川は流れる

婆さんが川で洗濯してるとその川上から桃が流れてきて、婆さんはその桃を家に持ち帰ります。天から肥河に降り立ったスサノオノミコトはその川上から箸が流れてきたのを見つけ、川上に住む人の家を探します。川で用を足していたセヤダタラヒメはその川上から流れてきた丹塗り矢に陰部を突かれ、その丹塗り矢を家の床の間に飾ります。昔の厠は川に設置され、流れる川の水で汚物を洗い流していました。

セヤダタラヒメの陰部を突いた丹塗り矢の正体は蛇体のオオモノヌシで、この両者の結婚で誕生するのが東征を成功させた神武天皇の后(実際は後妻)ヒメタタライスケヨリヒメ。汚物だらけの川にたとえられる大蛇を退治したスサノオノミコトに対し、本人の意思ではないにせよ結果として大蛇の子を生んでしまったのがセヤダタラヒメ。オオモノヌシの血を受け継いだヒメタタライスケヨリヒメは神武天皇と結婚し、その夫を失うと再婚します。その再婚相手というのが神武天皇亡き後の皇位を手に入れようとしたタギシミミ(先妻の子)で、仲が悪い象徴のような継母継子の結婚でした。その後タギシミミは神武天皇の子に殺されるのですが、その首謀者がナント!ヒメタタライスケヨリヒメ。大蛇を殺したスサノオノミコトのすがすがしい話と比較するとこちらのグループの話は陰湿極まりない。
         
          殺された八岐大蛇は懲りずに再生できる力を秘めていました。
             汚物で満たされた川も再生能力を秘めています。
               木の枝は折れるし人間の骨も折れる。
               しかし絶対に折れないのが流れる水。
           芭蕉の句(五月雨をあつめてはやし最上川)の最上は
              自浄力の最上という意味にもつながりそう。 


山・海そして川

 爺さんは柴(垣根に使う?)を刈るため山に行き、婆さんは洗濯(衣類それとも自分?)するため川に行く。老夫婦の行動範囲は山と川で山と海ではない。山幸海幸の話から考えると山と海は対立関係にあったにもかかわらず、山幸彦は海神の娘と婚姻関係を結んでいます。さらに山幸彦の子も海神の娘と結婚するという筋書きで、山グループに属する男性は海グループに属する女性を妻にしています。山を発源として流れ出た水は川となって流れ、最後に到達するのが海。水を中心に考えると山は淡水、海は海水となり水の質が違う。水が合わない結婚は洪水のように波乱万丈?

さくなだりに落ちたぎつ瀬織津姫は川の神でした。山グループに属する男性は滝のように落ちたぎつ姫を敬遠する傾向にあるようで、山と川の結婚話は語られていない。しかし高天原を追放されたスサノオノミコトが落ちる場所として選んだのが出雲国肥河の上流。そしてその川辺に住んでいたのがともに大山積神の子だった足名椎&手名椎夫婦でした。勢いがあったスサノオノミコトは勢いのある川の上流部に落ち、その川辺に住んでいた水が合う娘を結婚相手に選びました。山と海に挟まれた川神・瀬織津姫は神話に登場しない。登場しないということは神話の核をなす対立に巻き込まれたくない神とも解釈できるわけで、対立を避ける神は話から消される?

             ところで桃太郎の生みの親となったジジ&ババ。
        ジジの柴刈りは社会の迷惑にはならけれどババの川洗濯は困る。
               洗濯は桶で水を汲んでその中で行うこと。
                 残り水は自分の家に持ち帰ること。
                   公共の川を汚さないように!


再考・瀬織津姫

       さくなだりに落ちたぎつ瀬織津姫は琵琶湖を水源とする瀬田川が
     西に大きく湾曲する地点の佐久奈度神社(大津市大石)に祀られています。 
    

南から西に向きを変えた瀬田川は京都に入ると宇治川となり、その宇治川に架かる宇治橋三の間(橋の中ほどにセットされた場所)にも祀られていたらしい。瀬織津姫は右岸に行くか左岸にいくか決めかねていた? あるいはどちらにも行きたくない火須勢理(海幸彦と山幸彦の間に挟まれ物語には全く登場しない)タイプ? また桜谷(サクナダリの音に近い)明神という異名もあり、日本を代表する桜文化の根源神とも考えられる。

