫。
天孫ニニギノミコトに嫁いだものの、夫に嫌われ追い返されるという惨めな仕打ちを受けています。また陰部を損傷したイザナミノミコトに仕える黄泉醜女も妻とは縁遠い存在で、男は醜い女を相手にしない? 口数の少ない一言主神と同じグループだったと思われる磐之媛も鬼のように怖がられる存在で、宮中に招かれたクロヒメ(吉備出身)は磐之媛の嫉妬を怖れ故郷に逃げ帰ったという話。

               
 君が行き 日長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ   磐之媛

             
長い期間に渡り一人で生活していた磐之媛。一人にさせたのはもちろん気の多い仁徳天皇。迎えに行こうか待ち続けようかと悩む磐之媛の心情はどう考えても嫉妬に狂う女性とは思えない。最終的に磐之媛は仁徳天皇の元を去ったことから考えると、夫や愛人に対する嫉妬というより男女関係の乱れに愛想が尽きたのかもしれない。黄泉国の黄泉醜女も浮気性の男に愛想を尽かした女たち? 男に翻弄されなかったという点で磐長姫と磐之媛は共通点があり、やはり妻には不向き。男に翻弄されるのが妻の役割で、翻弄されない女は妻にはなれない。

             
磐之媛に去られた仁徳天皇はその後八田皇女を正妻として迎え入れています。元々は仁徳天皇の浮気相手だった八田皇女。磐之媛の崩御で仁徳天皇の後妻になるのですが、そのルーツは先に示した菟道稚郎子皇子の実妹。仁徳天皇にとっては異母妹となり、近親関係にありました。先妻・磐之媛との別離は近親関係になかったから?
結婚するとその夫婦は似てくるという話の根拠は同じルーツ? 見て見ぬ振りをしなければ結婚生活は長続きしない。全く反対タイプの磐之媛と仁徳天皇の結婚は破綻という結末で納得。  


長皇子

天智天皇の皇后だった倭姫王には子がなく、妃や嬪という立場の女性を初め夫人・采女・宮人が天智天皇の子を誕生させることで天智系を存続させました。その中で宮人という立場の女性が産んだ子の一人が大江皇女で、天武天皇の妃の一人として天智系から天武系に嫁いでいます。彼女の母は忍海造色夫古娘という耳慣れない宮人、大田皇女やウノノサララの母は嬪という立場に立つ遠智娘。同じように天智天皇の皇女ではあっても母親の血筋が違っていたせいか、興味深い話は何も伝わっていない。

 
     
霰打つ 安良礼松原 住吉の 弟日娘子と 見れど飽かぬかも

 
 この歌の作者が大江皇女の子・長皇子で、他に4首が万葉集に収められています。
     霰(あられ)打つ安良礼(あられ)松原というリズムが心地いい。

           霰は降るもののではなく打つもの?

      安良礼松原(大阪市住之江区安立辺り)のアラレはアララ、
      アララはアラアラ(粗粗)でまばらな松原を
表現する言葉。

 松の少ない松原を長皇子と一緒に見たのが待たない住吉の弟日(おとひ)娘子。

   その弟日娘子と思われる清江(すみのえ)娘子が長皇子に贈ったのが
          住吉を代表する岸の埴生を詠んだ以下の歌。

 

      草枕 旅行く君と 知らませば 岸の埴生に 匂はさましを   

 

           帰る場所が分からない旅人が長皇子?

    世の無常を感じ僧になった西行が一夜を共にした江口の君に近いのが
               清江娘子だったのかも。

    となると長皇子も遊女・清江娘子と一夜を過ごした可能性が考えられ、

             皇位継承者としては完全に不適!     

