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  • 2017.10.26 Thursday
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桃の節句

               

月も日も陽数の三で一致するのが桃の節句。女の子が今後幸せに成長できますように!との祈りを込めて祝う祭りが桃の節句で、陰数(偶数)を示す女の子が陽数になることを願って設定されたようにも感じる三月三日。桃の花が定番の雛祭りで飲むと百病を除くとされたのが桃の花を浸した桃の酒。

               
三が重なる桃の節句が女の子の祭り、そして五が重なる端午の節句が男の子の祭り。
日本はやはり陽数を重んじる国のようで、陰数は祭りに合わない? 相反する陰陽の世界で構成されているのがこの世ですが、神が関わる祭りの世界にふさわしくないのが陰陽和合で、陰陽より陽陽を好むのが神?

  
黄泉国からこの世に逃走したイザナギノミコトが黄泉醜女に投げつけたのが桃の実でした。黄泉国とこの世の境界になっていた黄泉比良坂に生えていたのが桃の木で、イザナギノミコトを追いかけて来た黄泉醜女はこの桃の実を見て退散するという話のキーワードになっていたのが桃。黄泉国在住の女性は桃を嫌っています。


桃という漢字はキヘンに兆というツクリで構成されています。
この“兆”というキザシは妊娠の兆しを意味する漢字で、妊娠する兆しのある木ということから女の子の祭りに重要な役割を果たすようになったとか。ということは桃に反応した黄泉醜女は妊娠したくない女の象徴? この世で妊娠するには陰陽和合が求められますが、神が好むのは陽陽和合。陰数を示す女の子の祭りに陽数の三が重なるのはヨーヨー好きの神の意志? 


輪ぬけ祭

              

6月最終日の明日、高知県のいくつかの神社(全国の多くの神社も)で“輪ぬけ祭”が開催されます。地域によっては7月末日に実施されるようですが、高知県では丁度一年の半分が過ぎた630日が開催日。“夏越(なごし)祭り”という名前でも呼ばれるこの祭りは夏バテしないよう厄を落とす(?)ことを目的に大きな輪を潜り抜けます。

夏バテと厄を落とすことのつながりがイマイチ分かりにくい(エスマルだけ?)ですが、夏を乗り切るためには厄祓いが大事! そしていつの間にかくっ付いてしまう厄を払うためのアクションが俗世間と神の世界を隔てる大きな輪を抜けること。

“いのの大国さま”と親しみを込めて呼ばれる神社が高知県いの町にあり、この神社でも明日輪ぬけ祭が行われます。正確な神社名は“椙本(すぎもと)神社”で神紋は重ならない三つの輪(下の写真)。ルーツは三つの輪が象徴しているように奈良県桜井市にある大鳥居で有名な大神神社(三輪神社)にあり、祭神は大神神社と同じ“大物主神”。海の遥か彼方から日本にやってきた異国の神・大物主神を祀る神社で行われる輪ぬけ祭は大物主神に近付くための祭りのような気もします。

一年の半分はコッチ、そして一年の残り半分はアッチという風に考えるとコッチ側の嫌な厄を捨てアッチ側にある好きな役に就くことが可能な日が明日ということ?
蒸し蒸しした梅雨空で虫が発生しやすい時節、虫に好かれないよう清潔に心がけて輪ぬけを実施しましょう。

   
 
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                 大和神社(奈良県)の茅の輪


猿田彦神と貝



貝とは堅い貝殻を身にまとっている軟体動物のことで ナメクジやイカ・タコなども貝の仲間になっています。 カラダはクニャクニャで骨がなく ネバッコイ粘膜に包まれたカラダがもし乾燥すれば 即その貝は死にます。 だから死なないために貝殻という防御すべきものとペアを組んで非情な自然界を生き延びてきました。
            
三重県松阪市小阿坂町にある阿射加(あざか)神社は その骨がない貝に手を挟まれて死んだと伝わっている猿田彦神が祀られています。 毎年1月14日に行われる神事が“御火(おひ)だめし”と“粥だめし”の二つのタメシゴト。 御火だめしは毎月の天候を占うため、その月を書いた樫の木の先端を囲炉裏で焼き燃え具合を判断します。