        以前、宇治川(宇治端近く)の流れを間近に見たことがあります。
           水量は多く勢いのある強烈な流れが印象的でした。
       人の罪・穢れを引き受けてくれる女神を天照大神の荒魂として捉えると
              その太陽的激しさは半端ではないはず。
 またギリシア神話の河神オケアノスが宇宙の根源神と見なされていたことを思い出すと、
       河神・瀬織津姫は日本で最も重要な神と見なすことができる。
  何故ならどんなに明るくてもチリとホコリの異常な世界で人は生きていられない。
 勢いのある宇治川の流れを前にした時のその清清しさは瀬織津姫のものだったんだネ。


瀬織津姫

                    高山の末、短山の末より、
         さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津姫といふ神、
                  大海原に持ち出でなむ。

               祓戸四神(三神は女神)の一人として
       世の中の禍や人が犯したもろもろの罪や穢れを川から海に流します。
         水に流せる女神の居場所はさくなだりに落ちたぎつ速川の瀬。
             天照大神の荒魂とも見なされている瀬織津姫。
         嫌な世の中だけど陽光と鮮烈な水があるから人は生きていける。
               


読みにくい川

高知県内にある市町村名で断然多いのが“土佐”というネーミング。まず高知県中央部に位置する土佐市、山間部の土佐郡土佐町、それに高知市土佐山という地区があり、土讃線の駅にもなっている土佐山田町というのもある。咄嗟に土佐と言われてもどこの土佐やら判別しかねる。


    

  仁淀川下流に注ぎ込む波介川(土佐市)に沿ってぶらぶらサイクリング。

 

    素直に読めば好印象を与えない“はかい川”あるいは“なみすけ川”。

         そこで読みがひねられ“はげ川”になりました。

素直に読んでもひねって読んでも好印象を与えることができない可哀そうな波介川。

       どうして波介がハゲになるの?と誰しもが感じるはず。

 
仁淀川財産目録書というホームページの説明では氾濫する波介川が時に逆流することで、田面がほげる(穴があく)原因になったらしい。ホゲルの方言がハゲルだったことからホゲル川ハゲル川→ハゲ川。破壊要素を持つナミスケが周囲の田に穴をあけたことが波介の読みに影響していました。

     

    国道56号線に沿うように西から東に流れる波介川の水質はよくない。

           しかも流れは滞り透明感はまるでなし。
     
しかしブラックバスの釣り場としては人気があるスポットで、

       魚が棲みやすいのは淀んだ水。     

     また波介川支流の一つに神母谷(いげだに)川というのがあり、

        特殊な地名 “神母” がココ波介地区にも存在します。


       
     チョロチョロ流れる神母谷川(砂防指定地)の水質はよさそう。

       しかし水量が多くないのでアチコチに水たまりが・・


    

  地元の人が花を供えてキレイにしていたお山の神様の御神水が湧き出るトコロ。

      波介山展望台につながる道(車OK)沿いにあったこの場所は
  土砂崩れでも起こしたかのように土がえぐられ、
木の根っこが見えていました。

   優しい流れの神母谷川は途中で多くの水たまりを形成しつつ波介川と合流し、
            最後は仁淀川という名前で土佐湾へ。

         このニヨド川というのも意外に読みにくいよね。


茨田一族

           

         淀川の 淀むと人は 見るらめど 流れて深き 心あるものを

平安時代の第六十代醍醐天皇の勅令で編集された “古今和歌集” に収められた歌で作者は未詳。 しかしこの歌を詠んだ人物は淀んだように流れる淀川が好きだったように感じられます。 淀んで濁っているようだけれど その真実は深い心の結果そのように見えているだけで、実際の淀川は清き流れだったことをこの歌に託しているように思います。

それぞれ異なった地域から流れてきた三本の川が、山崎という場所で合流してその後 大阪湾まで流れ出る川を淀川と呼んでいます。 三本の川のうち一本は琵琶湖から流れ出した瀬田川(滋賀県)が名前を宇治川(京都府)に変えて、大阪府に入ると淀川になります。 他の二本は丹波方面から流れてくる桂川と山城方面から流れてくる木津川で、この三本の川が合体した川が淀川。 異なるものをすべて引き受けて大阪湾に注ぎ込む役割を担わされたのが淀川ではないか・・

日本書紀の記述によると淀川は “北の河” と呼ばれ大阪平野を北東から南西(鬼の道)に流れる川。 一方 “南の河” に例えられたのが大阪平野を南東から北西方向に流れる大和川。 現在は別々のルートをたどって大阪湾に注ぎ込みますが、5世紀頃の大阪平野では淀川と大和川が合流しその結果 川の水が平野部に溢れ出すという洪水にしばしば見舞われていたらしい。 そんな危険な地域に築かれたのが “茨田の堤” というもので、淀川の下流左岸にあったその地域の名称(茨田郡)から名付けられました。

