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  • 2017.10.26 Thursday
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ファニーゲーム

          

評判通り最後の最後まで観ている者を徹底的に打ちのめす映画。明確な理由もなく突然始まるファニーゲームという名の殺戮ゲームは映画だと分かっていても気分が悪い。これほど不快な映画を製作したハネケ監督の意図は何なのか。しかもオリジナル製作から10年後、またまた自らの手でリメイク作品(ファニーゲームU.S.A.)を製作するという熱の入れよう。撮影から編集を経て完成させるのが映画とすれば、ハネケ監督はかなりの時間を投入してこの不快映画の製作に携わっています。


少なくともハッキリしているのはこの映画に対する監督の強い思い入れ。
その強い思い入れとは何なのか・・を考えると答えが見えてくるはず。それは徹底して観客の気分を不快にさせること。理不尽な殺戮ゲームから何とか脱出できた妻がキッカケとなり、新たな展開が始まるのではないかと期待しても次に待っているのは更なる裏切り。期待せずにあらゆる希望を捨てトコトン絶望せよ!というのが監督からのメッセージ? なかなか出会うチャンスのない絶望と対峙したい人にはお勧めの映画。

                

オープニング映像は湖畔の別荘に向かう家族(夫婦と息子)の車が映し出され、夫婦でオペラの曲名当てをしている様子。その直後、和やかムードを破壊するけたたましいわめき声のような騒音が耳をつんざき異常な世界へ通じる扉は開かれます。その時のクレジットタイトルはすべてケバイ赤文字で、観ているだけで不安な気分にさせられる。その奇妙な不安感は家族を追いつめる加害者の変なファッションが影響しているような。短パンにシャツまでは納得しても何故白い手袋をはめる必要があるのか。

 

そんな胡散臭い彼らに向かって吠え立てていたのがロルフィーという名のシェパード犬(家族の飼い犬)。鼻が利くロルフィーは彼らの異常さを嗅ぎ取り、家の中に入ろうとする彼らに抵抗していました。その点犬より嗅覚が劣る人間は彼らの異常さを見抜くことができず、招かれざる客を家に入れてしまいます。事件の発端は家に入れてはいけない人物を入れてしまったこと。家に入れさえしなければゲームの相手にされることはなかったはず。教訓として学んだのは知らない人物を決して家の中に入れてはいけない。特に“卵を貸してくれ”という人物は要注意! ガタガタ言う相手を責める前にまず自分の身を守ることを優先させなければ・・と強く感じました。


         

異常さに気付いた妻が“ココから出て行って!”と叫んでも手遅れで、不条理な人間の狂気はエスカレートしっぱなしでとどまることを知らない。相手が子供であれ女であれ容赦なく襲う彼らの仕打ちに立ち向かう術はただ一つ。それは白い手袋をはめた人物を打ちのめすこと。そこで思い余った妻が拳銃の引き金を引く行動に出ると、怒り狂った殺人鬼はテープを巻き戻して新たに再生。人生は一度きりという事実を把握していなのが殺人鬼? ハネケ映画の“ベニーズビデオ”もそうだったように、ゲーム感覚で現実を生きるトンデモナイ野郎がいることに対する警鐘を鳴らす映画のような気もする。

                   
辛いことがあっても再び新たな一歩を踏み出す希望を描いた映画が多いなかで、この映画は絶対的絶望が描かれています。“絶望の淵に立たされる”という言葉がありますが、絶望の淵に立たせたのは紛れもなく人間。その前段階を思い出すと先見の明の持ち主はロルフィーでした。人に対する優しさも必要だけれど、時には人を追い払うことも必要! 忘れようにも忘れられない映画になってしまうことは確かで、中途半端な優しさを求める人はこの映画を観てはいけません。吐き気を催すように構成された不快演出は緻密でトコトン深い。


* 監督 ミヒャエル・ハネケ   * 1997年(オーストリア)作品

* 出演 スザンネ・ローター  フランク・キーリング


★ 『虚構は今見てる映画で虚構は現実と同じぐらい現実だ』と殺人鬼に言わせている監督の本音はコレ?

