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- 2022.04.05 Tuesday
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夫であり父でもあった天日矛に尽くしていた赤玉から変身したアカルヒメ(明玉)ですが、ヒボコの度が過ぎた粗雑な言動に耐えきれず彼女はヒボコに言いました。「ハッキリ言って私はあなたの妻になるべき女ではありません。」 父と娘の婚姻はいつの時代も厳禁だったはず。さらに彼女が言うには「私は私の故郷(母の国)に帰ります。」という言葉で、新羅で誕生したアカルヒメの故郷は新羅ではなかったことが判明。新羅の王子ヒボコとは住む世界が違うと感じた彼女は海を渡ります。
海の向こうから日本にやってきたのはアカルヒメだけではなく、常世国出身の少彦名神や三輪山を住処にした大物主神も渡来神。また母の国に行きたいと言っていたスサノオノミコトに関する異説に紹介されていたのが新羅国のソシモリから海を渡って日本にやって来たこと。母の国を目指していたスサノオノミコトもまた新羅を嫌っていました。アカルヒメとスサノオノミコトに共通するのが母の国で、異国の神を拒否せず受け入れた国が母の国・日本だったような・・
出雲建国に精を出していた少彦名神(大己貴神の相棒)は早々に手を引き、自分の故郷・常世国に帰ります。最終的に高天原族の手に渡ることを知っていたと思われる事代主神の決断で日差しを遮る出雲国は消滅。その後高天原から落ちてくるのが生まれたばかりのニニギノミコトとその赤ん坊を世話する従者。後に大山祇神の娘(妹)コノハナサクヤヒメと結婚するニニギくんですが、醜い磐長姫(姉)を嫌い妻にすることを拒絶。さらに一夜の契りで妊娠したコノハナサクヤヒメに「ホントに自分の子か?」という醜い言葉を投げかけ、妻を怒りの火中出産に至らせる危険男が天照大神の孫でした。そんなニニギノミコトに従うことになったのが天照大神の岩戸隠れにかかわったメンバーで、彼らは天でも地でも従わなければいけなかった?
ということはこの辺りの土地はサルタビコ神が所有していたことになり、出雲国に続いて神風の伊勢国までもが都合よく天孫族に譲られたってこと?
枯野を 塩に焼き 其が余り 琴に作り かき弾くや
由良の門の 門中の海石に 振れ立つ 浸漬の木の さやさや
事代主神の個性として思い出すのは出雲(伊豆毛)国から伊豆方向に向き(北西から南東)再生を果たすことで余計な毛を排除することができた人物でした。高天原族との関わり(毛?)を排除することは自らを軽い立場に置くことにもつながり、そういう点では事代主神は過去の不快な出来事にこだわらない生き方を選択しています。
ライトには光という意味もあることから軽さは光? この世に光が存在する場所は枯野あるいは軽野ということになり、事代主神が祀られている軽野神社は過去を断ち切ることができる人だけに見える光輝く場所なのかも。
妊娠した妻に向かってニニギノミコトが発した言葉は“自分の子かどうか分かん!”。浅はかな夫の言葉に対し火中出産で三人の男の子を誕生させ、疑いを晴らしたのがコノハナサクヤヒメ。天孫という立場にあった男が発した言葉は甚だ軽い。
妻を傷付けていることすら分からん口軽男の妻になったのが大山祇神の娘コノハナサクヤヒメ。当初、大山祇神は二人の娘をニニギノミコトに嫁がせていました。
しかしニニギノミコトの選択は二人の女性を妻とせず、醜い顔立ちの磐長姫はイラン!と拒否。
妻を妊娠させる前段階からすでに自己チューの性格だったようで、岩のように永遠なる夫婦関係を願って送られたのが不細工(細工されてない?)な磐長姫。美しい細工に彩られた女性は受け容れても細工されていないスッピンの女性は虚仮にする?
