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- 2022.04.05 Tuesday
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評判通り最後の最後まで観ている者を徹底的に打ちのめす映画。明確な理由もなく突然始まるファニーゲームという名の殺戮ゲームは映画だと分かっていても気分が悪い。これほど不快な映画を製作したハネケ監督の意図は何なのか。しかもオリジナル製作から10年後、またまた自らの手でリメイク作品(ファニーゲームU.S.A.)を製作するという熱の入れよう。撮影から編集を経て完成させるのが映画とすれば、ハネケ監督はかなりの時間を投入してこの不快映画の製作に携わっています。
少なくともハッキリしているのはこの映画に対する監督の強い思い入れ。その強い思い入れとは何なのか・・を考えると答えが見えてくるはず。それは徹底して観客の気分を不快にさせること。理不尽な殺戮ゲームから何とか脱出できた妻がキッカケとなり、新たな展開が始まるのではないかと期待しても次に待っているのは更なる裏切り。期待せずにあらゆる希望を捨てトコトン絶望せよ!というのが監督からのメッセージ? なかなか出会うチャンスのない絶望と対峙したい人にはお勧めの映画。
オープニング映像は湖畔の別荘に向かう家族(夫婦と息子)の車が映し出され、夫婦でオペラの曲名当てをしている様子。その直後、和やかムードを破壊するけたたましいわめき声のような騒音が耳をつんざき異常な世界へ通じる扉は開かれます。その時のクレジットタイトルはすべてケバイ赤文字で、観ているだけで不安な気分にさせられる。その奇妙な不安感は家族を追いつめる加害者の変なファッションが影響しているような。短パンにシャツまでは納得しても何故白い手袋をはめる必要があるのか。
そんな胡散臭い彼らに向かって吠え立てていたのがロルフィーという名のシェパード犬(家族の飼い犬)。鼻が利くロルフィーは彼らの異常さを嗅ぎ取り、家の中に入ろうとする彼らに抵抗していました。その点犬より嗅覚が劣る人間は彼らの異常さを見抜くことができず、招かれざる客を家に入れてしまいます。事件の発端は家に入れてはいけない人物を入れてしまったこと。家に入れさえしなければゲームの相手にされることはなかったはず。教訓として学んだのは知らない人物を決して家の中に入れてはいけない。特に“卵を貸してくれ”という人物は要注意! ガタガタ言う相手を責める前にまず自分の身を守ることを優先させなければ・・と強く感じました。
異常さに気付いた妻が“ココから出て行って!”と叫んでも手遅れで、不条理な人間の狂気はエスカレートしっぱなしでとどまることを知らない。相手が子供であれ女であれ容赦なく襲う彼らの仕打ちに立ち向かう術はただ一つ。それは白い手袋をはめた人物を打ちのめすこと。そこで思い余った妻が拳銃の引き金を引く行動に出ると、怒り狂った殺人鬼はテープを巻き戻して新たに再生。人生は一度きりという事実を把握していなのが殺人鬼? ハネケ映画の“ベニーズビデオ”もそうだったように、ゲーム感覚で現実を生きるトンデモナイ野郎がいることに対する警鐘を鳴らす映画のような気もする。
辛いことがあっても再び新たな一歩を踏み出す希望を描いた映画が多いなかで、この映画は絶対的絶望が描かれています。“絶望の淵に立たされる”という言葉がありますが、絶望の淵に立たせたのは紛れもなく人間。その前段階を思い出すと先見の明の持ち主はロルフィーでした。人に対する優しさも必要だけれど、時には人を追い払うことも必要! 忘れようにも忘れられない映画になってしまうことは確かで、中途半端な優しさを求める人はこの映画を観てはいけません。吐き気を催すように構成された不快演出は緻密でトコトン深い。
* 監督 ミヒャエル・ハネケ * 1997年(オーストリア)作品
* 出演 スザンネ・ローター フランク・キーリング
★ 『虚構は今見てる映画で虚構は現実と同じぐらい現実だ』と殺人鬼に言わせている監督の本音はコレ?