            しかし歌の方では優れた能力を発揮し、
       長皇子から五代目の子孫に文屋康秀(歌人)がいる家系。

 祖母で宮人だった忍海造色夫古娘の色が長皇子に色濃く反映されていたのかも。                 


髪長姫

持統天皇の皇位を継承した文武天皇は当時まだ15歳。長男(草壁皇子)が若くして亡くなったせいか、持統天皇は早々に孫(文武天皇)を後継者に設定しています。しかし実権は孫の後見役となった祖母が握っていたはず。その後文武天皇の皇位を継承することになるのが母・阿閉皇女(天智天皇の娘)で、文武天皇もまた父と同じぐらいの若さ(25歳)で他界しています。祖母の影に隠れその実体が見えないまま亡くなった文武天皇ですが、注目するキッカケになったのが安珍に裏切られた清姫が蛇体となり安珍を焼き殺す清姫の悲恋物語。

 
その舞台になった道成寺(和歌山県日高郡日高川町鐘巻)創建にかかわっていたのが文武天皇夫人だった藤原宮子。彼女は藤原不比等の娘(養女)として文武天皇に嫁ぐことになるのですが、問題はその出自。道成寺に近い漁村(現在の御坊市)に住む早鷹&渚夫婦の間に誕生したのが宮子すなわち髪長姫で、当初宮子は髪の毛がない状態で生まれてきたそうな。髪の毛がないのに髪長姫? 矛盾するその話の背景にあるのが彼女の母が実践した犠牲的行為。不漁が続いていたその浦の原因を探るため、宮子の母が民衆代表として海に飛び込みます。こうして渚の勇気ある決断のおかげでその浦は豊漁に恵まれ、禿げていた宮子は髪長姫に・・

                                    
文武天皇に嫁ぐことになるチャンスをつくったのも彼女のその長い髪の毛でした。
宮子は原因究明のため自らの命を顧みることなく行動した母の話を文武天皇に打ち明け、それを聞いた文武天皇の命令で創建されたのが道成寺。(ふう〜ん) しかし文武天皇に嫁いだ宮子は首皇子(後の聖武天皇)を出産後、心的障害で長く苦しい日々が続きます。宮子がもし長い髪の毛でなければ藤原不比等の目に留まることもなく、文武天皇に嫁ぐこともなければ心的障害に陥ることもなかったはず。手入れが大変な長い髪の毛で人生が大きく振れた宮子は一体何者だったのか。

                  


実盛虫

死んで怨霊になったのが道真なら、死んで虫になったのは実盛。平家軍の武将として老いてなお源平合戦に臨んだ実盛が討死の時を迎え、“虫になって食いつくす”という言葉を残して死んだそうな。その食いつくす対象物が日本人の主食“稲”。討死の際、実盛が乗っていた馬が転倒したのがキッカケで実盛は討たれます。何故馬は転倒したのか? 稲の切り株につまずいたから。

            
平家物語に登場する“斉藤実盛”は源氏と平家の間で揺れた武将でした。スタートは源氏の武将で、死に際は平家の武将。源平ともに恩義を感じていた実盛は時に源氏の一員として、また時に平家の一員として戦いの日々が続きます。そしていよいよ最後の時を迎えた老武士・実盛。馬も老いていたのか馬と一緒に転倒。そこで実盛の怨念は稲に向けられ実盛虫が誕生。

 
実盛虫の別名は稲を食い荒らす害虫“ウンカ(語尾をハッキリさせること)”。セミに似た小さな虫が浮塵子(うんか)で、浮遊する塵のような子が稲に害を与える?
江戸時代に起こった享保の大飢饉の原因となったのが実盛虫の大発生で、馬ともども転倒しサカサマになったことに対する憤りはすさまじい。最後を迎えるその瞬間まで若武者のつもりで白髪を黒く染め戦い続けた実盛の主食は何だったのか。白米でないことだけは確かだよネ。

                         


皇位継承者

一夫多妻の世で天武天皇の血を受け継ぐ皇子は10人。普通なら長男(高市皇子)が後継者になるはずですが、天智系ほどの身分ではなかった母(胸形尼子娘)の影響で後継者争いに参加せずに済みました。異母姉である十市皇女の死に際し詠まれた高市皇子の歌(三首)のイメージからすると地位より愛情に重きを置くタイプかな。さらに気になるのは柿本人麻呂が高市皇子に向けた壮大な挽歌で、他の人が持ち合わせていない大きな魅力があったのかもしれない。皇位継承から外れる原因になった母・胸形尼子娘は筑紫宗像の豪族の血を受け継ぐ女性で、古くはスサノオノミコトが誓約で誕生させた宗像三女神との縁も無視できない。