日本最古の堤防とされる茨田の堤を築くように命じたのが、難波を都に定めた仁徳天皇。
伝わっている話によると、仁徳天皇が夢の中で神の神託を受けて ある二人を人柱として捧げることを決定します。 突如 災難に見舞われたその二人の名前は武蔵野国の “強頸(こわくび)” と河内国の “茨田連の衫子(ころものこ)”。  絶対服従の天皇の命令で強頸は自らの命を投げ出し川に沈みました。

もう一人の衫子は神の言葉に納得がいかず、仁徳天皇に神託を授けたとされる神が真実の神かどうか判断するためにヒサゴ(ひょうたん)を川に投げ入れ、真実の神なら沈められるだろうと神を試す行動に出ました。 結果 ヒョウタンはプカプカ浮いたまま川をさすらい続け、茨田連の衫子は自分にふりかかった災難を 自分の判断で回避することができました。 
神でも悪魔でも人の言いなりはよくないということですね。

茨田の堤は茨田連の衫子の生贄がなくても無事完成! もしかして初めから生贄などなくても茨田の堤は完成していたのではないか。 生贄だと称して仁徳天皇がやっつけたい相手が先の二人だったように思います。 やりにくい相手は消せ!というルールに従って消された強頸。 一方 納得がいかない話で神あるいは仁徳天皇を翻弄したのが茨田連の衫子。

茨(いばら)の田と書いて、マンタあるいはマッタと読ます “茨田一族” とはどのような人物だったのでしょう。 言われた通りに従うことをしないで待った!をかけてよく考えるタイプだったように思われます。 仁徳天皇もきっとこういうタイプはやりにくいはず・・  それでやりにくい相手を消そうとしたものの、逆に衫子にシッポをつかまれてしまったのでは?

エライ人の言葉も鵜呑みにすると災難に遭うことがあるので注意しましょう。 多くの塵やゴミを受け入れながら流れ続ける淀川を詠んだ名もない誰かは、外見に惑わされず現実をしっかりした目で見る能力を備えた人物だったように思います。 他人が出すチリやゴミを引き受けることができる想いを淀川に託した作者は、人間の深い心をきっと知っていたのでしょうね。        

夢の曲

             

     我が行(ゆき)は 久にはあらじ 夢の曲 瀬とはならずて 淵にてありこそ

“夢の曲” と書いてイメ(夢)のワダ(曲)と読ます(?)歌の作者は大伴旅人(家持の父)。 “淵” は川や湖沼などの水が淀んで深い場所あるいは絶望の淵という言葉があるように浮かび上がることができない辛い状況も淵と表現します。 この淵に対する言葉が “瀬” で川の浅い場所または水の流れが急な所を示しています。

冒頭の歌は奈良の都を離れて九州大宰府で “吉野” を懐かしんで旅人が詠んだ歌とされています。 吉野とは奈良県南部に位置する高地で、大台ケ原を発源とする吉野川が町の中心部を西流しています。 この川は奈良県内を流れているときだけ吉野川という名で その後和歌山県に入ると紀ノ川という名に変わります。 川は流れる場所によってコロコロ名前が変化するということ?

吉野は飛鳥時代から奈良時代にかけて離宮があった地とされ、現在は “宮滝遺跡” という名でその当時の面影をとどめています。 歴史上では身の危険を感じた大海人皇子がこの地に逃げ込み再生を果たしました。 神話世界で迫害された大己貴神が根の国に送り込まれて変身するのとちょっと似ているように思います。 後に大海人皇子は天武天皇になって国のトップに上り詰める要因は吉野にあったのではないか?

吉野という地は追い詰められた人を元気にさせる神秘的なチカラが働く場所なのかもしれません。 その後天武天皇も皇后だった持統天皇も、吉野詣でを何度も行いました。 危険が迫っていた自分(自分の夫)を再生し新たな力を与えてくれた吉野に対する感謝の心を込めて、吉野詣でが行われたのではないかと考えます。

日本書紀に記されている話では、斉明天皇(大海人皇子の母親)が吉野宮を造ったとされています。 神話世界でも大己貴神が殺されそうになった時、母親のキサガイヒメが息子を根の堅洲国に送り込みました。 その例で考えると吉野という地は、母親の胎内をイメージすることができます。