早く火がつき燃えやすいとその樫の木(月)は乾燥しているので雨が少ないと予測するのでしょう。 逆に湿気を含んだ樫の木(月)は、火がつきにくく燃えにくいことから多雨の月とみなされます。 乾いているか湿っているかを試す神事は空の気象だけではなく人間の気性にも通じる所がありそうです。 失恋して泣いたカラスは笑い 同じように失恋して泣いた白鳥はどうなるのか。

またもう一つの神事である粥だめしも御火だめしと同日に行われます。 その粥だめしの実態は小豆と米を混ぜ合わせた“小豆粥”に 竹筒を挿しいれてその筒の中に入り込む粥の量で豊作を占いました。 粥というのは固形物がなくなるくらいにトロトロに煮込むことが美味しく仕上げるコツ。 固形物(小豆と米)が噛まなくてもいいドロドロエキスに変化し互いに混ざり合えば それだけ竹筒に混入しやすくなると思うので 豊作とはこの混入する量が多いということなのかな。 それにしても日本には不思議な神事(実験)があるものです。

阿射加神社の祭神・猿田彦神は高天原から落ちてきたニニギノミコトを道案内して 日向に連れて行った神で 案内できるぐらいにその道を知っていたということですね。 容貌は鬼か天狗のようにイカツイ猿田彦神に気後れすることなく対峙したのが 高天原からニニギノミコトに付き添った天宇受女命。 その後 彼女は猿田彦神が行きたいという伊勢の狭長田の五十鈴の川上まで送り届けたということになっています。 猿田彦神自身が目的地を指示して そこに連れて行ったのが天宇受女ってこと? “どうして一人で行かないの”という疑問が出てくるけれど 猿田彦神は一人ではなく二人で行きたかったのでしょう。そこに・・そして最後を見届けた天宇受女命は猿女君(さるめのきみ)という名を賜り夫婦になりました。

物語ではその後 猿田彦神は“阿邪訶(あざか)”の浜で漁をしていたとき比良夫(ひらぶ)貝に手を挟まれて 死んだということになっています。 猿田彦神を祀る阿射加神社の粥だめし神事から想像すると“粥”という字は【弓】という字に挟まれて 歯がなくても食べられるトロトロの米になるように 猿田彦神も比良夫貝に手を挟まれ海と交じり合って一体化していったのではないかという 白昼夢のようなイメージが広がります。 御火だめしで占われたドライかウェットの判断は 海に沈んだ猿田彦神がすでに答えになっていました。

まっことそうにかわらんウソを取りかえる



高知弁で「本当にそうだ」と言うことを表現する時、土地の人は“まっこと”を強調してこのように言います。
「この酒美味しいやろ?(コレは大阪弁)」  「まっことそうにかわらん!」

鷽(うそ)を取り替える神事が道真サマゆかりの天満宮で行われています。 『去年の悪しきはうそ(鷽)となりまことの吉にとり(鳥)かえん』という言い伝えによるらしいけれど 現実的に何をしたいのかよくわかりませんね。 現在は1月24〜25日に行われていますが、かつては1月7日夜 酉の刻に参詣人がうそ(鷽)を交換しあうことから始まったとされています。

神事で取りかえるウソモノの木彫りの鷽鳥ではなく、自然界に存在する“鷽鳥”がいます。 名前のようにトリであることは間違いありません。 鳴き声は口笛に似て、雄をテリウソ 雌をアメウソと呼びます。 また鷽の名前の由来は口笛からで、古語で口笛のことをウソと言います。 こんがらがってしまうけれど、口笛のような声で鳴く鷽鳥はホンモノです。

さらにウソ関連で“うそぶく”(嘯く)という意味を調べてみると 口をすぼめて息を大きく強く出す あるいは 口笛を吹くという意味で使われる言葉のようです。 表情は狂言面の“うそぶき”のようにヒョットコに似た顔をしています。 口笛を吹く時には口を前に突き出すように、見方を変えればキスするときも似たような口元になります。 もしかすると鷽に託された口笛は言葉にならない言葉が込められているのでは? (ドキドキ)