 
10人の皇子の中で皇位継承争いの中心的存在が天智系の母を持つ草壁皇子(母はウノノサララ)と大津皇子(母は大田皇女)。ウノノサララの実姉になる大田皇女は大津皇子が5歳の時に他界し、祖父になる天智天皇に引き取られて成長します。一方姉と同じように天智系から天武系に嫁いだウノノサララは天武系存続を願い我が子を皇位継承者にしたかったはず。そんな彼女の思惑通り大津皇子は処刑され、天武直系の草壁皇子が皇太子になったものの天皇になることなく28歳で早世。皇位継承に関わった二人は長生きできず20代後半で他界しています。夫の後を継がせる息子を失ってしまったウノノサララは自ら即位し、持統天皇として天武系存続に力を注ぎ始めます。
そんな持統天皇の片腕となり国を支えるのが天武天皇の長男だった高市皇子。                

              
謀反の罪で処刑されたはずの大津皇子ですが、彼の意外な側面を伝えているのが薬師寺縁起。天武天皇の発願(妻の病気平癒)で着工が始まった薬師寺(元々は飛鳥にあった)は持統天皇による本尊開眼を経た後、三代目の文武天皇(草壁皇子の子)の時代に完成します。薬師寺縁起が伝える話では世を嫌って二上山に籠っていた大津皇子が誰かに訴えられたらしい。その訴えにより掃守司の蔵に閉じ込められた彼の怒りは爆発。悪龍となった彼の怒りは世を乱し人々を不安に陥れたというような筋書きで、悪龍すなわち大津皇子の霊を鎮めるため二上山の麓に寺を建立したそうな。その寺というのが現在の加守神社の近くにあったとされる掃守寺(廃仏毀釈で廃寺)。

 
カモリあるいはカニモリと読む“掃守”で思い出すのが浜辺に建てた産屋に侵入しようとしていた蟹を掃き清めた話。屋根が完成しない産屋で出産に至ったのが夫・山幸彦を追いかけ海底から上昇した豊玉姫で、浜辺でウロウロしていた蟹が掃除の対象になっています。その蟹を箒で掃き清めたのが二上山の麓にある加守神社の祭神・天忍人命。前に進めない蟹はどこまで行っても前に進めない。大津皇子の怒りが爆発し悪龍誕生のキッカケを作ったのが掃守の蔵(蟹がイッパイ?)でした。謀反人のスタンプを押された大津皇子が現在眠っているのが二上山(雄山)の頂。ということは謀反人のスタンプを押した側の畏怖が麓から頂上に押し上げたという風に解釈できるわけで、大津皇子は無実だったと証明しているようなもの。ややこしい事態に巻き込まれないようにするにはスサノオノミコトのように八重垣の中で暮らすしかない。 


大友皇子

             采女は郡の少領より以上の
     姉妹および子女の形容(かお)端正(きらぎら)しき者を奉れ 

 
孝徳紀に記された采女の条件はまず顔立ちがいいこと。たとえ多くの財産があっても顔がキラギラしていなければ采女になれない? 古代における采女は天皇が所有する女性と見なされ、天皇以外の男が采女と通じることは犯罪行為。天皇の食事や身の回りの世話に加え夜伽も采女の大事な仕事。天皇に献上される立場の采女は年齢制限(13歳以上30歳以下)が課せられ、女性としての旬も重視されていたことが分かります。大切なのは若さと顔立ちで性格はどうでもいい?    

