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- 2022.04.05 Tuesday
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『目の見えなかった者が見えるようになり、見えると自称する者が見えなくなる』
イエスが言うこの世の逆転は正常化への第一歩だと思います。
目の見えなかった者(すでに出来上がってしまっているこの世の金融システムに翻弄されいる者)
が試練と苦難を経る過程で獲得できるもの。
それが見えるようになるということ。
逆に見えると自称する者(一例として見ても見なくてもNHK料金を払わされるシステム)は、
人類全体の原罪を背負ったイエスの痛みを感じることができない。
だからこの世はこんな風な経過(お金に頼る)をたどってしまったのだろう。
イエスの出現によって、
今まで見えなかった者が見えるようになるというこの世の逆転が、
正常で清浄な社会システム(見えると自称する者は排除される)を生み出すものと確信しています。
何度も何度もあやまちを繰り返したとしても、
最後の最後に right place にたどり着けるなら、
その人は果報者だ。
全地は同じ発音、同じ言葉であった。
「さあ、町と塔を建てて、その頂きを天に届かせよう。
そしてわれわれは名をあげて、全地のおもてに散るのを免れよう」
危険な全体主義の始まりである。
結果、バベル(ごちゃ混ぜ)の塔が建設され、
全体主義による見かけ(統一を装う)だけの塔は崩壊する。
神は全体主義を嫌っている。
にもかかわらず、
過去も現在も、世界は全体主義を通そうとする。
逆らうと資産凍結。
ごちゃ混ぜの国がどれだけ平和を叫ぼうが、
ごちゃ混ぜなんだから平和になれるわけがない。
ソロモン(伝道者)は言う。
『笑いか。ばかばかしいことだ。
快楽か、それがいったい何になろう』
豊かで何不自由ない生活が笑いや快楽を生む。
さらにソロモンは
『死ぬ日は生まれる日にまさる』と言う。
人生を謳歌している限り。人は成長しない。
人を成長させるもの、
それは、自分がみじめであわれであることを知ること。
神はそういう人たちを引っ張り上げる。
神によって人は未来を見通せないように創造された。
今はみじめであわれであっても、
そのみじめであわれな人を神は放っておかない。
みじめであわれによる霊の純化は
神が私たちに求める霊の成長過程の一つである。
成長した霊は神の御許に行くことを約束される。
笑いや快楽がなくても、
神の御許に向かって歩む日々は幸せである。
遊ぶことが仕事の小人(こども)は先のことを考えたりはしない。
人は必ず小人時代を過ごしているはずなのに、
成長して大人(おとな)になると先のことを考え始める。
先のことは誰にも分からないにもかかわず・・
成長の結果がこれ(考えても分からないことを考える)である。
38年間(少なくとも大人)を寝たきり(何もしない)で過ごした病人に、
イエスは言う。
「良くなりたいか」
続けて、
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」
床とは?
すでに失われてしまった38年間という歳月かな。
イエスの霊を体内に取り込んだ病人は、
イエスの言葉通り、床を担いで歩き始める。
寝たきりだった病人が過去を反省して歩き始めるという解釈で進むと、
今までの自分(病人)を捨てて新しい自分(何かできる)になることができた。
イエスが介入すると今までの自分(罪人)ではいられなくなるのかも。
先のことを考えても分からないことを考え続けるだけの病人(大人)は、
後は野となれ山となれの小人(何も考えない)になった(戻った)。
『風は思いのままに吹く。
あなたはその音を聞いても、
それがどこから来て、
どこへ行くかを知らない。
霊から生まれた者も皆そのとおりである』 ヨハネの福音書
思いのままに吹く風のように、
霊から生まれた私たちも思いのままに生きればいい?
どこから来てどこへ行くのか知らない(自分の意志は捨てた方がいい)
さすらい人への勧め?
風が吹けば・・・・・・・桶屋がもうかる。
その途中の7つの点々の部分は
砂が舞い上がり,
砂が目に入り,
目が悪くなる人が増え,
そのため三味線弾きで生計を立てる人が増え,
三味線が売れる。
三味線には猫の皮が必要だから猫が捕られ,
それによってネズミが増え桶がかじられる。
途中はどうでもいい?