         YouTube - Funny Games (1997) : theatrical trailer


隠された記憶

          

アフリカ北西部に位置するアルジェリアは1962年にフランスの支配から独立した国。 
住民はイスラム教徒のアラブ人とベルベル人(原住民族)が大半で、言語もアラブ語以外に仏語も多く使われています。 フランスとアルジェリアの7年余りの長い期間にわたる過去の葛藤が、この映画のベースになっている感じ。 日本人には理解しがたい植民地支配の辛さを体験したことがある国がアルジェリア。 主従関係にあった二つの国の関わりが色濃く反映されているハネケ・ワールドを観終わった感想は、やはりオモ〜イ!
         
まずオープニングのクレジット・シーンで小さい文字が並べられ、その段階でこの映画が読みにくいことを示唆しています。 しかも音楽が全く流れない無音のなかで紹介されていた映像は、誰かによって隠し撮りされたものでした。 スーパーの袋に入れられ玄関前に放置されていたビデオ・テープが、後に主人公夫婦をかき乱すことになります。
        
正体不明の不安と恐怖に脅かされる家族の名前は夫ジョルジュと妻アンヌ、そして中学生ぐらいの息子の名前がピエロ。 この映画で、一番引っ掛かったのが息子の名前ピエロ。
サーカスの道化者ピエロのイメージが強すぎて、我が子に付けるような名前ではないという印象がありました。 ハネケ監督が敢えてピエロという名を息子に与えた意図が何かあるのではないか・・
                     

もう一つ、重い気分にさせられたのが家族の食事場所。 上から下まで壁に棚があって本が整然と並んでいます。 壁じゅう本に囲まれた棚の真ん中にテレビがあるという部屋で、食事タイムにはどうも向かないようなトコロ。 そのうえ映画全編にわたって音楽が流れないというのも、ますます重い気分にさせられる要因になりました。 改めて世界共通の言語に匹敵する音楽の重要性を実感しました。

ジョルジュはTVにもよく出演するコメンテーターで、その内部はツギハギだらけの討論会。 TV出演していたジョルジュのピエロのような鼻で誰か分かったと言っていたのがアルジェリア人のマジッド。 彼は幼い頃、ジョルジユの両親に雇われていた使用人の子。 
少年のジョルジュが鶏の首を掻っ切るのをそばで見ていたのがマジッド。 主人(フランス人)と使用人(アルジェリア人)の関係が、この二人に託されているように感じます。

             

不可解なビデオにイラつく夫婦を追う映像が急に切り替わって、ピエロがプールに通って練習している映像が挿入されています。 両親ともにピエロを気遣ってはいるものの、ピエロは幾分冷めた感じで家族のコミュニケーションはウマクいってなさそう。 ジョルジュもアンヌも自分の仕事を優先させるタイプのようで、周囲の状況が余り見えていないように感じます。 ピエロがいなくなった時も自分勝手にマジッドが嫌がらせをしていると判断してマジッドの家に押しかける始末。異国に突然侵入して原住民を殺戮し植民地化する国とどこか似てる。

誰かによって送られてきたビデオを無造作に包んでいた紙に描かれたのが、子供が血を吐く絵。 周囲の人たちのことを考えず前に突き進むだけの人間には決して理解できないのが、血を吐く気分。 支配する側の圧力と支配される側の血を吐きたくなる気分は、どこまでいっても終わりがないまま永遠に続きそう。 ジョルジュの暴言を受け止めるだけのマジッドの隠し撮りされていた映像には、ジュルジュがいなくなってから泣いているシーンがありました。 血を吐く気分を知っていたのがマジッドだと思います。

隠し撮りされた映像がスーパーの袋に入っていたことを思うと、この映像はジョルジュがかつて切り捨ててきたゴミのようなもの。 この映画の原題は “CHCHE” でコンピューター用語の キャッシュ・メモリー(cache memory)の “キャッシュ” です。 他にキャッシュの意味として 『隠し場所』 あるいは 『隠したもの』。  同じデキゴトを体験しても、お互いの記憶の処理の仕方で時間がたつと全く違った事実としてそれぞれの記憶に残るか、あるいは全く忘れ去られることになります。 コンピューター・ファイルのように、明らかに残っていて目にすることができれば 納得できるけれど人の記憶装置は曖昧でアテになりません。

               

仕事も順調で家庭にも恵まれていたジョルジュは、突然突き付けられたビデオ映像や血を吐く子供の絵を見て 閉じ込められていたナニカが爆発します。 この爆発がキャッシュ? 
現在の穏やかな生活を乱すものの正体は分からず、自らの妄想だけで過去のある人物を以前のように責め始めます。 自分が人を傷つけたことなどスッカリ忘れて 逆に傷つけられたら怒り狂う人・・ いますよね こういうヤツ! ジョルジュもこっちのタイプ。