どちらにしても不快なウソは嫌ですネ。という訳で一年のモヤモヤやイライラを鷽鳥に込めてなかったことにして 「嘘みたいなもんよ 人生は! ケッケッケッ」と笑ってしまえばあなたは人生の勝利者! 勝利の女神は誰に微笑を投げかけてくれるのか? まっことそうにかわらんあなた自身です。 ウソウソのあなたがソウソウのあなたになりさえすればいいのです。  

揺れても歩けば百合になる



“徒(かち)”とは乗り物に乗らずに歩くことを言います。 使用するものは当然のことながら自分の足だけ。 “歩く”ということは右足と左足を交互に一歩ずつ前に出して進むので他の乗り物に比べて断然遅く しかも歩けば歩くほど右に左にユラユラ揺れることになります。

これらをイメージして次の言葉を考えてみましょう。
“立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花”
美人の姿を形容する言葉で、多くの花の中からこの三種が選ばれています。 芍薬と牡丹 花はとてもよく似ていて区別がつきにくいです。 英語でも芍薬と牡丹は同じ単語の“peony”で表します。 日本では一応 芍薬は草で牡丹は木というように区別されているけれど 牡丹も芍薬も大して差はありません。 なぜなら立っても座っても一歩前に踏み出さない限り同じところに留まっているだけ! でも百合はそうではありません。 長く伸びた茎の上部に大きな花がうつむき加減に咲くユリは一歩前へ踏み出しました。 そんなゆり(揺り)が歩くと頭デッカチで、揺れまくり ゆら〜ゆら〜

また西洋絵画の“受胎告知”のシーンで“白いゆり”は聖母マリアの純潔を象徴するものとしても描かれています。 さらに日本でも“ゆりまつり”と称する祭りが奈良市の率川神社で毎年6月17日に行われています。 正式名は“三枝祭(さいくさまつり)”でこの三枝がササユリのこと。 ササユリの特徴としては梅雨時に咲き、崖などの急斜面に自生しています。 陽射しを好まず勝手に生じて適当に生きて枯れていく・・それも人が立ち入りにくい崖っぷち。
放っておいてほしい“ゆり”が歩き始めるというのははどういうこと?
人のことなどどうでもよく自己完結を目指したい“ゆり”が一歩前に踏み出すということが美しさにつながるってことですよね。 人目を避けて徒(ひとり)で歩き始めたゆりの姿こそイヴの化身なのかも・・たくさんの難問を解決して揺れながら歩く姿は百点満点合格の“百合”にたどりつきました。

冷たい氷に託した情熱



奈良市春日町にある氷室神社の“献氷祭”を紹介します。 地理的には春日大社に隣接するところで吉城川のほとりに位置します。 この吉城川は若草山と春日山の間あたりに発し西に流れて 春をつかさどる女神の佐保姫と同じ名前の佐保川に注ぎ込みます。 この吉城川に沿って遡れば水谷(みずし)神社から月日の磐そして危険な奥山へと近づいていくことになります。

世界遺産に指定されている春日山は春日大社の神山として狩猟・伐採が禁止され 原始の森(杜)としての聖域を維持し続けてます。 原始と危険は仲良しってこと! この原始の地で氷室(冬の氷を夏まで溶けないようにしておくための窪“凹”地)を設けて神を祀ったようです。

氷は流れ流れていくはずの水が凍ったもの。“ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず”の変化し続ける水が冬の強烈な寒さで凍らされて氷として夏まで維持させられてしまいました。 水にチョンを付けたら氷になるのでそのチョンがポイントです。

また流れる水と同じくらい流れてしまうものにもう一つ“時間”があります。 氷と同様に時間を凍らせると『時間よ止まれ!』を実践して幸せな時を持続させることも可能?