                 
いくつかの条件をクリアして采女になった女性の一人が“伊賀采女宅子娘”。彼女は伊賀豪族が天智天皇に献上した女性で大友皇子の母という立場を確保した采女。正妻だった倭姫王との間に子はなく、妃・夫人・宮人そして采女など多くの女性と交わり多くの子を誕生させたのが40代目の天武天皇と花いちもんめを演じた38代目の天智天皇。溢れんばかりの知略とテンコモリの打算兄弟の間に分け入り、39代天皇として即位したのが大友皇子(弘文天皇)でした。父・天智天皇が営んだ近江京(大津)を受け継いだとされる大友皇子ですが、叔父・大海人皇子と対立した壬申の乱で破れ自害に追い込まれていきます。


楽浪(さざなみ)の 志賀の大曲(わだ) 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも

 

幻の如く出現しアッという間に消え去った(667672)近江京(大津宮)を偲び柿本人麻呂が詠んだ歌。水利に恵まれた近江京を都に定めた天智天皇は水との関わりが深く、皇太子時代に水時計(漏刻・漏剋)も考案しています。そして天智天皇の意志を受け継ぎ、近江京を存続させようとしたのが大友皇子。しかし時代はそれを許さず、都はまたしても大和に逆戻り。その後聖武天皇が造営した恭仁京(山背国相楽郡)や離宮とされた信楽(紫香楽)宮など大和から逸脱した場所は歴史上存続できない運命にあるような感じで、最終的に都は大和(平城京)に戻されています。大きな和から外れることは決して許されないのが天皇の宿命?

 
自害したことになっている大友皇子のその後(都落ち)というのが伝わっていて、滋賀県大津を後にした大友軍一行は難波から船に乗り目指した先が千葉県南西部に位置する君津市。歴史が語る自害した大友皇子の実体は機密の影武者で、大友皇子は家族ともども東国で生き延びたそうな・・ その逃亡の事実を裏付ける痕跡が地元に数多く残されているようで、中央とは異なる話が地方で生き続けてきました。中央(大和)と合わないタイプだった大友皇子を誕生させた女性は伊賀豪族出身の采女で、忍びの術にかけては御手の物。そんな母の血を受け継いでいた大友皇子がお忍びで東国を目指したという話は意外に納得できる。


斉明天皇の孫

牽牛子塚古墳(奈良県高市郡明日香村)20メートル南東で新たな古墳が見つかったことで俄に注目されることになった大田皇女。報道されていた日本書紀の記述(牽牛子塚古墳の前に葬った)の“前”という言葉が気になっていました。今回発見された石室(越塚御門古墳と命名された)が牽牛子塚古墳(八角墳)の前とするなら、これら二つの古墳は北西から南東に向かうよう設計されたということ? 古墳の位置関係を示すのに前という曖昧な言葉で表現した日本書紀の作者の意図は何? 前があれば気になるのが後ろ。日本書紀に従うと大田皇女(孫)と斉明天皇(祖母)は前と後ろの関係

 
2010年の師走に突如注目を浴びることになった大田皇女の人間関係をひも解くうちに気になったのが大田皇女の弟・建皇子。生まれつき口がきけなかった建皇子を可愛がったのが祖母となる斉明天皇で、その原因の一つとして考えられるのが母(蘇我遠智娘)の出産時における狂乱ぶり。大田皇女(長女)・ウノノササラ皇女(二女)そして建皇子を産んだ直後に遠智娘は亡くなったとされています。謀反の罪で自害に追い込まれたのが遠智娘の父・蘇我石川麻呂で、追い込んだのが遠智娘の夫(中大兄皇子すなわち斉明天皇の子で建皇子の父)。父と夫の間で苦しんだ女性で思い出すのが十市皇女(天武天皇の娘であり天智天皇の子・大友皇子の妻)。トオチとも読める遠智(おち)娘と十市皇女はともに男たちが繰り広げる争いの犠牲となり、若い命を散らしています。

 
骨肉相食む戦乱の世で精神的に振り回された結果、精神が病んでしまった遠智娘と建皇子はそんな世の中を生き抜くことができず名前もほとんど知られていない。一方今回の発掘調査で考古学ファン以外の人にも名を知られることになった大田皇女は叔父になる大海人皇子に嫁いだ女性で、彼女もまた天智&天武の間で振り回されたように感じます。結局大田皇女も長生きできず幼い二人の子を残して命を終えたそうな・・