やはり例によってハネケ作品らしくモヤモヤ感を脱し切れませんが、感じたことが一つありました。 自分自身 気がつかないうちに誰かを傷つけてしまう人間関係において、血を吐く想いをしている人がいるということ。 ジョルジュに責められたマジッドが自分の無実を証明するためにしたことは、自分が自分らしく生きるための道だったのではないか。

* 監督 ミヒャエル・ハネケ      * 2005年 作品
* 出演 ダニエル・オートゥイユ    ジュリエット・ビノシュ

テレビ ビデオの不可解さより衝撃のラスト映像という風に騒ぐほうが不可解!

71フラグメンツ

        

ある事件に至ってしまう偶然に巻き込まれた人たちの家族の日常が描かれています。 同時にテレビ画面に何度も映し出される内紛が絶えない国のニュース。 事件に巻き込まれた家族は、紛争が絶えず繰り返されて命まで落としてしまう状況と少し似た感じがしました。 全く面識も何もないのに事件に巻き込まれなければならなかった彼らは、きっと無念だっただろうと思います。

この映画に出てくる家族は、ウマク自分の想いを家族に伝えることができていません。 特に印象深かったのは、幼い子を抱えて生活していた夫婦。 ある日の二人の食事風景が描かれます。 フォークが皿にあたって音が出る以外は無言の夫婦。 そのとき突然 夫が妻に言いました。 「愛してるよ」  しかし妻が喜ぶことはなく、不可解さを顔に表します。 そして夫が妻の頬をピシャリ!  ちょっと笑えたシーンですが、二人の雰囲気はマズイ。

また年とった父親と長電話をしている娘は、銀行に勤めているキャリアがありそうな女性。 幾分 お荷物気味の父親に気を使いながら電話の相手もしています。 どうでもいい会話が長々続き、娘は電話を切りたくて仕方がなさそうな雰囲気。 病気を抱えた孤独な父親は、何とか自分一人で生活しているものの 心の寂しさを埋めることができずにいます。

          

子供がいない夫婦は貰い子を探していました。 施設で見つけた女の子と動物園に行ったりして何とか親しくなりたいと思っている矢先に テレビ報道で目にとまった難民少年。 彼らは結局 先の女の子を貰い子にするのをやめて、この少年を引き取ることになります。 その少年はルーマニアから深夜 川を渡って逃れ、トラックの荷台に乗ってウィーンの街に到着しました。

「どうしてこの国に来たの?」 という取材に応じて少年が答えた言葉は、「子供にやさしい国だと聞いたから・・」 ルーマニアの祖国できっとイヤな出来事を体験していた結果の言葉だと思います。 適当に人のものを盗みながら、一人で路上生活していた少年の行動は屈託がなくかわいかった。

           

そして最後の一人は優秀な大学生。 前半のほうで自分がビルから飛び降りるイメージを抱いていることが描写されていました。 多少自殺願望があったのかもしれません。 卓球選手だった彼は、練習もよくしていたのにコーチに散々罵られてもいました。 交友関係にあった友達とも波長が合わず、彼の孤独感を埋める誰かの存在はなかったようです。

そして1993年12月23日 ウィーンの銀行でこの大学生による銃の乱射事件が起こります。 その直前の彼の様子は、車のガソリン代を払うお金が少し足らなかったようで困っていました。 不注意ではあった彼に、お金を貸してあげる人がいたならこの事件は免れたように思います。 銀行強盗をしようという気持ちはなく、彼の中の何かがプツンと切れたような衝動的な行動でした。
            

たまたま現場に居合わさなかったけれど、すぐ近くにいた難民少年の目にこの事件はどのように映ったのでしょう。 祖国でイヤというぐらい血を見てきた少年が、国境を越えても銃の音を聞かなければいけなかった事実。 同じようなニュースが繰り返されている事実であるはずのテレビ映像より、ハネケ監督が創ったツクリモノのこの映画のほうがリアル感は勝っていました。