口が軽いうえゴソゴソした細工好きで自分のことしか考えない男に拒否された磐長姫は、自分の人生を棒に振らずに済みました。一方気に入られてしまった妹は夫の不快な言葉と闘うため危険な炎に飛び込みます。二人の姉妹を振り回すことしかしていないのが自分で落ちる場所すら決められなかったニニギノミコト。(ア〜アッ)
しずかさや 岩にしみ入る 蝉の声
岩にしみ入るのは蝉の声に加えて虚仮にされたイワナガヒメの苔。イワナガヒメを拒否した賑わう天孫グループに苔虫神の心情は理解できないと思いますが、21世紀の現代まで歌い継がれてきた君が代の苔むした巌に通じるのは天孫族とは相性が悪かったイワナガヒメ。天孫にどれだけ虚仮にされようとも静かな生き方を求めたイワナガヒメは日本の苔文化を象徴する存在で、日本人本来の感性に通じるワビとサビを内包しているように思います。
安土・桃山時代に出没し、現代まで語り継がれてきた大泥棒の名前は石川五右衛門。
時代時代でコロコロ変わる政治家の名前より釜茹での刑に処せられたヒーロー的存在石川五右衛門の名前の方がはるかに知名度は高い。最近は余り使われなくなりましたが、田舎の農家で昭和30年代頃まで使われていたのが大きな鉄釜を用いた五右衛門風呂。暖炉のように薪をくべて燃やす形態の五右衛門風呂は一度沸かすと冷めにくいので冬の風呂にはモッテコイ! スイッチのオン&オフではなく炎が舞う熱は持続力があり、その温かさは長続きします。便利さの代わりに何か大切なものを落としてしまったような気がする日本人。
大阪で生まれ育ったエスマルは幼少期の頃から親に連れられ何度も田舎(高知)に帰省していました。そこで体験したのが五右衛門風呂。母屋と離れた所にあった五右衛門風呂は便所と隣接するような感じで、風通しのいい小屋みたいなものでした。湯の上にプカプカ浮いている板を沈めて入る習慣の五右衛門風呂ですが、この形態の風呂を知らない人は必ず浮いている板(サイズが合わないフタに見えるんですよネ)を取り除きたくなるもの。幼かったエスマルも例外ではなく不自然なフタを取って入り、すぐに出たように記憶しています。その後キチンと板を沈めて湯につかることを学んだけれど、いつの間にかその学びを活かす風呂が失われてしまいました。
五右衛門風呂で思い出すのは田舎のバアチャンが外で薪をくべて沸かしてくれたこと。わずかな会話だったけれど、その遠い光景は今でも深く心に刻まれています。
多くを語らなくても五右衛門風呂の外と内で心を通わせることができたのがかつての日本。しかし今は携帯電話でウルサイぐらい多くを語り合っても相手が何を考えているのか分からず心は寂しい。温かさを持続できた五右衛門風呂の減少に伴い増えてきたのが冷めやすいスイッチオンの便利なユニットバス。冬は熱湯を足しても足しても寒い感じで、五右衛門の心境に至ることはありません。釜茹での刑で死んだという五右衛門は冬なら気持ちよかったかも。ついでながら“薪”という漢字は草冠に新となり、新たな力で心の芯を温めてくれそうに感じます。
天孫ニニギノミコトの長男(海幸彦)と三男(山幸彦)は主従関係を明らかにするため持ち物交換ゲームを始めました。結果は山幸彦が“主”そして海幸彦は“従”という役を与えられ、主従関係は成立します。二人のルーツと思われる大綿津見神と大山津見神を生み出したのはイザナギ&イザナミで、綿と山がペアになることはありませんでした。大山津見神は野神(カヤノヒメ)と結婚して八柱の神を誕生させますが、大綿津見神は孤独で目立った話はほとんどありません。
海と山は昔から仲が悪かったようで、山の神より先に誕生していたのが海の神。先に生まれるとロクなことはない? さて海幸彦(漁師)と山幸彦(猟師)に戻して考えるとこの二人の母は大山津見神の娘コノハナサクヤヒメ。“ホントにワシの子?”と夫に疑われ、火中出産でその事実を証明させるぐらいに気の強い女性でした。そんな女性から生まれた末っ子が結婚することになるのが海神の娘トヨタマヒメ。では長男は山神の娘と結婚したってこと? 海幸彦に関する記述は余りないので確かなことは分かりませんが、話の流れからすると海と山はクロス関係。
ワタツミを漢字で書くと『海』や『綿津見』そして意外なのが『少童』。ワタツミ神は子供あるいは子供っぽい大人? 先の海幸彦と山幸彦の主従関係を振り返れば納得できる話だし、大人の支配下に置かれていることを感じている子供は現代にも多数いるはず。山と海の関係は大人っぽい大人と子供っぽい大人の対立でもあり、現実には大人っぽい大人が中心となってこの世界は回っています。大人になっても子供のように遊んでいると周囲の人間から駄目人間のレッテルが貼られ、挙句の果てに村八分!