夏ながら 秋風たちぬ氷室山 ここにぞ冬を 残すと思へば     藤原定家

氷室の神様にお供えするものは〔海幸の鯛〕〔川幸の鯉〕を凍結させたもので、高さ1メートルほどの氷柱一対と野の幸(?)の可憐な花の氷です。 普通花が咲くとそこに次の子孫につなげるための種子が生じます。 それと同時に母親である花は枯れます。 しかしこの花氷の花は朽ちることなく凍らされてしまいました。 氷室の神が伝えたいことはきっとこの言葉 “初心忘るべからず” 初心をずっと維持するためにはチョンが必要だったのです。

諏訪湖を取り囲む諏訪大社



長野県中部の諏訪盆地に諏訪湖があります。流入河川は31本もあるのに、流出河川は天竜川のみ・・そういえば琵琶湖もいくつかの流入河川に対して流出するのは瀬田川だけでした。琵琶湖では決して見ることのない“御神渡り(おみわたり)”が諏訪湖の神秘性を際立たせています。

御神渡りとは気温が下がり湖面一帯に氷が張り、その後も寒さが続けば氷の厚みが増します。そして昼夜の温度差が影響して氷の膨張と収縮が起こり始めます。 気温が下がって水が氷になろうとする(収縮)夜と 太陽が昇って水に戻ろうとする(膨張)昼では まるで相反する現象なのでそのクッツクとハナレルのくり返しが亀裂を生じさせ、氷にヒビが入ってしまいます。 そのわずかなヒビの隙間から水が滲みこみ、それが気温低下で薄い氷になり翌朝また気温上昇で融けて水になることを何度かくり返すうちにある日突然けたたましい轟音の響きとともに“御神渡り”が形成されます。

まさに【神業】とも言うべき自然現象を造り出す諏訪湖を護るかのように、四ヶ所に分かれて境内地を有しているのが“諏訪大社”です。 南側に上社(本宮・前宮) 北側に下社(春宮・秋宮)があり合計四つの宮ということになります。 またそれぞれの社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ばれるモミの木が立てられています。 六年ごとの春(寅年と申年)にこのモミの木を新しくするため、八ヶ岳から切り出される行事が“御柱祭り”です。 切り倒されたモミの木を十数キロ離れた諏訪大社まで三日間かけて引きずってくるのですが、その途中35度の急坂を落とす“木落し”と上川を越える“川越し”など勇壮な反面 死者もでるという危険が常に背中合わせになった祭りです。

諏訪湖を取り囲むように四つの社があり、またそれぞれの社殿を取り囲むように立つ四本のモミの木 かなり意図的な配置が為されています。 しかも日本では余り好まれない陰の数の“四”

日本書紀にはなく古事記だけに記されている“建御名方(たけみなかた)神は簡単に千引の岩を持ち上げ国譲りを迫った高天原グループに抵抗を示しました。 最終的に諏訪湖まで追い詰められ(出雲国から東方向に逃げている)他所には決して出ないことを約束して父(大国主神)と兄(事代主神)の決断に従うことになりました。 建御雷之男神と力比べをして負けて諏訪湖まで逃げてきたと伝えられている建御名方神が諏訪大社に祀られています。 抵抗したい気持ちと何とか平和に収めたい気持ちのぶつかり合いが諏訪湖の御神渡りを生んだように思います。

かつての日本を血塗ることなく平和に導き、現在は“不動の神”としてどこにも行かずに日本を見守ってくれている偉大な神が諏訪盆地に鎮座する“建御名方神”で、決して負けた神ではないのです。

チンプンカンプンの解決策

             

人が人と出会って親しくなっていくためにはお互いの工夫が必要です。 言うことがかみ合わず相手の言っていることが分からない時、『まるでチンプンカンプンだ』と言いますネ。 この言葉には漢字が当てられていて 【珍紛漢紛】 あるいは 【珍糞漢糞】。

紛らわしい“紛”は納得いくけれど、“糞”と言う字はチョット気にかかります。人も含めた動物が生きるために食べ、消化してエネルギーに変わって眠り(?)そしてその食べたものの残りカスが糞となって排泄されるわけです。 もちろん人は垂れっぱなしの放りっぱなしで平気です。

しかし牛は反芻して、何度か丁寧に噛みなおして再び飲み込みます。 他に反芻胃が発達した動物には鹿やキリンなどがいます。 ウサギも自分の消化されたコロコロウンチは食べません(土に戻る)が、消化されなかったドロドロウンチはもう一度口に含んで食べなおす習性があるようです。 ドロドロがコロコロになるまで糞を何度も食べ続けるのが赤い目をしたウサギ!