* 監督 ミヒャエル・ハネケ      * 1994年 作品
* 出演 ガブリエル・コスミン・ウルデス   ルーカス・ミコ

地下鉄 71のフラグメンツ(断片)をどれだけ集めても何も見えてこない社会を作ったのは大人で、その犠牲になるのは自分一人の力で生きることは難しい子供たち。

コード・アンノウン

      

“いくつかの旅の未完の物語” という副題がついているように、いくつかの家族の断片が示されては 唐突に映像が切り替わるという記憶力を試される映画。 次から次にチェンジする登場人物をボーッと眺めているのではなく、トランプの神経衰弱的な記憶力でその人物を頭に刻んでおく必要がありそうです。
    
最近の日本に住んでいる人々も日本人だけではないように、映画の舞台になっているフランスの首都パリも例外にもれず人種のルツボでした。 不法入国者は後を絶たず、多くの民族が経済的メリットを求めてパリに集まってくるようです。 そんななか 紛争が絶えないコソボから出稼ぎでパリに来て物乞いをしていたマリアという女性が原因で、田舎で農業を継ぐのを嫌って家出してきた若い白人青年ジャンと 聾唖の子供たちの指導をしている黒人青年アマドゥが、殴り合いの喧嘩を始めた断片が第一章になっています。

この白人青年の兄がコソボの真実を伝えようとしていたカメラマンのジョルジュ。 そして彼の恋人が女優のアンヌで、全員白人です。 一方 黒人青年アマドゥは白人の彼女とデートをしたり、あらゆる民族を含む聾唖の子供たちの指導をしていました。 彼らが叩く太鼓のリズムは、観ている側の胸の奥を響かせる何かを秘めているように感じられます。

言語が異なる相手に何かを伝えようとしたとき、
言葉は無理なので身振り手振りのパントマイムで
示されていたのが映画のオープニング。

聾唖と考えられる子供たちは、
そのパントマイムの動きを判断して
答えを出そうとするけれど
演じていた女の子の意図する答えには結びつきません。 
互いに歯がゆい思いをしていたようです。

そして映画のタイトルが “コード・アンノウン”。 コード(code)という言葉は、記号や符号という意味の他に社会の規則や習慣という意味があります。 育った国や環境が異なれば、一つの自分の見方は他人にとっては全く違う見方に変わるはず。 だから自分の考え方が相手に伝わらなくて当然といえば当然! コードが知られていないのだから、意思の疎通をはかることは無理なような気がします。 しかしコードを知ればあるいは知ろうと努力すれば、何とかなるかもしれない。

この映画は観る側の捉え方(それぞれのコード)で多様に変化します。 社会もいろいろ 人もいろいろ 斑模様で織り成されている私たちが見ている社会の現実。 この簡単な複雑さを表現しているハネケ作品は、私たちみんなが今 目にしている世界すべてがコード・アンノウンであると伝えているように感じました。

               だから どうすればいいのか?
         最後にまた パントマイムを演じる男の子が出てきます。
                ウゥ〜ン ワカラナイッ! 
ただ映画の最後で子供たちが奏でていた太鼓のリズムは、あらゆるすべての壁を越えて 人の心の奥に届くものがありました。

* 監督 ミヒャエル・ハネケ     * 2000年 作品
* 出演 ジュリエット・ビノシュ   ティエリー・ヌーヴィック  

音楽  伝わらないことは仕方がないことではなく、伝えようとする意思があり その意思を考えようとする気持ちがコード・アンノウン世界を打開する第一歩!

ベニーズビデオ

現実に目で見ている映像と、画面に映る
ビデオ映像が スイッチひとつで
パッと切り替わることが
当たり前のように感じているベニーくん。
ベニーの部屋の窓の外を映している景色と、
テレビで報道されているニュースの映像は
似たようなもので
どちらもベニーにとっては、
変なモンスター映画と同じ映像のように感じているようです。
          
ベニーは裕福な家庭で育った中学生ぐらいのどこにでもいそうな少年。 そんな未成年のベニーが平気で煙草を吸い、自分の部屋で見ず知らずの女の子を銃で撃ち殺します。

とにかく苛立つベニーで、一番 腹が立つのは 殺した女の子が痛がって助けて!と叫んでいるのに、静かにして!と言って次の弾(たま)をつめて再び彼女を撃っていること。 それでも黙らない彼女に同じように三発目を加えて、
静かになった部屋でヨーグルトを食べているベニー。