話題は変わって世の中の裏も表もすべて知りつくした人を“海千山千”という風に呼ぶことがありますが、大抵の場合 好印象で呼ばれることはありません。しかしこの言葉が使われるようになったキッカケはある伝説によるものでした。その伝説とは悪役を代表する蛇が主人公の話で、胴体だけで這い回る足のない“蛇”が海に千年山に千年住めばこの世には存在しないはずの“竜”になるというもの。支配する側と支配される側をそれぞれ千年・・合計二千年のオツトメを完了すればホンモノの竜になれる? その長〜い務めを終了しない限り海族か山族に配分され、闘わなければいけないのがこの世。
* ホスセリに ホッ(火)と息かけ スセリヒメ *
漠然とながら“お月見”は9月半ば頃と感じていましたが、今年は今日(10月3日)がお月見の日。月の満ち欠け(新月から満月を経て再び新月に戻る)に要する29日か30日を一ヶ月と見なして作成された暦が旧暦(陰暦)で、今日がその旧暦8月15日(十五夜)で“中秋の名月”と呼ばれるお月見の日になっています。新暦に慣れ親しんでいる現代の日本人は毎年コロコロ変わる中秋の名月に合わせて月見団子やススキを用意しなければいけない。満月となる十五夜の月へのお供え物として月見団子が選ばれているのですが、お月さまは甘くて白くて小さい団子が好物ってこと?
この月見団子は日本全国一定ではなく地域によってオハギのように外側をアンでくるむ団子や羽二重餅のようにスベスベの白い餅の中にアンが包まれている団子(大福餅)など狭い日本といえど各地に残る風習は正反対に違っています。しかし月見に必要なのは甘い団子であることは間違いなさそう。辛い団子や苦い団子というのはまず考えられないので、満ちたお月さまが一番に求めているのは甘さ! 神社で神に捧げるのが神酒なら満月に捧げるのは団子。少なくともアンなしの白い団子を串に刺した御手洗団子のような団子は厳禁?