その幼い二人の子というのが歌作りに才知を発揮した大伯皇女と大津皇子。幼くして母を失い後ろ盾を失っていたのが大津皇子で、後ろ盾のない人物が政界に進出するのは難しい。その結果、血の連鎖が続くかのように大津皇子もまた自害に追い込まれていくのですが・・

      今城なる 小丘が上に 雲だにも 著くし立たば 何か嘆かむ

 

これは斉明天皇が夭折した建皇子を想って詠んだ歌(日本書紀に記載)。内容は“今城の地に我が愛する建皇子の殯の宮を建て彼の亡骸を安置した。雲が立ち上ってくれれば亡き孫の霊が天上に上ったシルシとして嘆くことはないのだが・・“ 今城は今来のことで、建皇子と渡来人がどう関わっているのか。この歌以外にも斉明天皇は孫を気にかけ、紀温泉行幸に際し次の歌を詠んでいます。

 

     山越えて 海渡るとも おもしろき 今城の中は 忘らゆましじ

 
“おもしろき今城の中”という表現に斉明天皇が孫と過ごしたかけがえのない時間を感じます。遺言では建皇子と合葬するように・・とのことだったらしいけれど、斉明天皇の深い想いはこの世で叶えられたのか。骨肉相食む争いばかりが強調されていたこの時代において、生まれつき喋れなかった建皇子の存在を歌で歴史に刻んだのが斉明天皇。この紀温泉(牟婁の湯)行幸で建皇子を思い出した斉明天皇は歌を詠むことで自分の心を慰め、以下の歌も合わせて詠んでいます。

 

     水門の 潮のくだり 海くだり 後ろも暗に 置きてか行かむ

          愛しき 吾が若き子を 置きてか行かむ

 

“これらの歌を後世に伝え決して忘れさせてはならぬ”という言葉も添えられました。変遷する時代とともに政治形態や統治者は入れ替わりますが、昔も今も変わっていないのがジジババが孫を愛しく思う気持ち。     


有間皇子

              

歴史が伝えるところの“有間皇子”は658年(斉明天皇4年)1111日、絞首刑に処せられ18年の若い命を終えました。処刑された理由は政治の中枢を握っていた斉明天皇と中大兄皇子に対する謀反で、その謀反計画が露見するキッカケを作ったのが蘇我赤兄。中大兄皇子の配下にいたと思われる赤兄が有間皇子に味方だと言って近付き謀反を誘ったという話もある一方、赤兄が有間皇子の謀反計画を中大兄皇子に密告したという話も伝わっています。胡散臭いのは蘇我赤兄。

 
赤兄の密告により捕えられた有間皇子は中大兄皇子の尋問に対してこのように答えています。「すべては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ。」 意味深な言葉ですが、気になるのは“私は何も知らぬ”という部分。赤兄に反発するなら理解できるんだけれど、何も知らぬではチト無責任では・・ 何があったのかは当事者にしか分かりませんが、その当事者の一人が罪人として絞首刑になる有間皇子。

 
ウィキペディアの解説には心の病を装い牟婁の湯(白浜温泉)に行き病気が完治したという風に書かれています。心の病を装っているという有間皇子に対する断定は誰がしたのか? 心の病は自分でも分からないことが多く、他人が心の病を装っていると決めつけることは断固反対! 牟婁の湯から飛鳥に帰って来た有間皇子はその土地の素晴らしさを斉明天皇に伝えたということですが、特に今のような冬場は温泉が恋しい。裸になって湯につかっている時はややこしいことは考えないもんネ。

 
心の病の完治が本当とするなら飛鳥の南に位置する温泉療養は正解。心が寒かった有間皇子は温泉につかることでエネルギーを得ることができたのかも。しかし温泉から帰ると同時に巻き込まれたのが政治スキャンダル。年がら年中 温泉療養する立場になかった有間皇子は、結局何も言わずに自分に下された絞首刑に従うことになります。有間(後に有馬と表記される)皇子に謀反の意志があったかどうかはさておき、伝わっている話だけで想像すると口数が少ないタイプのよう。そして口数が少ない分、和歌に秀でていた彼は辞世の句としてこんな歌を詠みました。