一度 自分が誰かに撃たれて 彼女の痛みを感じる必要がありそうです。 赤い血が流れた部屋をキチンと片づけて、黙々とした彼の穏やかな行動は その後も続きます。 人が死んでんねんから もっとウロタエテ取り乱せ!と言いたいけれど コチラの想いは届きません。

映画のなかで 現実に女の子を殺してしまったベニーは、何かを感じたのか坊主頭にして 自分の殺害現場(本人にはそのような気はなさそう)を 自分で撮影していたビデオで 何度も繰り返し観ています。 まるで誰かが撮った映画のように・・それを両親がたまたま見てしまい、家族でまたまた騒がずに密談がなされます。

この家には騒いでワメク人がいないのでしょうか? 息子が殺人を犯しているのに、落ち着いて話し合いをしている両親の恐怖を感じます。

ベニーの両親は、殺された女の子やその両親のことを話題にすることなく、静かに解決策を話し合っています。 コワイ家族! でもこれは映画でツクリモノ! しかし現実にはコレ以上のことが起こって、ワケも分からず殺されることがある理不尽な世界が展開されています。

それにもかかわらず、当事者になったことがない人たちは無関心であり続けているのが現代社会。 きっとソコ(無関心)にハネケ監督はメスをいれているのでしょう。 もう少しマシな社会であることを祈ることしかできませんが・・
ハネケ監督の挑発的影響を受けて 映画以上のイヤな社会を見つめ直してみようという気になれば、映画は立派な芸術になります。
         
ハネケ監督が考える映画は以下のようなもの・・                
「映画は気晴らしのための娯楽だと定義するつもりなら、私の映画は無意味です。 私の映画は 気晴らしも娯楽も与えませんから。 もし娯楽映画として観るなら後味の悪さを残すだけです。 快適で親しみやすいものなど 現代の芸術には存在しません。」

この映画もハネケワールドの異様な世界が映し出されています。 しかしこの映像は、現代社会で起こっている悲惨な現実のほんのヒトカケラでしかないようにも思います。

* 監督 ミヒャエル・ハネケ     * 1992年 作品
* 出演 アルノ・フリッシュ

豚 リアル感って何なんだろう・・

ピアニスト

倒錯した性を扱う映画とレビューに書かれているけれど、まあ確かに現実の社会では こんな変チクリンな性的行動をとる人は多くはないと思います。 またそう思う一方で、自分の個人的性欲望を外部にさらけ出せる勇気ある女性にも見えてきます。 

性的歪みというのは何を基準にして歪んでいると判断するのかは難しく、人によって相手によって体力によってセックスはみんな異なってくると思います。
         
厳格な母親の影響や独り身で長く過ごした女の寂しさが原因で、このように(一般的に倒錯した性と呼ばれている)なってしまうのなら それはそれでスバラシイし ある面自由奔放でオモシロイ! だから よけいに画面を通して妙なユーモア感と少女のような純真さが伝わってきます。

何といってもクセがあるハネケ監督なので、主人公エリカが倒錯したセックス愛好者であるかどうかを問題にしているわけでもなさそうに感じます。 監督自身が創った映画を世間に提供して、観客の反応を楽しむというような モグリ的要素を持ち合わせているみたいなので 観客である私たちは、簡単に潜り込まれないように自分をシッカリ組み立てる必要がありそうです。

ただどうしても書かずにいられないのが 年上女性のピアノ教師エリカに言い寄り、「愛している」と真剣さを装っていたワルターの言動に対して納得がいかないこと。

いくら彼女が文面に 自らの性の実態を綴ってみたとしても、二人が本番に臨んだ際、その文面と異なっていることくらい 彼が察することができないなら それは愛しているとはいえないですね。(と思います)
   
「私の映画は、いかにして暴力が生じるのか観客に考えさせる謎解きの場を 提供しているのです。」という監督のコトバ通り、彼はエリカに対して正当に暴力を振るいます。
“正当に”というのが大問題で、暴力に正当性などありません。 相手が痛めつけてくれることを望んだから、それに従っただけだという彼の行動には嫌悪を感じます。 
彼女の「ヤメテ!」という叫びのような訴えまで無視して暴力をふるう男は、男とは認められません。

こんな男はやめといたほうがいいです。 エリカ自身も 最後にはこの男の正体がハッキリわかってヨカッタと納得したのではないでしょうか。 自分に対する愛情は、辛いけれどカケラもなかったということがハッキリしました。