大切なことは初めと終り。
神は言う。
「私はアルファでありオメガである」
アルファ(誕生)とオメガ(死)をつかさどる神。
神(風)の意志に近付きたいのなら、
途中はどうでもいいから、
風が吹けば(神を知る)どうなるのかの結論を導き出す必要がある。
それが生きることだから。
『われらのよわいは七十年にすぎません。
あるいは健やかであっても八十年でしょう。
しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、
その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです』 詩編
楽あれば苦あり×
苦あれば楽あり×
苦あれば苦あり〇
『人は一生、
暗やみと、悲しみと、多くの悩みと、病と、憤りの中にある』 伝道の書
こんな一生送りたい?
嫌だ!
こんな一生なら生きていても仕方がない。
とっとと死んだ方がいい。
神とサタンに翻弄されたヨブも、
妻にこう言われる。
生きていても苦しむだけなんだから、死んだ方がいいんじゃない」
これらの共通項は生きることに失望すること。
失望することで、神に近付くことができる。
だから生きることを楽しんでいる間は、
神(誰でも奥深くに存在する)との距離は増大するばかり。
神は私たちに何を待ち望んでいるのか?
私たちが生きることに失望し、
生きることに辟易してしまうこと。
生きることに楽しめなくなった私たちは、
その時、神の顔がおぼろけに見え始める。
パンドラが携えてきた希望は箱の中にしかない。
この世に嫌気がさして、希望が住まう箱の中に籠ろう。
そうすれば箱の中に残されていた希望の後押しで、
神を呼び出すことができるかもしれない。
神は私たちの失望(今までの罪細胞が神細胞に入れ替わる)を待っている。
痛み苦しみを背負って生きなければいけない人間の原型は
ゼウスによってある箱(開けてはならぬ)を手渡されたパンドラ。
アダムとイブがそうだったように、
人類最初の女であるパンドラもまたゼウスの命令に従わず、
箱を開けてしまうといういつものパターン。
人間は遅かれ早かれいつか必ず神に逆らう日を迎える。
この世にまん延するもろもろの悪は、
開けられた箱の中からすぐに飛び出す。
空っぽになったかと思われる箱の中に残された希望。
簡単に飛び出さなかった希望は、この世にはない。
ノアの箱舟のように、
箱の中に入った人だけが希望を知る。
わたしだけを愛せと宣言する聖書(神の霊感)は、
偶像崇拝を禁止(愛してはいけない)しています。
形あるものとして見える偶像は、
愛すべき対象にはならないということですね。
見たくなくても目を開くと見えてしまう偶像に対して、
神の霊感はどれほど見たいと思っても見させてはくれません。
そう簡単には見えない神の霊感と
目をつぶっていても気配で見えてしまう偶像。
「偶像を捨て、神に立ち返れ」と訴えた人物がいました。
預言者エレミヤがその人。
神に立ち返る前に何をしなければいけないのか?
見たくないのに見えてしまう偶像を捨てる。
人生において繰り返される取捨選択の結果が、
その人を形づくっていきます。
まずは捨てなければいけないもの、
それは、目を閉じているのに耳で見えてしまう偶像。
『わたしを呼べ。
わたしはあなたに答え、あなたの知らない
隠された大いなることを告げ知らせる』エレミヤ書33章3節
愛してはいけない偶像(この世のすべて)を愛している限り、
私たちの知らない隠された大いなることが明かされることはない。
ヘルプミー! もっと大きな声で、ヘルプミー! 繰り返し、ヘルプミー。
終りのない円環する時の流れから出させてください。
この切実な祈りが、
隠された大いなることの扉の前に届けられますように。
『わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。
死を定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか』 ローマの信徒への手紙
死やお金の不安、さらに老いる惨めさを抱いて生きることは苦痛です。
その不安や苦痛から解放されるポイントが、神を自分のものにすること。
神より科学を優先させるこの世にあって、
心底神ととともに歩むことを実践するなら
どのような結果に至るのだろうかという実験的チャレンジをしてみよう
という気持ちになっています。
一般的に人が避けて通ろうとする惨めで憐れという心境は、
十字架刑に処せられることが定められた(御父の意志)イエスが味わった境地です。
この世とは真逆の生き方をするにはエネルギーが必要ですが、
イエスに近付けるのなら、やってみる価値は十分にあるだろうと思います。
惨めで憐れな自分を知ることで、
神の手が差し伸べられるのではないだろうか。
何故なら、神の命令で死んだイエスは、
その後復活という偉業を成し遂げたのだから。