チンプンカンプンの伝わらない言葉も、この反芻をくり返すことによって理解されるケースがあります。 親しくなりたい相手と心を通わすためには、言葉の反芻は欠かすことができないコミュニケーション手段です。 言葉を反芻するためには記憶しておかないといけないので、すぐに怒ったりわめいたりせずに とりあえず言葉をためておくことも大切です。 
     
ではここで“チンポンカンポン祭り”を紹介しましょう。 柿本人麻呂の命日である4月18日に奈良県新庄町(今は葛城市)の同じ敷地に立つ 柿本神社と影現寺で五穀豊穣を願って行われる祭りです。 寺と神社が仲良く隣り合わせに並んでいるのは、祭神である柿本人麻呂サマの人柄が表れた結果なのでしょう。

変な名前のチンポンカンポン祭りは漢字が適用されていませんが、あえて何かを発見するために想像して漢字を当てはめると“珍本完本” 通常 言葉が通じ合わないとき分からない苛立ちで争いごとに発展してしまう場合があるよね。。そんな珍糞漢糞の “糞” を何度も捏ね回すうちに、あるカタチが生まれてきます。 相手を信じてイライラせずにその糞のような言葉を飲み込みまた戻して反芻をくり返すと そこには柿本人麻呂サマが行った“糞”を“本”に変える魔力が存在していることに気付きます。

人の心の深い部分にあるマグマのような熱い想いは、単純な言葉では相手に届きません。
それをどのようにして発するかまた受け止めるかで二人の親密度が試されます。人が丸くなる(人丸)と糞のような社会も少しは洗われると思うのですが・・・クサイ糞を笑える本にするのはあなた自身の生きるセンス!

なぜ小竹の葉にぶら下げるの?

         

小竹と書いて“ささ”と読む笹は、七夕祭りで短冊などがぶら下げられユラユラ揺れる風情が涼しそうです。 あてられている漢字のように竹と似ていることから小竹を【ささ】と名付けたと説明はされているのですが、本当かな? 今回はそれを探ってみようと思います。

竹は真っ直ぐに伸びて何かをぶら下げても曲がるようなことはありません。 しかし笹は短冊のような軽い紙キレをぶら下げただけで柳のようにしなって女性的です。 竹を直線型の男性と見ると 丁度全く逆のイメージが小竹(笹)には感じられます。
   
大阪の今宮戎神社で“えべっさん”(一月九日〜十一日)という祭りがあり『商売繁盛で笹モッテコイ!』という掛け声で大勢の商売人が福笹を求めて押し寄せます。 モッテコイというのは“持って来い”というそのものの意味の他に“丁度おあつらえ向きな”という風な意味にもなり、笹が商売繁盛にはふさわしいという意味が強められているように感じます。

この福笹につけるものが吉兆(きっちょう)と呼ばれているもので 銭袋・打出の小槌・のしあわび・大福帳・小判・米俵・鯛などが福笹に飾り付けられます。 笹にいろいろなものを飾りつけることでは七夕祭りと同じです。

『ささの葉は み山もさやに さやげども 我は妹思む 別れ来ぬれば    柿本人麻呂』  ささの葉は古代このように詠まれています。 小川に浮かべた笹舟を追いかけた懐かしい情景や葉を口にあてて音を出す笹笛の響きなど 笹は細(ささ)やかな楽しみに使われていたようですね。

“えべっさん”の福を手にするためには福笹を天井に垂らすように飾るとのこと・・空から福が落ちてきますようにという願いを込めてぶら下げます。 空から落ちてくる福とは消された星神のこと? 年に一度の逢瀬にも運が悪ければ逢うことができない彦星と織姫星。 

彦星はワシ座に属する一等星(アルタイル)・・全天で12番目に明るい恒星です。 織姫星はコト座に属する一等星(ヴェガ)のこと・・離れていても一等星同志! お互いがよく見える位置にいて、離れていてもよく知り合えている二つの小さい星です。

星神たちはコロンボ警部のように小さいことに興味を示すので、小竹に託された願い事はコロンボが追いかける事件同様 きっと成就できるのです。

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