最後に、エリカがコンサート会場から外に出て行きます。 他の人たちは みんなコンサート会場に入っていくのに、彼女は全く逆の方向に歩を進めています。 歩き続けるエリカ・・・全くの無音で映像はしばらく続きます。

* 監督 ミヒャエル・ハネケ     * 2001年 作品
* 出演 イザベル・ユベール     ブノワ・マジメル

チョキ タイトルは“ピアニスト”・・自分でピアノが弾ける人のことをこのように呼びます。

セブンス・コンチネント

すさまじい映画です。 
この世界に存在するとは思えないような
新種のすさまじさを感じました。 
特に主人公の生き方と破壊力の
すさまじさは圧倒的なすさまじさです。 
すさまじいという言葉以外に思いつかないぐらいすさまじい映画です。

オープニングは洗車する轟音がすさまじく響いているシーンで始まります。 洗車のあと、
ピカピカになった車と同時に “ウェルカム・トゥー・オーストラリア” という看板が 映画を観ている私たちの目に飛び込んできます。

話が展開していく途中に 大きな波が打ち寄せる映像が画面に何度か挿入され、後半に至ってしだいに波がおさまっていきます。 その波の静まりかたと同調するかのように 小学生の女の子とその両親の家族三人が、お互いすべてを了解したうえで 自分たちの家やお金の一切合切の完璧な破壊が行われます。

特に家を飾っていた調度品や水槽など家族三人で木端微塵に粉砕します。 画面を通して そのすさまじい破壊が穏やかな波(凪ぐ)に至らせていることを 私たちは感じます。

 タイトルのセブンス・コンチネントは
 7番目の大陸という意味で 
 地球上には存在しません。 
 先に示されていた南半球にあるオーストラリア
 大陸は、6番目ということなのですが・・
 彼らが求めた世界とは何だったのか・・・
 映画のなかで家族三人はオーストラリアへの移住を
 計画していました。 しかしすべての破壊と移住計画は結びつきません。
         
戦争による相手国の破壊はあっても、自分たちが築いてきたものを すべて自分たちの手で破壊するというのは初めてです。 そのヒントになっているのが波・・荒い波から静かな波へ。 ハネケ監督の言葉を添えておきます。 
             
   「私の映画の映像がクリアーであることを願います。
    澱(オリ)のない映像を創るよう努めています。
       できる限りニゴリを取り去ろうと・・
   美とは ニゴリを取り 切り詰めることで生じるのです。」 

* 監督 ミヒャエル・ハネケ    * 1989年 作品
* 出演 ビルギット・ドル    ディーター・ベルナー

車 すさまじいという言葉にふさわしい家族三人の生き方を描いたハネケ監督の映画創りもすさまじい!

カフカの城

        

測量技師のKという男が雇われて ある村にたどり着くところから始まります。 まず名前がKケイ(?)・・記号のような名前と言うよりズバリ記号ですね。 場所は城が支配している村で、Kとはまるで波長が合わずウマク会話ができない状態です。 しかし Kも雇われてココに来たので 波長が合わないという理由だけで、この仕事を簡単にやめることはできないのです。 しかも仕事なので責任が発生しています。

画面を見ている限りの印象は右から左へ 次は左から右へ・・・また右から左そしてまた・・ 薄暗い雪道をKは歩き続けています。 いつもKは行ったり来たりしていて、内容が理解しにくいうえ 全くオモシロクナイ! 画面は灰色で鬱陶しい!


原作は“変身”を書いたカフカの未完小説。 でも物語の中身は変身する要素はまるでナシ。 最後の最後まで、明るい陽射しが射すことはなく憂鬱な気分です。 ハネケ監督があえて表現したい世界はコレ? “こんな鬱陶しいところから飛び出したくありませんか?” というメッセージ。

鬱陶しい画面でさらに物語の展開も理解しにくいなぁと感じている矢先に 突如 映画は終わります。 終わり方は見事なくらいに唐突でした。 未完物語の終りは完璧なくらいにアッサリしていました。

イヤダッ! イヤダッ! ゼッタイイヤダッ! 

* 監督 ミヒャエル・ハネケ   * 1997年 作品
* 主演 ウルリッヒ・ミューエ

足 オーストリア・ドイツの合作映画でハリウッド色は完全排除され、オモシロクないけれど
どうも気にかかる作品。

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