そして再生力の源はこの地を流れる “吉野川”。 吉野川は深い山間部を流れながら西に進んでいくのですが、山間部では大きく激しく湾曲しています。 特に三船山・象山の崖っぷちを流れる際に南北に激しく曲がっています。 宮滝遺跡は丁度この湾曲部分にあたり急な流れが想像されます。 そして宮滝遺跡を過ぎた辺りから吉野川は比較的穏やかな流れに変わるので 最後の難所(急流)ポイントに置かれたのが宮滝遺跡だと思います。

大海人皇子の母親である斉明天皇が造ったと思われる現在の宮滝遺跡がある場所は、両岸が巨岩で覆われた美しい透明な水が流れている場所。 誰も侵入できそうにない美しい地で約八か月間を過ごした大海人皇子は、俗世間から離れた吉野で再生し別人に生まれ変わりました。 だからこそ天下を取れたのだと思います。

    昔見し 象の小川を 今見れば いよよさやけく なりにけるかも   大伴旅人

“象(きさ)の小川” というのが吉野川に注いでいる川(上の写真)のことで、岩走る水のように岩場をつたって流れてきた水が吉野川に注ぎ込んでいる様子を見て旅人は “夢の曲” と表現しました。 動物の中で最大の “象” という漢字があてられている象の小川は喜佐谷の深い渓谷をすり抜けて来た水のことだと思います。

その水が落ちる時の様子は写真を見れば一目瞭然・・ 滝壺に向かって激しく流れ落ちるような激しさは全くなく、何か耳がこそばゆいような音が聞こえてきそうです。 大海人皇子が元気になったのは意外にもこんなかわいい音だったのかもしれません。

旅人が聞いた象の小川が流れ落ちる音は、夢の中で聞いた曲のようだと感じたのでしょうね。 旅をする人はいつも心安らぐ場を探してさ迷い続けている夢追い人で、辛い時を支えてくれる母親のような女性が奏でる音がきっと夢の曲!

高知県のお神母さま



高知県を代表する“四万十川”は今では当たり前のように読めるようになったけれど、この読み方が意外に単純で 先にシマントーという名前があって 後から漢字を当てはめたような素直な名前になっていると思います。
         
高知県の西部を流れる四万十川に対して、中央部を流れる一級河川の仁淀川もあるけれど 全国的知名度は低いですね。 さて“仁淀川”の読み方は?  そのまま素直に読んで
“によど川” でOK。

名前の謂れはいくつかあり、そのうちの一つが近畿地方を流れる淀川に似ているから似淀川だとか・・ どこが似ているのかを突っ込むことはやめて土佐弁で表現すると 「淀川に似いちゅーから仁淀川になったぜよ」 ということになります。 
    
この仁淀川の支流に “上八川川” というのがあり、上八川ではなく上八川川(かみやかわがわ)なんですよね。 川がだぶっているので、どう考えてもナンデ?と疑問を感じてしまいます。 無理に想像すると、濁っていない川(かわ)と濁った川(がわ)がぶつかり合っている川が上八川川・・ どうかな?  川に聞いてみないと・・ それにしても受け入れにくい名前!
 
また高知県高岡郡中土佐町大野見神母野という地名があり、最後の神母野は “いげの” と読みます。 川の名前は素直に読めるのに・・イゲノなんて読めないよ〜!

香美市土佐山田町にも神母ノ木という場所があります。 イゲノキという木が立っているような地名になっているけれど、立っているのは楠木で 神母ノ木という所に神母神社が鎮座しています。 高知県にはこの神母(いげ)神社はアチコチにあり、地元の人は山の神の “おいげさま” と親しんで呼んでいます。

南国(なんこくと濁らない)市の十市字新宮山にあるのが “十市神社”。 この読み方も奇妙なんですよね。 遠方(とおち)という意味が含まれているような 十市(とおち)神社の境内社に小さな祠があり、それが神母神社! イゲもトオチも地名はとても読みにくいのに、川の名前は読みやすい!(もうワカッテル)

祭神は保食神(うけもちのかみ)・・これまた到底読めない保食神は日本書紀に登場する神で 訪ねてきた月読命に食べ物を提供し、口から食べ物としてイロイロなものを吐き出すので 汚い!と月読命に斬られてしまいました。 神母神社に祀られている保食神が“お神母さま” の正体ということになります。