月見を彩るもう一つのものが風と一体化してユサユサ揺れるススキ。数ある植物の中から選ばれたのが秋の七草の一つでもある“ススキ(萩も月見に飾られることが多い)”。漢字で書くと“薄”以外に『芒』という漢字が使われていてどことなく侘しい感じになるけれど、草原に群生するススキの花穂が夕陽を浴びてキラキラ輝く情景をイメージするとススキに似合うのは黄昏の空をオレンジ色に染める夕陽。人と人の間に頻繁に発生する訴訟問題に揺れるのが地球とするなら、見えない風と一緒に揺れる黄金色の世界を形成するススキの故郷はきっと月。
おりとりて はらりとおもき すすきかな 飯田蛇笏
天岩戸の前でうつぶせにした桶の上に立ちヌード・ダンスを繰り広げたのはアメノウズメ。巧みな俳優(わざおさ)となったウズメは空洞になった桶の上でステップを踏みながら神懸かり状態になったと記紀は表現しています。その神懸かり状態とは背をそり露わに胸乳をさらけ出したうえに、裳の紐を番登(ほと)に忍(お)し垂れてステップしているような記述。神懸かると酒に飲まれたように自分の服を脱ぎたくなる? 特に裳の紐がホト(陰部)の辺りに垂れ下がっている状態は上半身と下半身の性がチグハグな感じ。そんな彼女を見て笑っているのが八百万の神なんだけれど状況は太陽神不在の暗黒の世界だったはず。
笑い声のある賑やかな様子を演出して天照大神の気を引こうとしているのが俳優アメノウズメ。特にコメディアンなどは人を笑わせてナンボの仕事。人を笑わすことができないコメディアンは舞台から退場してもらうしかないわけで、その点においてアメノウズメは恥じらいをかき捨てヌード・ダンスに興じることができたプロ魂の持ち主。しかし岩戸に隠れた太陽神不在のこの世で笑い声が巻き起こる現象はやはりヤラセ? 「あなたより尊い神が生まれました。」と言うウズメの言葉に思わず自分自身を覗き見してしまった天照大神。
その直後 洞窟から天手力男に引っ張り出されたのが一度死んで再び輝いた光(天照大神)。キリストが再生を果たしたように日本のトップ天照大神も再生しなければいけない立場にあった神。“生まれ変わった気持ちでスタートする”あるいは“死んだつもりで始める”という言葉がありますが、そのような強い覚悟でモノゴトに臨む精神を持っていたのが天照大神の血筋につながる日本人。死んだつもりで何かに取り組むことができる当人は余程辛いことを体験し、その辛さを乗り越えた結果の再生なんだと思います。ただ天照大神の場合は弟の“悪しき態(わざ)”が原因で岩戸に隠れました。このワザと読ます“態”もウズメのワザオサに似てスサノオノミコトがワザと姉を怒らせようとしたんじゃないのかな。
また日本書紀にウズメは“楽(あそび)をした”という記述があることから考えても神懸かりというより、ふざけてヌード・ダンスに興じた一種のお遊びが岩戸の前で実践されたように思います。面をかぶる神楽という名前で現在まで引き継がれてきた神々の陽気な楽に興味を示したのが天照大神。太陽神は楽が好き? 後の天孫降臨に際し天のヤチマタという分岐点で道案内を申し出た異国の住人・サルタビコに対峙したのが天照大神の前でふざけたダンスをして周囲を笑わせたアメノウズメ。ウズメの度胸を熟知していた高木神の指名により、彼女は敵かもしれないサルタビコに向き合うことになります。
サルタビコは外見に反して頼れる妻を求めてたってことかな。男に頼られたアメノウズメは手弱女から手強女に大変身。天が故郷だったウズメ(宇受女・細女)は故郷が違うサルタビコに出会い猿女君に改称。(結婚したから?) 一つの卵の中に存在する黄身(君)と白身の関係になったのがこの二人。しかし阿邪訶(あざか)の海岸で漁をしていた時に比良夫貝に“手”を噛まれ溺れ死んでしまうのがサルタビコ。
貝に手を噛まれたぐらいで溺れ死んでしまう話の真意は何なのか。手弱女から手強女になったサルタビコの妻はその夫の死をどのように受け止めたのか。猿田彦は念願通り五十鈴川の川上に辿りつくことができたけれど、一人残された猿女君(変な名前)が帰る場所は何処?