 

     磐代の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあれば また還り見む

 

もし有間皇子が口数の多いタイプなら赤兄と殺し合いになっていたかも・・という気がしないでもありません。


法のもとに湯があった

                       

古代における裁判制度に“盟神探湯(くかたち・くがたち)”というものがありました。現代で言う嘘発見器のようなもので、熱湯に手を入れることがルールの嘘発見湯? 別名を“誓湯(うけいゆ)”とも呼び、天照大神とスサノオノミコトが持ちモノを交換し歯で噛み砕いた誓約(うけい)制度にも似た感じがする神の裁き。    自分の身分や名前を偽る人が数多く現れ世の中が乱れていた治世を統治していた第19代・允恭天皇がこの制度を確立しました。

        
皇位継承のためなら肉親を殺してでも自分が天皇になろうとする人物が多い男社会で、允恭天皇は当初 天皇に即位することを拒んでいました。その理由は男社会では通用しない控え目という病気。仁徳天皇と正妻・磐之媛の4番目の男の子が允恭天皇で、三人の兄たちは殺し合う経緯を経て天皇の道に突進しました。しかし長男(履中天皇)と三男(反正天皇)の間に挟まれたニ男(墨江中津)は確かな理由もなくこの世から抹殺されています。

 
そんな兄たちと関わりを持たなかったのが4人兄弟の末っ子・允恭天皇。4人兄弟の末っ子だった神武天皇もたまたま兄たちが先に死んだため天皇に即位できたことを思い出すと4人兄弟の末っ子は何もしなくてもいつか自分にオハチが回ってくるような・・また允恭天皇の前の天皇の名前が反正(正しい状態にかえす)ということから戦いの世は終了したという風にも考えられ、允恭天皇の世で盟神探湯が完成したことは自然の摂理?

          
允恭天皇が確立した呪術的手法の盟神探湯とは煮沸した釜の中の泥を手で探り出すというもの。飛んで火に入る夏の虫のように泥だらけの手が火傷しなければその人は正しかったと判断され、前に進むことができます。しかし泥だらけの手が火傷してしまった人は恐怖で前に進めなくなるというのがクカタチの基本構造。他人に見られていないからと裏で悪事を働きバレナイことをいいことに楽観していれば、いつか化けの皮が剥がされる日が来るかもしれないしネ。

 

そして化けの皮が剥がされた場所が“甘樫丘(明日香村豊浦)”で蘇我蝦夷(父)と入鹿(子)の邸宅があった小高い岡に鎮座しているのが甘樫坐神社。歴史上初の女帝・推古天皇を祭神にしていますが、元々は八十禍津日神・大禍津日神・神直日神・大直日神ということらしい。ヤソマガツヒとオオマガツヒはイザナギノミコトが黄泉国から逃げ帰り禊をした時にカラダを洗い剥がれた垢から誕生した神。

  
神直日神と大直日神は“直”という漢字が示しているように曲がった禍(まが)を真っ直ぐに正す神。魔が差したという言い訳は通らないのが天地神明に誓う神明裁判の掟。穢れが存在して初めて正すことができるので、汚れから生まれた曲がったマガツヒ神は悪役を演じながら世の中をキレイにすることができる神だと思います。

 

そんな汚れた世の中を一掃する手段を講じたのが控え目で争い事が嫌いで女が好きな第19代允恭天皇。美しいことにかけてはピカイチだった衣通姫を愛したのもこの天皇。正妻・忍坂大中津比売との間に9人の子を誕生させ、兄(軽皇子)と妹(軽大娘)が愛し合う近親愛スキャンダルにも関わっています。

 
出世街道を極める肉親同士の血みどろの殺し合いに比べれば男女間の血みどろは、この世で成就できない愛ゆえのもがき苦しみ。煮沸された泥に手を突っ込んで見えてくるのは、その人自身もハッキリしていなかった自分の本性。ドロドロの泥試合で火傷するかしないかを最終決定するのは神。殺し合う人間より愛し合う人間を救済するのが神であってほしい! 


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