神の母と書いてイゲと読まされ、口から吐き出す神がイゲ? 書く(神母)と深遠なイメージでマリア様のように感じるのに、読むとイゲという濁った読み方で、神母とはなかなか結びつきません。 しかし 記紀神話ではこの斬られたオイゲサマの屍体からは五穀が生じました。 頭のテッペンから牛と馬 額から粟 眉から蚕 目から稗 腹から稲 陰部からは麦と豆類(大豆・小豆)。

特徴的なのはカラダの一番上から重い牛や馬が生じているので、バランスがスゴク悪そうに感じます。 また胴体の一番下になる陰部からは多くのものが生まれました。 特に麦はオオゲツヒメも陰部から生じさせていたので、麦の故郷は陰部か象徴しているように 洞穴のような暗い場所をルーツに持っているようです。
         
高知県の大半を山が占拠しているこの土地で、神の母という大地の女神が各地に祀られていることを考えると、土佐のハチキン(陽気で勝気で男八人分を合わせ持った女性)の生みの親は 口から汚いものを吐き出す山の神 “おいげさま” なのかもしれないです。
“お神母さま” がいてくれた “お蔭さま” で、現在の日本の食の安定が保たれていることは間違いありません。

流れ流れる大和川



多くの川が出合う(集まる)場所に建てられた神社が、奈良県北部(北葛城郡河合町川合)にある “広瀬神社” です。  奈良盆地を流れる大半の河川(佐保川・曽我川 葛城川・高田川・竜田川・富雄川など)が、広瀬神社の立つ場所に集結しています。

それぞれ好きなように流れてきた河川がいっしょくたになり、名前も大和川に統一されて大阪湾に注ぎ込みます。  北から南からそれぞれ流れてきた川がこの地点に集まるということは、この場所が大和盆地の中でも一番低い地点であるということが確認できます。

汚れたものすべてを集めて最後に海に到達する大和川の源流は、桜井市の北東部にある貝ヶ平山(標高822m)から発しています。  近鉄南大阪線に沿うように西流し三輪山辺りで北西に向きを変えて広瀬神社が建つ川合に向かって流れます。

『泊瀬川 流るる水脈(みを)の瀬を早み ゐで越す波の 音の清けく』 と万葉集に詠まれた 大和川の源流・泊瀬川(初瀬川)は川を堰き止めている “ゐで” を超えるほどに勢いよく流れる川。 途中で多くの河川と交り合いながら最後に流れ着く場所は、生まれた貝ヶ平山から北西方向に位置する大阪湾。 その前に初瀬川も含めてココ “川合” で一つにまとめられています。

多くの川の合流点に立つ広瀬神社の由緒によると、創建されたのは崇神天皇(十代目)の頃とか・・廣瀬の河合の里長に神託があり 一夜にして沼地が陸地に変化し橘が多く生えたので、崇神天皇がこの地に社殿を建てて神祀りをしたという話。
       
その廣瀬の河合の里長に託宣したと思われる神が広瀬神社の祭神(若宇加能売命・櫛玉命・穂雷命)です。  若宇加能売命は豊受大神のことで、伊勢神宮外宮に祀られ天照大神の御食(みけ)を司る女神です。  櫛玉命は櫛玉饒速日命のことで、神武天皇より先に大和で活躍していた天神の子・ニギハヤヒ。 どちらかといえばリーダーをフォローする縁の下の力持ちタイプの神ですね。
    
一夜にしてジュクジュクの沼地が水分を取り除き、陸地になりそこに橘の木が生えたということは かなり特異な場所でありそう・・ 川の集合地は当然水分を多く含むはずなのに一夜でジメジメした沼地がサラッとしたということ?  しかも橘の木の象徴は非時香菓(ときじくのかくのこのみ)で常世国にしか生えないという木。  すると河合町川合は常世国に近い場所という理解もできそうです。
          
毎年二月十一日の建国記念日にこの神社で “砂かけ祭” が行われます。  建国記念日というかなり特殊な日に開催されるこの祭りは、一夜にして沼地が陸地に変化したことと深い関係があるような・・ 奈良盆地の一番低いところに水が溜まらず、水を抜かすことができた場所が河合町川合。  考えられることはその土地自らが水はけをよくするために、砂地にして水を抜かしたこと。

汚れた川が集まるにもかかわらず、その土地自身が汚れを引き受けて水に流すことができたからこそ 橘の木が生えたのではないか・・ 汚れや穢れを互いになすりつけ合っている限り 人々の争いがおさまることはありません。  このように考えると 建国記念日と常世国の意味が少しは見えてくるように感じます。  河合町川合はきっと誰からも愛されるカワイー場所!

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