『古天地未剖“古(いにしえ)に天地(あめつち)未(いま)だ剖(わか)れず”』
これは日本書紀冒頭の言葉で、その後『陰陽不分。渾沌如鶏子。』という言葉が続いています。日本開闢(創世)神話が伝える原初の様子は天地の区別ができない状態で陰陽の区別もなく、鶏の卵の中身のように混沌(渾沌)としていたことが表記されています。聖書やギリシア神話にも共通する世界の創世は天地・陰陽の区別がつかない混沌(カオス)が原点。そしてその後に続く言葉が『溟滓(くぐも)りて牙(きざ)しを含めりき』。内にこもる状態の“くぐもる”鶏の卵が鋭い牙のような兆しを含んでいるということなのか・・フ〜ム
牙し(兆候?)を含む卵とは如何なるものか。何かが起こる前ぶれ現象をキザシと呼び、卵が割れるキザシとは殻にヒビがはいった状態かな。ヒビがはいると内にこもり続けることができなくなり外に飛び出すしかないのが卵の中身。そして飛び出した卵の軽いモノは天に、重いモノは地にと分離されることになったのではないか。陰陽で考えると真ん中の核になる黄身の部分が陽で、その黄身を保護する状態の白身が陰。ということは黄身で形成されているのが天で地は白身で成り立っている?
陽だけを含む別天津神(五柱)の出現後、神世七代が続きその最後(七代目)に出現するのが男女の区別が明確なイザナギ&イザナミの夫婦神。天地を陰陽の区別として考えるとイザナギとイザナミは住む場所が異なっているように思います。最終的に二人は仲違いをして黄泉国住人になってしまった妻を取り戻すため黄泉国訪問を果たす夫ですが、二人の終の住処は違ったまま。本来は一つのものだった陰陽を形成する夫婦神は多くの国土や神々を生み出したけれど、最後は夫婦喧嘩で歩んだ道は別々。
君により 言の繁きを 故郷の 明日香の河に 禊しにいく
この歌の故郷は飛鳥川。好きになった君との明日を信じて禊を実践しようとしている主人公。そして禊の場所に選ばれたのが故郷の明日香。明るい日の明日が来るか来ないかを決定するのは原初の姿に戻れるか否か。
太陽神のお使いを引き受ける三本足の烏が棲むという中国の伝説に基づく太陽の別名は“金烏(きんう)”。 昼を担当する太陽に対して夜を管理するのは赤目の兎が棲むと考えられた月で、別名“玉兎(ぎょくと)”。 明るい昼を受け持つ太陽と闇に包まれた夜を管理する月を総称して月日が過ぎ去る(太陽と月が順繰りにチェンジする)ことを『金烏玉兎』という言葉を使って表現しました。 黒いカラスは金そして白いウサギは玉にたとえられています。 また この言葉と同じ意味で使われているのが“白兎赤烏(はくとせきう)”。
ここで疑問発生! 金烏(太陽)玉兎(月)の順番が逆で、しかも黒烏ではなく赤烏ってどういうこと? 日本神話に置き換えると月読命が白兎で赤烏が天照大神ということに・・天照大神は女性ということで赤烏なのか・・フ〜ム。 あるいは染まらないはずの黒いカラスは太陽神の赤に染まったという理解もできそう。 さらに考えられることは赤は黒で黒は赤・・ホント?
太陽神にかわいがられた烏の特徴として考えられるのは足の本数。 三本という陽数でしかも素数。 風来坊のように全国各地を渡り歩く二本足の旅ガラスではなく、三本足のカラスとは何を表現しているのか。 一本足の案山子のように、三本のうちの一本を土の中に埋め込まれ旅烏になれなくなったカラスがもしかして金烏(赤烏)?もし金烏と赤烏が同一のものなら赤色は金を示していることになるのですが・・
一方 月に棲むことを許された兎は四本足ではありますが、前後の足の長さが異なり平地を歩くより坂をジャンプするのに好都合な足の形態をしています。 羽根がない兎は烏のように飛べないので足の跳躍力を利用して地面を蹴って月まで飛んだ?
さらに目が充血したように赤いことから想像すると兎は夜も眠らない(眠れない)?
眠らずに何をしているのかを想像すると夜の闇に危険なものが侵入しないように安全チェックをしているのかも。